思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

エントロピーの増大と秩序の生成

2018-12-31 14:57:35 | 思想、哲学、宇宙論
エントロピーが増大するにもかかわらず何故世界は秩序立っているのか。

その答えとなるのが、喜多郎の音楽である。

高次元の見えない世界に、秩序生成力を持った波動エネルギーの世界があり、

その波動が物質世界に作用して、豊かな秩序を生成しているのだ。






life-message-171

2018-12-31 13:25:45 | 思想、哲学、宇宙論
https://ascension21.com/life-message-171/


人間は本当は誰でも、天と地を結び繋ぐ、

生命の根源から発したエネルギー源の分光なのである。

故に、人は自由自在に運命を築きあげることが出来る。

要するに、人類は神の創造活動の一端を担う存在なのだ。

理知心とは、他の生物にはなく、人類のみが持っている特性である。

この理知心を根源へと掘り下げてゆくと、

宇宙を運行する大調和の法則へ帰結する。

この宇宙の理をその心身に顕し、自他の役に立つ人々は、

その理知がゆえに徳を積み続け、永遠に途切れることのない幸福を得るに至る。

voice-of-brothers-456

2018-12-30 13:49:07 | 思想、哲学、宇宙論
https://ascension21.com/voice-of-brothers-456/

きみたちを悪しき運命に縛り付けていたのは、

神性から遠く離れた自己限定のカルマ想念だった。

言ってみれば今のきみたちは、そうした誤てる想念の繰り返しを卒業する

『卒業試験』を受けてる最中なんだ。それを言い換えれば、『

最後の波動調整』の段階にあるともいえる。

ぼくたち宇宙人類が他の星へ行って、その星の大地に降り立つときには、

円盤機内の波動調整ルームで、

これから降り立つ星の天地が持つ固有の波動に

親和性のある心身になるような波動調整を受けてから降り立つんだけど、

今のきみたちは、霊化した地球の波動に馴染むような

心身に更正するための波動調整を受けているともいえるね。

地球に住むすべての人がその段階を経て、

新しい時代を生きることが出来るようになるんだよ。


この最後の波動調整は、きみたちのように意識進化を志向して、

コツコツとみずからを磨き深めつづけてきた人たちにとっては、

最小限の波動調整で済むんだけど、そうじゃないその他大勢の人類は、

大変な苦痛を伴うものになる。 その時旬に際してきみたちが行うのは、

彼らが苦しみや痛み少なく、この最後の波動調整を乗り越えられるように、

神性の波を地上に振りまくことだ。 それが出来るのは、

宇宙広しといえどもきみたちだけなんだよ。 ぼくたち宇宙人類も、

地球界の神霊方も、応援の波動を最大限に投げかけてはいるけれど、

いかんせん波動が違いすぎて、すべての人類にまでは行き渡っていないのが実情だ。

だけど、地上に身を置いて、

人々と共に苦楽を共にしているきみたちの心身をとおして

発光された神性の波動は、どんなに頑迷なカルマの岩盤をも貫いて、

すべての地球人類に生命根源の光を届けることが出来る。

だから、ぼくたちの応援の仕方も、最初は直接神性波動を振りまいていたのが、

最近ではきみたちの心身が、生命根源の波動をとおせるまでに育ってきたものだから、

きみたちをとおして放射する形態に変わってきた。


その効果は計り知れないくらい大きく、全人類を霊化の潮流に乗せて、

輝かしい未来にいざなっているんだよ。 そのプロセスでは、

必ずしもいいことばかりがあるわけじゃなく、

外れた骨を元に戻すような苦しみもあるけれど、その段階をとおり過ぎれば、

必ずすべての人類がみずからの神性を思い出して、

魂の自立を成就できるようになるんだ。 そういう意味では、

きみたちの果たす役割は大きい。 きみたちは今、

他の何ものとも比較にならないくらい大きな仕事を成就しつつあるんだよ。


きみたちは、過去のどんな聖者も成し得なかった大仕事を果たそうとしてるんだ。

だから、自分の今の境涯がどのような状態にあったって、

すべては未来の肥やしだと思って、明るく楽天的に生きるんだよ。

「現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇」大田俊寛 著

2018-12-29 14:45:24 | 思想、哲学、宇宙論

「現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇」大田俊寛 著



二十世紀のオカルティズムの拡大と浸透の過程で現代日本社会にごく当たり前の思想として受け入れられている霊魂観――「肉体が潰えた後も霊魂が存続し、輪廻転生を繰り返しながら永遠に成長を続ける」(P242)ことで、やがて「神的存在にまで到達することが出来る」(P22)という進化・成長する霊魂観――はオウム真理教や幸福の科学などの新新宗教から小説映画ドラマそしてアニメーションなどのサブカルチャーまで幅広く見られる共通の思想であり、ルーツを辿ると十九世紀の神智学に行き着くものだ。

本書は日本に限らず現代世界に広く行き渡ったこの「霊性進化論」の誕生からナチズムや人種主義、戦後の英米のニューエイジ運動、そして現代日本のオウム真理教と幸福の科学に至る展開の過程と幅広い影響を概観する一冊である。

「霊性進化論」を生み出したのはオカルトにちょっとでも興味がある人には超有名人のブラヴァツキー夫人(1831~91)である。当時、ダーウィンの進化論の登場によって旧来の宗教観が大きく動揺して欧米では心霊主義運動が盛んになっていた。心霊主義運動については以前紹介したので詳しくは「『心霊の文化史—スピリチュアルな英国近代』吉村 正和 著」を参照していただきたい。彼女は進化論と心霊主義とをともに批判しつつ、その両者を融合させる思想を構築した。それが人間の生きる目的が「高度な霊性に向けての進化にある」(P33)として、七段階の進化の過程をたどるという「霊性進化論」であったという。

アストラル体であった第一根幹人種からエーテル体の第二根幹人種ハイパーポリア人、物質的身体を獲得した第三根幹人種レムリア人のとき善と悪・光と闇の対立が勃発し、高度な霊性を持つ大師(マスター)と獣と交わって霊性を失い動物化した人類に二極化、第四根幹人種アトランティス人はテレパシーで意思疎通を行い、言葉を獲得して、最盛期を迎えたが大洪水で滅亡し、洪水を逃れて世界に離散した大師がヒマラヤやエジプトなどの文明を築き、世界を支配する第五根幹人種アーリア人となり、アーリア人はやがて海洋から浮上する大陸で進化する第六根幹人種バーターラ人として物質的身体の束縛から離脱、完全な霊性としての第七根幹人種となる、というもののようだ。

本書では「霊性進化論」の中心要素として「霊性進化」「輪廻転生」「誇大的歴史観」「人間神化/動物化」「秘密結社の支配」「霊的階層化」「霊的交信」「秘教的伝統・メタ宗教」の8つが挙げられている。

ブラヴァツキー夫人死後の神智学と霊性進化論の展開について、ヨーガと瞑想を取り入れ組織を階層化して、権威としてクリシュナムルティという少年を擁立したチャールズ・リードビーターと、キリストを太陽神に模してアーリマンとの相剋の中でアーリア人と北欧神話とを結びつけて後のアーリア人至上主義の道を拓いたルドルフ・シュタイナー(シュタイナー教育でお馴染み)の二つの流れから、アーリア人種至上主義、ナチズムと反ユダヤ主義への展開が概説されている。

戦中戦後の欧米社会における霊性進化論の影響としては第二章で前世診断や予言などで人気を博したエドガー・ケイシー、アダムスキー型円盤と平和主義活動で有名なジョージ・アダムスキー、マヤ暦の2012年終末予言を唱えたホゼ・アグエイアス、爬虫類人陰謀論を唱えたデーヴィッド・アイクらの思想が霊性進化論を背景にしていることが論じられている。

