思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

川井郁子のバイオリンミューズで完結したヘーゲル哲学

2015-05-30 11:19:09 | Weblog
バッハのシャコンヌは神の深い思考と、思考によって生じた崇高な理念です。

ヘーゲル哲学における絶対精神が絶対理念となった段階です。






ヴィターリのシャコンヌは人間精神の中で、神の理念が発現し、弁証法的に展開していく姿です。

これはヘーゲル哲学における絶対理念が客観的精神となり自己を実現する段階です。





川井郁子のバイオリンミューズは人間精神の中で発現した神の理念が、

最後の段階まで発展し、完全なるものとなった精神が神の世界に帰っていく姿です。

主客が合一した完全なる自由と歓喜の世界です。

意識の内側に神の世界と空間が広がっていくような体験です。


これはヘーゲル哲学の発展の最終段階に相当します。

蛹が蝶になって羽ばたくように人間が神に成長して羽ばたく姿です。

ヘーゲル哲学は川井郁子のバイオリンミューズで完結したと言えます。

ヘーゲルの言う絶対知とは、完全なる自由の中で

自分自身が神であり世界であることを認識することではないかと思います。




ちなみにヘーゲルの絶対精神は精神の進化に関わる神で、

物質の進化には直接関与しないのではと思います。
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バッハ ヴィターリ  川井郁子  ヘーゲル論理学

2015-05-29 11:33:27 | Weblog
>論理学を構成する三段階過程は有-本質-概念ですが、この概念の段階において絶対精神(神様の思考)は理念つまり絶対理念となります。ところで絶対精神は、論理学の段階を通過して、絶対理念となって外部に現れたのち、自然界となり(自然哲学)、さらに人間を通じて主観的精神-客観的精神-絶対精神となります。そして一番最後には、最初に出発した自己自身、すなわち絶対理念に戻ります。


>このように自己を否定して自らの外に現れ自然界となった理念は、その否定をさらに否定して本来の自己に戻るといいます。人間を通じて自己を回復した理念が精神です。精神は「主観的精神」、「客観的精神」、「絶対精神」の三段階を通過しますが、ここに「絶対精神」が精神の発展の最後の段階なのです。そこにおいて「絶対精神」は「芸術」、「宗教」、「哲学」の三段階を通過してついに本来の自己(絶対理念)を復帰するのです。


 

この中の3つの段階が音楽で表現されています。大発見です。



絶対精神が絶対理念となった姿








絶対理念が客観的精神となり自己を実現する姿











「絶対精神」が人間精神を通して本来の自己(絶対理念)を復帰する姿









バッハがシャコンヌで表現した絶対理念が、ヴィターリによって客観的精神として表現され

川井郁子 がこの2曲をアレンジして、絶対精神が本来の自己(絶対理念)を復帰する姿を表現したのです。

ヘーゲル思想の最終段階を日本人女性が表現するとはすごいですね。

ヘーゲル哲学とは、自己意識を持たなかった神が人間精神の発達によって

自己意識を獲得していく過程を表現しているのかもしれません。


最終的に人間は自己意識を持った神に成長し、絶対精神へと帰っていく存在なのでしょう。
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ヘーゲル論理学

2015-05-29 11:23:25 | Weblog
 
 ヘーゲル論理学の特徴は、「思考の法則と形式」に関する理論ではなく「思考の発展の法則と形式」に関する理論であるという点にあります。しかもその思考は、人間の思考ではなく、神様の思考です。したがってヘーゲル論理学は、「神様の思考がいかなる法則や形式によって発展したのか」を研究する学問なのです。
 。



論理の世界すなわち理念の世界は、真に自己を実現するために、かえって自己を否定して自然の領域に移行します。ヘーゲルはこれを「理念自身の他なるものへ移りゆく」といい、自然は「理念の自己疎外、自己否定」(Selbstentfremdung, Selbstverneinung derldee)、または他在の形式(die Form des Andersseins)における理念であるといいます。自然界においては、「力学」、「物理学」、「生物学」の三段階を通過します。
 このように自己を否定して自らの外に現れ自然界となった理念は、その否定をさらに否定して本来の自己に戻るといいます。人間を通じて自己を回復した理念が精神です。精神は「主観的精神」、「客観的精神」、「絶対精神」の三段階を通過しますが、ここに「絶対精神」が精神の発展の最後の段階なのです。そこにおいて「絶対精神」は「芸術」、「宗教」、「哲学」の三段階を通過してついに本来の自己(絶対理念)を復帰するのです。


論理-自然-精神
 すでに述べられているように、ヘーゲルによれば、自然とは他在の形式における理念、自己疎外した理念です。したがって論理学を「正」とすれば、自然哲学は「反」となります。次に、理念は人間を通じて再び意識と自由を回復しますが、それがすなわち精神です。したがって、精神哲学は「合」となります。
 自然界も、正-反-合の弁証法的発展をしていますが、それが力学、物理学、生物学の三段階です。しかし、それは自然界そのものが発展する過程ではなくて、自然界の背後にある理念が現れていく過程なのです。まず力の概念が、次に物理的現象の概念が、その次に生物の概念が現れるというのです。
 そしてついに人間が現れ、人間を通じて精神が発展します。それがすなわち主観的精神、客観的精神、絶対精神の三段階の発展です。主観的精神とは、人間個人の精神のことですが、客観的精神とは個体を越えて社会化された精神、対象化された精神をいいます。
 客観的精神には、法、道徳、倫理の三段階があります。法とは、国家における憲法のように整備されたものではなく、集団としての人間関係における初歩的な形式をいいます。次に、人間は他人の権利を尊重して、道徳的生活をするようになります。しかしそこには、まだ多分に主観的な面(個人的な面)があります。そこで、すべての人が共通に守るべき規範として倫理が現れます。
 倫理の第一段階は、家庭です。家庭では愛によって家族が互いに結ばれており、自由が生かされています。第二の段階は、市民社会です。ところが市民社会に至ると、個人の利害が互いに対立し、自由は拘束されるようになります。そこで第三の段階として、家庭と市民社会を総合する国家が現れるようになるのです。ヘーゲルは、国家を通じて理念が完全に自己を実現すると考えました。理念の実現した国家が理性国家です。そこでは、人間の自由が完全に実現されます。
 最後に現れるのが絶対精神ですが、絶対精神は芸術、宗教、哲学の三段階を通じて自らを展開します。そして哲学に至って理念は完全に自己を回復します。このようにして理念は、弁証法的運動を通じて原点に帰るのです。すなわち、自然、人間、国家、芸術、宗教、哲学などの段階を通過して、ついに最初の完全なる絶対理念(神様)に帰るのです。この帰還がなされることによって発展の全過程が終わります。

 
 論理学を構成する三段階過程は有-本質-概念ですが、この概念の段階において絶対精神(神様の思考)は理念つまり絶対理念となります。ところで絶対精神は、論理学の段階を通過して、絶対理念となって外部に現れたのち、自然界となり(自然哲学)、さらに人間を通じて主観的精神-客観的精神-絶対精神となります。そして一番最後には、最初に出発した自己自身、すなわち絶対理念に戻ります。
 
