バシャール:バイブレーションの相違
2021-01-27 02:14:11
テーマ:新しい地球のスターシード達へ
今までの地球では、様々な平行世界が一つのリアリティに集結してごった煮状態でした。しかし、現在ではプリズム効果で、それぞれの平行世界が”単一のリアリティ”として存在し始めています。分岐するそれぞれの世界は『針の目』のこのタイミングで更に活性化され、日々、より強くよりパワフルに成長しています。そして、私達それぞれの信じる世界がより現実味を帯びてくるようになり、自分にとってよりリアルに感じるようになります。
『針の目』の向こう側の世界では、それぞれの平行世界の”間”にある境目が分厚く幅広くなります。そうなると、お互いに影響しあう事も投影しあう事もなくなります。そしていずれは、お互いの姿を見なくなるようになり、『そういえば、最近あの人を見なくなったけど?』という具合に、印象もどんどん薄くなってくるようになります。なぜならば、お互いのバイブレーションが全く違ってくるようになるからです。
バシャールは、どのリアリティもどの平行世界も、どの真実も答えも『その人にとっての答えであり真実』だと言っています。誰が何を信じても貴方には関係ありません。貴方は自分の真実だけを追いかければ良いのです。
バシャール:今、最優先にする事
2021-01-26 00:14:43
テーマ:新しい地球のスターシード達へ
公式ジャンル記事ランキング:その他職業51位
貴方が『自分らしく』いる事に最大の時間をかけ、またそれを最優先にしてください。貴方が『自分らしく』いると、自然にバイブレーションが上昇してアクセスできる波動域もグンとアップする事になります。アクセスできる波動域がアップすると、貴方がシフトする平行世界もグンとアップデートされた世界にシフトできるようになります。
貴方の人生のテーマは、一般的に言われる実績を積む事でも成功を収める事でもありません。『自分らしく』生きる事が貴方の人生のテーマだとバシャールは語っています。それ以外何の目的があるのでしょうか? つまり、これ以上重要な目的はあり得ないのです。
私達は2万6千年という長い周期を終えて、新しい周期に突入しています。『針の目』のこのタイミングは、ちょうど母体から産道を抜けるタイミングのような感じです。ですから、新しいダイアモンドの自分になって新しい世界に誕生する選択をするのであれば、産道を抜けた後にそれらの素晴らしい体験を体験する事になるのです。
バシャール:『針の目』は高圧炉
2021-01-28 02:22:37NEW !
テーマ:新しい地球のスターシード達へ
『針の目』を簡単に説明すると、エネルギーが収縮された期間を指しています。簡単に説明すると、新しい次元へ移行する時に通るトンネルのような感じです。また、もともと大きなエネルギーを持つ私達のエネルギーは『針の目』のこのタイミングに小さくコンパクト化されています。小さくコンパクト化されているので内観がし易く、手放しもやり易くなっているのです。
パンダミックやアメリカの大統領選は、私達の覚醒に密接な関わりがあるとバシャールは言っています。また、『それ以外にどんな理由があるのでしょうか』とも言っているのです。
ちょうど、『針の目』のこのタイミングは炭素が”高圧炉”に入っているような感じです。”炭素炉”の中は高温高圧で圧縮された場です。目覚めて生きる選択をする人は、『針の目』をダイアモンドになって抜けていく事になります。どっちみちダイアモンドを作るための”高圧炉”に入っているわけですから、ダイアモンドになって抜けていきたいものです。でも、不純物があるとダイアモンドになる事はできません。だからこそ、ダイアモンドである貴方に必要のないエネルギーを手放してしまいましょうと、バシャールは言っているのです。
リアリティーと意識は切り離すことが出来ない。
宇宙に意識が存在するのは、無限のリアリティーを創造するためではないか。
宇宙に意識が存在するのは、無限のリアリティーを創造するためではないか。
人は、それぞれ意識の覚醒レベルに応じたリアリティーを生きている。
意識が覚醒するほど、より根源的で本質的なリアリティーを体験する。
例 ワンネス 悟り 宇宙意識 すべては今この瞬間に起こっている
音楽は、主体の眼差し(環境に向けられた意識)を揺さぶることで、
一時的に意識の覚醒レベルを高め、聴く者のリアリティーを変化させる。
グロフの仮説
2008-07-08 17:06:26 | Weblog
心理学者のグロフは人間の心には論理的には矛盾しながら事実としては互いに補い合う二つの様式があるという仮説を立てている。
一つは私たちがごく普通に体験しており正常だと思っている様式の意識である。
この様式の意識では私たちは、自分が皮膚と言う境界で外界とはっきり分離された
物理的実態であり、世界は個々別々に独立した物質からできており
時間の流れと空間の隔たりによって制限されており、あらゆる出来事はすべて
因果律によって支配されてるとみている。
基本的に実体視された物質に向かっているのでハイロトロピックな意識と呼ばれている。
もう一つの意識はホロトロピックな意識と呼ばれ、この様式の意識では、
それだけが独立、分離してあるような物質や物理的自我は
意識の作り出す幻に過ぎないことが自覚され時間と空間も絶対的なものではなく
自己は五感を通さなくても宇宙のあらゆる存在に接近できる。
同じ一つの空間を同時に数多くの物が占めることがありうる。
過去は過ぎ去ってもうない、未来はまだ来ないものではなく今の瞬間に
体験的に引き寄せることができる。
人は同時にいくつかの場所にいる自分を経験することができる。
一つ以上の時間的枠組みを同時に体験することも可能である。
分部でありながら全体であることができる。
意識が覚醒するほど、より根源的で本質的なリアリティーを体験する。
例 ワンネス 悟り 宇宙意識 すべては今この瞬間に起こっている
音楽は、主体の眼差し(環境に向けられた意識)を揺さぶることで、
一時的に意識の覚醒レベルを高め、聴く者のリアリティーを変化させる。
グロフの仮説
2008-07-08 17:06:26 | Weblog
心理学者のグロフは人間の心には論理的には矛盾しながら事実としては互いに補い合う二つの様式があるという仮説を立てている。
一つは私たちがごく普通に体験しており正常だと思っている様式の意識である。
この様式の意識では私たちは、自分が皮膚と言う境界で外界とはっきり分離された
物理的実態であり、世界は個々別々に独立した物質からできており
時間の流れと空間の隔たりによって制限されており、あらゆる出来事はすべて
因果律によって支配されてるとみている。
基本的に実体視された物質に向かっているのでハイロトロピックな意識と呼ばれている。
もう一つの意識はホロトロピックな意識と呼ばれ、この様式の意識では、
それだけが独立、分離してあるような物質や物理的自我は
意識の作り出す幻に過ぎないことが自覚され時間と空間も絶対的なものではなく
自己は五感を通さなくても宇宙のあらゆる存在に接近できる。
同じ一つの空間を同時に数多くの物が占めることがありうる。
過去は過ぎ去ってもうない、未来はまだ来ないものではなく今の瞬間に
体験的に引き寄せることができる。
人は同時にいくつかの場所にいる自分を経験することができる。
一つ以上の時間的枠組みを同時に体験することも可能である。
分部でありながら全体であることができる。
人間のリアリティーは環境と主体との相互作用で生まれる。
主体の眼差し(環境に向けられた意識)が揺さぶられることで、新たなリアリティーを体験することが出来る。
ベビーメタルは音や映像で、眼差しを激しく揺さぶり、新たなリアリティーを体験させてくれるのだ。
主体の眼差し(環境に向けられた意識)が揺さぶられることで、新たなリアリティーを体験することが出来る。
ベビーメタルは音や映像で、眼差しを激しく揺さぶり、新たなリアリティーを体験させてくれるのだ。
http://auratio.jp/shimamo/nonmoney.html
第2章 お金のいらない国
第1節 お金のいらない国とは
ここまでは資本主義社会の景気等について記してきましたが、お金のいらない国は、お金を払わなくても自由に商品を手に入れることができるため、究極に景気の良い世界であります。
そして商品と引き換えに金銭の授受をすることがないので、お金を得ることができなくなり所得格差が起きません。
ではどのようにしてお金のいらない世界を構築するのか、そして、それがどのような国なのか、その国の様子をご案内します。
「お金のいらない国」と聞くと、多くの人は、原始的な物々交換や時給自足、社会主義や共産主義的な暮らしや、共有財産制の下での共同生活及び質素な生活を思い浮かべるかもしれません。これらの生活は、決して我々の生活を豊かにするものではありませんので、そのような世界では資本主義の世界の生活を超えることはできません。本書で提案する「お金のいらない国」は、今よりもさらに快適な生活を手にすることができる経済を目指します。
そこで、商品の価格をゼロにして、「0円の商品を買う」 という発想がお金のいらない国です。商品の価格が0円であれば、何でもタダで手に入れることができます。
「お金のいらない」とは、商品の価格が0円なので「お金を使う(払う)必要がない」という意味です。ただし、お金(円)は、外国との貿易等に必要ですので、決してお金を廃止するわけではありません。
1,000円の商品を0円で売ると、1,000円の赤字ですが、価格0円の商品を0円で売るのであれば、販売者の損失は無く経営は破綻しません。店で販売されている商品が、0円であれば誰もが自由に購入できるので、不景気知らずで超好景気の世界が訪ずれます。ではどのように商品の価格をゼロにするか、次節で説明します。
第2節 商品の価格をゼロにする方法
商品の価格をゼロにする方法はとてもシンプルで、
「みんなが利益を放棄する」
(ここでは利益とは、賃金、会社の営業利益等、経済活動で得る利益を指します)
ことです。
次になぜ「みんなが利益を放棄する」と商品の価格がゼロになるか説明します。
商品がどのように作られているか辿っていき、その製造に係る経費を調べると全て、それに関わる人の利益で構成されていることがわかります。
例えば鍋(鍋にもいろいろな種類がありますので鉄鍋の場合)は、原料の砂鉄や鉄鉱石を溶鉱炉(たたら)で製鉄し、製鉄された鉄を溶かして砂で作った鉄鍋の型に流し込んで作られ、次の作業に関わる人の利益が、鉄鍋の価格を決定しています。
(1) 原料の砂鉄を採取する作業
(2) 砂鉄を溶かすための燃料(炭)を焼く作業
(3) 砂鉄を溶かす溶鉱炉(たたら)を作る作業
(4) 砂鉄を燃料(炭)を使用し、溶鉱炉(たたら)で溶かして製鉄する作業
(5) 砂で鍋の型を作る作業
(6) 製鉄を燃料(炭)を使用し溶かして鍋の型に流しこみ鉄鍋を完成させる作業
よって、これらの作業に関わる人たちが各自の利益を放棄するなら、鉄鍋の価格を0円にすることができます。
その他、とても複雑な工程を経て生産されるものがありますが、それぞれの工程を分解していくと、商品の価格はそれぞれの作業に関わる人の利益で構成されていることがわかります。
商品がどのように作られているのか辿りながら考えると物と物が複雑に絡み合っているためややこしくなりますが、視点を変えて、「人が何かをしなければ、そこには自然物以外何も存在しない」と考えれば、「物(商品)」は全て「人の手」によるものだとわかります。
そして、その「物」に対して、人が利益を要求するとそこには価格が存在し、利益を要求しなければすべての「物」の価格がゼロになります。例えば、石油は人知れず地中に埋蔵された状態では、価格はゼロですが、採掘するという人の手が加わり採掘者等が利益を要求することにより、価格が存在するようになります。
なお、石油等の外国からの輸入により調達する原料については、外国に経費を支払う必要があるため、いくら国内でみんなが利益を放棄しても原料の価格分を誰かが負担しなければならないため、商品の価格を0円にはできません。
このため物品等の輸出入については、経費の支払い方法を少し工夫する必要がありますので、「輸入の経費はすべて国が負担、輸出の利益はすべて国の収入(国の代わりに第三者機関でもかまいません)」とします。
これについては輸出入(貿易収支)に関わらずサービス収支や所得収支等、経常収支に関わるものは全てこのように取り扱うことにします。(ただし、個人的な輸入については、個人で支払うことにします。)
例えば鉄鉱石を商社が輸入するときは、調達費用の支払いを国が行い、商社は価格0円で製鉄会社へ引き渡します。製鉄会社は、鉄鉱石の調達費用がゼロになるため、これで外国から輸入した原料による商品も国内では価格0円で流通できます。
また、原料の鉄鉱石からの成果品のひとつである自動車を商社が輸出(輸出は市場の適正価格で行う)するときは、輸出による利益が発生しますが、「みんなが利益を放棄している」ので、商社もまたその利益を得ることはできないため、利益は国の収入とします。
ところで、利益を放棄しても、これまでに蓄えた資産を放棄する必要はありません。国内ではお金を使う必要がなくなりますが、国外ではお金が必要ですので、預貯金はそのまま銀行等に預けて置いて、海外旅行等外国でお金が必要な時に使うことができます。また、共有財産性を導入しないので、土地や建物の不動産については、所有権を失うことはありませんが、利益を放棄しているので手放すときは、0円で売ることになります。
「みんなが利益を放棄する」を、もっと噛み砕いた表現をすれば、「みんながボランティアで活動する」です。
商品の原料を始めとして、すべての商品が人の手から生み出されているので、それに関わる人全てがボランティアで活動すれば、商品の価格はゼロになります。
先ほどの鍋の例をボランティアという視点で説明してみます。(燃料については輸入品で価格0円とします)
鉄鍋の製作者がボランティアで鉄鍋を作りをそれを0円で売ると、製鉄の仕入れ経費分が、赤字になります。
そこで、製鉄業者が、ボランティアで砂鉄を製鉄して、それを鉄鍋の製作者に0円で売ると、鉄鍋の製作者の赤字はなくなりますが、製鉄業者の砂鉄の仕入れ経費分が、赤字になります。
もし、砂鉄の採取業者がボランティアで砂鉄を採取し、それを製鉄業者に0円で売ると、製鉄業者の赤字はなくなり、砂鉄から鉄鍋に至るまでの経費がすべてゼロになり、誰も損をすることなく鉄鍋を0円で売ることができます。