日本の霊性進化論の展開は「ヨーガや密教の修行を中心とする流れと、スピリチュアリズムを中心とする二種類に大別」(P180)できるとして、前者の系譜として神智学信奉者でヨーガ団体「龍王会」を開いた三浦開造にはじまり、三浦らの霊性進化論に影響を受けた玉光神社宮司本山博と阿含宗を開いて霊性進化論的教義を唱えた桐山靖雄を紹介し、桐山からオウム真理教へ至る展開とオウム真理教の思想が論じられている。一方、後者のスピリチュアリズム的霊性進化論の系譜として、英米文学者で大本教信者として出口王仁三郎の片腕として活躍、後に対立した浅野和三郎にはじまり、浅野と交流の深かった小田秀人主宰の心霊主義団体の影響を受けて新興宗教「GLA」を設立した高橋信次と後継者の高橋佳子、GLAの教義に大きな影響を与えたSF作家平井和正らの思想を詳述して、そのGLAに大きな影響を受け高橋信次から霊示を受けたと称する大川隆法によって設立された幸福の科学へと至る過程が描かれる。

もう少し幅広く七十年代日本のオカルティズムの受容については以前書いた記事「『オカルトの帝国―1970年代の日本を読む』一柳 廣孝 編著」を参照ください。

ダーウィンの進化論と近代科学の影響で諸宗教の知恵が急速に説得力を失いつつあったことと、急速な社会の流動化と物質的な進歩の過程の中で自己のアイデンティティの基盤が揺らいでいたという十九世紀後半の社会を背景にして霊性進化論は「ほとんど唯一の福音とも思われるほどに」(P242)説得力を持った。自らの霊性=魂を進化させることで神にも近づけるかもしれない、その先にはユートピアが広がっているという希望に繋がる。また、「人間を単なる物質的存在と捉えるのではなく、その本質が霊的次元にあることを認識し、絶えざる反省と研鑽を通じて、自らの霊性を進化・向上させてゆく」(P242)という自己啓発的な効果もある。

一方で、霊性進化論は「純然たる誇大妄想の体系に帰着」(P242)するという負の側面が大きいこともまた強く指摘されるものだ。霊性進化論の系譜にナチズムからオウム真理教まであまりに強烈なラインナップが揃っているのもその負の側面ゆえだ。霊的進化と動物化という二元論、善と悪の二項対立を特徴とするがゆえに、著者は霊的エリート主義の形成、被害妄想の昂進、偽史の膨張の3つを負の側面として挙げている。

人間の有する霊性が段階的に設定されることで、高度な霊性に到達したものとそうでないものとの間に差別と服従の関係が生み出され、時に差別意識に基づく攻撃が行われることになる。また、霊的進化論という単純化によって信奉者は自らの思想に正当性を獲得する一方で、批判に対しては強烈な被害妄想を抱くことになる。彼らは洗脳されている、真理を隠蔽されているという陰謀論と高い親和性がある。さらに、死後の霊魂の永続性という観念を歴史や宇宙論にも持ち込むため、超古代文明とか宇宙人の存在などの妄想を引き起こし、光と闇の対立から最終戦争論へと陥りやすい。

霊性進化論的な思考は現代社会でもありとあらゆるところで見られる。前世とか輪廻転生はすでに日常会話でも飛び出す程度に広く信じられている、あるいは多くの人が口に出さないまでもどこかでその可能性を認識している。SFやファンタジー、様々なエンターテイメント作品では高次の存在だとか神化とかはほぼ必須のアイテムでもある。世界を操るなんたらかんたらもエンタメとしてだけではなく、実際に信じている人も非常に多い。というか二項対立的理解というのは確かに人間の根源的な認識方法の一つなのだろうが、霊性進化論とその影響を受けた大小様々なオカルト、宗教、思想さらには政治まで浸透してきた過程で、非常にとっつきやすくなっている。

霊性の進化そのものもライフハックや自己啓発では非常に手軽に使われるようになっている。最近ネットでよく目にするようになったミニマリズムなんか、非常にカジュアルで取るに足りないような話題だが、信奉者はより多くモノを捨てている人を次のステージ、レベルといった言葉でもてはやしているのをよく見かけて、霊性進化論のポップでカジュアルな正嫡感が強いし、一部の疑似科学もドグマ化する過程で霊性の上下や批判者に対する被害妄想などをこじらせていっている。

エンタメ分野だともう数えきれない。古くはウェルズ「タイムマシン」のモーロック人とイーロイ人が霊性を高めた人類と動物化した人類という構図だし、日本でも小松左京の「果しなき流れの果に」は宇宙人によって人類の中の選ばれた人びとが物質的身体を失って高次の存在に引き上げられていく物語だ。人類の進化を総括するクラーク「幼年期の終わり」などを挙げるまでもなくSF分野で霊性の進化を巡るドラマは数えきれないほど描かれてきた。

本書では「新世紀エヴァンゲリオン」「ふしぎの海のナディア」などが挙げられているが、もっと直近のアニメを挙げてみよう。例えば「魔法少女まどか☆マギカ」、思春期の少女たちから選ばれて魔法少女になり、その動物化的な姿としてソウルジェムが汚れて(霊性を失って)魔女化し、一方で物質的身体を失って高次の存在である概念化していく。同じ脚本家虚淵玄の「翠星のガルガンティア」の人類とヒディアーズの対立構図も人間の霊性を巡って科学的な過程を通じての動物化と二項対立をたどっていた。またイデオンから直近のGレコまで富野由悠季作品と霊性の進化は切っても切り離せない。「クロスアンジュ」は霊性の高い人間と低い人間の差別の構図の中で物語が進み、高次の存在なども登場して、むしろ霊性進化に対する抵抗と人間賛歌が描かれた。

直近で放送終了したばかりの「戦姫絶唱シンフォギア」シリーズもオカルト色、特に神智学ネタがガジェットとして多数盛り込まれている。ネフィリムは聖書ネタだが、ブラヴァツキー夫人はアトランティス人と対立した闇の子に位置づけた。アーネンエルベ機関という組織が最新作GXで主人公サイドの協力者として登場するが、アーネンエルベとは「祖先の遺産」を意味するナチ親衛隊(SS)の中の北欧神話・アーリア人種研究機関のことで本書でも紹介されている。ヨーロッパの台頭どうこう言ってたし、もしかして続編ではナチの残党かなんかと戦うのだろうか。ますます80年代B級映画感が。

まだまだ映画ドラマ小説サブカルチャーから思想宗教疑似科学占いライフハックなどなどいくらでも見つけることが出来る。これらが特別なのではなく、大なり小なり当たり前の共通の理解として霊性進化論の影響は形を変えつつ存在しているということだ。このような誰もが共有してきた文化的宗教的背景の中からオウム真理教は地続きに生まれてきたのであり、その土壌はかつてより薄く広く隅々まで行き渡っている。

近代化の中でかつて伝統宗教の中に位置づけられていた霊魂は行き場を失い、ようやく見出されたのが非常に危さを孕んだ霊魂観であったというのが、本書からは非常によくわかる。今ここに行きている自分がいつか必ず消滅するという事実に耐えられる人というのはそうそう多くない。一方でよりよい自分になりたいという願いが、魂の進化という観念と結びつくのも当然の帰結でもある。現代社会においてこれにかわる説得力のある霊魂観というのはなかなか見当たらないこともあって、本書で描かれるような霊性進化論の系譜と陥穽は人類が直面している問題の一つとして挙げられるだろう。