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生の自然と意識界の自然

2015-05-27 17:53:28 | Weblog


キタロウの世界は意識界の自然を表現したものである。

生の自然は原子や分子で構成されているが、

意識界の自然は波動エネルギーで構成されている。

意識界の自然は理想的であるのに比べ生の自然は雑である。

意識界の自然はイデア的な存在であり、生の自然に働きかけ進化を促してきた。

生の自然は意識界の自然が不完全な形で顕在化したものと言える。

従ってキタロウを聞けば自然の本質が分かる。

それは愛であり調和であり共存共栄の世界である。

キタロウの世界を懐かしく感じるのは、そこが意識のふるさとだからだろう。


Kitaro - Oasis
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炎の少女 オリジナル 重音テト

2015-05-26 23:01:19 | Weblog
炎の少女 オリジナル 重音テト
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究極的実在と合一する中元すず香

2015-05-23 13:45:28 | Weblog
アリストテレスは、全自然は、それを超越する「不動の第一動者」すなわち自らは動くことなく宇宙万物を動かす第一原理によって動かされている、と考えました。宇宙万物は、「不動の第一動者」を究極目的として運動する、というわけです。



プロティノスの形而上学における究極的実在・第一原理は、一者と呼ばれています。それは、すべてのものの根源であり、自らのうちから流れ出て宇宙万物となるとともに、自らのうちへと還帰します。そこに、「存在の諸段階」が成立することになります。それは、次のようなものです。

 ①最深層には、一者が存在します。②次の段階は、ヌースあるいはイデア界です。この二つが、超時間・空間的な無限絶対の実在界です。③第三の段階は、宇宙霊魂です。④第四の段階は、自然です。⑤そして、最表層が、質料です。この③④⑤が、時間・空間的な有限相対の実在界です。一者は、宇宙万有の彼岸にある究極的実在であるとともに、他のすべての段階に顕現しています。したがって、存在の五つの段階すべてにわたって、一者であるわけです。

 人間の霊魂は、宇宙霊魂に属していますが、自らを純化し、高めることによって、ヌースに達し、さらに一者まで帰ってゆき、それと合一することができる、とされています。人間は、自覚的に自己を高めることによって有限相対の実在界から無限絶対の実在界へと超越し、ついには究極的実在である一者にまでのぼることのできる存在とされています。
 

 ルネッサンスのヒューマニズムは、このようなかたちで形而上学との内面的連関性を有していました。すなわち、そのヒューマニズムは、究極的実在と人間の合一という事実を成立基盤とするものであった、ということができます。

前回の記事より抜粋


どうして中学三年の中元すず香が、最初の部分で創造主のような威厳を感じさせることができたのか。

その理由は彼女が不動の第一動者である究極的実在と合一したからではないでしょうか。

イントロ部の曲は、自らのうちから流れ出て宇宙万物となるとともに、自らのうちへと還帰する根源的エネルギーを表現しています。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm24772911

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近代自然科学に基礎づけられた啓蒙主義的・合理主義的な知

2015-05-23 13:20:55 | Weblog
http://www.geocities.jp/neieiko/ron/ron2.html


近代自然科学に基礎づけられた啓蒙主義的・合理主義的な知

 啓蒙主義的・合理主義的な知の基礎を形成したのは、科学革命によって確立された近代自然科学でした。科学革命は、中世の神学・形而上学からの自然科学の解放・独立を達成しました。

 中世の形而上学は、古代から継承したアリストテレスの哲学とキリスト教を統合した体系を構築しました。アリストテレスは、全自然は、それを超越する「不動の第一動者」すなわち自らは動くことなく宇宙万物を動かす第一原理によって動かされている、と考えました。宇宙万物は、「不動の第一動者」を究極目的として運動する、というわけです。

 この宇宙観を継承した中世のスコラ哲学者トマス・アクィナスは、無から宇宙を創造したキリスト教の神が「不動の第一動者」である、としました。中世の自然観の特徴は、生成変化する自然現象を、宇宙の外にある「不動の第一動者」というような究極的実在を第一原理として統一的・総合的に説明づけようとする、という特徴をもっています。宇宙万物の存在の第一原因、宇宙万物の真理の原因を解明する学が形而上学ですから、中世の自然観は、形而上学との内面的な連関性をもっていたわけです。

 それに対して、近代自然科学は、自然現象を宇宙の外にある実在・第一原因から説明するのではなく、あくまでも自然現象をそれ自身の中で解明する、という立場に立っています。すなわち、自然科学は、人間の感覚によってとらえることのできる存在、具体的には物質的存在だけを認識対象とする、という方法的態度を採っています。科学的な知は、感覚的経験の事実を数学的に法則化することによって成立します。それは、真理の根拠を経験的実証性に置いています。

 したがって、自然科学の経験主義的・実証主義的な立場によれば、人間の感覚によってとらえることのできない不動の第一動者とか神といったものは、不確実な存在として認識対象の範囲外に置かれることになります。このような立場を徹底していけば、結局、感覚的に知覚される対象が唯一の実在であり、超感覚的対象などというものは非実在的なものとされることになります。

 こうして、近代自然科学は、形而上学との内面的な連関性を失いました。自然は、その根底の形而上学的実在によって動かされるものとしてではなく、それに内在する法則に従って運動してゆくものとしてとらえられることになりました。近代自然科学は、このように形而上学を排斥することで、自己を確立したのです。

 神学・形而上学的秩序から解放された近代的人間の自由と尊厳の確立

 啓蒙主義的・合理主義的な知は、このような方法的態度に立つ科学的な知に基礎づけられています。それは、時間・空間的な有限相対の実在界を超時間・空間的な無限絶対の実在界に由来するものとしてではなく、それ自身として理解しようとします。それによって、有限相対の実在界は、神学・形而上学的秩序から解放されることになりました。

 それは、有限相対的存在としての人間が、自由な存在としての自覚を獲得したことでもありました。中世においては、有限相対的存在としての人間、すなわち神の被造物としての人間の意志の自由は、神への背反によって悪をうみだす罪の原因とされました。すなわち、有限相対的人間は超越的絶対神に服従する存在として、その自由を奪われていた、といえます。近代的人間は、その超越的絶対神の存在を排斥・否定することによって、自己の自由と尊厳を確立しました。そこに、西洋近代が形成したヒューマニズムの偉大さがあります。

 近代においては、有限相対の実在界に於ける自然と社会も、超越的絶対神の支配から解放されました。中世においては、自然と社会は超越的絶対神に由来するものとされていました。自然は、全知全能の神の創造したものとして、そこには神の摂理が働いており、社会は神の摂理の表現であり、封建社会の支配-従属関係は、人間がそれに従属すべきものとされました。

 超越的絶対神への服従から解放され自己の自由を自覚した近代的人間は、自然と社会を、超越的絶対神に由来するものとしてでなく、それ自身において理解するという方法的立場に立ちました。こうして、人間は、その自由を最大限行使して、自然生態環境に能動的に働きかけ、それを改編して社会文化環境を形成することによって、生活の利便性を飛躍的に向上させてきました。