このように、「みんなが利益を放棄する」とすべての商品の価格がゼロになり、自由に商品を0円で買うことができます。
第3節 みんな既にお金のいらない国に住んでいる
実はお金のない国は身近なところに存在しています。家族がお金のいらない国の基礎となります。
例えば、食堂で食事をするとお金が必要ですが、家で食事をするとお金はいりません。旅館に泊まって眠るとお金が必要ですが、家で眠るとお金はいりません。すごく当然なことですが、ここにお金のいらない国を実現させる仕組みが隠されています。ではなぜ家ではお金がいらないのか、食事を作るためには、食材費、光熱費、及び調理する労働力等の調達費用が必要ですが…、それは単にお金を要求していないだけなんです。
つまり、家族内では無意識に、「みんなが利益を放棄した」状態にあります。
なお、前節で「利益を放棄しても、これまでに蓄えた資産を放棄する必要はない」及び、「共有財産性を導入しない」と記しましたが、これは家族内でも、それぞれが銀行口座を持ち自分の預貯金を管理し、また、それぞれが自分の部屋を持ち所有権を主張して生活していることを倣ったものです。
どうして家族の中では利益が放棄されているのか。おそらく誰もが「家族は、絆や家族愛で結ばれた信頼関係にあるから」という趣旨の回答をすると思います。これはとても重要なことです。日本中の人々が絆や家族愛で結ばれた信頼関係を持つことができれば、すぐにでもお金のいらない国を実現できると思います。
実はもう一つ、我々が気付いていない別の理由があります。それは、「利益を放棄した方が合理的であるから」です。
なぜ利益を放棄した方が合理的なのか。もし家族内でお金の授受を行ったらどうなるのか親子関係を例に検証してみます。
家族内でお金が必要になると、子供はお金を稼いでないので食事等のサービスを受けることができず生活できません。しかし、国民には憲法に保障された生存権があるので、健康で文化的な最低限度の生活を営むために生活保護を受けることになりますが、一義的に親が子供を扶養する義務がありますので、結局親が必要な生活費を子供に支給することになります。
そこで子供は、親から支給された金銭を持って、親から提供される食事等のサービスの支払いに充てます。支払い形態は色々考えられますが、自分の部屋の利用料は毎月、食事とお風呂は食堂や銭湯のように利用するたびに払うことにします…。
このようなことを少し想像しただけで、「こんな無駄で面倒なことはやめよう。」という気持ちになり、お金を使わないほうが合理的であるという結論に達すると思います。
我々は、国じゅうでこんな面倒なことをしています。国家という家族の元で国(政府及び日本銀行)が発行したお金を国内でぐるぐる回し続けています。無駄なことを省けば生産性が上がり我々の生活も豊かになります。
つまり、お金のいらない国の方がお金の授受という無駄な労力を払う必要がないので、合理的に生活を送ることができます。
このようにお金のいらない国へのアプローチの仕方は、二通りあります。
(1) 我々が絆や家族愛で結ばれた信頼関係を持つ。これは理想的ですがハードルは高いです。
(2) 生活を合理的にする手段の選択という名目でお金のいらない国を目指す。
お金のいらない国を実現するための鍵については、第7節で考察します。
第4節 お金のいらない国でお金を貰う人払う人
実はお金のいらない国になっても例外的にお金を貰う人や払う人が存在します。
日本で働く外国人は、お金を稼ぐために日本に来ているので賃金を貰う必要があります。また、日本に居住する外国人や日本に来る外国人観光客などは、利益を放棄していないのでお金を払う必要があります。もし、外国人観光客が日本で無料で食事ができたり、お土産や商品を無料で入手できるとそれを目的にした入国者で溢れかえり、日本から富が流出してしまいます。
また、日本国内の外国籍企業で利益を放棄していない企業は、そこで働く日本人に対して、賃金を払う必要があります。もし、賃金が払われなければ、無料の労働力を求めて進出してくる外国籍企業で溢れかえり、同様に日本から富が流出してしまいます。
このようにお金を貰う人払う人の判別基準は日本から富が流出するかどうかで決まります。
なお、国内の企業で働く外国人への賃金の支払いは、企業は利益を放棄しており収入がないので国が支払い、日本人が得た観光収入や外国籍企業からの賃金は、みんなが利益を放棄しているため、国が受取ることとします。(国の代わりに第三者機関でもかまいません)
第5節 日本はどう変わるか
1 経済
(1) 生産性の向上
経済の一番の変化は、生産性の向上です。設備投資に必要な経費が不要になり、設備業者からの機械等の設備の供給が許す限り生産設備をいくらでも増設できるため生産性は飛躍的に向上します。
(2) 金融などお金に関わる業務金融に従事していた人材の活用
会社や国・地方自治体等すべてに渡り、金融・経理・財政の業務が削減されるので、これらに従事していた人材を他の事業に有効に活用できます。
(3) 予算に左右されない人材の活用
人件費が不要なので予算がなくても、人材を確保さえすれば生産性が向上します。
(4) GDPの役割
国内ではお金の流れがなくなるため帰属価値(市場で取引されていない財・サービスの価値)を推計してGDPに含めなければ、GDPは限りなくゼロに近づきます。このため実際の生産活動とは乖離してしまいGDPは豊かさを表す指標ではなくなります。
(5) 国債の償還
国債については、「みんなが利益を放棄する」状態なので国内の債権者に対する対応は議論する必要があります。ただし、外国人が購入している国債については、きちんと償還しなければなりません。
外国人が購入している国債の額は国債全体の約1割なので、年間の償還予定額は、財務省のホームページで公表している平成27年度の国債償還額から推計すると、約14兆円となり、また、利子については、長期利率を1%まで見込んでも年間利子は約1兆円となり、合わせて約15兆円となります。
これに対して、25年度末の政府資産は、652.7兆円 あり、2015年経常収支は16.6兆円の黒字のため償還資金については全く問題ありません。ちなみに政府は換金性のある資産は、ほとんどないとしておりますが、例えば、年金は必要なくなるので少なくとも100兆円余の運用寄託金は流用可能です。
2 仕事・産業
(1) 仕事の形態等
仕事がどのように変化するのか想像がつきませんが、労働に対して利益を求めないので、全ての人がボランティアで働くことになります。また、労働の対価としてお金を受け取らないため、雇用者と被雇用者及び、お客とサービス提供者との関係が変化し、労働に対する感謝の気持ちを受けることになるので、お金を稼ぐことの変わりとなる、仕事に対しするやりがいが起こるかもしれません。
仕事の形態としては、組織で働くのをやめて個人で活動する人が増えるかもしれません。そして一人ではできないことは、個人、個人が集まり組織のように行動するかもしれません。いずれにしても、仕事に対してお金以外の何かを求めて、一人ひとりが生きがいや自分の役割を考えるようになれば、業務効率が向上します。
正規・非正規雇用の格差がなくなり、非正規雇用の特徴である、個人のそれぞれの事情に応じて働きたい時に働くという雇用の柔軟性が活かされるようになります。
仕事の取引にお金が関わらなくなるので、仕事の成果には「人と人とのコミュニケーション」や「信頼関係の構築」が重要になってきます。
(2)会社の形態
新規に設立される会社は、必然的にNPO法人となります。会社等の人的な配置は変わっても基本的な組織の仕組みは変わりません。
(3) 研究開発
開発費が不要のため、人材及びその能力が許す限り、研究開発・技術革新が可能になります。このため、商品の性能でも他国の追随を許さない高い品質の競争力を身につけます。
3 政治
(1) 利権・汚職の少ないクリーンな政治
国は、国内の事業で予算を組むことがほとんど無くなるので、予算の伴う事業が激減し利権の少ない政治が実現します。(国の予算は基本的に貿易等経常収支に係る項目のみになります。)また利権が少なくなればそれに絡んだ汚職も少なくなります。
(2) 地域活性化
地方公共団体に対して、上記(1)により国の権限(利権)の影響力が弱くなるため、地方の個性が発揮できるようになります。やる気がある地方は地域活性化し、やる気がなければ、衰退化が進む可能性があります。
(3) 選挙
選挙にお金がかからなくなるので誰でも立候補が可能になるが、供託金が存在し得なくなるので、売名目的での立候補を抑制するための代替案を検討する必要があります。
4 教育
(1) 教育問題の改善
いじめや不登校等の教育問題の主たる原因は人間関係であるため、これを解決することは難しいですが、親の仕事などで経済的に制約されていた教育を受ける環境を、引っ越し等により自由に変えることができるため問題の解決に至る可能性があります。
予算的に制約のある先生の増員やカウンセリングを増やすことが可能になるため、児童や生徒のサーポート体制を強化できます。
(2) 学力の向上
子供たちのやる気次第ですが、経済格差による学力格差や教育格差がなくなるため、教育水準や進学率が上がる可能性があります。ひいては、優秀な人材を生み出すことになるため、日本の発展に寄与することになります。
(3) 子供の健康
学校給食を充実せさることができるため、児童や生徒の健康増進を図ることができます。
5 金融・保険
(1) 金融機関の業務
銀行等の金融機関については、業務量はかなり縮小しますが、日本に居住する外国人への融資等の貸付業務、既存の預貯金を管理する預金業務及び、海外との振込や送金で債権や債務の決済を行う為替業務は、引き続き存在しますので金融機関が不要になることはありません。
なお、金融機関は、外国人への貸付については、利用者から利息を受け取りますが、日本国民の預貯金については、国民は利益を放棄しているので利子を払う必要ありません。
また、国内の債権及び債務の取り扱いについては、「みんなが利益を放棄する」ことを鑑みて、どのようにするのか議論する必要があります。
(2) 金融市場の縮小
株式投資を初め金融市場は、国内では存在意義を失いますが海外との関係は続きますので、業務は縮小しますが継続されます。
例えば、株式市場は株式売買の約7割が外国人投資家によるため、外国人向けの投資市場として営業することが可能です。株価がどうなるかは想像できませんが、国内企業に対する影響は株価が上昇しても下落してもほとんどありません。
(3) 保険の存在価値
保険業については、お金が無意味になってしまうので、損害賠償責や慰謝料の価値がなくなってしまいます。このため損害賠償や慰謝料の概念がどう変わっていくのかわかりません。
国内では保険料を支払ったりする金銭の授受がなくなるため、保険の存在価値は少なくなりますが、海外で業務を行う場合は従来どおりの業務形態が続きます。また、例えば自動車事故の事故処理等の業務は存在し続けるするため、全体の業務は縮小することになっても保険に係るサービス業務は無くなりません。
(4) ギャンブルの廃止
金融・保険の項目に掲げるのはジャンル違いかもしれませんが、競馬、競輪等の公営ギャンブルや宝くじ及びパチンコ店等については、お金を得る必要のない世界ではギャンブルが成立しないので存在できません。
なお、パチンコ店については、ゲームセンターのような換金性の無い娯楽施設としてなら存在できますが、既存の利用者は換金性を求めているので、需要はほとんど無くなると思われます。
このため、ギャンブルによる借金問題やギャンブル依存症等の社会問題が改善されます。
6 観光
(1) 海外旅行
国内でお金は必要なくなりますが、海外旅行をするときはお金が必要です。海外旅行を希望する日本人に対して国が海外旅行の費用を負担するような仕組みが必要です。
国の負担で海外旅行へ行けるようになると、旅行客がどの程度増加するのか予想できませんが、平成26年度中 国際収支状況(速報) によれば、経常収支のうちサービス収支(旅行)の支払額は は約2兆円となっています。
7 犯罪
(1) 犯罪の減少
お金に関わる犯罪が成立しないので、強盗、振り込め詐欺及び万引き等の犯罪が無くなります。
警察庁のホームページの犯罪統計数値によると、平成24年度の刑法犯総数約140万件発生し、そのうち強盗、窃盗、詐欺及び横領の合計は、約110万件です。このため、約78%もの犯罪が減少します。
現金がほとんど流通しなくなるので、暴力団の資金源が絶たれます。また現金がなければ、武器や麻薬の密輸入や国内での密売が不可能になり、例えば薬物常習者による犯罪防止等それらに係る犯罪も減少します。
身代金目的の誘拐がなくなり、不幸にして幼い命が奪われるという悲劇がなくなります。
犯罪のない世界になるとまではいえませんが、現在よりも犯罪が減少すると予想されます。犯罪が減少すれば、警察の捜査を他の犯罪に注力できるので犯罪検挙率及び犯罪抑止力の向上にもつながります。
これらのことより、国内の治安はより良くなると予想されます。
(2) 自殺の減少
内閣府のホームページの平成27年中の自殺統計資料によると、「経済・ 生活問題」が原因・動機の自殺は約17%あります。お金に関わる問題が解決すれば、これらの自殺を減少させることができます。
8 社会保障
(1) 社会保障の抱える問題
「年金」「医療」「福祉」等の社会保障の問題は、そのほとんどが金銭問題なので、解決は容易です。
(2) 少子化問題
少子化の原因でもある結婚の晩婚化や未婚率の増加については個人の価値観の問題なので、改善策は難しいと考えますが、結婚を妨げていた金銭問題、学歴、結婚の条件である収入が意味のないものとなり、条件面のハードるがさがり、結婚という少子化問題の最初のステップを超え易くなります。
子供を産み育てることに関して金銭的な障害は取り除かれるので、出生率が改善する可能性があります。また、国や自治体等による子育て支援については、予算的な制約がなくなるので保育施設の拡充等、充実した支援ができるようになります。
9 食料
(1) 食料自給率の改善
生産コストがゼロなので、価格競争力が付き、輸入品より確実に安くなり、また、規模の小さい農家でも機械化が可能であるため生産能力が向上し食料自給率が改善します。