著者はインタビューで以下のように語っている。


なぜ人間はオカルトにハマってしまうのか? | 今月のマストバイ新書 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト
「このような霊魂観を克服するためには、「魂とは何か」という問題をあらためて公に論じ合い、社会的合意を形成しなければならないでしょう。しかしそれは、いつ、どのような仕方で可能なのか。率直に申し上げて、現状では、私にも見通しがあるわけではありません。ただ、その前段階として、先ほど述べたように、現在の社会が抱えている困難や弱点の構造を、可能なかぎり明確化しておく必要があるのだろうと考えています。」

「現在の社会が抱えている困難や弱点の構造を、可能なかぎり明確化しておく必要」について心の底から同意しつつ、むしろ、霊性進化論の克服ではなく、その負の側面を認識したうえでどう止揚するかの方に軸足を移すほうが現実的ではないかと思わないでもない。多くの人がどこかで信じ、受け入れている「霊魂は進化する」という霊魂観・宗教観を認め、そのうえで二項対立と二元論に陥らないような安全弁をどう築くかこそ重要ではないかと、今まさに起こっている「近代」の落とし子、選民主義と被害妄想と陰謀論的世界観の具現化であるISILの暴虐を眺めつつ思う。

イスラームの聖戦復古主義も元を辿れば欧米近代社会への反発から生まれている。進化論から援用されて登場した社会進化論的な世界観への反発からキリスト教原理主義が生まれ、キリスト教原理主義・宗教保守主義と進歩主義の対立のなかでやがて進歩主義とリベラリズムの時代を迎え、このアメリカ社会に対する批判の一つとして当時のイスラーム世界の衰退と結びつけるかたちで思想家サイード・クトゥブが生み出したのがイスラームの聖戦復古主義という流れになる。霊性進化論と戦後アメリカの進歩主義との親和性は本書で論じられている通りだ。そして霊性進化論の負の側面として挙げられる特徴をクトゥブ以来のイスラーム聖戦復古主義もキリスト教原理主義もまた共有している。

何にしろ、現代社会の諸問題の一つをわかりやすく、構造的に捉えるとても良く出来た入門書の一つだと思うので、おすすめ。





現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 (ちくま新書)

posted with ヨメレバ

大田 俊寛 筑摩書房 2013-07-10





<目次>

  オウム真理教の最終目的とは
  ハルマゲドンと救済
  霊性の進化と退化
  神人か獣人か

第一章 神智学の展開 21

 1 神智学の秘密教義──ブラヴァツキー夫人 22
  ブラヴァツキーの経歴①──放浪生活から神智学協会の結成まで
  ブラヴァツキーの経歴②──インド文化との接触
  神智学の折衷的教義
  アメリカ社会の状況
  進化論と心霊主義の結合
  『シークレット・ドクトリンの』宇宙論
  七つの根幹人種の歴史
  霊的進化と物質的進化の交錯
  霊性進化論の中心的要素

 2 大師のハイアラーキー──チャールズ・リードビーター 48
  リードビーターの経歴①──インドでの修行
  リードビーターの経歴②──クリシュナムルティとの邂逅
  瞑想やヨーガによる霊能力開発
  イニシエーションとハイアラーキー
  「東方の星教団」の崩壊

 3 キリストとアーリマンの相克──ルドルフ・シュタイナー 63
  シュタイナーの経歴①──前半生の思想遍歴
  シュタイナーの経歴②──神智学から人智学へ
  宇宙の多層構造に基づく霊性進化
  ルシファー・キリスト・アーリマン
  近代におけるアーリマンの暗躍

 4 神人としてのアーリア人種──アリオゾフィ 79
  アーリアン学説と神智学
  リストのゲルマン崇拝
  秘教アルマニスムス
  ランツの神聖動物学
  『神智学とアッシリアの獣人』
  新テンプル騎士団
  ゲルマン主義結社からナチスへ
  ユダヤ陰謀論の蔓延
  『二十世紀の神話』と親衛隊
  神々と獣たち

第二章 米英のポップ・オカルティズム 105

 1 輪廻転生と超古代史──エドガー・ケイシー 107
  ケイシーの経歴①──催眠時人格の出現
  ケイシーの経歴②──前世の解読
  ポピュラー化するケイシー思想
  ライフ・リーディングのメカニズム
  アトランティス滅亡の物語
  現代文明の岐路

 2 UFOと宇宙の哲学──ジョージ・アダムスキー 122
  アダムスキーの経歴①──UFO以前
  アダムスキーの経歴②──円盤に乗った金星人との邂逅
  「王立チベット教団」の教え
  スペース・ブラザーズと宇宙哲学
  地球は「罪人の追放場所」
  サイレンス・グループの暗躍

 3 マヤ暦が示す二〇一二年の終末──ホゼ・アグエイアス 139
  アグエイアスの経歴①──古代文明への憧憬
  アグエイアスの経歴②──思想遍歴の時代
  アグエイアスの経歴③──パカル・ヴォタンとの交信
  銀河的マヤの探究
  五一二五年周期と一三のバクトゥン
  二〇一二年の終末
  「ハーモニック・コンバージェンス」の儀式
  偽りの時間による奴隷化

 4 爬虫類人陰謀論──デーヴィッド・アイク 160
  アイクの経歴①──サッカー選手から緑の党へ
  アイクの経歴②──ニューエイジと陰謀論
  レプティリアンによる人類家畜化
  『議定書』の新解釈
  人間の潜在エネルギー
  ユダヤ陰謀論からアーリア陰謀論へ
  戦後のオカルティズムからの影響
  被害妄想の結晶化
第三章 日本の新宗教 179

 1 日本シャンバラ化計画──オウム真理教 181
  三浦関造の竜王会
  本山博の超心理学
  桐山靖雄の阿含宗
  神仙民族とシャンバラ
  教義と教団の拡充
  社会との対立と終末論の昂進
  陰謀論への推移
  奇妙な戦争

 2 九次元霊エル・カンターレの降臨──幸福の科学 206
  浅野和三郎の心霊主義
  高橋信次の霊体験
  GLAの世界観
  アメリカの新宗教からの影響
  エル・ランティーを自称する高橋信次
  立宗までの経緯
  エル・カンターレ崇拝の確立
  『太陽の法』の宇宙論
  諸文明の変遷
  神智学との共通性
  神霊政治学とユートピア建設
  悪魔論の発展

おわりに 239

主要参考資料一覧 246



https://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-07-16


『現代オカルトの根源 霊性進化論の光と闇』(大田俊寛) [読書(オカルト)]

 「オウムの例に顕著なように、霊性進化論は、その思考を突き詰めてゆけば、人間は神に進化するか動物に堕ちるかの二つに一つであるという、極端な世界観であると言わざるをえないだろう。しかし、本書の記述において徐々に明らかにされるように、現代社会には、知らず知らずのうちにこうした世界観に絡め取られることになる思想的回路が、さまざまな場所に張り巡らされている」(新書版p.18)

 神智学、超古代史、UFOコンタクティー、マヤ歴世界終末説、爬虫類人陰謀論、オウム真理教、幸福の科学。一見してばらばらに見える様々なオカルト潮流の元となっている共通の思想体系とは。新書版(筑摩書房)出版は、2013年07月です。

 現代の様々なオカルトや新宗教を、「霊性進化論の展開」という視点で読み解くと、あら不思議、奇怪に入り組んだ迷宮のようにも思えた現代オカルト史が、驚くほどシンプルにすっきり理解できる。宗教学者がオカルトの沼地を埋め立てて区画整理したような、目からうろこが落ちる一冊です。

