(4)「統一性と多様性」
一九一三年、十一月十日、月曜日
今この地上に立って見上げる私の目に、遥か上方まで、そして更にその向こうまでも、延々と天界が存在するのが見える。私はすでにそのうちの幾つかを通過し、今は第十界に属している。これらの界は地上の〝場所〟とはいささか趣を異にし、そこに住む霊の生命と霊力の顕現した〝状態〟である。貴殿はすでにこうした界層についてある程度の教示を受けている(第一巻・六章)ので、ここではそれについて述べることは控えたい。それよりも別の角度からその光と活動の世界へ貴殿の目を向けさせたいと思う。これよりそれに入る。
善なるものには二つの方法によって物事を成就する力が潜在している。善人は、地上の人間であれ霊界の者であれ、自分の内部の霊力によって、自分より下層界のものを引き上げることが出来る。現実にそうしているのであるが、同時に自分より上層界のものを引き下ろすことも可能である。祈りによっても出来るが、自分自身の霊力によっても出来るということである。
さて、これは神の摂理と波長が合うからこそ可能である。と申すのも、神の創造した環境に自らを合わせることが可能なだけ、それだけその環境を通して働くことができる。つまり環境を活用して物事を成就することが出来るということである。下層界を少し向上しただけの霊によってもそれは可能であり、その完成品がベールを通してインスピレーションの形で地上へ送り届けられた時、人間はその素晴らしさに感心する。
例を挙げよう。こちらには地球の存在自体を支えるための要素を担当する霊と、地上に繁茂する植物を受け持つ霊とがいる。ここでは後者の働きの説明となる例を挙げてみる。すなわち植物を担当する霊の働きである。
その霊団は強力な守護神の配下に置かれ、完全な秩序のもとに何段階にも亘って分担が存在する。その下には更に程度の低い存在が霊団の指揮のもとに、高い界で規定された法則に従って造化の仕事に携わっている。これがいわゆる妖精類(エレメンタル)で、その数も形態も無数である。
今のべた法則はその根源から遠ざかるにつれて複雑さを増すが、私が思うに、源流へ向けて遡(さかのぼ)れば遡るほど数が少なくそして単純となり、最後にその源に辿り着いた時は一つに統一されていることであろう。その道を僅かに遡ったに過ぎない私としては、これまでに見聞きしたものに基いて論ずるほかはないが、敢えて言わせて貰うならば、全ての法則と原理を生み出す根源の法則・原理は〝愛〟と呼ぶのが最も相応(ふさわ)しいものではないかと思う。何となれば、吾らの理解の及ぶかぎりにおいて、愛と統一とは全く同一ではないにしても、さして相違がないと思えるからである。少なくとも吾々がこれまでに発見したことは、私の属する界層を始めとして地上界へ至る全ての界層において数々の地域と各種の境涯が生じて行くそもそもの原因は、最も厳密な意味における〝愛〟が何らかの形で欠如して行くことにある。
が、この問題は今ここで論ずるには余りに困難が大きすぎる。と言うのは地上の環境に見る多様性の全てが、今のべた崩壊作用の所為(と私には思える)でありながら、尚かつ素晴らしくそして美しいのは何故かを説明するのは極めて困難である。それを愛の欠如という言い方をせず、統一性が一つ欠け二つ欠けして、次々と欠けて行くという言い方をすれば、統一性が多様性へと発展して行くとする吾々の哲学の一端を窺い知ることが出来るかもしれない。
一九一三年、十一月十日、月曜日
今この地上に立って見上げる私の目に、遥か上方まで、そして更にその向こうまでも、延々と天界が存在するのが見える。私はすでにそのうちの幾つかを通過し、今は第十界に属している。これらの界は地上の〝場所〟とはいささか趣を異にし、そこに住む霊の生命と霊力の顕現した〝状態〟である。貴殿はすでにこうした界層についてある程度の教示を受けている(第一巻・六章)ので、ここではそれについて述べることは控えたい。それよりも別の角度からその光と活動の世界へ貴殿の目を向けさせたいと思う。これよりそれに入る。
善なるものには二つの方法によって物事を成就する力が潜在している。善人は、地上の人間であれ霊界の者であれ、自分の内部の霊力によって、自分より下層界のものを引き上げることが出来る。現実にそうしているのであるが、同時に自分より上層界のものを引き下ろすことも可能である。祈りによっても出来るが、自分自身の霊力によっても出来るということである。
さて、これは神の摂理と波長が合うからこそ可能である。と申すのも、神の創造した環境に自らを合わせることが可能なだけ、それだけその環境を通して働くことができる。つまり環境を活用して物事を成就することが出来るということである。下層界を少し向上しただけの霊によってもそれは可能であり、その完成品がベールを通してインスピレーションの形で地上へ送り届けられた時、人間はその素晴らしさに感心する。
例を挙げよう。こちらには地球の存在自体を支えるための要素を担当する霊と、地上に繁茂する植物を受け持つ霊とがいる。ここでは後者の働きの説明となる例を挙げてみる。すなわち植物を担当する霊の働きである。
その霊団は強力な守護神の配下に置かれ、完全な秩序のもとに何段階にも亘って分担が存在する。その下には更に程度の低い存在が霊団の指揮のもとに、高い界で規定された法則に従って造化の仕事に携わっている。これがいわゆる妖精類(エレメンタル)で、その数も形態も無数である。
今のべた法則はその根源から遠ざかるにつれて複雑さを増すが、私が思うに、源流へ向けて遡(さかのぼ)れば遡るほど数が少なくそして単純となり、最後にその源に辿り着いた時は一つに統一されていることであろう。その道を僅かに遡ったに過ぎない私としては、これまでに見聞きしたものに基いて論ずるほかはないが、敢えて言わせて貰うならば、全ての法則と原理を生み出す根源の法則・原理は〝愛〟と呼ぶのが最も相応(ふさわ)しいものではないかと思う。何となれば、吾らの理解の及ぶかぎりにおいて、愛と統一とは全く同一ではないにしても、さして相違がないと思えるからである。少なくとも吾々がこれまでに発見したことは、私の属する界層を始めとして地上界へ至る全ての界層において数々の地域と各種の境涯が生じて行くそもそもの原因は、最も厳密な意味における〝愛〟が何らかの形で欠如して行くことにある。
が、この問題は今ここで論ずるには余りに困難が大きすぎる。と言うのは地上の環境に見る多様性の全てが、今のべた崩壊作用の所為(と私には思える)でありながら、尚かつ素晴らしくそして美しいのは何故かを説明するのは極めて困難である。それを愛の欠如という言い方をせず、統一性が一つ欠け二つ欠けして、次々と欠けて行くという言い方をすれば、統一性が多様性へと発展して行くとする吾々の哲学の一端を窺い知ることが出来るかもしれない。