作物が取れ過ぎた時に市場価格の下落を防ぐため大量に廃棄することがあるが、市場価格を気にしなくて良いので、廃棄する必要がなくなり食品ロスが減少します。
また、日本の食料自給率が上がれば、輸入してい分を他の国で消費することができるので、世界全体の食糧問題に貢献できる可能性があります。
(2) 農業従事者の増加
農業を始めるためには、農業機械の購入等の高額な初期投資が必要なので、若い世代にとっては、農業に従事するためのハードルが高いが、お金の心配なく農業を始められるので、農業従事者の増加が見込まれます。
(3) 農地の有効活用
農地の流動性を妨げている原因として、土地の資産価値の上昇を期待して農地を手放さないことが挙げられますが、土地を売って利益を得るということが無意味になるので、農地の流動性が増し有効活用につながります。
(4) 農産物の多様性
補助金等が存在しなくなるので、作付けが補助金等の出る品種や儲かる品種に集中することがなくなり、生産される農産物の多様性が増します。
(5) 水産資源の保全
利益追求による乱獲や密漁がなくなり、資源の保全につながります。
10 資源・エネルギー
(1) 豊富な海底資源の開発
日本近海の海底には、「メタンハイドレート」、 「海底熱水鉱床」、「コバルトリッチクラスト」及び「レアアース泥マンガン団塊」等の豊富な海底資源が眠っており、その資産価値は一説によると300兆円ともいわれています。
これらの資源は水深4,000mから6,000mの海底に分布しているものもあり、現在のところ採取等について商業的に採算がとれませんが、採取技術さえ確立できれば、採取に掛かる人件費等あらゆるコストがゼロで採取できるため商業生産が可能となり、資源のない国から、豊かな資源を持つ国へと変貌することができます。
(2) 自然エネルギーの利用
上記(1)のメタンハイドレードが利用可能になれば、エネルギーコストゼロで火力発電を行うことができます。その他、太陽光発電、風力発電及び地熱発電等の自然エネルギーを利用した発電についても、発電施設をコストゼロで設置することができますので、今以上に自然エネルギーの有効活用が促進され、地球環境の保全に貢献することができます。
11 その他
(1) 希少価値はどう変化するか
骨董品やマニアックな趣味の世界で希少価値を持つことにより、取引されていた金品が、どのように取引されていくか不明です。希少価値に対して値段をつけられないので、持ち主がお金と引き換えに手放すことがないため入手が困難になるかもしれません。もしかして、品物自体に興味はないが金額が高いという理由で所持していた人は、容易に手放すかもしれません。
(2) 権力の源はどう変化するか
お金 ≒ 権力という時代が終焉するため、権力を持つものはどのように変化するのか、人柄や人望の厚さといった人格が権力となるのか、肉体的な力が権力となるのか、知性が権力となるのか、我々がどのような人物に権力を与えるのか、そもそも権力というものが意味のないものになるのか未知数です。
ここまでメリットばかり記しましたが、私が想像できることはほんの一部でしかありません。実際のところ「日本がどう変わるかは」我々の意識による影響を強く受けますので、皆さんも是非どのような世界になるのか想像してみてください。
第6節 日本が一人勝ちする理由
資本主義社会の世界で日本が一人勝ちする理由は、他国との貿易において競争に打ち勝つために必要な、生産能力・開発力・コスト・資源等すべてを飛躍的に向上させることができるからです。また、お金に関わる業務が削減されるので、その人材を他の生産活動に活用できるようになります。
(1) 生産能力 設備投資費0円のため生産設備をいくらでも増設可能
(2) 開発力 開発費0円で開発可能
(3) コスト 生産コスト0円
(4) 資源 海底資源が採取できれば、輸入していた原料費を減らせる これらの中で最も有効なものは、コストです。製品をコスト0円(国内価格0円)で生産できるため、価格競争力で日本に勝てる国は無くなります。国際貿易において、国内価格0円が認められるかは、怪しいかもしれませんが、いくらで売っても生産コストはゼロなので利益率は、測り知りえません。
また、工業製品のみならず農産物についても価格競争力で日本に勝てる国は無くなりますので、価格競争力に関わるTTPの影響はほとんど無視することができます。
ただあまりにも日本が一人勝ちすると、国際社会からクレームが来てしまいますし、一人勝ちしても何も意味がないかもしれません。なぜなら、日本が世界の中で一人勝ちしようがしまいと、我々の生活はもう十分に豊かになっているからです。
第7節 お金のいらない国を実現する鍵は互恵的利他主義
お金のいらない国が実現するかについては、第3節で家族を引き合いに出したように、我々の人間関係が家族同様の絆を持つことができれば、すぐにでも実現できます。しかし、それはとても困難なことです。
困難なことですが実は、お金のいらない国を実現するための条件である「みんなが利益を放棄する」こと自体は、ものすごくハードルが低いと考えられます。例えば、サラリーマンの人にはちょっと耳元でこう囁くだけです。
「給料を放棄すれば、すべての物がタダになって何でも手に入るよ。」
と、するとほとんどの人は、自分の給料よりも多くのものが手に入ると判断し損得勘定で給料を放棄することを選択する可能性があります。
問題は次です。
「ものがタダで手に入るのなら、働かなくていいんじゃないの?」
と考えて働くのを辞めてしまうことも考えられます。もちろん働くかどうかの問題はサラリーマンだけではありません。農業を営んでいる人やお店を経営してる人などすべての職業に当てはまります。
職業選択の自由が保障されているので辞めることは自由です。しかし同時に勤労の義務もあるので働くということが必要です。どう働くかは自由です。それが誰かのためになればすべて労働とみなします。例えば、子育てや専業主婦の家事も労働として評価されるようになります。
お金のいらない国は、みんなが「普段どおりに働く」たったそれだけで成功します。資本主義社会において、働くことが生きがいの人を除けば、人々の一般的な働く動機は、自分や家族のためにお金を稼ぐことです。それを、自分や家族より範囲を広げて、みんなのために働くことを動機にする必要があります。このため、「互恵的利他主義」の考えに基づく行動が必要になってきます。
互恵的利他主義とは、どういう意味か字面から判断することができます。
互恵とは、「互いに利益を与え合うこと」です。
利他とは、「他人に利益を与えること」です。
つまり互恵的利他主義とは、「互いに利益を与え合うことを前提に、他人に利益を与える考え」です。
日本のことわざで表現するならば、「情けは人の為ならず(人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる)」でしょうか。
「互恵的利他主義」は、動物の世界でも行われている行為ですので、人にできないことはありません。
動物の事例で、よく引き合いに出されるのがチスイコウモリの血液のやり取りです。彼らは集団で生活し、夜間に動物の血を吸います。しかし20%程度の個体は全く血を吸うことができずに夜明けを迎え、これは彼らにとってしばしば致命的な状況をもたらすので、血を十分に吸った個体は飢えた仲間に血を分け与えます。
チスイコウモリは、なぜこのような行動をとるのでしょうか。推測ですが、獲物に出会えるかどうかは確率論の世界なのでおそらく彼らの個体数に関わらず毎晩20%程度は血を吸うことができません。血を吸わなければ死に至りますので、お互いに血を分け合わなければ、毎日数%程度の仲間が減っていき、いずれ絶滅してしまいます。そのため、「種の保存」という目的において、「互恵的利他主義」が備わっているかもしれません。逆に、互恵的利他主義が種の保存のために必要であるなら、人間を含め、すべての生物に、本能として互恵的利他主義が備わっていると考えられます。
次に「働きアリの法則」というのをご存知でしょうか。働きアリのうち、本当に働いているのは全体の80%で、残りの20%はサボっているという法則です。この働きアリの20%はサボっていることに注目すると、チスイコウモリの20%程度が血を吸えないのは、もしかして採餌をサボっているだけじゃないかとも考えられます。働きアリは仲間のために働いているので、アリの社会も互恵的利他主義といえます。
チスイコウモリや働きアリの20%が採餌できなかったりサボったりしていても、集団が維持できていることから、互恵的利他主義は、効率が良いと考えられます。つまり、楽観的に考えると我々人間社会でも20%程度がサボって働かなくても、お金のいらない国を維持できるのかもしれません。
ところで実は、互恵的利他主義はすでに我々の生活に定着しています。例えば、保険(生命保険や自動車保険等)は視点を変えれば互恵的利他主義の一つといえます。
自動車保険は、万が一事故が起きたときのために加入するものですが、その補償は自分の為なのか、相手の為なのか考えてみると、補償を受け取る相手の為である要素が大きいと考えられます。保険金を支払うのは自分であり、自分の支払った掛け金は、自分の身に事故が起きない限り他人の補償に使われます。
保険の加入者は、事故が起きたときお互いに補償を受け取る為に、掛け金を払っているので、互恵的利他主義の行動に該当するといえます。また、保険は必要な人に必要な量を与えることにより、少ない負担で大きな利益を得られるようになっているため、この点からも互恵的利他主義は効率的であるといえます。
もう一つ、みんなが「普段どおりに働く」方策として、労働に対して、経常収支を原資とするインセンティブ(意欲向上や目標達成のための報奨金)を与えることも効果的であると考えます。
お金のいらない国では、すべての商品がタダなのでお金を貰っても意味がないと思われるかもしれませんが、海外旅行等で外国産の品物を買う等、海外で活動するときにはお金が必要です。世界中がお金のいらない国に変われば、お金が全く必要なくなりますが、資本主義の世界と共存する間はお金が必要ですので、働く動機としてはそれなりに効果があると考えられます。
おわりに
自給自足から物々交換へと変遷していった経済活動は、お金を発明し資本主義へと移っていきました。当時、人はまだ未熟だったので、お金を得るための競争をすることが経済の発展に必要だったのです。(競争のない社会主義や共産主義では経済が発展しませんでした。)そしてやがて、お金から資本主義を学び終えて、次のステップに移る時が訪れます。
資本主義社会では、産業の機械化は労働者の職を奪います。機械化すればするほど国民は職を失い貧しくなります。機械化で大量に生産しても貧しくなった国民は購買能力がなく商品は売れないため、経済は縮小し国全体が貧しくなります。ところがお金を捨て去ると、産業の機械化は労働の省力化として有効に働き、大量に生産された商品は誰もが手にすることができるため、経済は拡大し国全体が豊かになります。
現在、我々の努力はより多くの利益を得るため使われ、皮肉なことに、頑張れば頑張るほど他人の利益を減らしてしまいます。なぜなら、限られた量のお金を奪い合うためです。
そして、どれだけの利益を得られるかは、お金を供給する人のさじ加減で決まります。つまり、我々の幸せは、お金の量でコントロールされています。
お金を捨て去れば、我々の努力はより多くの利益を他人に与えることになり、そしてそれは同時に自分の利益につながります。
今のままで良いか、次のステップに移るか、どちらを選択すべきか、皆さんも考えてみてください。
「30年以内にお金の世界を終わらせたいんです」- 慶應大・斉藤賢爾博士が語るシンギュラリティ後の社会とは
谷口卓也 2018年6月20日 「30年以内にお金の世界を終わらせたいんです」- 慶應大・斉藤賢爾博士が語るシンギュラリティ後の社会とは2018-12-26T16:50:36+09:00 インタビュー 情報学
私たちは日本円やドルなどのお金を使って生活している。最近では、ビットコインのような仮想通貨も現れた。お金を使わずに生活するなんて想像できない、というのが一般的な印象だろう。しかし、コンピュータサイエンティストとして地域通貨を研究してきた慶應義塾大学・斉藤賢爾博士によると、シンギュラリティ後には「お金のない世界」に移行していくべきなのだという。本記事では、地域通貨の役割、そして斉藤博士が考える「お金のない世界」についてお話を伺った。
——斉藤先生は「地域通貨」を研究されているとのことですが、地域通貨とは何でしょうか。
文字どおり、地域で使われる通貨のことを「地域通貨」と言います。最も特徴的な性質は、地域通貨は「どんどん要らなくなる通貨」であるということです。ちょっとイメージしにくいと思いますので、まずは私たちに身近な日本円について考えてみましょう。谷口さんは、日本円欲しいですか?
——はい、欲しいですね(笑)。
そう、日本円は「どんどん欲しくなる通貨」なんですね。最近話題のビットコインも同じです。日本円やドルが向かう先にビットコインがあると考えてください。地域通貨は、これらの通貨のように「お金が必要だ」「お金があれば何でもできる」ではなく、「お金は不要だ」「お金がなくても何でもできる」という思想に基づいています。
——まだピンときていないのですが、地域通貨の具体例について教えていただけますか。
肩たたき券をイメージするとわかりやすいのではないでしょうか。肩たたき券は全国には流通しないですよね。
——肩たたき券の価値は、特定の個人の能力に依存していますからね。
要するに、人間が大事ということです。お金の額面よりも、だれが発行したお金なのか、だれから受け取ったお金なのかというように、人間を大事にするのが地域通貨の世界観です。
——お金の発行主体を大切にすると。たしかに法定通貨とは考え方が真逆のように思います。肩たたき券よりも広い範囲で地域通貨が使われている事例はありますか。
たとえば、西千葉では2000年に「ピーナッツ」という地域通貨ができて、これは現在でも使われています。この地域通貨は1円を1P(ピーナッツ)と換算して、ボランティアなどの地域貢献をすると受け取ることができて、商店だけでなく個人間のやり取りでも使うことができます。
——なるほど。ただ正直なところ、地域通貨を欲しがる人はあまりいないように思います。
現在はそうかもしれませんね。では逆に聞きますが、「すべての人間はお金を欲しがる」というのは正しいと思いますか?