 形而上学を排斥した近代自然科学の本質的限界

 そのような人間の行為を制御してきた啓蒙主義的・合理主義的な知には、本質的な限界がありました。

 たとえ人間が、無限絶対的な超越神の存在を否定したとしても、有限相対的存在としての人間の根源に無限絶対の実在界が事実として存在していることに変わりはありません。人間を服従させる超越神は、人間が仮構したものとして、その存在は否定されるべきである(フォイエルバッハ、ニーチェのキリスト教批判は、そのことを哲学的課題として追求したものといえます)としても、究極的実在は厳然として存在しており、有限相対的人間の自由は、究極的にそこに基礎づけられています。

 ところが、近代的人間は、無限絶対的な究極的実在をぬきにして、自己の自由をそれ自身として確立しようとしました。そのため、有限相対的人間の自由は、究極的成立基盤から遊離した放恣な自由になります。こうして、有限相対的人間は、根拠なき放恣な自由を行使して、自然生態環境・社会文化環境を一方的に支配し、従属させようとします。すなわち、人間は、自己の生活の快適さ・幸福という目的を実現するための有用な手段として自然生態環境を一方的に改編し、こうして形成された社会文化環境を一方的に利用します。

 その結果、有限相対的実在界に於ける自然生態環境と人間と社会文化環境という三者のあいだに、深刻な対立・相剋が生じることになります(『創造的生命の形而上学』第2章参照)。その根拠は、啓蒙主義的・合理主義的な知が、形而上学を排斥し、有限相対的実在界を自己完結的・自己閉鎖的なものとみなしたことにあります。

 無限絶対的実在界は、有限相対的人間の自由の究極的成立基盤であると同時に、有限相対的実在界に於ける自然生態環境と人間と社会文化環境という三者の究極的統一基盤です。したがって、有限相対的人間の自由が、その究極的成立基盤から遊離するとき、自然生態環境・人間・社会文化環境の三者が、それらの究極的統一基盤から遊離することになります。こうして、無限絶対の実在界から遊離して自己閉鎖的となった有限相対の実在界に於いて、自然生態環境と人間と社会文化環境の三者のあいだに対立・相剋が生じることになったわけです。近代科学技術文明は、無基盤の文明といえます。

 これが、近代科学技術文明が自然生態環境を破壊したことによって生じた人類の生態学的生存の危機といわれる事態の実相であり、総体的存立構造です。その原因は、啓蒙主義的・合理主義的な知の基礎を形成した近代自然科学が、時間・空間的な有限相対の実在界しか認識対象とせず、超時間・空間的な無限絶対の実在界を認識対象とする形而上学を排斥したことにあります。そのことについて下村寅太郎は次のように述べています。

形而上学との結びつきそのものがただちに誤りであり悪しきことであることは言い得ない。むしろ近代の科学が形而上学と結びつきをもたないことが、科学が単に技術的なものとなり、いわゆる近代科学の非精神性の由来する所以として、近代の学問の頽廃の一因として、論議されるのである。形而上学と結びついていることはただちに独断的原理を前提し、それからの単なる演繹ということではなく、自然学と形而上学(超自然学)との間に内面的有機的統一的関連性があることである。……形而上学から独立であることは科学の純粋性を保持するとしてもその純粋性が同時に抽象性となり、倫理や宗教や一般に価値との内的な連がりのない単に中性的なものになる。(著作集第2巻P178~179)

 近代自然科学の本質的限界をこのようなものとしてとらえたうえで、下村は、「近代のPhysikに対するMetaphysikの新建設の問題は、現代においても未解決である。むしろ今日においていっそう切実な問題である。未だ解決せられざる現代の『問題』であるというべきである。」(前掲書P179)と述べています。私の著書『創造的生命の形而上学――近代科学技術文明の超克――』は、「形而上学の新建設」という未だ解決せられざる現代の切実な問題に全面的に取り組み、有限相対の実在界と無限絶対の実在界の総体の真実相を解明した統一的・総合的真理認識としての形而上学を体系的に展開したものです。

 現代自然科学の宇宙像に対応する新しい形而上学の形成

 ニュートン力学として体系化された近代自然科学は、アリストテレスの自然学および、それに対応する形而上学を斥けることで形成されました。ところが、相対性理論・量子力学といった現代自然科学は、啓蒙主義的・合理主義的な知の基礎を形成したニュートン力学を根本的に転換させた、新しい自然認識を形成しました。一般相対性理論と量子力学を融合させた量子宇宙論は、ニュートン力学の宇宙像と根本的に異なる宇宙像を確立しました。それは、時空すなわち四次元時空連続体としての宇宙です。

 この新しい宇宙像が形成されたことによって、科学がふたたび形而上学との内面的な連関性をとりもどす可能性がうまれました。古代・中世の宇宙像およびそれに対応する形而上学、形而上学を排斥した近代自然科学の宇宙像に対して、現代自然科学の宇宙像に対応する新しい形而上学を形成することが、今日の切実な思想課題であるということができます。

 この課題の解決は、有限相対の実在界の存在構造を物理学の立場から解明した現代自然科学の四次元時空連続体の宇宙像を基礎として、自然生態環境・人間・社会文化環境の存在構造を解明した知を、超時空的な無限絶対の実在界を解明した知と統合することによって果たされます。

 それは、有限相対的実在界の自己完結性・自己閉鎖性を解体し、自然生態環境・人間・社会文化環境を、それらの究極的統一基盤に結びつけ、三者の対立・相剋を根本的に克服する可能根拠を明らかにすることです。それは、また、有限相対的人間が、その自由を、究極的成立基盤に結びつけ、自然生態環境・社会文化環境と自己の調和を実現することを明らかにすることでもあります。

 今日において、科学と形而上学が内面的な関連性を回復することは、「全学問が体系性をもつことである。全学問を一貫する論理があり、それによって組織的体系をもつことである。」(下村・前掲書)として、究極的実在を第一原理として全実在界の具体的な存在構造を解明した統一的・総合的な知を形成することにほかなりません。近代科学技術文明を支えた啓蒙主義的・合理主義的な知の根本的転換は、このようなかたちで遂行されます。

 近代の人間は、自由を獲得し、ヒューマニズムを形成しました。しかし、啓蒙主義的・合理主義的な知の本質的限界のゆえに、自由は、根拠なき放恣な自由となり、ヒューマニズムは、自然生態環境・社会文化環境を一方的に支配し、従属させる人間中心のヒューマニズムとなりました。全実在界の具体的な存在構造を解明した統一的・総合的な知を形成することは、西洋近代がうみだした偉大な成果を継承するとともに、その本質的な限界を克服して、真の自由・ヒューマニズムを確立することを可能とするものです。

 新プラトン主義の形而上学を継承したルネッサンスのヒューマニズム

 そのことをより具体的に明らかにするために、科学が形而上学との内面的連関性を喪失する以前の、形而上学と内的に結びついていたルネッサンス時代のヒューマニズムを検討してみる必要があります。ルネッサンスは、中世キリスト教世界を否定して、古典・古代、すなわちギリシャ・ローマの古典文学や哲学に復帰し、それを再生・復興させることで新しい社会を形成しようとした思想運動でした。それは、ギリシャ・ローマの人間像を理想・モデルとして、神学・封建制の束縛から人間の解放を実現することをめざしました。そこに、近代ヒューマニズムの精神が成立しました。