 「人間の歴史は全体として、霊性を進化させる歩みとして理解されるが、しかし他方、その道を転落し、「獣人」へと退化・堕落してしまう霊魂も存在する。(中略)人間の存在を、霊性の進化と退化という二元論によって捉えようとするこの図式を、本書では「霊性進化論」と称する」(新書版p.16)

 「霊性進化論とは、近代において宗教と科学のあいだに生じた亀裂に対し、その亀裂を生み出す大きな原因となった「進化」という科学的概念を宗教の領域に大胆に導入することにより、両者を再び融合させようとする試みであったと理解することができる」(新書版p.244、245)

 全体は三つの章に分かれており、霊性進化論の誕生、発展、日本における受容というように、その系譜を辿ってゆきます。

 「第一章 神智学の展開」では、19世紀後半に活躍したブラヴァツキー夫人の経歴と彼女が創始した神智学の教説を分析します。そして、そこには「霊性進化論」の特徴がすでに完成された形で含まれていたことが明らかになります。

その特徴とは、霊性進化、輪廻転生、誇大的歴史観、人間神化/動物化、秘密結社の支配、霊的階層化、霊的交信、秘教的伝統・メタ宗教、の八つです(新書版p.46、47)。ここでは個々の要素については説明しませんが、字面から何となく想像がつくのではないでしょうか。興味ある方は本書をお読みください。

 本書全体を通読してからここを再読すると、なるほど、その後に現れるオカルト体系の基本要素がすべて登場していることが分かります。その後、これに匹敵する影響力を持つオリジナルな妄想体系を誰も生み出せなかったわけで、決して皮肉ではなく、ブラヴァツキー夫人、やっぱり超絶的な天才としか言いようがありません。

 さらに、ブラヴァツキー夫人亡き後、神智学を引き継いで発展させたリードビーター、シュタイナーといった人々の活動、神智学の影響も受けて広まったアリオゾフィ(アーリア人種至上主義)からユダヤ陰謀論、そしてナチズム、ホロコーストへと至るその後の展開が概説されます。いっけん他愛もない霊性進化論のなかに秘められている、危険で破壊的なパワーには慄然とさせられます。

 「ナチズムにおける民族的運動が、通常の近代的ナショナリズムの範疇を遥かに超える暴挙に結びついた原因の一つとして、霊性進化論に基づく特異な世界観からの隠然たる影響があったということを、われわれは決して見逃してはならないだろう」(新書版p.104)

 「第二章 米英のポップ・オカルティズム」では、ニューエイジ運動に代表されるような通俗オカルトがどのようにして生まれ発展したのかを分析します。

 「実際のところそれらの思想においては、体系の骨組み自体は神智学のそれからほとんど変化していないのだが、大衆の目を引くために、新奇性やエキゾティシズムを感じさせるさまざまな装いが、その表面に施されている」(新書版p.106)

 眠れる予言者エドガー・ケーシー、金星人とコンタクトしてUFOに乗ったジョージ・アダムスキー、マヤ暦による2012年世界終末説を唱えたホゼ・アグエイアス、爬虫類人(レプティリアン)による人類家畜化計画を糾弾するデーヴィッド・アイク。

 この章で紹介、分析される四名の主張は、一見するとバラバラに見えますが、いずれも神智学に含まれていた霊性進化論を分かりやすくポップに飾りたてたものだと解釈すると、実はほとんど同じものだということが明らかになります。

 「霊の性質によって神人と獣人を区別するという二元論的思考、さらには、神的本質を有する人間が獣的勢力によって脅かされるという構図自体は、依然として持ち越された。(中略)戦後のオカルティズムにおいては、霊性進化に向かう人類の歩みを、邪悪な超古代的・宇宙的存在者が妨害しているという図式がしばしば描かれたのである」(新書版p.176)

 さらにはチャールズ・フォートの「人類家畜説」、エイリアン・アブダクション(宇宙人による誘拐と人体実験)、宇宙考古学、様々な誇大妄想的陰謀論など、おなじみの話もそのバリエーションであることが明らかにされ、第二章は幕を閉じます。

 「第三章 日本の新宗教」では、日本に導入された霊性進化論が生み出した新宗教の代表として、オウム真理教と幸福の科学を取り上げ、その教義を分析します。

 「日本における霊性進化論の展開は、全体として見れば、ヨーガや密教の修行を中心とする流れと、スピリチュアリズムを中心とする流れの二種類に大別することができる。(中略)それぞれの流れを代表する新宗教の団体として、オウム真理教と幸福の科学を挙げることができるだろう」(新書版p.180、181)

 まったく異なるように思えるこれらの宗教団体ですが、その教義を「霊性進化論の日本土着化」と見なして分析してみると、共通の源流から発していることがよく分かるのです。

 というわけで、神智学として誕生した「霊的進化論」というシンプルなミームが、どんどんバリエーションを広げて生存競争を繰り広げてきた、という視点から現代オカルト史を読み解くという試みには興奮させられます。

 ややシンプル化しすぎではないかという懸念はありますが、一世紀半におよぶオカルトの全体像を把握できる(できた気になる)というのはやっぱり凄い。それは、オカルトを軽んじたり笑い物にしたりするのではなく、「近代科学を手にしたはずの現代人が、なぜオカルトにこれほどまでに必死にすがってしまうのか」という深刻な問いに、きちんと向き合うために大切なことなのでしょう。

 「約150年のあいだに生み出された霊性進化論の数々のヴァリエーションを概観してきた今、その理論が実際には、妄想の体系以外のものを生み出しえないということを、もはや結論して良いと思われる。しかし、果たしてわれわれは、その思想を一笑に付して済ますことが許されるだろうか」(新書版p.245)

 「宗教と科学のあいだに開いた亀裂、すなわち、科学的世界観や物質主義的価値観のみで社会を持続的に運営することが本当に可能なのか、長い歴史において人間の生を支え続けた過去の宗教的遺産を今日どのように継承するべきかといった、霊性進化論を生み出す要因となった問題は、根本的な解を示されないまま、今もなおわれわれの眼前に差し向けられている」(新書版p.245)










オカルト

2018-12-28 17:10:31 | 思想、哲学、宇宙論
オカルト(英語: occult)は、秘学・神秘(的なこと)・超自然的なもの[1]。


目次 [非表示]
1 概要
2 脚注
3 参考文献
4 関連項目
5 外部リンク

概要[編集]

ラテン語: occulere の過去分詞 occulta(隠されたもの)を語源とする。目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する。そのような知識の探求とそれによって得られた知識体系は「オカルティズム」と呼ばれている。ただし、何をもって「オカルト」とするのかについては、時代や論者の立場等により見解が異なる。

オカルティズムはフランス人魔術師エリファス・レヴィが能動的な魔術体系を提唱した時に使用した語である[2]。対して「オカルト」という形容詞が英語圏で一般に使用されるようになったのは、英国の神智学協会会員のアルフレッド・パーシー・シネット(英語版)が1881年に出版した神智学書『オカルトの世界(英語版)』(The Occult World)からとされる[2]。オカルティズムが比較的限定的に用いられたのに比べて、オカルトは広く用いられた[2]。

この語は、ヨーロッパにおいては、論敵にレッテルを貼るために使われてきた歴史を持つ。特に、正統派を自認している側から、そうではない側をこの名称で呼ぶことが行われた。ただし、その正統派が誰なのかという点は時代とともに変遷する。