——いえ。私たちがそういう社会で暮らしているから、お金を欲しがるのではないかと思います。
そのとおりです。お金はあくまでも人間の「発明品」です。この発明の起源をみるために、時代を遡って考えてみましょう。大昔は、人々は狩りに行ったり木の実を取ったりすることで、食料を確保していました。この「狩猟採集社会」のすごいところは、水を確保するのは私で、弓を射る人はあなたというような役割分担をしないことなんです。順番に弓を射るわけですよ、「今日は君の番ね」とか言って。得られたものはみんなで分ける。ここに「交換」のプロセスは発生していません。
——交換が必要なければ、それを媒介するお金は不要だということですね。当時は Give and Give の精神が成立していたとも言えそうです。
得意なことを得意な人にやらせなくても世の中は成立していて、それが強い社会を実現させていたんです。現在の社会は、あなたがいなければ狩りができませんよ、というように常に脆弱性をはらんでいます。
——強い社会であったはずの狩猟採集社会は、なぜ終焉に向かっていったのでしょうか。
文明が発達した結果、大規模な農耕がはじまったからです。農耕社会では言葉が文字に落としこまれるようになり、一人ひとりの専門性が高まって、貨幣を介した「貸し借り」や「交換」が行われるようになります。このような状況は突然やってくるわけですよ。これは「経済的なシンギュラリティ」と捉えることができます。
——Give and Take の考えかたに移行したとも言えそうです。現在も同じ仕組みが続いていると思うと、革新的な出来事だったように思います。
農耕社会が拡大し続けた結果が、現在の貨幣経済社会です。たしかに生産性は向上して私たちの生活は便利になったのですが、このままではマズイんですね。貨幣経済社会では、日々お金を稼いで消費しないと生きていくことができません。私たちはお金を得るために働いていますが、労働はこれからAIに奪われていくので、だんだんお金を得ることが難しくなってくるのです。
——政府が国民にお金を配るベーシック・インカムという考えもあります。
政府がお金を配っている限りは、根本的な解決にはなりませんよ。いくらお金をバラまいても農耕社会が誕生したときに生まれた支配者と被支配者の関係性は維持されるので、私たちは被支配者、つまり消費者という名の奴隷から解放されることはありません。価値を交換するという発想からいち早く脱しなければならないのです。
——今一度、Give and Give の社会に戻すことはできるのでしょうか。
それが、2045年に訪れると言われている「人工知能的なシンギュラリティ」の先にある社会です。2045年にはコンピュータが全人類の脳の働きをシミュレートできるという予想があり、そうなると自動化が進んで人間が働かなくてもよい世界が到来するかも知れません。もっというと、働いて食べていける人がいなくなる社会になるのです。そんな社会に現状の貨幣経済のまま突入してしまうと地獄です。
——働かなくても良い社会では、私たちは何をするようになるのでしょうか。
子供のことを考えてみてください。子供たちは何をして生きているかというと、遊ぶためです。でも子供たちは遊んでいるにも関わらず、常に悔しがって泣いていますよね。それは、自分の思いどおりにならないことがあるからです。でも思いどおりにならないことを自分の力で実現できるようになると、悔しさは喜びに変わります。
——日々の成長を喜びと感じていると。
ここで重要なことは、子供たちは自己実現のリソースを周囲からアシストされていることです。私は、これは大人も同じではないかと思っています。だれにでもやりたいことや知りたいこと、できるようになりたいことがある。そこで周りの人たちやコンピュータ、ロボットなどさまざまなアシストを得て、それを実現する。自己実現のために生きて、必要なリソースは贈与してもらうというのが、幸せの根本的な形ではないかと思うんですね。
——自己実現を最大化できる社会、素晴らしいと思います。その実現は、地域通貨が「どんどん要らなくなる通貨」であることと関係しているように思うのですが、法定通貨とはどう違うのでしょうか。
一部の地域通貨には「減価する」仕組みがあるんです。先ほどのピーナッツの場合は、プラスの残高があると1か月に1%ずつ減価するようになっています。つまり、地域通貨は貯金するインセンティブがないので、人々は地域通貨を使うようになり、結果的に地域経済を活性化できます。また、その地域で通貨を使うことで、地域コミュニティの形成にもつながります。そして最終的には、地域通貨を使わなくても助け合うコミュニティができあがります。
——Give and Take の社会から、Give and Give の社会への移行期に必要になるひとつの仕掛けが「地域通貨」と考えるとスッキリします。地域通貨を普及させるには、決済を意識しなくなるような仕組みも必要ですよね。
そのひとつが、銀行各社が準備しているコインの仕組みです。コインの実装が進むと、たとえばこのコンビニではこのコインを使うとお得ですよ、というような世の中になります。しかしユーザーからすると、毎回お店で使えるコインを調べるのは大変ですよね。そうなると、あなたのいるお店ではこのコインを使うとお得ですというような、「AIエージェント」のスタートアップができるはずです。決済が一段階奥に入るようなシステムが実装されれば、人々は「決済」を意識しなくなるはずです。
——なるほど。具体的な事例はありますか。
たとえば最近、レジに店員のいない「Amazon Go」のような店舗が話題になっています。これは「レジの無人化」や「省力化」という文脈で語られることが多いのですが、最も重要なポイントは「買い物の体験」が変わるということなんです。行列に並ばずに食べものを持って出て行く。最初は決済を気にするのですが、だんだん気にしなくなり、わからなくなるんですよね。これはまさに狩猟採集社会の体験なんですよ。
——ただ、決済を気にしなくなるのは、比較的裕福な人たちだけではないかと思います。
そうかもしれません。でも近い将来、お金を使わずに狩猟採集社会に似た体験ができるサービスを企業が提供するようになりますよ。現在でも、メルカリはそれに近いユーザー体験を提供しています。メルカリ自身は現在は利益を生み出しているわけですが、メルカリが提供していることは、お金をあまり使わなくても楽しく暮らしていける社会なんですね。今後は、「物品を何ポイントで販売する」から「皿洗いをしたから何ポイントもらえる」に移行していき、そのうち「皿洗いをしたからエネルギーを何ジュール使って良い」という形に変わってくると思います。つまり、お金を介さずに「交換」が成り立つ社会です。私はこの社会を「人類史上初めて登場する物々交換社会」と呼んでいます。そして物々交換と贈与は発想が近いので、少しずつ贈与社会に移り変わっていくという未来を思い描いています。キャッシュレスの浸透が「マネーレス」の入り口になり、少しずつ「お金」を意識しなくなるようになるはずです。道のりは長いですが、30年以内にお金の世界を終わらせたいんですよ。
——そのために現在、地域通貨を支えるブロックチェーン技術と教育活動に力を入れられていると。
そうですね。私は現状のブロックチェーン技術にはいくつか問題があると思っていて、現在ビヨンドブロックチェーン(BBc-1)を開発しています。こういった技術があればお金の仕組みをソフトウェア上で設計できるようになるので、だれでも簡単にデジタル地域通貨を作ることができます。
また、次世代を担う子供たちの教育も重要です。テクノロジーの進歩だけではなく、それを使いこなす人たちの意識や社会構造も変えていかないといけません。そこで私は「アカデミーキャンプ」という活動をしています。小・中学生にAIやロボットなどを使った「遊び」と「学び」を提供するプログラムです。テクノロジーを活かして、自分たちの手で新しい社会を作っていけるようになって欲しいのです。
斉藤賢爾博士プロフィール:慶應義塾大学 SFC 研究所 上席所員・環境情報学部 講師(非常勤)。一般社団法人ビヨンドブロックチェーン 代表理事。株式会社ブロックチェーンハブ CSO (Chief Science Officer)。1993年、コーネル大学より工学修士号(計算機科学)を取得。2006年、デジタル通貨の研究で慶應義塾大学より博士号(政策・メディア)を取得。主な著書に「信用の新世紀 ─ ブロックチェーン後の未来」(インプレスR&D)
この記事を書いた人
谷口卓也
谷口卓也早稲田大学先進理工学研究科先進理工学専攻 一貫制博士課程4年。2017年度より日本学術振興会特別研究員(DC2)。早稲田大学リーディング理工学博士プログラムに所属し、「エナジー・ネクスト」をテーマとして、外部刺激で動く新しい材料の開発を目指して研究しています。
ハナムラ チカヒロ
ランドスケープアーティスト/研究者・博士/俳優
「まなざしのデザイン」というコンセプトと、「風景異化論」という理論で、芸術から学術まで領域横断的にさまざまな活動をおこなう。風景をつくる、風景をかんがえる、風景になるという3つの角度から、領域横断的な表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、世界各地の聖地のランドスケープのフィールドワーク、街中でのパフォーマンス、映画や舞台に俳優としても立つ。2010年より大阪府立大学21世紀科学研究機構准教授、2012年より大阪市立大学都市研究プラザ客員研究員、2017年よりスペイン・バルセロナ大学遺産観光研究所客員研究員。
アートの役割は、常識の枠を外す他者であること。
風景の半分は、見る人の主観でできている。
—−ハナムラさんは緑地環境科学の博士であり、表現者であり、現在は研究者としてスペインのバルセロナにおられます。非常に多岐にわたる活動をされていますが、活動を始めたきっかけや動機について教えてください。
もともとは庭や公園の設計をしたり、都市計画の提案をしたりとか、そういうことをやっていました。いわゆるランドスケープデザインと呼ばれる屋外空間の設計ですね。それが途中で意識が変わってきて、木を植えて、山を作って、道を作るだけで“風景(ランドスケープ)”ができたということに違和感があったんですね。例えば同じ公園でも失恋した時は暗く見えて、仕事がうまくいった時で明るく見えたりすること、ありませんか?
—−あります、あります!同じ景色でも、気分によって見え方がぜんぜん違います。
そこに気づいた時に、環境をデザインするだけではなくて、環境を見ている人間側の意識とか見方とか、そういうものをデザインすることが風景をデザインするもう一つの方法ではないのか、と思うようになりました。
そのきっかけになったのは、当時大阪大学に設立されたコミュニケーションデザイン・センターの研究者として人文科学に関する研究活動も行うようになったことです。それまではランドスケープデザインのオフィスで働いていたのですが、空間のデザインだけでなく、人と人の関係性を作っていくコミュニケーションデザインに関わるようになり、「まなざしのデザイン」というコンセプトに行き着きました。それが2005年頃からですね。
—−ハナムラさんの活動のテーマですね。
その一環で、人間のものの見方、つまりまなざしをデザインするのに芸術は非常に有効だと気付きました。美術館で作品を見た帰りは、風景が少し変わって見えるじゃないですか。芸術や創造性に触れることで、自分が想像していたことの外側みたいなものを自分の中に取り込むことができると、風景の見え方は変わるのではないか、ということに思い至りました。それが、自分がアーティストとして何かをするようになったひとつのきっかけです。
—−もともとアートや芸術をやりたいというよりも、純粋にランドスケープをやっていかれる中で、芸術の可能性に気づかれたのですね。
実はランドスケープデザインとの出会いも偶然なんです。昔は医学を志していましたが、その途中で地球の医学のような、もう少し大きな枠組みで人のためになることができないかと思い、生命環境科学の分野に進み環境問題を考え始めました。そこで偶然、ランドスケープデザインという考え方に触れて…という感じです。
アートにも最初はさほど関心がなかったのですが、アーティストが行う問題の掘り下げ方や、僕らが常識と信じていることの外側を掘り下げていく力があると徐々に感じるようになったことがきっかけです。地球環境から入って環境デザイン、デザインからアートへと広がっていったという感じですかね。
—−コミュニケーションデザインやランドスケープデザインと並行して、ご自身でも表現活動を?
そうですね。もともとはアート表現も役者としての表現も誰かから声をかけていただいたことで始めることになりました、僕は基本的にはいつも誰かに頼まれたことに応えるという形で何かをする姿勢です。自分の意思を持たないほうがうまくいくことが多いんですよ。自分がやりたいことというより、その時の状況が自分になにをさせたいのかを考えると表現が生まれる。そうやってレスポンスする中で表現してきたことが、これまでの自分の活動の軌跡になっているのかなと思います。
役者も研究者もこの場所の運営も、表現形態はバラバラですが、同じことをしている感覚なんです。生きていくとはどういうことなのということを、自分の身をもって、実験し続けているという感じです。
—−純粋に自分が表現したいものというよりも、生きていくことの延長線上で、こういうものがすべてあるという感じでしょうか?
人はなぜ生きるのか、世界はなぜあるのか、宇宙はどうなっているのかとか。その中で僕らはどういう役割を果たしているのかとか…。そういう漠然としたことを常に考えて生きていて、それが何かのきっかけで表現する機会が与えられた時に表現が生まれる…というスタンスでしょうか。
大阪市内のある実験アトリエ「♭(フラット)」は古い活版印刷工場をセルフリノベーションしたアトリエ。この場所で、著書の出版記念セミナーも開催された。
圧倒的なものの前では、誰もが等しく人間になる。
—−ハナムラさんはこれまでさまざまなアートプロジェクトを手がけておられますが、中でも病院で実践されたプロジェクトについて、お聞かせいただけますか?
依頼があったのは2007年。大阪市立大学医学部附属病院の山口悦子先生が、病院の中でアートを展開するという活動を数年やっておられたんですね。そこに僕はアーティストとして呼ばれたのが最初です。大阪市立大学が行っている船場アートカフェという研究活動の一環でした。
2007年は小児科病棟の待合室で、「タングラムスケープ」というインスタレーションをおこないました。これは待合室の壁に描いた背景に、子供たちがタングラムという図形パズルを貼って、登場人物を作っていくというもの。長くて退屈な待ち時間をクリエイティブな時間に変換できないか、と考えてつくりました。いざ展覧が始まってみたらめちゃくちゃ子供たちが来て、壁だけではなく床やお母さんに貼ったり、変な生き物もいっぱい出てきて。僕が想定していたことなんて本当につまらない話で、子供たちのほうがよっぽど自由に使い方を育んでくれました。
しかも展示が終わったあと、現場の看護士さんたちが自分たちでコーナーを再現してくれたんです。すごく面白かったから、子供たちのために作ってみようと。これは非常に重要なことで、僕のアートが、「文化」に変わった瞬間だと思うんですよね。僕の創造性が誰かの創造性を自由にした、まなざしを開いたということ。これはすごく嬉しいことでした。
—−非日常のアートが、日常の中に落ちていったという感じなんですね。
翌2008年は入院患者さんを対象に、空中庭園を使って自然を感じられるような「風のおみく詩」という作品を詩人の上田假奈代さんと一緒につくりました。病院6階の空中庭園は、入院患者さんがリフレッシュする場所なんですね。そこを使って自然を感じられるようなことができないかと言われて、風を可視化することを思いつきました。病室は風が吹かないので、空中庭園は風がやっぱり特徴的なんです。僕たちに自然の気配を教えてくれる風を、見える形にできないかと思い、屋上庭園に500個のアルミ風船を浮かべました。風が吹くたびに、風船が動きを変えるんです。凪の時間はピタリと直立し、雨が降ったら水滴の重さで沈む。風船が自然の風を見せてくれるんです。
その風船に、看護士さんから患者さんに向けた言葉をたくさん募集して、500個の風船すべてに付けました。自分の気持ちに響く言葉が付いている風船を、ちぎって部屋に持って帰ることもできます。微妙な空気の動きに反応して動くので、病室でも少しだけ、自然を感じられます。風の断片を連れて変えるという感じですね。
—−同じ病院の中でも、対象や場所によって、また表現の手法がガラリと変わるんですね。
基本的に一回作ったものは作らないというか、作れないんですよ。現場が変われば答えも変わるし、表現方法も変わるので。3年目は「今度はどこでやりましょうか?」と言われました。どこが一番可能性があって、効果が面白いかを考えて病院全体を調査しました。入院病棟の6階から18階は800床ほどの入院病棟なのですが、その真ん中が大きな吹き抜けになっているんです。でも光を取り込むだけの空間で誰も見向きもしていません。そこを使って、院内すべての人のコミュニケーションを作れないかと考えました。
病気は自分の体に起こった災害みたいなもので、すごくつらくて孤独な時間を院内で過ごさなくてはいけないですよね。家族がお見舞いに来てくれても、家族は元気だから共有できない。でも同じ境遇の人が同じ空間に800人もいるということは、共感し合える可能性があるわけですよね。お互いの存在を感じるというだけでも、何か救われるものがあるかもしれない、一人じゃないという感覚が持てるかもしれない、そう思いました。もうひとつは、お医者さんや看護師さんと、患者さんの間にあるコミュニケーションの壁。どんなに丁寧に接していても壁があると思うので、それを取り払ことはできないか、と考えました。
そのコミュニケーションを促せる可能性があるのが、縦の吹き抜け空間だったんです。人々が集まって来て、そこで視線を交わし合いながら、ひとつの大きなものを見るという関係を作ろうと思って。そこで吹き抜けに霧を発生させ、無数のシャボン玉を飛ばすというインスタレーションを考えました。「霧はれて光きたる春」という作品です。
—−動画で拝見しましたが、吹き抜けを覆い尽くしていた霧が少しずつ晴れて、空からシャボン玉が降ってくるのは、とても幻想的な光景でした。
この作品でわかったのは、圧倒的にすごいものが目の前で起こっている時、人は我を忘れて目の前の風景をぼぉーっと見るんですね。自分の意識が外れるというのでしょうか。病院の真ん中で大きな霧の塊がゆっくりと上がっていき、空からは膨大な量のシャボン玉が降ってくる…というわけのわからない状態の前では、医者も患者もないんです。ただ一人の人になる。
社会生活の中ではみんな役割を演じています。でもずっとその中にいると、演じていることに気づけません。だからたまには、外側からまなざしを向けてみるということが大事じゃないかなと思いました。
—−あの光景の前では、みんなが平等になる…という感覚は想像がつきます。
それと同時に、芸術家が持っている役割もそこで気づきました。芸術家は、社会に対して他者であらねばならないのではないかと。みんなが常識だとしていることだとか、みんながまことしやかに守っていることだとか、信じているものの外側から何かを投げかけるということが、芸術家の役割ではないかと思ったんです。
吹き抜けの空間を霧が覆い尽くし、シャボン玉が降る幻想的な風景。圧倒的な風景の前では、医者も看護師も患者もみな「一人の人間」であることに気づかせてくれる。
固定化した意識を相対化する、常識外からのまなざし。
—芸術家の役割の話になりましたが、アートの果たす役割については、どうお考えですか?