 ルネッサンスのヒューマニズムは、哲学の面では、中世のスコラ哲学から新プラトン主義の哲学にまで復帰し、それを再生させることで形而上学的に体系化されました。この場合の新プラトン主義の哲学とは、ローマ帝政時代の哲学者プロティノスの形而上学として体系化されたものです。ここで、その基本構造がどのようなものであるかをみてみたいと思います。

 プロティノスの形而上学における究極的実在・第一原理は、一者と呼ばれています。それは、すべてのものの根源であり、自らのうちから流れ出て宇宙万物となるとともに、自らのうちへと還帰します。そこに、「存在の諸段階」が成立することになります。それは、次のようなものです。

 ①最深層には、一者が存在します。②次の段階は、ヌースあるいはイデア界です。この二つが、超時間・空間的な無限絶対の実在界です。③第三の段階は、宇宙霊魂です。④第四の段階は、自然です。⑤そして、最表層が、質料です。この③④⑤が、時間・空間的な有限相対の実在界です。一者は、宇宙万有の彼岸にある究極的実在であるとともに、他のすべての段階に顕現しています。したがって、存在の五つの段階すべてにわたって、一者であるわけです。

 人間の霊魂は、宇宙霊魂に属していますが、自らを純化し、高めることによって、ヌースに達し、さらに一者まで帰ってゆき、それと合一することができる、とされています。ここでは、中世の神学のように、人間は、神の被造物である有限相対的存在として、自己を超越する無限絶対的存在としての神に隷属するものとしてはとらえられてはいません。人間は、自覚的に自己を高めることによって有限相対の実在界から無限絶対の実在界へと超越し、ついには究極的実在である一者にまでのぼることのできる存在とされています。その事態は、より具体的には次のようなことです。

……霊はそのうちに三つの段階を含む。一つは単に霊としての有り方であり、茲では霊は、諸々の霊を統一する大なる霊即ち「宇宙霊」の支配圏に属し、自らの中心に於いて、その領域の中心である宇宙霊と合一する。第二の段階に於いては霊は叡智界に上り、それを主宰する「大なる叡智(又は理性)」と中心的に合一する。第三の段階は、一者との合一である。かくして霊は自らの根底へ下って行くことによって、より高き段階へ上り、より高き自己となる。(『西谷啓治著作集』第3巻P16~17)

 イタリア・ルネッサンスの思想家フィチーノは、このような新プラトン主義の思想を継承しました。フィチーノは、プロティノスと同じように、最深層から最表層へ至る存在の諸段階を五つに区分しています。それは次のようなものです。

 ①一者である神、②知性である天使、③霊魂、④質、⑤延長物としての物体。

 ①の一者と②の天使は永遠的であるとされていますから、超時間・空間的な無限絶対の実在界ということができます。それに対して、④の質と⑤の物体は、時間・空間的な有限相対の実在界です。そして、③の霊魂は、超時間・空間的な無限絶対の実在界と時間・空間的な有限相対の実在界をつなぐ、「第三の中間的存在」です。その霊魂の機能をもっとも完全なかたちで発揮するのが、人間の霊魂です。人間の霊魂は、有限相対の実在界にも無限絶対の実在界にも向けられています。人間の霊魂は、自覚的に一者に向けて自己を高めてゆき、一者との究極的合一を実現します。

 このようなかたちで新プラトン主義の形而上学を継承したルネッサンスのヒューマニズムは、究極的実在である一者との合一を実現するところに「人間の卓越性と尊厳性」を見いだしました。そのことについて、ルネッサンス研究家クリステラーは次のように述べています。

このように哲学的にも宗教的にも豊かさを加えることができたので、プラトン主義は初期ヒューマニストの漠然とした思想と目標のいくつかを明確で精密な思弁的学説に変えることができた。とりわけ初期人文主義思想のもっとも特徴的な目標の一つであった人間の強調は、ルネサンス・プラトン主義の著作のなかでより体系的・哲学的に表現されるようになった。フィチーノの主要哲学著作である『プラトンの神学』は人間の卓越性と尊厳性を強調した数節をふくんでいる。(渡辺守道訳『ルネサンスの思想』P173)

 ルネッサンスのヒューマニズムは、このようなかたちで形而上学との内面的連関性を有していました。すなわち、そのヒューマニズムは、究極的実在と人間の合一という事実を成立基盤とするものであった、ということができます。

 究極的実在と人間の合一という事実に立脚した形而上学の形成

 ところが、啓蒙主義的・合理主義的な知の基礎を形成した近代自然科学は、中世の形而上学を否定すると同時に形而上学そのものを排斥してしまいました。したがって、ヒューマニズムは、ルネッサンス期における形而上学との内面的連関性を喪失してしまいました。こうして、究極的成立基盤から遊離したヒューマニズムは、先述したような自然生態環境・社会文化環境を人間が一方的に支配し従属させる、人間中心のヒューマニズムにならざるをえませんでした。

 したがって、ヒューマニズムと形而上学の内面的な連関性をとりもどすことが、現代の切実な課題となります。すなわち、ルネッサンスのヒューマニズムと内的に結びついていた形而上学を継承し、現代的なかたちで再生させることが必要だということです。それが、啓蒙主義的・合理主義的な知を超克した新しい形而上学を形成するということにほかなりません。

 形成されるべき形而上学の究極的成立基盤は、先述した究極的実在と人間の合一という事実にあります(これが、ルネッサンスの形而上学から継承すべき核心的内容です)。無限絶対の実在界に於ける究極的実在と人間の一体化と両者の調和という事実――そこに、有限相対の実在界に於ける人間が自由な行為によって、自然生態環境・社会文化環境と自己の一体化と三者の調和を実現することを可能とする究極的基盤が存在します。

 究極的実在と一体化した人間は、そこから超時間・空間的な無限絶対の実在界と時間・空間的な有限相対の実在界の総体を観ることによって、全実在界の真実相を解明した形而上学を形成することができます。究極的実在と人間の合一という事実は、全実在界の調和の究極的基盤であると同時に、全実在界の真理の究極的基盤です。そこに立脚して形成される形而上学の基本構造がどのようなものかを、もう少し具体的にイメージしてもらうために、フィチーノが継承したプロティノスの形而上学を「一者の形而上学」と呼んでいる井筒俊彦の説明をみてみたいと思います。

ありとあらゆる存在者はことごとく神(一者――根井注)から出でて神に還る、この雄大な宇宙的循環過程を人は観照的生の上昇・下降の循環によって、自ら親しく主体的に体験し、これを実存化することができるのである。プロティノスの形而上学は人が思弁的に案出した抽象的理論体系ではなかった。それは人間霊魂が全宇宙とともに絶対者に還流し、また全宇宙とともに絶対者から発出して百花燎乱と流れ散る宇宙的生の生きた形而上学であった。(『神秘哲学』第二部P212)