例えば、アイザック・ニュートンが万有引力を提唱した時には、同時代の学者たちから“オカルト・フォース”を導入しているとの非難が浴びせられた。だが、その後はニュートンの説のほうが次第に正当との扱いになり、“オカルト”ではなくなり、レッテルを貼っていた側のほうが非正統派となってしまったわけである。またこの事例は、自らの理論体系・知識体系がその一部に(万有引力のようにまさしく)「目で見たり触れて感じたりすることのできないこと」を含んでいても、論者自身は通常それを“オカルト”とは呼ばないものであるということも示している。

そもそも、この語がこのような使われ方をする別の理由としては、立場が異なる知識体系の内容はそれがどんなものであれ、大抵はとりあえず慣れないうちはひどく意味不明であり、まるで得体の知れないものを扱っているように感じられることから、“隠されたもの”という語があればその語を用いて非難してしまいたくなるという人間の心理上の事情もある。宗教や信仰の分野においても、そのような原理は働いており、自らの信仰体系とは異なるものは即「オカルト」と呼ぶことにもつながる。

実際、キリスト教が正統派とされていた(あるいは自身でそう自認できた)19世紀のヨーロッパにおいて、いわゆる“正統派キリスト教会”の信仰体系とは異なる信仰体系(異教)が復興してきた時には、それが「オカルト」と呼ばれることになった。

この歴史の影響から「19世紀以降の、正統キリスト教以外の平常の生活から隠された人間の知識を超えた神秘の研究とその結果である神秘主義体系がオカルティズムと呼ばれる」と解されることもある。

もっとも、上述の心理的原理により、その後この「オカルト」という語は拡張的に利用されていくことになった。後年、自然科学の分野が発展すると、自らを“正統な科学”の担い手と自認する勢力が自らとは異なる手法を「オカルト」と呼ぶことも起きた。今日では、伝統宗教からはずれた“異端”宗教、民間宗教、宗教的俗説のようなものに限らず、単に「一般的でない知識」まで「オカルト」と呼ばれることが多い。


稲荷神

2018-12-28 14:36:50 | 思想、哲学、宇宙論

https://sites.google.com/site/supirichuaruhiringu/home/shen-no-suiri-wen-ti-jie-jue-o-dao-hesan-wen-ti-jie-jue

神々の祟り問題解決

祟り神

神様であっても人が無礼なことをすれば、祟ることがあります。神社を取り壊そうとしたり、鳥居を移動させようとして、怪我人やひどい時は死人まで出る事件がありました。
神様を粗末にするものではありません。

● 稲荷神は祟りなどが強く危険な神か

お稲荷様は元々は農耕の神様です。
その神様が何故に祟るのでしょう。
お稲荷様が危険なのではなくて、稲荷神社の境内では強く、他よりも金儲けしたい、他を押しのけて自分だけ金儲けしたいなどという、現世利益(自分の金銭利益欲)を願う、欲望のマイナス波動を持つ人々の念で渦巻いてしまっているのです。
さらに、その波動と同調する低級霊が集まってしまってますから霊感のある方は、低級な霊を感じたり見たりしますから、気分が悪くなったりするのです。
それを知らないで、お稲荷様が祟るというのでしょう。
稲荷神社でも、お稲荷様という神様の存在しない、魂の入っていない神社も数知れずあります。
そこでは、低級霊が支配しやすくなっていると思います。
お稲荷様のいらっしゃる神社は、お稲荷様のパワーが強く、低級霊は寄せ付けないと思います。
現世利益や、誰よりも自分だけとか、憎しみ恨みを願うことで、自らマイナス波動という毒を放ち、低級霊と同調することがありえるので、神仏に祈るとき、普段でもプラスに、感謝の気持ちで生きたいですよね。
それと、お稲荷様は動物の神ではありません。倉稲魂命・宇迦之御魂神とも呼ばれ、須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売命(かみおおいちひめのみこと)との間の御子であり穀物豊穣の神様だそうです。
狐はそのお稲荷様の神使です。
昔から狐に化かされる、狐は祟りやすい、狐に取り憑かれる、といった俗信も普及していて、今でも稲荷を怖がったり、敬遠する人も多いからもあると思います。
でも神使の狐さんは野の狐ではなく、白い狐さんです。
ただ、地域によるのですが、狐=稲荷神と勘違いして広まり、住む人の昔の狐伝説により、狐を稲荷として祀る信仰の稲荷神社があるのも事実です。
狐を祀る祠を造る為に掘ると、白蛇が現れたことで、龍神様と関係が深いと云われているため、龍神様と一緒に祀る稲荷神社もあります。
神仏がお喜びになられるのは、神頼みしたからそれだけで良いわけではなく祈る私たちが、その願い事に対しても、普段でも、向上心をもち、自分でも努力すること、けな気であること、生きようとすること、失敗しても、また立ち上がろうとする全てとしようとする気持ち、感謝の気持ち、人を思いやる気持ち、自然を大切にする気持ち、悪事を成したり思考しないこと、お稲荷様や神仏に対しても無礼なことをしないこと、そういった努力をお喜びになられます。
その上で、お力をお貸しくださったり、応援して下さったりします。
要は生きている私たちも、素直に地道に頑張ろうとする人を応援したくなる気持ちと似ていますね。


ドキュメンタリー「アイヌモシリに生きる」

2018-12-26 14:26:20 | 思想、哲学、宇宙論




https://yaplog.jp/sanrokudiary/archive/7671より


NHKで放送されたドキュメンタリー「アイヌモシリに生きる」を見ました。
今、ブームのアイヌの生活ぶりが見られるのかな?と見始めたらまあ、これが酷いお話で_(:3」∠)_
せっかく、アイヌ民族への理解も進んで好意的に受け取る人も増えてきているのに現実のアイヌの代表がこの人達とか思われたら…なんだかものすごくネガティブな気持ちになってしまうんではないかしら…と感じる内容でした。

差別され迫害された歴史がある…というのはわかるんですが。
アイヌの家庭の息子さんが「北大の大学院に行くか就職か進路を悩んでいる」と父に相談したら。言下に、
「お前はアイヌとして生きろ。就職なんか考えるな。大学院も行くな。なーに金の心配ならするな」
とバッサリと言い放つシーンがありましてね。

「え??息子さんは優秀そうだし、大学院に行きたいっぽいのに、なにその金の心配はするな、アイヌの活動家として生きろってソレはどーなのよ。息子さんが自由に生きる権利はないんかいこの家では」
となんかもやっとしました。
おそらくそれは、差別の歴史を受け継いで語り継いで憎しみを継ぐことでなんかしらのお金を生むシステムが現存しているってことの証拠なんでしょうな。
差別がお金を生むと言うか、利権を生むんだろうなあという印象を受けました。それはよく言われるBやZと似たようなシステムなのかもしれません。
「アイヌで食べていく(差別を商売にする)」って道があるんだろうなあと暗澹たる気持ちになっちゃいましたね。

先祖の墓も日本式に作って埋葬してたのに、「やっぱりアイヌ伝来の墓に埋葬し直すぞ!」と突如ユンボで墓石を壊し始め(;´Д`)暴いた墓から先祖の骨を集めて黒いゴミ袋に入れて(;´Д`)近くのユンボで掘った穴にばらまいて土葬し直す方が出てきたりとか…
色々強烈なドキュメンタリーでした。

でも最大の驚きは、北大がアイヌ民族の遺骨を研究用に保管してて、それを返還するという事があったそうなんですが。
その場に北海道大学の副学長が正装して現れてたんですが、アイヌ側の代表者の男性が座ってふんぞり返ったまま、
「ごらあ、謝罪せんか!」みたいに恫喝したんでぶったまげてしまいました。
別に副学長がアイヌの墓を盗掘して骨を集めたわけでもないのに、謝罪しろって…(;´Д`)
※一応副学長は「骨を今まで管理してて申し訳なかった、お返しします」的な事は言ってた。