近代以降に生まれたデザインが機能性を引き受けたことで、現代におけるアートはメッセージを引き受けるようになったのではないかと思います。だからアーティストというのは、気付きを与える他者たり得る人になれる可能性があると考えています。「裸の王様」のお話のなかで、王様は裸だ!って叫ぶのは子供ですよね。家来は絶対に言えません。それを無邪気に言えるのは、社会のルールの外側にいる人なのでしょう。芸術家もそんな感じだった頃があったのだと思います。ただ最近は、芸術家も社会における絶対的な他者ではなくなっていて、社会の中に組み込まれる割合が増えているように感じています。
—−ルールの外側にいる異端のような存在でなくなりつつあるんですね。
ええ。これだけアートプロジェクトが増えて、アートだ芸術だと騒がれると、芸術自身が社会を再構築するための道具として使われる側になります。あちこちで行われる芸術祭などでは地域の活性化や経済の問題に結びつき、その機能を果たすためにどう芸術を使えるのかが問題になっているのだと思います。そうなると役には立つようになりますが他者ではいられなくなるかもしれません。
——芸術が、目的に合わせた手段になってしまっているんですね。
そもそも昔の彫刻や建築、絵画は王侯貴族や教会などからの注文を受けて作るようなものだったのだと思います。その頃の芸術は発注者の目的に合わせた手段としての意味合いが強かったのだと。芸術家が「自分の作品」や「自分の表現」を作るという作家としての意味合いが強まってきたのはそんなに長い歴史ではないのだと思います。しかしそうして芸術家が社会の要請やルールと離れたところで個人の問いを発し始めたことは、社会そのものを相対化する力を持ち始めたとも言えるのだと思います。
一方で今はまた社会との距離が近づいています。それは社会の問題を解決していくという意味で有効な側面もありますが、同時に簡単に設定された目的に対しての批判力を失ってしまうという危険性もあると思います。
そういう意味でも僕自身が思うのは、アートは「見る」よりも「やる」方がいいと思うんですよね。みんながそれぞれ芸術家になればいいし、芸術をすることでそれぞれが物事を見る力や心を磨いていけばいいと思うんです。そう考えるとこれからの時代では、芸術は必ずしも職業化しなくてもいい可能性もあるかもしれません。もちろんその中でも素晴らしいものはやはり多くの人と共有する方がいいのだと思いますが、その素晴らしさを感じるためにも見る人の方が目利きにならないといけないのではないかと。
2017年、著書「まなざしのデザイン」を上梓。今回の取材は、出版を記念したトークイベントのため日本に帰国していたタイミングで実現。
芸術はカンフル剤ではなく、もっと本質的に使うべき。
—−ハナムラさんは今バルセロナにいらっしゃいますが、日本の芸術事情というのはどのようにご覧になりますか?
日本でも芸術が随分と社会の中で認知されて様々な局面に組み込まれ始めているようにも思えます。その一方で、芸術が社会に組み込まれていくほど、芸術が持っている本質的な部分が見落とされていくような気はします。芸術は基本的に人が肉体的に存在する上では特に役に立たないものです。芸術がなくても人は物理的には死にません。だからこそ芸術に何が可能で、同時に何が限界なのかを、もう一度ちゃんと考える必要があるのでしょうね。日本の芸術家や芸術業界がそのこととどのように向き合うかが今後問われそうな気がしています。
—−アートにあるのはメッセージで、課題を解決する機能は持ち合わせていないのですね。
アートが持っている「問いかける力」に僕自身は可能性を感じています。課題に対する解決策はすぐには見つからなくても、「何が問題であるのか」を浮き彫りにすることは大きな力を持っています。芸術を使って社会の問題を解決しましょうというフレーズを最近はよく耳にします。僕自身もそういう社会の中で芸術を機能させるようなことを10年くらい考えてきましたが、最近はもっと本質について考えたいと思うようになりました。そこで唱えられている社会の問題って本当に解決する必要があるのだろうかと疑問が湧くのですね。そもそもの問題設定が間違っているのに、芸術を使えば解決できるという捉え方はとても短絡的ですよね。芸術が外から打たれるカンフル剤のような感じで捉えられることに違和感を覚えています。その範囲の中で何かを表現しても小さな問題解決はできても、もっと大きな問題を隠蔽することにしかならないのではないかと。そういう意味で問題そのものへの問いかけをするメッセージは重要だと思っています。
—−では最後に、ご自身のこれからについて、お聞かせください。
30代のころは様々な意味で実験をしていました。40代になり、今から人生を降りていくという段階にこれから入ってきています。だから個人的には成長ではなく成熟していきたいです。人間が生きていくというのは、非常にシンプルなことなのではないかと最近は考えています。人生の中でしないといけないことなんて、本当はそんなにたくさんないんです。成熟というのは量を増やしたり拡大していくのとは真逆のベクトルを持っていると思います。だから粛々とたたんでいくような生き方の中で何らかの表現をすることがメッセージになればいいなと考えています。
それは僕個人のライフステージだけではなく、この成熟化社会と言われる日本にも同じことが言えるのではないかと考えています。これまでの社会が向けていたベクトルのように人口が増えるわけでも、インフラ整備をしなくちゃいけないわけでもない。今からは充実を図っていかないといけない時代に入っていくのです。そう考えた時に、僕自身の成熟化を考える中で、日本社会の成熟化も同時に考えていきたいですね。
https://wirelesswire.jp/2020/07/76124/
グローバリズムから「インターローカリズム」へ
2020.07.04
Updated by Chikahiro Hanamura on July 4, 2020, 10:20 am JST
Tweet
2020年1月より世界中に拡散したといわれる新型コロナウイルスと、それに端を発するパンデミック現象は、半年経った今でも世界中を席巻している。この新型コロナウイルスという存在そのものや、その危険性についてはまだよく分かっていない部分も多い。その中でWHO(世界保健機関)によって早々と出されたパンデミック宣言や、世界各地で都市封鎖が行われたことで様々な影響が現れている。
果たしてこの封鎖を行う必要があったのか、そしてそれによって感染拡大防止に効果があったのか。そのことには個人的に疑問を抱いているが、別の論考(「パンデミックをつくったのは誰か」 )で詳しく触れているのでここでは述べるつもりはない。ただ、いずれにせよ起こってしまった都市封鎖によって活動が停滞させられたことによって、文字通り経済の状況が一変していくのは確実である。 それに合わせた形の新しい価値観やシステムは、いかにして考えれば良いのだろうか。生活や産業をどう考えれば良いのだろうか。
「ネガティブの経済学」と掲げたこの一連の論考は、これまでの経済システムへの疑問と次なる方向性を探すことを念頭に、パンデミック以前から書き始めていた。だが、その矢先に今回のような事態が起こったことで、思ったよりも早く考察を進めねばならなくなった。私たちの経済や社会のあり方を修正する必要性は、これまで以上に大きくなってくる。特に世界規模の都市や国の封鎖という形で移動などの活動が制限されたことを受けて、これまでの社会や産業のあり方が急速に変わり始めているからだ。
壊滅的な観光産業
中でも、いち早く影響を受けて壊滅的な事態に陥っているのが観光産業である。羽田や関空のウェブサイトへ行き、発着便を確認すれば毎日何十もの発着便が欠航続きになっている状況が確認できるだろう。この20年ほどの間、世界経済を牽引する大きな力のひとつは観光産業であり、人が移動する現象を前提に社会のシステムや様々な産業が再編成されていく真っ最中だった。
半年前の世界で問題になっていたのは「オーバーツーリズム」である。観光客が訪れすぎて、それをどのように抑制するのか、観光客と住民との間の軋轢をどのように解消するかという難問に、観光業界や行政は心を砕いていた。しかし半年経った今は、全く逆の状況となっている。日本では、2020年には4000万人のインバウンド観光客を受け入れることを目指して施策を進めてきたが、4月の訪日外客数は前年同月比の99.9%減の2900人、5月も1700人と8カ月連続で前年同月を下回っている(日本政府観光局の発表資料)。
こうした観光産業の壊滅的な状況は、もちろん日本国内だけでなく全世界で広がっている。2020年1月から3月の世界の観光客数は前年同期比22%減少し、800億ドルの損失につながった。UNWTO(世界観光機関)は5月初めに、今年の12月まで世界各国で国境封鎖や渡航禁止が続いた場合、観光客数は前年比78%減少するとの予測を示した(日本経済新聞の記事)。そうなると、世界で最大1億2000万人が失業し、1兆2000億ドル(約130兆円)の損失が出る可能性があるという。
アメリカでも、新型コロナウイルス感染拡大の影響ですでに旅行関連の失業者が800万人に達したことを全米旅行産業協会が5月初頭に発表している(やまとごころ.jpのインバウンドコラム)。各航空会社にも、次々と事実上の破綻が始まっている。イギリスのフライビーのような欧州最大の格安航空会社(LCC)が破綻し、タイ国際航空やコロンビアのアビアンカ航空、独ルフトハンザ、KLMオランダ航空、エア・インディアのようなフラッグシップキャリアまでもが、政府が救済に入らねば成り立たないほど深刻な経営状態になっている。ICAO(国際民間航空機関)も、2020年1月から9月の世界の航空旅客数は前年同期比で最大12億人減少すると見積もっている(SankeiBizの記事)。今回の事態が収束したとしても、以前のように気軽に海外旅行ができるようになるまでには、さらに相当な時間がかかることは予想に難くない。
拡がることを躊躇う世界
このような事態になることなど誰が予測できたであろうか。そんな声が上がるのも無理はない。ただ、このパンデミック以前の観光の状況が正常だったとは、全くいえない気分であるのも事実だ。世界中が狂ったように観光という渦の中に巻き込まれていたのだ。それがいつまでも続くとは考えにくい。
長尺で歴史を俯瞰していると、その流れがいつか反転することはある程度予想できたことだ。第一回目の論考(ネガティブの経済学01「ポジティブの罠」)でも述べたが、自然や文明の方向とはあるリズムを持って脈動しており、同じ状態が永遠に続くことなどあり得ないからだ。上に放り投げたボールがいつか止まってそれが落ちてくるように、また吸った空気をいつか吐き出すように、ある地点を境目に急速に方向が転換するのが自然の流れである。
観光現象にだけそれが当てはまらないという理由はないだろう。どのような形でその方向転換が現れるかについての予想は難しいかもしれないが、この十数年の加熱し過ぎた観光現象が持続不可能であることは明白だったのではないだろうか。
歴史の長い期間、人は自らの世界が外へ外へと拡がる方向を目指して進んできた。海を中心に世界の探索へ踏み出した大航海時代のように、その多くは交易や戦争、探索といった目的を持ってはいたが、それだけが人を旅に駆り立てたわけではない。外へと飛び出し未知の風景に触れてみたいという欲求は、人々の心の奥底に眠っているものだ。その欲求に歯止めをかけていたのは、物理的に距離を超えることの困難さだった。だがそれにも増して、安全な地域を離れて危険な荒野へ出ることへの精神的な恐れが大きく立ちはだかっていたのだろう。一度外に出ると生きて戻って来られる保証はなかったからだ。
それが1825年の鉄道の敷設以降、世界中で一気に解決が図られてきた。鉄道網、自動車交通網の整備、旅客機の就航などによって、安全に大量の人間を運搬する交通手段が追いついてきたのだ。そうした技術とシステムの進展によって、多くの人々が恐れることなく外の風景に触れる欲求を解放することができるようになった。
しかし今回のウイルス騒動で、その欲求は急激に反転した。この20世紀に整備された交通網に沿って急激に高まった人の流動は、物理的に疫病が拡散するのに最適な条件を作ったからだ。それ以上に、加速した情報の流動は、ウイルスの「恐怖」が拡散する最適な条件を整えた。観光という行動は、安全性が確保されていることが前提条件である。外は危険であるという恐怖が頭の中に巣食ってしまうと、外へ出て行こうという欲求には急速に歯止めがかかる。
実際の危険性以上に、ウイルス感染の恐怖に駆られた人々は、これまでのように大規模に観光するような状況を望むだろうか。再び元のような形で観光産業が盛んになることはありうるのだろうか。当面の間、そんなことは難しいと誰もが予想しているだろう。ではこれからしばらくの間、観光はどのような方向に進めば良いのだろうか。それを見定めるためには、文明の方向やこれからの世界秩序のあり方を含めた、広い視野から物事を俯瞰する必要がある。
多文化共生の限界
日本では実感が薄いかもしれないが、この100年間に世界は国境を開くことに心を砕いて来た。各国は異文化の人々を受け入れ、どのように共生させていくのかを模索してきた。多文化共生のモデルの一つは、様々な人種を内部に積極的に抱えることで成長したアメリカであり、文化の異なる各国を一つの枠組みでまとめたEU(欧州連合)だった。それは経済が前向きでうまくいっている状況では華々しい成果を挙げたように見えていた。
実際、新しい文化を生み出してきたのは、いつの時代も移民や旅人といった外の文化からやってきた人々であった。複数の文化に身を浸したことのある者はクリエイティビティに富み、新しい視点をもたらし、寛容さに優れているという側面があることも無視できない。
しかし一方で、こうした災禍が起こった時ほど、文化間の衝突や人種間の軋轢の問題が浮き彫りになる。21世紀の問題として並べられた水問題やゴミ問題などと同様に、異文化間の問題もこれまで表面化しなかっただけで、うまく回避できたとは言い難い現状がある。1990年代から移民の失業や貧困の問題、そして社会から疎外されている状況などが欧米を中心に現れ始めていた。そして直近では、英国のBREXITやアメリカのナショナリズム、難民・移民問題を背景としたEUの不和にも見られるように、この10年間に多文化主義政策の矛盾点は次々に浮き彫りになっていった。
日本では、2018年12月改正の出入国管理法の施行によって、労働者および生活者として外国人たちとの共存の方向へ舵を切ったが、早くもこのパンデミックで上陸を拒否せざるをえない状況となっている。日本は一足遅れた分、あまり問題視するには至っていないかもしれないが、移民が増えることで問題が発生することは予想できたことであった。
多文化共生とは、元来、難しいものである。文化とは、人種と同様にアイデンティティと一体であり、異なる文化的背景を持つ者同士はまるで異なる「まなざし」を持っている。私も半年前に、オーバーツーリズムを背景に、外国人観光客と日本人住民が同じ風景に全く違うまなざしを向けていることを描いた映像「Seeing differently」を制作したが、一時的に訪問する者には理解が難しいことはたくさんある。ましてや生活するとなると、うまくやっていくにはとても時間がかかる。だから結局、一つの地域や国の中に同文化の小さなクラスターをつくって閉じることが選択されがちである。もちろん同じ人種であっても、経済的な背景によって選択可能な文化の幅が制限されてしまうこともある。
特に、生活が厳しい状況下では、同文化よりも異文化の方を攻撃しやすくなりがちだ。調子の良い時には寛容に受け入れることができた人種の違いや慣習の違い、考え方の違いは、自分が苦しい立場になってくると煩わしいものになる。苦しみの原因は短絡的に人種や民族、文化の違いへと転嫁されて、極端なプロパガンダのもとデモや暴動へと育てられてしまう。