 この場合の宇宙的生とは、単なる生物的生命、すなわち物質の高次の組織形態としての生命ではありません。一者とは、人間の霊魂が感性的世界を超越することによってはじめてそれと合一することのできる実在です。物質を超える創造的エネルギー、生物的生命を超える創造的生命――それが、宇宙的循環を展開する究極的実在としての宇宙的生です。

 一者と人間の合一が実現しているとき、それを究極的基盤として、全宇宙のうちで創造的エネルギーの上昇と下降の運動が展開してゆきます。そして、それと一体的に、全人間のうちでも同じ創造的エネルギー・生命(人間の内部で働く宇宙的生命の創造的エネルギー――井筒俊彦『意味の深みへ』)の上昇と下降の運動が展開してゆきます。こうして、全宇宙と全人間が一体化し、そこに創造的エネルギー・生命が貫流・遍満することになります。それが、「一者即一切」として、唯一の実在が遍在する全実在界の基本構造です。

 実在体験における叡智的直観にもとづく創造的生命の形而上学

 『創造的生命の形而上学』は、ルネッサンスのヒューマニズムが復帰したプロティノスの形而上学にもう一度復帰するとともに、それを現代的に再生させることで、全実在界の存在構造を具体的に解明したものということができます。

 創造的エネルギー・生命は超物質的存在ですから、感覚的にとらえることはできません。しかし、人間が究極的実在と一体化し、それと直接触れる実在体験が成立するとき、両者を貫流し一つに結びつける創造的エネルギー・生命を、超感覚的な叡智的直観によって直接捕捉することができます。そして、それを究極的基盤として、ともに無限絶対的次元と有限相対的次元の統合態である世界の総体と人間の総体を貫流し、両者を一つに結びつける創造的エネルギー・生命を直接捕捉することができます。

 そして、その超感覚的事実を分析することによって、全実在界の存在構造を解明した形而上学を形成することが可能となります(したがって、この形而上学は、決して経験をぬきにして、第一原理を独断的に設定し、そこからすべてを演繹する――という空虚な思弁ではなく、あくまでも実在体験にもとづくものです)。井筒俊彦が、神から出でて神に還る雄大な宇宙的循環過程を、人間は観照的生の上昇・下降の循環によって自ら主体的に体験することができる、と述べていることは、このようなかたちでとらえ返すことができます。

 啓蒙主義的・合理主義的な知は、経験を感覚的経験に、直観を感性的直観に限定した、その狭さのために、全実在界に貫流・遍満する創造的エネルギー・生命をとらえることができず、全実在界の真実相を覆い隠しました。実在体験における叡智的直観にもとづく創造的生命の形而上学は、その真実相を明らかにすることを可能とするものです。

 この形而上学は、全実在界の「存在の諸段階」を深層から表層へ向けて四つに区分します。それは次のようなものです(『創造的生命の形而上学』第1章参照)。

 ①第一の次元――絶対無の実在界。ここでは、究極的実在である絶対無と人間を、同一の創造的エネルギー・生命が貫流し、両者を一つに結びつけ調和を実現します。

 ②第二の次元――対自的絶対無の実在界。ここでは、対自的絶対無と人間を、同一の創造的エネルギー・生命が貫流し、両者を一つに結びつけ調和を実現します。

 この二つの次元が、超時間・空間的な無限絶対の実在界です。

 ③第三の次元――相対的絶対無の実在界。

 ④第四の次元――普遍的本質の実在界。

 この二つの次元が、時間・空間的な有限相対の実在界です。

 この実在界に於いては、それぞれが二つの次元を有する自然生態環境と人間と社会文化環境を同一の創造的エネルギー・生命が貫流し、三者を一つに結びつけ調和を実現します。同一の創造的エネルギー・生命が貫流・遍満する全実在界は、それぞれに調和を実現した多次元が、相互に調和する、という構造を有しています。

 「絶対無の形而上学」としての西田哲学の継承・展開と人間の真の自由

 究極的実在を絶対無と規定したのは、西田哲学の実在観を継承したものです。西田幾多郎は、『一般者の自覚的体系』において、「存在の諸段階」を深層から表層に向けて四つに区分しています。それは次のようなものです。

 ①絶対無の場所、②叡智的一般者、③自覚的一般者、④判断的一般者。

 自覚的一般者に於いてある意識的な自己は、自己の底に超越することによって叡智的一般者に於いてある叡智的自己に至り、叡智的自己が自己の底に超越することによって、絶対無の場所に於いてある真の自己に至ります。

 この西田の体系を、宇宙霊魂に属する人間の霊魂がその根底へ下ることでヌース(叡智)と合一し、さらにその根底へ下ることで一者と合一するというかたちで自己を高めてゆく――プロティノスの「一者の形而上学」と対応させてとらえ返すことによって、「絶対無の形而上学」としての西田哲学の現代的意義を確認することができます。西田の形而上学からプロティノスの形而上学にまで還るとともに、それから西田哲学をとらえ返すことによって、西田哲学の可能性を全面的に実現することが可能となります。「創造的生命の形而上学」は、「絶対無の形而上学」を継承・展開したものということができます。

 「創造的生命の形而上学」において、全実在界の第一原理・究極的実在とされている絶対無は、他のいかなるものにもに依存せず、他のいかなるものにも制約されず、自らのうちに自己の根拠を有しています。それは、他のもののうちに在るものではなく、自らに於いて自らに由って自らとして在る自由な実在です。人間は、自己を自覚的に高めてゆくことで、その深底に至るということは、プロティノス、フィチーノ、西田の形而上学で確認しました。(西洋近代において、それらに対応するものとして、意識が感覚的確信から出発して、知覚、悟性、自己意識、理性、精神、宗教と段階的に上昇・純化してゆき絶対知に至る――というヘーゲルの『精神現象学』をあげることができます。)

 その人間は、実在界の最深層に於いて、自由な実在である絶対無と自己を自覚的に一体化させることによって、自らに於いて自らに由って自らとして在る自由な実在です。ここでは、それぞれが自由な実在である絶対無と人間が、それぞれの絶対的独自性・独立性を保ったままで、一つに結びつきます。

 ここに、人間の根源的自由が成立します。①絶対無の実在界に於ける、それぞれが自由な実在である絶対無と人間の一体化の事実を究極的な成立根拠として、②対自的絶対無の実在界に於いて、対自的絶対無と自己を一体化させる人間の自由が成立し、③相対的絶対無の実在界と④普遍的本質の実在界に於いて、自然生態環境・社会文化環境と自己を一体化させる人間の自由が成立します。絶対無と人間の一体化の事実は、人間の自由の究極的な成立基盤です。

 こうして、人間が有限相対の実在界を無限絶対の実在界へと超出し、絶対無との一体化を実現することは、有限相対的人間の自由を、対自的絶対無の実在界に於ける人間の自由を介して、絶対無の実在界に於ける無限絶対の実在的人間の自由に結びつけることである、という関係が成立します。それによって、有限相対的人間は、自由な行為によって自然生態環境・社会文化環境と自己の調和を実現することが可能となります。それは、有限相対的人間の自由と無限絶対的人間の自由が統合されることによって、有限相対の実在界に於ける自然生態環境と人間と社会文化環境が、三者の究極的統一基盤と結びつけられ相互の調和を実現することでもあります。