「これが噂に聞くプロアイヌか!?」とぎょっとしました。
そしたらそのアイヌのおっちゃんの暴言に呼応するように、北大の准教授って人が、
「みんなでちゃんと謝りましょうよ!謝罪するのが私達の務めではないんですかああああうわああああああ」
と気が狂ったみたいに芝居がかった変な茶番を始めてしまって( ゚д゚)ポカーン

番組冒頭に出てきた北大の大学院に行っているって女性も変な芝居がかった事やってたし。なんかポエムな変な論文書いてたし。

もしかして「北海道では茶番がトレンドなの?」という思いを持ちました。変な世界でした。
でもこの准教授ってひとにかっぱの霊がついているのが見えた気がしたので、全てはかっぱの悪霊のせいなのかもしれませんね。泣き叫んで「謝罪しましょうよおおおおおおお」と怒鳴っている准教授はどう見てもかっぱでしたから。

なんかもう普通の日本人にとっては全体的に、
「アイヌ、コワイ」という印象を与えて「コワイから触らんどこ」と思わせるような番組でしたね。
NHK的には「また美味しい反日番組できちゃったなあ」と悦に入っている気配もしますが。
でもこれネガキャンにしかなってませんから。せっかくの「ゴールデンカムイ」が作ってくれたアイヌに対する良い印象をNHKと活動家が一緒になってぶち壊すてのはよくねえなあ(単純に)


動画
https://www.dailymotion.com/video/x6qfzsl



差別を煽って対立を生み出そうとする人は、共存共栄の宇宙の法則から外れているので

霊的進化が遅れると思います。

アイヌのアートの舞台裏・・・

2018-12-25 14:17:42 | 思想、哲学、宇宙論
ブログ後進民族 アイヌ より

「現代アイヌの差別撤廃運動「北海道アイヌ協会」と利権に群がるアイヌ団体と団体・在日団体との癒着に強く異議を唱える。税金搾取の為に「アイヌ差別を再生産し」『歴史を歪曲させる』現代アイヌの運動の実態。このままでいいのですか?


http://koushinminzoku.blog117.fc2.com/blog-entry-239.html

アイヌのアートの舞台裏・・・

ダブアイヌバンド( DUB AINU BAND)にアイヌアートプロジェクト。
解散(消滅?)したがアイヌレブルスズ(AINU REBELS)アイヌの何々という訳の分からん自称アーティストが色々いるが「何を持ってしてアーティスト」と言ってるのでしょうか?
アイヌの伝統工芸師も同じ事を質問いたします。

昨年度、札幌の緊急雇用対策で就職困難者が「札幌市定山渓小金湯温泉」にある
「札幌アイヌ文化交流センター」で雇用促進という名目で事業が行われたが、
面白い事に自称アーティストで本業は”ネイチャー”という
「アイヌアートプロジェクト」のリーダーである者が「無職」と申請し事業を受けている・・・・
でっ!その雇用対策の事業の最中にアイヌの活動をしギャラを貰っている・・・・・
はぁ~!このグループ不思議だよね。

前年度は、結城幸司・福本昌二の両名は無資格であるにも関わらず
アイヌの職業訓練の木工科講師を違法に務め事業補助金の返還命令を受けています。
指示したのは副支部長の「澤井アク氏」らしい…
http://blog.goo.ne.jp/ainunews/e/687e3184be31b61495d8406cbfdcee89
資格がないというよりも教える技術も知識もないでしょう
何よりも自分達も前年まで数度同じ訓練を訓練生として受講しながらも
講師になり人に教える事が出来るのか不思議なカラクリ。
ここはアイヌの言いなり行政窓口

この無職の方々は「家族で伝統文化を学ぶと言う名目で」子供までをも引き連れて歩き
ギャラを請求して生活をしていらっしゃるようです。
毎年、アイヌ文化交流センターで開催される
アイヌミュージックコンサートやムックリ大会などが行われるが
毎年同じ顔ぶれで同じ入賞者と完璧な出来レース。
自前での開催であるならば関知しない事は言うまでもありませんが
札幌市の税金や道民の税金で全て運営されてるとなると話は違います。

開催当初は、ムックリ(口琴)大会も部外者が参加していたが、
どんなに部外者が上手だろうと優勝する事はありません。

聞くに堪えないアイヌに賞を授与し
部外者には特別賞とか参加賞と言うとりつけの賞で誤魔化す。
この身内親族の馴れ合いコンサートに
一回100万円以上の税金が使われており、
札幌市も完了報告書の提出のみで決算書も何も提出させておらず
それで助成金が支払われています。

20人も来ない身内のアイヌごっこに100万円は高いとは思いませんか。

仕事は出来ないからとの理由で生活保護を受けているメンバーは
アイヌの活動は出来ている現状。

「私は神と自然の恵みに感謝し~」などを歌い、アイヌには嘘をつかない!と”言ってる”結城さん
アイヌ協会を変えたいとか言ってるようですが、
アイヌ協会や財団がもし仮に変わったとして一番最初に活動できなくなるのは貴方達ではないですか?

それともうひとつ。毎年、目黒で行われている”平田篤”との(違法)個展も
3月中頃に資料をここで公開したいと思いますが
財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構の予算で
毎年通例の個展販売会を行っていることが問題になっていない事はないのですか?
(これは補助金(税金)で行なわれている事業です)
http://ainuart.at.webry.info/
http://www.youtube.com/watch?v=VdbGuq6IF6c

衆議院議員・荒井聡活動報告より

書き上げれば切が無い「アイヌ」のアート何とか・・・
税金でCDを出したり職業訓練を受け続けてみたり、
他のアイヌも共通しているがプロフィールに
「何処何処へ行き何をした」
「海外交流で何処へ行った」
というのは全て税金で賄い、自己負担は何もないと思っていただいて構いません。

ダブアイヌバンド(DUB AINU BAND)の加納オキ等は典型的な代表者で、
ツアー等に同行している者も同じ状況。
アイヌOKI
東京アイヌ協会の「アイヌ文化振興・研究推進機構」成金の星野兄弟も
解散したアイヌレブルズも今後躊躇せずに
ここに実名を出して書きますのでご理解とご協力を宜しくお願いします。

前にも書きましたが事実無根と言うのであれば、
アイヌアートプロジェクトのようにオカルトめいた事をいうのではなく
きちんとした話合える場所を設けますので(いつでもご連絡下さい)
そこできちんとご自分の潔白を証明し、説明していただければよろしいかと存じます。
http://nakanohajime.wordpress.com/2010/11/21/ainu-hoshino-ikabe/


追記:
色々な意味で加納オキ(OKI)が一番典型的インスタントアイヌ。アイヌは先ずは作品ありきではなく、差別がどうした!シャモ(和人)がアイヌの土地を盗人したとかいう言い訳から入る。税金で活動しているから集客があろうがなかろうがお構いなし。(スペースシャワーTVで特番があったようですがw)
それに、加納はじっちゃんに何を教わった!ばっちゃんに何を教わったというが・・・・おいおい!うちのオヤジが亡くなってから死人にくちなしで好き勝手言っちゃ駄目だよ!
言っても効き目はないのは分かってはいるが、一応書いておくね・・・
アーティストというなら、その道だけで食べる覚悟を持てよ・・・
神だ!シャモだ!と他部族の楽器をアイヌ伝統楽器と偽り税金に集りながらアーティストやアイヌを語るなよ・・・
塩をなめる覚悟で自分の作品を作りあげるアーティストに失礼だよ。

この日本の中で国民の税金に集りアイヌを偽る汚点アートは必要ないよ。
やるなら持ち出しでやろうね。




アイヌ音楽

2018-12-24 14:00:38 | 思想、哲学、宇宙論






ペウタンケ?