このパンデミック後の世界では、そうした多文化共生のあり方をもう一度見直さねばならなくなるだろう。今回のような事態が起こったことで、これまでのように世界はグローバルなレベルで人々が流動することがしばらくは難しくなる。そんな中では、自国の文化、地域の文化、言語や民族は、これまで以上にコミュニティを結ぶ上で重要になってくるだろう。
だがそれは、以前のナショナリズムや民族主義のような形とは異なるはずだ。これまでのナショナリズムや自国への愛国心というのは、安易に軍国主義や全体主義に結び付けられて来た。しかし観光という現象によって、自国のアイデンティティを大事にすることが、他国を排除することを意味しないと世界は理解し始めている。それぞれの国に、それぞれの良さがあり、それぞれの人々の暮らしがあり、人権があることを、今では誰もが無視できなくなっている。
そこを出発点にしたときに、自分の住んでいる地域を充実させるというあるべき方向へと再び向かって行く可能性が高い。それは、来る人は排除するということではなく、他国と競争をするということでもない。しっかりと足元を見ながら自らの国の生活を充実させていくことである。その上で、外からやってきた人を「歓待する」という態度が初めて意味を持つのではないだろうか。
足元に戻ってくる
2016年に第45代アメリカ合衆国の大統領に就任したドナルド・トランプ大統領は、「自国ファースト」を唱え様々な政策を行ってきた。このトランプ政権以降の米国は、パンデミック前から、国際的な枠組みから外れていく政策へ踏み切っていた。気候変動の枠組みから外れ、米中貿易戦争を起こし、WHOへの拠出金を停止するなど、グローバルの秩序から外れようとするトランプ大統領の動き。これは一見、常軌を逸した奇異な行動のように見える。
しかし実は、ある補助線を持って眺めると、今回のパンデミック後の世界を考える上で示唆に富んだものに思えてくる。一見単なるナショナリズムの高まりのように見えるが、実はグローバルという枠組みが極まって生じた大きな矛盾へのアンチテーゼではないか。それは、戦後の世界秩序を成してきた枠組みを一度リセットして、足元である国の内部を充実させて行く方向へと舵を切ることの先陣を切っているようにも見えるのである。その動きが、このパンデミックによって国境が閉ざされた世界と、今後奇妙に合致する可能性がある。
ちょうど100年前にスペイン風邪が猛威を振るった時は、世界は反対方向を向いていた。第一次世界大戦の終了とともに、国民国家を単位にインターナショナルな連合へ向かう転換点をこの世界は迎えていた。それからの100年間、人々の活動領域はさらに外へ外へとオープンに拡大していく方向を志向した。空の旅が人の移動を解放しただけではない。電子通信技術は情報の移動を解放し、国際的な金融システムが資本の移動も解放した。
第二次世界大戦後は冷戦構造の中、資本主義の自由経済と共産主義の計画経済の選択肢があったが、1989年のソビエト連邦の崩壊以降、世界の金融システムは一つとなった。オープンで自由であることが至上となり、いつしか国家の縛りを解いて国境という境界線を融かし流動性を高める方向が目指された。それがグローバリゼーションであるが、それはしっかりと国境を持った国家同士が相互関係を持つインターナショナリズムとは概念が異なる。グローバリズムとは、国境そのものを取り払って金や物や人の移動を加速させることで、より強いものが世界規模で莫大な利益を得る動きである。そこには国家という共同体のことなどは微塵も念頭にはない。
金融やグローバル企業は、国家の枠組みを超えて世界中を暴れまわり、世界全体をマーケットにビジネスが展開された。そこでの最良のビジネスモデルは、一番安い労働力を確保できる国で製造し、一番高く買ってくれる国で販売することになる。その理念の下に世界中にサプライチェーンを張り巡らせて企業は大きくなった。それはアメリカの大企業が先陣を切って進めてきた戦略だった。
その結果、安価な労働力を背景にこの30年ほど世界経済を牽引してきた中国で大量の雇用者が生まれ、一方でアメリカでは大量の失業者が生まれる状況となった。グローバリズムの帰着として、国家間の格差にも増して国内の格差の方が深刻な状況になるのは当然の結果である。金や人の流動化を加速させることは、金も人も地域や国家の外へ自由に出て行くことを許すのだから。そして、そんなグローバリズムに政治が積極的に加担してきたのだ。
しかし、今回のパンデミックであらゆる物事の方向性が反転し始めた。観光どころか、あらゆる産業が外への拡大から内への収縮の方向へと向かうだろう。これまでのグローバルなビジネスモデルが制限される方向に向かうことで、サプライチェーンは国内に呼び戻され、なるべく近くで循環するようになるだろう。食糧生産も自国で展開され、消費も自国向けになっていくと考えられる。
それは世界レベルで見ると国家という内側へと向かい、国家レベルで見ると地域という内側へ向かって行くことでもある。つまり日本で消費する食料を中国から輸入するのではなく、日本で生産するのと同じように、関西で消費する農作物を北海道から輸送するのではなく、極力近郊でつくるということになる。そうすると流通が止まった際のリスクも低く、フードマイレージも少なくて済む。人の移動もモノの移動も、エネルギーの消費を伴うため、できるだけ短い移動距離で、可能であれば地域の中で完結するような方向が模索されるはずである。
つまり時代が進む方向として、外へ出稼ぎに行くのではなく、国や地域の中で資源や資本を分配し、雇用を生み出し、経済を循環させることで、内側を充実させることへ向かう可能性が高い。
地域ごとに答えは違う
その中で国家や地域が生き残っていくには、どういう戦略が必要になるのだろうか。これまでのような世界規模でマーケットの取り合いになる状況は、どこかが勝てば、どこかが負けるという巨大なゼロサムゲームの構図があった。今でも世界中を席巻する情報インフラでは、GAFAのようなプラットフォームが一人勝ちのような様相を示している。インフラのように同じレギュレーションを世界中で展開することに意味がある場合には、こうした一人勝ちのビジネスが出てくるかもしれない。
しかし今回のパンデミック以降、全ての物事が大きく反対方向へと動き始めているとすれば、これまでの必勝の方程式はあてにならない。これまで有利だと思われていた場所が不利になり、不利だと思っていたところが有利になる。豊かだと思っていたところが貧しく、貧しいと思っていたところが豊かになっていく。大きいところほど不利になり、小さいところほど有利になるかもしれない。強いと思われていたところは実は脆弱で、脆弱だと思われていたところが、それほど影響を受けないという状況が生まれてくるかもしれない。
そのような状況では、戦国時代や江戸時代にように、各地域でそれぞれ自らの旗を立てて、どのような戦略で行くのかを工夫しながらリーダーシップを取っていく必要があるだろう。この10年ほどの観光化現象を経た世界は、地域の重要さや個性の重要さを理解し始めている。そうした地域の資源や強みをこれまで以上に生かしていかねばならない状況になるはずである。その処方箋は地域によってまるで異なってくる。
それはマクドナルドやスターバックスのように、どこに行っても一定のクオリティが担保されているサービスが世界を制するという考え方とは真逆になるはずである。グローバルで通用するようなフォーマットを当てはめるこれまでの戦略ではなく、ローカルごとの個別の解法が必要になる。あるいは普遍的なフォーマットを地域に合わせてカスタマイズしていくことが重要になってくるだろう。だから国の中では中央がやることは最低限にして、地域の裁量が増えて行くはずだ。
なぜならば地域ごとに問題も異なるし、資源も異なるからである。そうなると当然、その解決方法も異なってくる。海辺と山間部では魅力が異なり、より海らしさや、山らしさに応じた戦略を立てねばならないだろう。全ての地域が同じような様相を示し、海に行っても、山に行っても大差がないならば、どちらかを選択する勝ち負けになるかもしれない。しかし、それぞれ比べようがない良さを生み出せれば違いは補完し合う関係になる。海に行く人は、山にも行く可能性が高く、どちらかを選択するというゼロサムのビジネスではないからである。違う魅力があるからこそ価値が生まれるような産業領域では、競うことが意味をなさなくなる。
だからこそ多様性が大事で、同時にその場所での必然性が大事になってくる。その地域の必然性に応じてそれぞれの強みや弱みを理解した上で、頭をひねって知恵を生み出すことが必要になる。そこでは何も後ろ盾がないところから本当の意味での価値を創造していくことができる人材が求められるだろう。そして、その地域が創造的なまなざしを持った人々をどれほど育てることができるか、そして受け入れることができるのかが命運を分けるかもしれない。
「ない」ことが強みになる
新しい価値観とは、文字通りこれまでの価値観の延長からは生まれない。これまで常識とされてきた、便利と不便、快適と不快、強みと弱みに対して、正反対の角度からまなざしを向けることが価値観を改めることである。
例えば、大都会は便利な場所であることが強みだ。あらゆる物が集まり、あらゆるサービスがあり、何でも手に入って、そこに行けばあらゆる欲望が叶う場所であることが魅力だった。しかし、それがとても偏っていて脆弱な構造を持っていることが今回のパンデミックで浮き彫りになった。密集して住んでいることによる感染のリスクだけではない。都市機能が一度停止してしまうと、何も手に入らなくなる。自らの手で作っているものは何もなく、生活に必要なものはほぼ全て、誰かに依存して生きていたことに気づいただろう。
一方で、地方はサービスが都会ほど充実していないため、ある程度のところまでは生活に必要なものは自分で賄っている部分もある。それが強みであったことに気づけた地域は、生き残っていけるかもしれない。都会と同じような発想で、都会と同じような場所を目指しているのならば、都会の価値観の崩壊とともに同じように崩れていくだろう。
健康の概念も変化して行く。病気という概念も、医療という仕組みもおそらくこれから変わっていくだろう。病気になった時に病院が必要であるという発想から、そもそもできるだけ病気にならないようにする、あるいは病気になってもある程度は自力で治せるようにする、というような発想が必要になるはずだ。
今回の新型コロナ騒動は、人間の免疫力をいかに高めるかが問われた。人間の健康は環境に依存しており、人間を元気にする環境かどうかは大事な価値である。そういう環境を持っているところが有利である。それは何かをプラスするだけではなく、むしろ何かが「ない」という状況がメリットになることもある。ストレスの要因やストレスのかかる環境がない、有害な電波が飛んでいない、食料に添加物がないといったことは、実は大きな価値に変わるだろう。これからは便利であることは必ずしも価値にはつながらず、逆に不便であることが可能性になるかもしれない。そうした想像力を持てると、不利な状況は有利な条件へと変わり、これまでの価値観が反転する。
我が街、我が地域には何もないと思っている場所ほど、発想の転換によって大きな可能性を持つだろう。豊かになるために大きなことをする必要があるという常識を一度捨てて、本当に必要なものと不要なものを見つめてみたり、豊かさとは一体どういうものなのだろうかと考え直す必要が出てくるだろう。
そうすると、街を作るために「整備」することよりも、街を清掃したり、余計なものを省いて「整理」することの方が、意味を持つかもしれない。モノが少ないところの方が整理もやりやすくメンテナンスもしやすい。クリエイティブに減らして行くことは、方向性が反転してしまったこれからの世界で重要な課題になっていくだろう。
むやみに大きく拡げて、たくさんの抱えきれないものを持つよりも、少ないものにも関わらず満足して暮らして行ける価値観が重要になる。それは、これまでは貧しいと思われていたようなことかもしれないが、見方を反転させれば、実は最も効率が良く理にかなっていることになる可能性は高い。
仕事と生活の変容
都市よりも地域の方がに有利になりはじめている兆しはすでに現れ始めている。今回のパンデミックでも浮き彫りになったが、人の密集する都会の慌てぶりに対して、人の少ない地域の方が落ち着いた対応が目に付いた。外からの物の移動が制限され始めると、食料をはじめとして生活に必要なものが近くにある方が有利になっていく。
おそらくこれからは、これまで都心や都会、メガシティーやメトロポリタンと呼ばれていた場所の機能がどんどん衰えていく状況になる。20世紀は地方から都市へ人が向かうことで、都市は発展していったが、21世紀のこのパンデミック以降は都市から地方に向かって人が移動していく状況が進んでいくことが予想できる。その中で、人が定着する地域と逃げ出す地域との格差がこれまで以上に顕著になってくる。外から人を呼び込むことに抵抗がある状況がしばらく続く中では、観光よりも居住あるいは「疎開」とでもいえる形でそれが現れるかもしれない。
今回のロックダウンでテレワークが普及したことは、働くことのあり方を見つめ直す大きなきっかけになった。東京の中にいても会社に出勤しなくて済むような状況になると、東京にいる理由さえなくなる可能性がある。地方にいても東京の企業にオンラインで出社できれば、働き方や住み方の選択肢は格段に広がるだろう。情報技術やテクノロジーが世界を覆ってしまうであろう21世紀後半では、機能的な意味での条件は場所によらずに揃ってくる。どこにいても同じ情報を共有し、同じように働けるのであれば、むしろ「どこに居るのか」がその人の人生にとって重要になる。仕事以外の時間を魅力的に過ごせるような地域が選択されるようになるはずだ。その土地の風土、人のあり方、暮らしの個性が判断の基準になる。
自然環境が豊かであるということを基本にしながらも、人々の気風が自由に満ちて活力がある、その土地に適切なディレクションの下、リーダーシップがうまく機能している、といった地域には人が集まって来るだろう。そうではなく、右に倣えと他の地域のフォーマットをそのまま借りてきたり、これまでのような拡大方向を目指していく地域は、本来自らが理想とすべき姿からどんどん遠ざかっていくに違いない。
都会には、誰のためになっているのかよく分からないような仕事が溢れている。実質的に価値を生み出していない仕事や、右から左へと物や金を動かす指示だけの仕事、不必要な管理のためだけの仕事、といった仕事をする余裕がこれからはなくなっていく。人工知能やテクノロジーの進化が、そうした不要な仕事を奪っていく一方で、創造的な仕事はますます必要になっていく。その創造性はおそらく、可能性のある地域でこそ発揮されるのではないだろうか。
そういう地域では仕事のあり方も変わってくるだろう。お金を稼ぐということよりも、顔の見える仲間と豊かに暮らすために必要なことが仕事になっていく。コップをつくる仕事より、コップを洗う仕事のほうが必要であるし、株の売買よりも、ゴミの清掃の方が直接的な価値につながる。それにも増して、自らの情熱を傾けられるようなこと、創造的に頭を使って楽しい暮らしを生み出すこと、積極的に自らの身体を使って価値を生み出していくことが重要になるだろう。
真の「観光」が始まる
これからしばらくは、外から人に来てもらうためにサービスを用意するという観光業の前提が機能しない状況が続くだろう。だから外の人をもてなす以前に、その地域での暮らしが充実したものであることが最も重要になる。そこでの暮らしが楽しく、近しい人々と仲良く、気分良く暮らしていくことの方が大切だという価値観が共有されることが前提で、そこに観光を乗せていくのが本来のあり方だ。