 中世の神への背反の自由でも、近代の根拠なき放恣な自由でもない、人間の真の自由は、このようなものとして確立されます(超越的絶対神の支配から解放された有限相対的人間の自由は、その究極的成立基盤と結びつけられることで、真の自由となります)。

 人間の生と全実在界の運動の究極目的である創造的生命の一体感

 絶対無は、すべての個物の根源であり、それと一体化した人間は、すべての個人の根源です。両者の一体化の事実を究極的基盤として、それぞれが無限絶対的次元と有限相対的次元の統合態であるすべての個物・個人が成立します。すべての個物の根源と一体化したすべての個人の根源は、同時に、すべての個人の自由の究極的成立基盤です。それぞれに四つの次元を有するそれぞれの個人が、自由な行為によって、それぞれが四つの次元を有する他のすべての個物・個人と自己を自覚的に一体化させるものどうしとして働きあうことによって、すべての個物・個人が創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられ相互の調和を実現します。

 このとき、創造的エネルギー・生命が、絶対無の実在界から対自的絶対無の実在界へ、そこから相対的絶対無の実在界へ、そしてさらに普遍的本質の実在界へと流れ出てゆくとともに、そこから段階的に絶対無の実在界へと還流してゆく――という宇宙的循環が、すべての個物・個人のうちで展開されてゆきます。

 他のすべての個物・個人と自己を自覚的に一体化させたそれぞれの個人は、この事態を自覚することができます。すなわち、それぞれの個人は、自己のうちに貫流・充満するのと同一の創造的エネルギー・生命が他のすべての個物・個人のうちに貫流・充満しており、それによって他のすべての個物・個人と一つに結びつけられている、という自己の生の真実相を自覚することができます。そして、それぞれの個人は、この創造的生命の一体感に歓喜を覚えます。それが、人間の生の究極目的であると同時に、全実在界に於ける創造的エネルギー・生命の運動の究極目的ということができます。

 全実在の真実相を自覚することのできない啓蒙主義的・合理主義的な知に支えられたために、近代科学技術文明は、他のすべての個物・個人と一体的な創造的生を生きる喜びを、それぞれの個人にとって味わい難いものとしてしまいました。

 近代科学技術文明が、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだに深刻な対立・相剋をひきおこしたということには、すでに言及しました。そのことの原因は、人間の自由が、その究極的成立基盤から遊離した根拠なき放恣な自由になったことにありました。そのことを個人のレベルでとらえ返せば、個人の自由が放恣な自由になるということを意味しています。

 したがって、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだに対立・相剋が生じているとき、同時に、すべての自然的個物と人間的個人と文化的個物のあいだに対立・相剋が生じることになります。それぞれの個人にとって、すべての個物・個人と一体的な生を生きる、生きる喜びが味わい難いものとなるとは、そのような事態です。

 このような事態を根本的に転換させることによって、近代科学技術文明を超克した新しい文明を創出することが、はじめて可能となります。新しい文明は、人間の生の究極目的、全実在界に於ける創造的エネルギー・生命の運動の究極目的を実現するものでなければなりません。

 啓蒙主義的・合理主義的な知は、先述した究極目的を自覚することができません。そのため、有限相対的人間の生は、その究極的基盤から遊離して自己目的化し、自然生態環境と社会文化環境を、その実現のための手段として従属させることになりました。

 先行する形而上学を継承する「領受」と真の意味を再生する「顕開」

 ここに、全実在界の運動、人間の生の究極目的を自覚することのできる創造的生命の形而上学が形成されるべき現実的理由が存在します。それが、「形而上学の新建設」という時代的要請に応えることにほかなりません。

 もちろん、形而上学の新建設といっても、従来の形而上学とまったく無関係に新しいものを形成するということではありませんし、また、そのようなことができるわけがありません。これまでみてきたように、ルネッサンスの思想家は、中世を乗り越えるために、古典・古代に復帰し、その形而上学を継承・再生させることで、神学のくびきから人間を解放し、ヒューマニズムを確立しようとしました。ところが、その後の科学革命によって形成された自然科学は、形而上学を排斥してしまいました。そのため、自然科学が基礎を形成した啓蒙主義的・合理主義的な知に支えられた近代科学技術文明が現代の危機をひきおこすことになりました。

 だとすれば、近代の総体を根本的に乗り越えてゆくためには、ルネッサンスの思想家が復帰した古典・古代にまでもう一度帰り、その形而上学を継承し、それを現代的なかたちで再生させることが必要となります。もちろん、このことには、ルネッサンス期の形而上学、さらにはルネッサンス以降の近代の形而上学の継承と再生も含まれます。先行する形而上学を領受するとともに、その形式化・固定化を打破し、真の意味を顕開する。新しい形而上学の形成は、「領受顕開」(金子大栄)によって実現されます。

 ルネッサンスの思想家は、西洋の古典・古代に復帰しましたが、人類は二千数百年前、ギリシャだけでなく、インド、中国においても精神革命をなしとげました。すなわち、人類は、ほぼ同時期に、これら三つの地域で、呪術・神話から脱却して哲学・形而上学を形成するに至ったのです。

 精神革命をなしとげた思想家たちは、全実在界の根源に於いて究極的実在と内面的に交わり、それを叡智的直観によってとらえました。そして、この直観にもとづいて、全実在界の真実相を体得・体認しました。ギリシャにおけるイデア、インドにおけるヴェーダーンタ・ウパニシャッドのブラフマン、仏教の空・ダンマ、中国における儒教の天、老荘の道などは、同一の究極的実在を、それぞれの伝統的な思想的文脈で表現したもの、ということができます(『創造的生命の形而上学』第3章第1節参照)。こうして、ギリシャ、インド、中国において、それぞれの究極的実在を第一原理とする独自の形而上学が形成されました。

 ギリシャの形而上学は、その後、キリスト教と結びつき、西洋独自の形而上学として継承・展開されてゆきます。インド、中国においても、独自の形而上学が継承・展開されてゆきます。イスラームにおいても、イスラーム教と結びついた独自の形而上学が形成され継承・展開されてゆきます。

 究極的実在が力を失った近代の人間の生の自己目的化

 しかし、近代以後は、西洋の啓蒙主義的・合理主義的な知に支えられた近代科学技術文明、すなわち、西洋に起源をもつ文明が全地球的規模に拡大してゆきました。その結果、世界中のあらゆる地域の人々の生活は、形而上学との内的連関性を失った啓蒙主義的・合理主義的な思考によって制御されたものとなってゆきます。そうなると、人々の生活は、その究極的成立基盤から遊離してゆく傾向を強めます。そのことについて、西谷啓治は次のように述べています。