モシリの曲を作る丸木舟の宿主アトゥイにインタビュー



苅谷:  アトゥイさんが最初にこういう音楽をやろうと思ったのは、いろいろ身体のなか に、昔から聞いた子守唄にしても、おばあちゃんから語られたこともいろいろあ ったと思うんですけど、直接自分が、自分の手でやろうと思いだしたことの動機 というのはなんですか。

 

アトゥイ:  それは小さい頃、あまりいい話ではないんですけど、アイヌであったということ もありまして、と同時に、家が非常に経済的に貧乏だったんですね。それで、周 りに一緒に遊んでくれるお友だちが居なかったんですよ。その時に、一所懸命表 へ出て働いて、その当時は、「雑品」と言ったんですけど、人の捨てた瓶とか、鉄 とか、銅とか、そういったものを、ゴミ場を漁っていた時に、たった一本だけ弦 のついているギターが落ちていたんですね、ゴミ捨て場に。勿論、共鳴板も壊れ ていますよ。それを拾って、ポンと音を出したら、その時すごく気持良かったん ですね。その音の気持の良さになんかこうグッときちゃって、子ども心にも。そ れでじいちゃん、ばあちゃんの歌っている歌を気がついたら、一本の線をたどり ながらなぞっていたんですね。それでたまたま隣に友だちが居なかったというこ ともあって、それがいつの間にか自分の心の友だちになってしまったんですね。 いつも自分の気持ちを慰めてくれる。それが自分で音楽を奏でるきっかけです。 気がついたら、アイヌのじいちゃん、ばあちゃんたちが、焼酎呑みながら歌って いた歌をつま弾きながら、無意識のうちに自分で聞こえてくるもの、自分で感じ たものを音にしだしたんですね。僕がほんとに曲らしい曲を作ったのは、十二歳 位の時です。

 

苅谷:  ほおー!

 

アトゥイ:  だから、あくまでも、これは他人(ひと)様に聞かせて喜んでもらうとか、そういったこ とから始めたんではないんです。自分を慰めるために始めたのがきっかけなんで すね。

 

苅谷:  捨ててあったたった一弦のギターが─。

 

アトゥイ:  だから、もうほんとにあのギターを捨ててくれた人にほんとに感謝しているんで すよ。


苅谷:  そういう出合いだったんですか。

 

アトゥイ:  はい。

 

苅谷:  私は最初から音楽を勉強していたのかと思ったんですね。

 

アトゥイ:  いや、僕は小学校三年の一学期までしか行っていませんから、今、難しい漢字を 読むことも出来ませんし、ましては楽譜を読むことも出来ませんしね。

 

苅谷:  じゃ、此処で今やっていらっしゃる音楽というのは全部楽譜はない?

 

アトゥイ:  まったく楽譜はないです。

 

苅谷:  みなさんは?

 

アトゥイ:  だから、身体で覚えるまで。昔アイヌのじいちゃん、ばあちゃんたちも、楽譜が あって覚えたわけではなくて、

 

苅谷:  口承ですね。

 

アトゥイ:  口承で。身体が記憶するまで勉強する。敢えて勉強しなくても、そういう生活空 間が昔あったんですね。だから、一度覚えたら忘れないですよ。知識として覚え ているんじゃないから。

 

苅谷:  ああ、身体に・・・身に付いちゃって。

 

アトゥイ:  指が覚えていたり、身体が覚えているから。

 

苅谷:  僕が、昨日の夜、ライブを聞かせて貰って、今のお話の中で、いわゆる「心を育 てろ」と。「心を揺らせ」と。あれはあの音楽の中で、僕はすごく感じていますね。 言葉では、今おっしゃられた、「あ、こういうことなのか」というのを、今分かり ましたけどね。心が揺れていましたよ、確かに。ああいう音楽の律動と言うんで すかね、あれがやっぱり人間の一番根底にあるものなんだろうと思いましたけど ね。

 

アトゥイ:  今はちょっと恥ずかしながら、お客さまから二千円という大金を頂いて、ああや っているんですけどね。でも、大事なことはきっと僕に影響を与えてくれたアイ ヌのじいちゃん、ばあちゃんは、自分のために歌ったり、踊ったりしたんですよ ね。そこに居て、観客がいるわけでもない。そして、歌ったり踊ったりしている 姿を、カムイ(神)に見て貰っていたと思うんです。そういった光景が僕の幼い 時の体験としてあるものですから、僕は今でも、自分の音楽というのは、自分の 魂に聞かせる。そして、魂に聞かせることによって、それが心の栄養剤になって いく、ということがあると思うんですね。だから、今でも基本は、お金を取って いますけど、お客さまに迎合して、歌ったり演奏したりするんではなくて、あく までも、「ああ、今日は一日また空気よ、ありがとう。水よ、ありがとう」とこう ほんとに礼拝しながら、そして、僕の歌をなんか感謝の気持ちを込めて、カムイ に聞いて貰いたいなあ、捧げたいなあ、と。そして、自分の心が豊かになってい きたいなあ、というのが、 頑固に変わらないんです よ。
 


 

苅谷:  「ペウタンケ(危急の声)」。 この曲には近代文明の発達 とともに、傲慢になってしまった人間が、多くの神々、つまり自然を傷付けてし まったことへの問い掛けが託されています。

 





アトゥイ:  そこにあるのは、アイヌ語で、「ヌササン(祭 壇)」と言うんですけど、これは我々アイヌ 民族にとっては、とっても大事な場所で、ち ょっと来たら礼拝をするんです。これがイナ ウなんです。此処は基本的には、魂を送る場 所なんですね。だから、その魂を送る祭りで、 とても有名な「イヨマンテ」ってありますよ ね。あれは熊の魂を神の国へ送る時に使われ る。これはやっぱり熊の頭です。とってもこ れは我々アイヌにとっては神聖な場所で─。



 

苅谷:  この場所はそれじゃ古くから、そのままあっ たんですか。

 

アトゥイ:  はい。場所は別の場所にもあったんですけど、 今こういう一つの時代の流れで、今、この木の大木の側で。
これはですね、一段こう低い所にありますね。これは「ランヌ サ」と言うんですけど、これは先祖を供養する時。だから、此 処で一年に一度は必ず地域の人たちが集まって供養する。

 

苅谷:  実際に来て、身体で感じると違いますね。写真で見るのとも違 うし、やっぱり説明を聞いていると、成る程、これが昔からの 伝統的なものなのか、と。まあ信仰ですね。

 



苅谷:  私は考古学に興味を持ち、役者をする傍ら、 多くの発掘にも関わってきました。古い遺跡 を掘る中で、縄文文化とアイヌ文化とが深い 絆で結ばれていることを実感し、アイヌの人 々の信仰に心引かれるようになったのです。




 


 

苅谷:  僕は今日、高台でいろいろ見ましたけど、この屈斜路湖の湖が夜になった時に、 もし青空で、星が煌(きら)めいて、山の稜線がずうっと出たら、非常 に恐いだろうなあ、と。そういうところに、神を感じる人が今 の現代人に何人いるだろうかなあ、と考えるんですよ。僕は感 じますよ。というのは、そういうところに入り込んでしまった のかも知れないんですから。
 

アトゥイ:  「アイヌ」というのは、日本語に直すと「人間」という意味な んですね。だから、「アイヌモシリ」というと、つまり「人間 という生き物が安心して生活出来る空間」を、僕は言っているんじゃないかと思 うんです。「カムイモシリ」というのは、これは「神々が生活する空間」だと思い ますね。