パンデミック以前から、観光客用として用意されたものに価値を見出せない人々は一定の割合で増えてきていた。多くのツーリストが観光のために演出されたものにリアリティを見い出せず、その地域の人の生活と寄り添っているものを求める声は高まっている。地元の人が日常的に利用し、生活に必要なものを買い、生のコミュニケーションをする例えば市場のような場所を訪れたいと思っているのだ。しかしそうした場所は、この観光現象に乗じて観光客向けに整備されてしまい、地元の人が行かないような飲食店ばかりになる状況が世界中で増えてきたのではないか。
このパンデミックによって、そうした観光のあり方、商売のあり方、生活のあり方を本当の意味で見直さねばならない状況が強制的に訪れたといえるだろう。これからは地域の人たちが喜んで食べようとしないものを、外の人向けに商品開発するということは成り立たなくなっていく。それよりも、その地域の人たちが普通に家で作っていて、日常で食していて、それが地域の文化になっているようなもののほうが、結果として訪れる者にも価値を持つ。
観光業は、農業、工業、サービス業の全部が整った社会でようやく成立する。つまり、全ての根本になっている農業が崩壊すると、本来は観光も成立しないはずなのだ。だから、農業や漁業のような第一次産業がちゃんと息づく地域の方が、生活を立て直す上でチャンスがある。その時に、生産だけでなく流通や消費の方法も、地域ごとに工夫して考えねばならなくなるだろう。大きなシステムを前提にしなければ成り立たないような方法は続かず、小さなローカルの単位のつながりが重要になる。そうやって培われた信頼できるネットワークの中で観光が成立する可能性は大いにある。
もともと「易経」に記されていた観光には、それぞれの地域で放っている光を観に行くという意味がある。その地域での食や自然、ライフスタイルやコミュニケーションが魅力的で充実し、個性的な光を放つほど、本当の意味での観光が始まるだろう。光を観てもらうためには、光を放っていないといけない。そして光を放つためには本当の意味で優秀な人材が必要になってくる。既存のシステムに乗ることが優秀であった時代から、0から1を生み出す、あるいはないものから資源を見い出す人材の方が優秀である時代になる。そういう人材が集まってくる地域はますます光を放つだろう。
国境を取り払って、世界中を同じシステムや同じプレイヤーが覆い尽くすというグローバリズムの価値観は、時代の方向が反転したこれからは成立しなくなっていく。むしろ一定の境界線を設けて、それぞれ異なる価値観や風土、システムを持った国同士が交流するインターナショナリズムがもう一度台頭してくるだろう。あるいは国という単位をより細かくして、様々な物事がある一定の領域の中で完結した地域が交流するような、「インターローカリズム」と呼ぶべきものが台頭してくるだろう。世界の拡大、世界の征服を目指す価値観から、内側への収縮や内面の充実を目指す価値観へと方向性が切り替わることで、多様性や個性を学び合う本当の観光が始まるに違いない。
グローバリズムから「インターローカリズム」へ
2020.07.04
Updated by Chikahiro Hanamura on July 4, 2020, 10:20 am JST
Tweet
2020年1月より世界中に拡散したといわれる新型コロナウイルスと、それに端を発するパンデミック現象は、半年経った今でも世界中を席巻している。この新型コロナウイルスという存在そのものや、その危険性についてはまだよく分かっていない部分も多い。その中でWHO(世界保健機関)によって早々と出されたパンデミック宣言や、世界各地で都市封鎖が行われたことで様々な影響が現れている。
果たしてこの封鎖を行う必要があったのか、そしてそれによって感染拡大防止に効果があったのか。そのことには個人的に疑問を抱いているが、別の論考(「パンデミックをつくったのは誰か」 )で詳しく触れているのでここでは述べるつもりはない。ただ、いずれにせよ起こってしまった都市封鎖によって活動が停滞させられたことによって、文字通り経済の状況が一変していくのは確実である。 それに合わせた形の新しい価値観やシステムは、いかにして考えれば良いのだろうか。生活や産業をどう考えれば良いのだろうか。
「ネガティブの経済学」と掲げたこの一連の論考は、これまでの経済システムへの疑問と次なる方向性を探すことを念頭に、パンデミック以前から書き始めていた。だが、その矢先に今回のような事態が起こったことで、思ったよりも早く考察を進めねばならなくなった。私たちの経済や社会のあり方を修正する必要性は、これまで以上に大きくなってくる。特に世界規模の都市や国の封鎖という形で移動などの活動が制限されたことを受けて、これまでの社会や産業のあり方が急速に変わり始めているからだ。
壊滅的な観光産業
中でも、いち早く影響を受けて壊滅的な事態に陥っているのが観光産業である。羽田や関空のウェブサイトへ行き、発着便を確認すれば毎日何十もの発着便が欠航続きになっている状況が確認できるだろう。この20年ほどの間、世界経済を牽引する大きな力のひとつは観光産業であり、人が移動する現象を前提に社会のシステムや様々な産業が再編成されていく真っ最中だった。
半年前の世界で問題になっていたのは「オーバーツーリズム」である。観光客が訪れすぎて、それをどのように抑制するのか、観光客と住民との間の軋轢をどのように解消するかという難問に、観光業界や行政は心を砕いていた。しかし半年経った今は、全く逆の状況となっている。日本では、2020年には4000万人のインバウンド観光客を受け入れることを目指して施策を進めてきたが、4月の訪日外客数は前年同月比の99.9%減の2900人、5月も1700人と8カ月連続で前年同月を下回っている(日本政府観光局の発表資料)。
こうした観光産業の壊滅的な状況は、もちろん日本国内だけでなく全世界で広がっている。2020年1月から3月の世界の観光客数は前年同期比22%減少し、800億ドルの損失につながった。UNWTO(世界観光機関)は5月初めに、今年の12月まで世界各国で国境封鎖や渡航禁止が続いた場合、観光客数は前年比78%減少するとの予測を示した(日本経済新聞の記事)。そうなると、世界で最大1億2000万人が失業し、1兆2000億ドル(約130兆円)の損失が出る可能性があるという。
アメリカでも、新型コロナウイルス感染拡大の影響ですでに旅行関連の失業者が800万人に達したことを全米旅行産業協会が5月初頭に発表している(やまとごころ.jpのインバウンドコラム)。各航空会社にも、次々と事実上の破綻が始まっている。イギリスのフライビーのような欧州最大の格安航空会社(LCC)が破綻し、タイ国際航空やコロンビアのアビアンカ航空、独ルフトハンザ、KLMオランダ航空、エア・インディアのようなフラッグシップキャリアまでもが、政府が救済に入らねば成り立たないほど深刻な経営状態になっている。ICAO(国際民間航空機関)も、2020年1月から9月の世界の航空旅客数は前年同期比で最大12億人減少すると見積もっている(SankeiBizの記事)。今回の事態が収束したとしても、以前のように気軽に海外旅行ができるようになるまでには、さらに相当な時間がかかることは予想に難くない。
拡がることを躊躇う世界
このような事態になることなど誰が予測できたであろうか。そんな声が上がるのも無理はない。ただ、このパンデミック以前の観光の状況が正常だったとは、全くいえない気分であるのも事実だ。世界中が狂ったように観光という渦の中に巻き込まれていたのだ。それがいつまでも続くとは考えにくい。
長尺で歴史を俯瞰していると、その流れがいつか反転することはある程度予想できたことだ。第一回目の論考(ネガティブの経済学01「ポジティブの罠」)でも述べたが、自然や文明の方向とはあるリズムを持って脈動しており、同じ状態が永遠に続くことなどあり得ないからだ。上に放り投げたボールがいつか止まってそれが落ちてくるように、また吸った空気をいつか吐き出すように、ある地点を境目に急速に方向が転換するのが自然の流れである。
観光現象にだけそれが当てはまらないという理由はないだろう。どのような形でその方向転換が現れるかについての予想は難しいかもしれないが、この十数年の加熱し過ぎた観光現象が持続不可能であることは明白だったのではないだろうか。
歴史の長い期間、人は自らの世界が外へ外へと拡がる方向を目指して進んできた。海を中心に世界の探索へ踏み出した大航海時代のように、その多くは交易や戦争、探索といった目的を持ってはいたが、それだけが人を旅に駆り立てたわけではない。外へと飛び出し未知の風景に触れてみたいという欲求は、人々の心の奥底に眠っているものだ。その欲求に歯止めをかけていたのは、物理的に距離を超えることの困難さだった。だがそれにも増して、安全な地域を離れて危険な荒野へ出ることへの精神的な恐れが大きく立ちはだかっていたのだろう。一度外に出ると生きて戻って来られる保証はなかったからだ。
それが1825年の鉄道の敷設以降、世界中で一気に解決が図られてきた。鉄道網、自動車交通網の整備、旅客機の就航などによって、安全に大量の人間を運搬する交通手段が追いついてきたのだ。そうした技術とシステムの進展によって、多くの人々が恐れることなく外の風景に触れる欲求を解放することができるようになった。
しかし今回のウイルス騒動で、その欲求は急激に反転した。この20世紀に整備された交通網に沿って急激に高まった人の流動は、物理的に疫病が拡散するのに最適な条件を作ったからだ。それ以上に、加速した情報の流動は、ウイルスの「恐怖」が拡散する最適な条件を整えた。観光という行動は、安全性が確保されていることが前提条件である。外は危険であるという恐怖が頭の中に巣食ってしまうと、外へ出て行こうという欲求には急速に歯止めがかかる。
実際の危険性以上に、ウイルス感染の恐怖に駆られた人々は、これまでのように大規模に観光するような状況を望むだろうか。再び元のような形で観光産業が盛んになることはありうるのだろうか。当面の間、そんなことは難しいと誰もが予想しているだろう。ではこれからしばらくの間、観光はどのような方向に進めば良いのだろうか。それを見定めるためには、文明の方向やこれからの世界秩序のあり方を含めた、広い視野から物事を俯瞰する必要がある。
多文化共生の限界
日本では実感が薄いかもしれないが、この100年間に世界は国境を開くことに心を砕いて来た。各国は異文化の人々を受け入れ、どのように共生させていくのかを模索してきた。多文化共生のモデルの一つは、様々な人種を内部に積極的に抱えることで成長したアメリカであり、文化の異なる各国を一つの枠組みでまとめたEU(欧州連合)だった。それは経済が前向きでうまくいっている状況では華々しい成果を挙げたように見えていた。
実際、新しい文化を生み出してきたのは、いつの時代も移民や旅人といった外の文化からやってきた人々であった。複数の文化に身を浸したことのある者はクリエイティビティに富み、新しい視点をもたらし、寛容さに優れているという側面があることも無視できない。
しかし一方で、こうした災禍が起こった時ほど、文化間の衝突や人種間の軋轢の問題が浮き彫りになる。21世紀の問題として並べられた水問題やゴミ問題などと同様に、異文化間の問題もこれまで表面化しなかっただけで、うまく回避できたとは言い難い現状がある。1990年代から移民の失業や貧困の問題、そして社会から疎外されている状況などが欧米を中心に現れ始めていた。そして直近では、英国のBREXITやアメリカのナショナリズム、難民・移民問題を背景としたEUの不和にも見られるように、この10年間に多文化主義政策の矛盾点は次々に浮き彫りになっていった。
日本では、2018年12月改正の出入国管理法の施行によって、労働者および生活者として外国人たちとの共存の方向へ舵を切ったが、早くもこのパンデミックで上陸を拒否せざるをえない状況となっている。日本は一足遅れた分、あまり問題視するには至っていないかもしれないが、移民が増えることで問題が発生することは予想できたことであった。
多文化共生とは、元来、難しいものである。文化とは、人種と同様にアイデンティティと一体であり、異なる文化的背景を持つ者同士はまるで異なる「まなざし」を持っている。私も半年前に、オーバーツーリズムを背景に、外国人観光客と日本人住民が同じ風景に全く違うまなざしを向けていることを描いた映像「Seeing differently」を制作したが、一時的に訪問する者には理解が難しいことはたくさんある。ましてや生活するとなると、うまくやっていくにはとても時間がかかる。だから結局、一つの地域や国の中に同文化の小さなクラスターをつくって閉じることが選択されがちである。もちろん同じ人種であっても、経済的な背景によって選択可能な文化の幅が制限されてしまうこともある。
特に、生活が厳しい状況下では、同文化よりも異文化の方を攻撃しやすくなりがちだ。調子の良い時には寛容に受け入れることができた人種の違いや慣習の違い、考え方の違いは、自分が苦しい立場になってくると煩わしいものになる。苦しみの原因は短絡的に人種や民族、文化の違いへと転嫁されて、極端なプロパガンダのもとデモや暴動へと育てられてしまう。
このパンデミック後の世界では、そうした多文化共生のあり方をもう一度見直さねばならなくなるだろう。今回のような事態が起こったことで、これまでのように世界はグローバルなレベルで人々が流動することがしばらくは難しくなる。そんな中では、自国の文化、地域の文化、言語や民族は、これまで以上にコミュニティを結ぶ上で重要になってくるだろう。
だがそれは、以前のナショナリズムや民族主義のような形とは異なるはずだ。これまでのナショナリズムや自国への愛国心というのは、安易に軍国主義や全体主義に結び付けられて来た。しかし観光という現象によって、自国のアイデンティティを大事にすることが、他国を排除することを意味しないと世界は理解し始めている。それぞれの国に、それぞれの良さがあり、それぞれの人々の暮らしがあり、人権があることを、今では誰もが無視できなくなっている。
そこを出発点にしたときに、自分の住んでいる地域を充実させるというあるべき方向へと再び向かって行く可能性が高い。それは、来る人は排除するということではなく、他国と競争をするということでもない。しっかりと足元を見ながら自らの国の生活を充実させていくことである。その上で、外からやってきた人を「歓待する」という態度が初めて意味を持つのではないだろうか。
足元に戻ってくる
2016年に第45代アメリカ合衆国の大統領に就任したドナルド・トランプ大統領は、「自国ファースト」を唱え様々な政策を行ってきた。このトランプ政権以降の米国は、パンデミック前から、国際的な枠組みから外れていく政策へ踏み切っていた。気候変動の枠組みから外れ、米中貿易戦争を起こし、WHOへの拠出金を停止するなど、グローバルの秩序から外れようとするトランプ大統領の動き。これは一見、常軌を逸した奇異な行動のように見える。
しかし実は、ある補助線を持って眺めると、今回のパンデミック後の世界を考える上で示唆に富んだものに思えてくる。一見単なるナショナリズムの高まりのように見えるが、実はグローバルという枠組みが極まって生じた大きな矛盾へのアンチテーゼではないか。それは、戦後の世界秩序を成してきた枠組みを一度リセットして、足元である国の内部を充実させて行く方向へと舵を切ることの先陣を切っているようにも見えるのである。その動きが、このパンデミックによって国境が閉ざされた世界と、今後奇妙に合致する可能性がある。
ちょうど100年前にスペイン風邪が猛威を振るった時は、世界は反対方向を向いていた。第一次世界大戦の終了とともに、国民国家を単位にインターナショナルな連合へ向かう転換点をこの世界は迎えていた。それからの100年間、人々の活動領域はさらに外へ外へとオープンに拡大していく方向を志向した。空の旅が人の移動を解放しただけではない。電子通信技術は情報の移動を解放し、国際的な金融システムが資本の移動も解放した。