 近代意識の最も根本的な又最も一般的な特徴は、人間中心主義、更には自我中心主義である。嘗ては、人間は人間を超えたもののうちに包まれ、そのものの力に動かされ、その意志又は法に従属し、又すべきである、という考え方が支配的であった。そしてそのものは、神、天、自然、宇宙の理、道、ロゴス等と呼ばれた。然るに近代人の意識のうちでは、此等は単に影薄き表象として跡をとどめて居るにすぎない。最早生きた力として人間の行いや考えを動かさない。近代は「人間」解放の時代であり、すべてが人間を中心として見又行われる。人間一切の行事は人間自身のためにである、人間は自己目的である、人間は人間自身のためにある。これが近代人の意識的・無意識的な根本的信念である。(著作集第1巻P106~107)

 ここであげられている神、天、自然、宇宙の理、道、ロゴスなどは、これまで言及してきた全実在界の第一原理としての究極的実在です。その究極的実在が、もはや人間の行為や思考を動かす力を失ったために、人間中心主義、人間の自己目的化、すなわち、これまで言及してきた人間中心のヒューマニズム、人間の生の自己目的化が生じた、というのです。ここで指摘されている自我中心主義とは、ユングが、現代人の自我は、全人格の中心である自己(本来的自己)から遊離している、と心理学の立場から分析しているのと同一の事柄です。

 これは、有限相対的存在としての諸個人の生が、その根源、すなわち(すべての個物の根源である)絶対無と一体化した(すべての個人の根源である)人間から遊離したことによって、ひきおこされた事態です。そこに、ニーチェが最高価値の価値喪失と規定したニヒリズムが生じ、諸個人の生が価値を喪失し、虚無化・空洞化してゆきます。

 このような事態が、全地球的規模で生起したのです。ここに、近代科学技術文明がひきおこした全人類的な危機の実相があります。

 
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素粒子とは何か

2015-05-22 11:36:45 | Weblog
素粒子は精神エネルギーの塊であり、自発的に運動する能力を持っている。

しかし原子を構成すると、互いの力で束縛され、自発的に運動できなくなる。

原子が作れるのは3次元空間であり高次元空間では、素粒子は自発的に運動しているだろう。

意識は高次元空間のため素粒子は自発的に運動できると思う。

これが生命の自発性を生み出しているのだろう。

素粒子の自発的運動は観測によって打ち消されてしまうので、科学では見ることができない。


意識は自発的に運動する精神エネルギー波動と、その固まりである素粒子で成り立っている。

素粒子がイオンチャンネルを開き脳を活動させるのだ。




日常意識、すなわち物質界と相互作用している状態においては、意識は時空の制約を受けますが

意識界と相互作用している状態では意識は時空の制約を受けないと思います。

これが時空の制約を受ける物質と意識の違いです。

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唯物弁証法の不思議な世界観

2015-05-21 11:40:38 | Weblog
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%B3%AA-125155



物質と運動との不可分性
物質を、なにか死んだもの、怠惰なもの、自分では運動しないものというように考えてはならない。現実に、物質は運動するものとしてあるのであって、運動を不可欠の属性としている。「運動」とはすべての変化をいう。運動しない物質はなく、物質を離れて運動はない。運動は、物質の永遠の存在の仕方にほかならない。これは弁証法的唯物論の基本認識である。小は素粒子から大は銀河系また超銀河系に至るまで、全自然界において万物が絶え間ない運動・変化のうちにあり、生成消滅をしていることは、自然科学の全成果が証明している。また社会生活においても絶え間ない運動・変化がおきている。人類社会が原始の時代から今日の段階まで発展を遂げてきたことを、生活の明証と社会科学の立証とに背いて否定できるであろうか。物質の運動は質的に多様な形態をとり、この諸形態は、低次なものから高次なものへの転化・移行という階層的構造をもちながら、全体として歴史的な合法則的な発展過程のうちにある。[秋間 実]



http://y-ok.com/philosophy/philosophy-1/contents-5.html


2、物質と運動とは切りはなせない

次に、物質はすべて運動している、運動しない物質というものはない、物質と運動とは切り離せないのだ、ということを認めることが大切です。

「運動」というと、空間のなかで物体がその位置を変えることだけを考える人達がいると思います。だが、このような位置の変化、つまり場所の移動は、「力学的運動」と言って、運動の一つの種類ではあるけれども、これだけが運動では有りません。
哲学で「運動」という場合には、もつと広い意味でいっているのであって、物質のあらゆる変化のことです。
例えば、物体の温度が変化するのも運動ですし、水素と酸素とが化合して水になるというような化学的変化も運動です。物質は常に、このような広い意味での運動をしているのです。

静止ということは、相対的な意味でだけ言うことができます。人びとは、地上にある石を静止している(じっとしている、動いていない)と言います。
だが、これは、その石が地球の表面にたいして(相対的に)静止している、すなわち位置を変えないという意味であって、地球は自転し、また太陽にたいして公転しているのですから、その石も、太陽にたいしては位慣を変化させている訳です。
また別の面からいえば、目には見えないけれども、その石を構成している諸分子は常に小さな振動運動をしています。こういう訳で、絶対的に静止している物質というものはないのです。

■ ニュートンと「神の一撃」

かっては、始めに絶対的に静止した物質があって、それがいつの日か、なにかの原因によって運動を始めた、という考え方がありました。大物理学者のニュートン(1642-1727)もこういう考え方をした一人でした。
そこで彼は、この静止していた物質を動かした最初の原因はなんだろうか、と考えました。
この最初の原因は、物質的な運動であることは出来ません。と言う訳は、もしもそれが物質的な運動であれば、この運動を引き起こした原因が更に別になければならないことになり、したがってそれは最初の原因では有り得ないことになるからです。
そこでニュートンは、この最初の原因になるものは神だと考えました。すなわち、神が物質に「最初の一撃」を加えた、これによって、それまで静止していた物質が運動するようになり、それ以来ずっと物質は運動しつづけている、というのです。
神の「最初の一撃」という奇妙な考えが出てこざるをえなかったのは、そもそも、物質と運動とを切りはなして、始めに静止した物質があった、と考えたからです。こういうまちがった前提をおいたので、奇妙な結論がでてきたのです。

これに対して、ほぼ同じ時代のイギリスの唯物論者トーランド(1670-1722)は、運動は物質に必ず属している性質であって、物質から引き離すことが出来ないと主張しました。
彼は、物質は原子から成りたっており、更にこの原子は能動性を持っていて、物質のあらゆる変化はこの原子が持っている能動性の現われである、と考えたのです。
トーランドの時代以来、唯物論者たちは、物質を運動とは切り離せないと言うこの正しい考えを守り育ててきました。
弁証法的唯物論は、エンゲルスが『反デューリング論』で言っているように「運動は物質の存在の仕方である」と考えます。物質は運動するという仕方以外の仕方では存在しません。
レーニンがいっているように、「世界には運動する物質以外のなにものもない」(『唯物論と経験批判論』)のです。