第二次世界大戦後は冷戦構造の中、資本主義の自由経済と共産主義の計画経済の選択肢があったが、1989年のソビエト連邦の崩壊以降、世界の金融システムは一つとなった。オープンで自由であることが至上となり、いつしか国家の縛りを解いて国境という境界線を融かし流動性を高める方向が目指された。それがグローバリゼーションであるが、それはしっかりと国境を持った国家同士が相互関係を持つインターナショナリズムとは概念が異なる。グローバリズムとは、国境そのものを取り払って金や物や人の移動を加速させることで、より強いものが世界規模で莫大な利益を得る動きである。そこには国家という共同体のことなどは微塵も念頭にはない。
金融やグローバル企業は、国家の枠組みを超えて世界中を暴れまわり、世界全体をマーケットにビジネスが展開された。そこでの最良のビジネスモデルは、一番安い労働力を確保できる国で製造し、一番高く買ってくれる国で販売することになる。その理念の下に世界中にサプライチェーンを張り巡らせて企業は大きくなった。それはアメリカの大企業が先陣を切って進めてきた戦略だった。
その結果、安価な労働力を背景にこの30年ほど世界経済を牽引してきた中国で大量の雇用者が生まれ、一方でアメリカでは大量の失業者が生まれる状況となった。グローバリズムの帰着として、国家間の格差にも増して国内の格差の方が深刻な状況になるのは当然の結果である。金や人の流動化を加速させることは、金も人も地域や国家の外へ自由に出て行くことを許すのだから。そして、そんなグローバリズムに政治が積極的に加担してきたのだ。
しかし、今回のパンデミックであらゆる物事の方向性が反転し始めた。観光どころか、あらゆる産業が外への拡大から内への収縮の方向へと向かうだろう。これまでのグローバルなビジネスモデルが制限される方向に向かうことで、サプライチェーンは国内に呼び戻され、なるべく近くで循環するようになるだろう。食糧生産も自国で展開され、消費も自国向けになっていくと考えられる。
それは世界レベルで見ると国家という内側へと向かい、国家レベルで見ると地域という内側へ向かって行くことでもある。つまり日本で消費する食料を中国から輸入するのではなく、日本で生産するのと同じように、関西で消費する農作物を北海道から輸送するのではなく、極力近郊でつくるということになる。そうすると流通が止まった際のリスクも低く、フードマイレージも少なくて済む。人の移動もモノの移動も、エネルギーの消費を伴うため、できるだけ短い移動距離で、可能であれば地域の中で完結するような方向が模索されるはずである。
つまり時代が進む方向として、外へ出稼ぎに行くのではなく、国や地域の中で資源や資本を分配し、雇用を生み出し、経済を循環させることで、内側を充実させることへ向かう可能性が高い。
地域ごとに答えは違う
その中で国家や地域が生き残っていくには、どういう戦略が必要になるのだろうか。これまでのような世界規模でマーケットの取り合いになる状況は、どこかが勝てば、どこかが負けるという巨大なゼロサムゲームの構図があった。今でも世界中を席巻する情報インフラでは、GAFAのようなプラットフォームが一人勝ちのような様相を示している。インフラのように同じレギュレーションを世界中で展開することに意味がある場合には、こうした一人勝ちのビジネスが出てくるかもしれない。
しかし今回のパンデミック以降、全ての物事が大きく反対方向へと動き始めているとすれば、これまでの必勝の方程式はあてにならない。これまで有利だと思われていた場所が不利になり、不利だと思っていたところが有利になる。豊かだと思っていたところが貧しく、貧しいと思っていたところが豊かになっていく。大きいところほど不利になり、小さいところほど有利になるかもしれない。強いと思われていたところは実は脆弱で、脆弱だと思われていたところが、それほど影響を受けないという状況が生まれてくるかもしれない。
そのような状況では、戦国時代や江戸時代にように、各地域でそれぞれ自らの旗を立てて、どのような戦略で行くのかを工夫しながらリーダーシップを取っていく必要があるだろう。この10年ほどの観光化現象を経た世界は、地域の重要さや個性の重要さを理解し始めている。そうした地域の資源や強みをこれまで以上に生かしていかねばならない状況になるはずである。その処方箋は地域によってまるで異なってくる。
それはマクドナルドやスターバックスのように、どこに行っても一定のクオリティが担保されているサービスが世界を制するという考え方とは真逆になるはずである。グローバルで通用するようなフォーマットを当てはめるこれまでの戦略ではなく、ローカルごとの個別の解法が必要になる。あるいは普遍的なフォーマットを地域に合わせてカスタマイズしていくことが重要になってくるだろう。だから国の中では中央がやることは最低限にして、地域の裁量が増えて行くはずだ。
なぜならば地域ごとに問題も異なるし、資源も異なるからである。そうなると当然、その解決方法も異なってくる。海辺と山間部では魅力が異なり、より海らしさや、山らしさに応じた戦略を立てねばならないだろう。全ての地域が同じような様相を示し、海に行っても、山に行っても大差がないならば、どちらかを選択する勝ち負けになるかもしれない。しかし、それぞれ比べようがない良さを生み出せれば違いは補完し合う関係になる。海に行く人は、山にも行く可能性が高く、どちらかを選択するというゼロサムのビジネスではないからである。違う魅力があるからこそ価値が生まれるような産業領域では、競うことが意味をなさなくなる。
だからこそ多様性が大事で、同時にその場所での必然性が大事になってくる。その地域の必然性に応じてそれぞれの強みや弱みを理解した上で、頭をひねって知恵を生み出すことが必要になる。そこでは何も後ろ盾がないところから本当の意味での価値を創造していくことができる人材が求められるだろう。そして、その地域が創造的なまなざしを持った人々をどれほど育てることができるか、そして受け入れることができるのかが命運を分けるかもしれない。
「ない」ことが強みになる
新しい価値観とは、文字通りこれまでの価値観の延長からは生まれない。これまで常識とされてきた、便利と不便、快適と不快、強みと弱みに対して、正反対の角度からまなざしを向けることが価値観を改めることである。
例えば、大都会は便利な場所であることが強みだ。あらゆる物が集まり、あらゆるサービスがあり、何でも手に入って、そこに行けばあらゆる欲望が叶う場所であることが魅力だった。しかし、それがとても偏っていて脆弱な構造を持っていることが今回のパンデミックで浮き彫りになった。密集して住んでいることによる感染のリスクだけではない。都市機能が一度停止してしまうと、何も手に入らなくなる。自らの手で作っているものは何もなく、生活に必要なものはほぼ全て、誰かに依存して生きていたことに気づいただろう。
一方で、地方はサービスが都会ほど充実していないため、ある程度のところまでは生活に必要なものは自分で賄っている部分もある。それが強みであったことに気づけた地域は、生き残っていけるかもしれない。都会と同じような発想で、都会と同じような場所を目指しているのならば、都会の価値観の崩壊とともに同じように崩れていくだろう。
健康の概念も変化して行く。病気という概念も、医療という仕組みもおそらくこれから変わっていくだろう。病気になった時に病院が必要であるという発想から、そもそもできるだけ病気にならないようにする、あるいは病気になってもある程度は自力で治せるようにする、というような発想が必要になるはずだ。
今回の新型コロナ騒動は、人間の免疫力をいかに高めるかが問われた。人間の健康は環境に依存しており、人間を元気にする環境かどうかは大事な価値である。そういう環境を持っているところが有利である。それは何かをプラスするだけではなく、むしろ何かが「ない」という状況がメリットになることもある。ストレスの要因やストレスのかかる環境がない、有害な電波が飛んでいない、食料に添加物がないといったことは、実は大きな価値に変わるだろう。これからは便利であることは必ずしも価値にはつながらず、逆に不便であることが可能性になるかもしれない。そうした想像力を持てると、不利な状況は有利な条件へと変わり、これまでの価値観が反転する。
我が街、我が地域には何もないと思っている場所ほど、発想の転換によって大きな可能性を持つだろう。豊かになるために大きなことをする必要があるという常識を一度捨てて、本当に必要なものと不要なものを見つめてみたり、豊かさとは一体どういうものなのだろうかと考え直す必要が出てくるだろう。
そうすると、街を作るために「整備」することよりも、街を清掃したり、余計なものを省いて「整理」することの方が、意味を持つかもしれない。モノが少ないところの方が整理もやりやすくメンテナンスもしやすい。クリエイティブに減らして行くことは、方向性が反転してしまったこれからの世界で重要な課題になっていくだろう。
むやみに大きく拡げて、たくさんの抱えきれないものを持つよりも、少ないものにも関わらず満足して暮らして行ける価値観が重要になる。それは、これまでは貧しいと思われていたようなことかもしれないが、見方を反転させれば、実は最も効率が良く理にかなっていることになる可能性は高い。
仕事と生活の変容
都市よりも地域の方がに有利になりはじめている兆しはすでに現れ始めている。今回のパンデミックでも浮き彫りになったが、人の密集する都会の慌てぶりに対して、人の少ない地域の方が落ち着いた対応が目に付いた。外からの物の移動が制限され始めると、食料をはじめとして生活に必要なものが近くにある方が有利になっていく。
おそらくこれからは、これまで都心や都会、メガシティーやメトロポリタンと呼ばれていた場所の機能がどんどん衰えていく状況になる。20世紀は地方から都市へ人が向かうことで、都市は発展していったが、21世紀のこのパンデミック以降は都市から地方に向かって人が移動していく状況が進んでいくことが予想できる。その中で、人が定着する地域と逃げ出す地域との格差がこれまで以上に顕著になってくる。外から人を呼び込むことに抵抗がある状況がしばらく続く中では、観光よりも居住あるいは「疎開」とでもいえる形でそれが現れるかもしれない。
今回のロックダウンでテレワークが普及したことは、働くことのあり方を見つめ直す大きなきっかけになった。東京の中にいても会社に出勤しなくて済むような状況になると、東京にいる理由さえなくなる可能性がある。地方にいても東京の企業にオンラインで出社できれば、働き方や住み方の選択肢は格段に広がるだろう。情報技術やテクノロジーが世界を覆ってしまうであろう21世紀後半では、機能的な意味での条件は場所によらずに揃ってくる。どこにいても同じ情報を共有し、同じように働けるのであれば、むしろ「どこに居るのか」がその人の人生にとって重要になる。仕事以外の時間を魅力的に過ごせるような地域が選択されるようになるはずだ。その土地の風土、人のあり方、暮らしの個性が判断の基準になる。
自然環境が豊かであるということを基本にしながらも、人々の気風が自由に満ちて活力がある、その土地に適切なディレクションの下、リーダーシップがうまく機能している、といった地域には人が集まって来るだろう。そうではなく、右に倣えと他の地域のフォーマットをそのまま借りてきたり、これまでのような拡大方向を目指していく地域は、本来自らが理想とすべき姿からどんどん遠ざかっていくに違いない。
都会には、誰のためになっているのかよく分からないような仕事が溢れている。実質的に価値を生み出していない仕事や、右から左へと物や金を動かす指示だけの仕事、不必要な管理のためだけの仕事、といった仕事をする余裕がこれからはなくなっていく。人工知能やテクノロジーの進化が、そうした不要な仕事を奪っていく一方で、創造的な仕事はますます必要になっていく。その創造性はおそらく、可能性のある地域でこそ発揮されるのではないだろうか。
そういう地域では仕事のあり方も変わってくるだろう。お金を稼ぐということよりも、顔の見える仲間と豊かに暮らすために必要なことが仕事になっていく。コップをつくる仕事より、コップを洗う仕事のほうが必要であるし、株の売買よりも、ゴミの清掃の方が直接的な価値につながる。それにも増して、自らの情熱を傾けられるようなこと、創造的に頭を使って楽しい暮らしを生み出すこと、積極的に自らの身体を使って価値を生み出していくことが重要になるだろう。
真の「観光」が始まる
これからしばらくは、外から人に来てもらうためにサービスを用意するという観光業の前提が機能しない状況が続くだろう。だから外の人をもてなす以前に、その地域での暮らしが充実したものであることが最も重要になる。そこでの暮らしが楽しく、近しい人々と仲良く、気分良く暮らしていくことの方が大切だという価値観が共有されることが前提で、そこに観光を乗せていくのが本来のあり方だ。
パンデミック以前から、観光客用として用意されたものに価値を見出せない人々は一定の割合で増えてきていた。多くのツーリストが観光のために演出されたものにリアリティを見い出せず、その地域の人の生活と寄り添っているものを求める声は高まっている。地元の人が日常的に利用し、生活に必要なものを買い、生のコミュニケーションをする例えば市場のような場所を訪れたいと思っているのだ。しかしそうした場所は、この観光現象に乗じて観光客向けに整備されてしまい、地元の人が行かないような飲食店ばかりになる状況が世界中で増えてきたのではないか。
このパンデミックによって、そうした観光のあり方、商売のあり方、生活のあり方を本当の意味で見直さねばならない状況が強制的に訪れたといえるだろう。これからは地域の人たちが喜んで食べようとしないものを、外の人向けに商品開発するということは成り立たなくなっていく。それよりも、その地域の人たちが普通に家で作っていて、日常で食していて、それが地域の文化になっているようなもののほうが、結果として訪れる者にも価値を持つ。
観光業は、農業、工業、サービス業の全部が整った社会でようやく成立する。つまり、全ての根本になっている農業が崩壊すると、本来は観光も成立しないはずなのだ。だから、農業や漁業のような第一次産業がちゃんと息づく地域の方が、生活を立て直す上でチャンスがある。その時に、生産だけでなく流通や消費の方法も、地域ごとに工夫して考えねばならなくなるだろう。大きなシステムを前提にしなければ成り立たないような方法は続かず、小さなローカルの単位のつながりが重要になる。そうやって培われた信頼できるネットワークの中で観光が成立する可能性は大いにある。
もともと「易経」に記されていた観光には、それぞれの地域で放っている光を観に行くという意味がある。その地域での食や自然、ライフスタイルやコミュニケーションが魅力的で充実し、個性的な光を放つほど、本当の意味での観光が始まるだろう。光を観てもらうためには、光を放っていないといけない。そして光を放つためには本当の意味で優秀な人材が必要になってくる。既存のシステムに乗ることが優秀であった時代から、0から1を生み出す、あるいはないものから資源を見い出す人材の方が優秀である時代になる。そういう人材が集まってくる地域はますます光を放つだろう。
国境を取り払って、世界中を同じシステムや同じプレイヤーが覆い尽くすというグローバリズムの価値観は、時代の方向が反転したこれからは成立しなくなっていく。むしろ一定の境界線を設けて、それぞれ異なる価値観や風土、システムを持った国同士が交流するインターナショナリズムがもう一度台頭してくるだろう。あるいは国という単位をより細かくして、様々な物事がある一定の領域の中で完結した地域が交流するような、「インターローカリズム」と呼ぶべきものが台頭してくるだろう。世界の拡大、世界の征服を目指す価値観から、内側への収縮や内面の充実を目指す価値観へと方向性が切り替わることで、多様性や個性を学び合う本当の観光が始まるに違いない。