それは分かるんだけど、ではその運動する物質と言うものがどうして出来たのか、と考えると分からなくなっちゃう。

これは困った質問ですね。物質は不生不滅です。物質はいま現にある。このいま現にある物質は、前に述べたように、決してなくならない、つまり不滅である。それと同じように、いくら過去にさかのぼっても、物質はあったのです。無から生じたわけではない。
静止から運動が生じたと考えると、ニュートンのように、神の「最初の一撃」が必要だと言うことになったでしょう。同じように、無から物質が生じたと考えると、神の「創造行為」が必要になります。
そうではなくて、物質は最初から有ったのです。いや「最初」という言い方も良くない。時間にはじまりがあったようにとられるから。
時間に始まりも終わりもない。そして物質は、永遠の過去から永遠の未来に渡って存在し続けるのです。

3、 物質の運動形態と運動法則

さきに、哲学で「運動」という場合には、力学的運動だけでなく、もつと広い意味の運動を意味するのだ、ということを述べました。
物質はさまざまな運動をしています。そしてこれらのさまざまな形態の運動は、勝手気ままにおこなわれているのではなく、それぞれ一定の法則に従っておこなわれています。
ですから、物質にはどのような運動形態があるか、それらの運動形態の相互間には、どのような関係があるかを知ることが大切です。そのことを知らないで、ただ「世界には運動する物質以外のなにものもない」ということだけを主張したのでは、世界の多様性を単純化してしまう誤りに陥ります。

■ 弁証法的、物質の運動観

更に、弁証法的唯物論は発展の見地にたつ唯物論ですから、さまざまな運動形態が有るといって、それらを並べたてるだけでなく、運動形態にも低いものから高いものへの発展があることを認め、それがどのような発展過程であるかを説明します。
次にその概略を述べましょう。

力学的運動すなわち空間の中での物体の位置の変化は、最も低い運動形態です。
位置の変化と言うことは、例えば地球の表面に対して人間が動くと言うように、二つ以上の物体の相互関係としてのみ意味を持ちます。

二つの離れた物体が位置を変えた結果、衝突する場合があります。又二つの物体が部分的に接触しながら位置を変えると、摩擦がおこります。衝突と摩擦は熱を生じ、又ある条件のもとでは、音、光、電気、磁気を生じます。
つまり、力学的運動形態から物理的運動形態への移行が起こります。

力学的運動は力学の法則に従っています。だが電磁気学的現象は、もはや力学の法則では説明できません。運動形態が変わると、物質は新しい法則によって運動するようになるのです。
それ以前の運動形態で作用していた法則(今の場合には、力学の法則)が、相変わらず作用し続けますが、それだけでなく、その運動形態に固有の法則(今の場合、物理学の法則)が付け加わるのです。

さて、炭素と酸素を高温にすると、化合して炭酸ガスになるように、物理的運動(この場合、加熱)形態にある物質は、一定の条件のもとで化学的運動形態に移行します。
複雑な化合・分解の過程で高分子の化合物が作られてゆき、原初的地球の海の中で、淡白体が合成されました。蛋白体は、物質代謝という生物体に特有の機能を持つ高分子化合物であって、こうして極めて初歩的なものではあるが、最初の生物が生まれました。
すなわち、化学的運動形態から生物学的運動形態への移行がなされたのです。

地球上にひとたび生物が生まれると、それから後は進化論でよく知られているように、下等の種から高等の種への進化が次から次へとおこり、ついにはある種の類人猿から人間への進化が行われました。
これは同時に、サルの集団が人間の社会になったことを、すなわち生物学的運動形態から社会的運動形態への移行が行われたことを意味します。

社会的運動形態で運動している物質とは、人間に他なりません。
人間は生物であり、したがって生物特有の諸法則(物質代謝の法則、細胞分裂、生殖の法則、遺伝の法則など)に従っています。又人間の体内で行われている消化などの過程では、化学の法則にも従っていますし、熱伝導や電気伝導の法則のような、物理学の諸法則も人間の身体内で作用しています。
更には、歩いたり腕でものを持ち上げたりする場合には、力学の法則も作用しています。
つまり、人間は社会的運動形態よりも低次の、あらゆる運動形態で作用している法則に従います。だがそれだけでなく、社会的運動形態に特有な諸法則、すなわち社会法則にしたがっているのです。

このように、高次の運動形態では、それよりも低次の運動形態には現れなかった新しい法則の作用が現れます。
このことを理解しないで、高次の運動形態における物質の運動を、それよりも低次の運動形態における運動法則だけで説明できると考えるのは、間違いです。

■ 低次から高次への運動形態への理解

他方、様々な運動形態が、先ほど述べたように、低次のものから高次のものへと次々に発展してきた、物質の運動形態である、と言うことを理解する必要が有ります。
例えば、生物には「生命」と言う物質以外の「もの」がある、或いは物質以外の「原理」が必要である、などと考えると、物質以外のもの、原理と言えば観念的なもので有らざるを得ないことになり、無生物に関してはは唯物論だが、生物に関しては観念論的であるという中途半端な世界観を持つことになります。
とりわけ、社会的運動形態を上述の一連の物質の運動形態の発展の最も高次の段階として捉えることが重要です。
このように捉えて、始めて、マルクスが「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える、私の立場」(『資本論』第一版の序文)と言っている、その立場に立つことが出来るのです。

弁証法的唯物論は、物質の運動形態と運動法則を以上に述べたように理解することで、一方では機械論に反対し、他方で観念論に反対しています。
そして、世界の物質的統一性を、すなわち世界には実に多様な現象があるにも係わらず、その全てが運動している物質であると言う点で統一されている、と言うことを主張しているのです。



............................

>世界の物質的統一性を、すなわち世界には実に多様な現象があるにも係わらず、その全てが運動している物質であると言う点で統一されている、

これは

世界の物質的統一性を、すなわち世界には実に多様な物質現象があるにも係わらず、その全てが運動している物質である

と言うことですから、統一されているのではなく当たり前のことですね。



一言でいうと物質が自発的に運動し発展し世界を形作る、という世界観のようですが

現代物理学ではそのようなことは認めていません。ニュートンを嫌う理由もここにあるようです。

神を否定した結果、物質そのものに神の役割を与えるしかなかったのかもしれません。



現代物理の認識   http://blogs.yahoo.co.jp/sennkakunakamura/12979449.html

(4)運動の原因は全て受動的である

 ニュートンの運動方程式から物体の運動に変化が起きるのは、つまり加速度を引き起こすのは、全て外部の力によるものであり、科学的立場というものは物体の内部からの運動の変化の原因は物理的にはあり得ないという観点に立つのである。

 つまり物理的認識とは運動の変化は外的に力が作用した結果受動的にのみ引き起こされるということが前提の世界認識である。これは量子力学や相対性理論や素粒子理論になっても変わらない根本的認識態度である。


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物質の定義をひらめいた

2015-05-21 10:19:39 | Weblog
物質、原子とは、一つに固まることで自発的運動を止めた精神エネルギーである。


物質と精神の違いは、物質は受け身でしか運動しないのに対し、精神は自発的に運動することである。




なぜ生命は自発的に運動するのか。

それは自発性を失った物質の身体に、自発性のある精神が融合してるから。


生命は物質界と意識界の結合という進化の過程で必然的に誕生した。
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