 

苅谷:  要するに、目に見えないもの。アイヌ語でいう「カムイ」というのは、日本語の、 いわゆる「神」とはちょっと違って。

 

アトゥイ:  そうですね。言葉には、民族によって言霊(ことだま)がありますよね。つまり西洋人の考え る神の概念と、日本人の考える神の概念と、アイヌの考える神の概念とは、やっ ぱりニューアンスが違うんですね。我々アイヌ民族が考えるカムイの概念という のは─つまり神の概念ですね─これは、「到底人間の力では計り知れない、及ばな いもの」と考えるんですね。人間は空気を作ることも出来ないし、立派なすごい 魚を創造することも出来ないし、こんな樹木も作り出すことも出来ない。水も作 ること出来ない。つまり、人間の手によって作り出すことの出来ないもの。そし て、到底力及ばないものを、僕は「カムイ」という尊称を与えて、尊敬して付き 合ってきたんではないか、と考えるんですね。だから、アイヌの考える神という のは、実に人間的で豊かなんですね。このカムイが絶対じゃないです。だから、 例えば、子どもが、湖とか川で溺れて、死んだとしたら、その神さまに向かって、 我々の祖先は、アイヌ語で、「カムイコ チャランケ(談判)」、要するに、談判を したらしいんですね。談判をされた神さまもちょっと面食らうと思うんですね。

 

苅谷:  そうですね。

 

アトゥイ:  どういう談判の仕方をするかというと、とってもユニークなんです。本来、神さ まは人間を守る役割を持っていらっしゃる、と。その役割を怠った、と。私は、 常日頃─カムイ─川の神さまでも湖の神さまでも尊敬して付き合ってきている、 と。その尊敬して付き合っているカムイに対して、ほんとに真心を込めて祈り、 そして、真心を込めてイナウ─イナウというのは御幣なんですけどね─を作って、 お酒を捧げ、イナウを捧げ、誠心誠意付き合ってきた、と。オシッコ一つするで も、ああ、どうか一つ、トイコロカムイ(土の中の神さま)よ、どうか私の汚し たこの水を、再び私の飲み水として、あなたの力で受け取って下さい、と言って。 そういう気持でお付き合いしているものですから、結果として、幼い子どもの命、 人間の命を取った神さまは、どうしてくれるんだ、と文句をいう。つまり、これ は神さまに向かって文句をいうということは、これは普通の一般常識では考えら れないことですね。

 

苅谷:  神道(しんとう)では考えられない。

 

アトゥイ:  考えられないんですね。絶対神的な側面がありますから。それだけちょっと裏返 して考えると、如何に自然をカムイとして尊敬して、心からお付き合いをしてき たか。結果として、改造したり破壊したり汚染したりすることは非常に少なかっ た。それだけ自信があるから文句を言える、と僕は思うんですね。そういった意 味では、アイヌの考える神というのはほんとに親しいんですね、神さまと。つま り、「神ありて我あり、我ありて神あり」と考えるんですよ。それはどういうこと かというと、神さまがいらっしゃるから、我々人間もこうして生活していかれる、 と。我々人間が居るから、実は神さまも生活出来るんだ、と。これは面白い話だ と思うんですけど。例えば、人間が居なくなったら、イナウを作って捧げてくれ る人はいない。人間が飲んでも神さまが飲んでも、あんな美味しいお酒を捧げて くれる人も居なくなる。だから、相互信頼を持って、神々の役割、人間の果たす 役割ということを、実に心静かに考えて付き合ってきた。それがアイヌの神に対 する考え方なんですね。

 

苅谷:  両手の掌を上にして、前に挙げますね、これは何か崇めるというのは何となく分 かるんですが。

 

アトゥイ:  あれはアイヌ語で、「オンカミ」というんですね。「オンカミ」というんですけ ど。日本語に直すと、「礼拝(れいはい)」ですね。これはとっても意味がありまして、アイヌ の人たちは必ずと言っていいほど、こうやって礼拝するんですね。それは自らの 心、魂と、大自然の神々の魂と、魂が心静かに、心優しく響き合いますように、 という気持が感謝の現れなんです。

 

苅谷:  でも、この仕草が、さっきのヌササンでやるのも同じですけど、ステージの中の 踊りの音楽と非常によく合うんですけどね。

 

アトゥイ:  だって、音楽に合うかどうか分かりませんけど、私たち日常生活の基本ですから、 礼拝は。崇め奉る礼拝ではなくて、カムイと親しくなりたい礼拝ですから。仲良 くしたいんですよ、神さまと(笑い)。

 

苅谷:  僕らがやるとぎこちないですけど。非常によく合いますですね。

 

アトゥイ:  だから、大自然をほんとにカムイ、神さまとしてほんとに信じていないと、こう 礼拝したって嘘っぽくなりますよね。知識として知っているんではなくて、我々 は。心と心でなんか感じ合っているんですね。それはああいう所作に現れるんで すね。

 

苅谷:  それから、踊りの中で、女性が髪を振りますね、これも昔からの─。

 

アトゥイ:  ああ、これはほんとに、僕が子ども心が付いた時から見ていますから、いつから、 何百年、何千年、何万年やっているか分かりませんけど、相当古くから伝わって いる振りだと思いますね。


苅谷:  あれはなんか意味があるわけですか。

 

アトゥイ:  あれね、木がもの凄く揺れるじゃないですか、台風がきてね。 そうすると、柳の木なんか地面を這うように揺れ動きますよね。 それを表現しているんです。

 

苅谷:  やっぱり自然を、自然そのものが全部こう表現されて─。

 

アトゥイ:  アイヌの踊りというのは─つまり、歌、ものの考え方─先程、自然が教師と言い ましたけど、大自然の情景を取り入れて、魂を表現しているんですね。例えば、 踊りなんかでも、身体を上下運動をしますね。これは海の波ですよ。そして、陸 であれば山ですよ。そういう自然からの、鳥が羽ばたけば・・・こう鶴が羽ばた く。昨日の踊りでも鶴が出てきましたね。丹頂鶴の羽を現して、丹頂鶴になった ような気持になって。

ペウタンケの中で、男性が剣を持ちますね。気が付いたかどうか分かりませんけ ど、剣は─刀ですね─あの刃がどっちに向いているか気が付きましたか?

普通、刃は自分の方に向けます。剣というのは、アイヌの考えでは、人の首を切 ったり命を取るもの、とは考えないんですね。すごい魔力的な力を持っている。 で、魔を払うんです。悪い神さまを払う。だから、決して、アイスは、剣は人を 殺すためのものではなく、悪い神さま─ウエンカムイというんですけど─悪い神 さまを払う。だから、刃は自分に向けて踊るんです。だから、ペウタンケの中で、 何故僕はあれを取り入れているかというと、きっと今生きている人間は、なんか 悪い神さまによって動かされているんじゃないか、と。悪い神さまに支配されて いるんじゃないか、と。悪い神さまに向かって、「どうだ。これが目に入らぬか」 と言って、悪い神さまを追い払う、という役割で、あの剣を使っているんです。

 

苅谷:  あらゆるものがその中にあるんでしょうけど、一つだけ僕らには出来ないなあと 思うのは、「オー・・・」とやる。

 

アトゥイ:  あれは主に男性がするんですね。アイヌ語で、「ウココセ」と言うんです。これ は、僕がアイヌの老人で尊敬していた山本多助(たすけ)さんと言えば、亡くなりましたが、 この方に聞いたところ、こう言っておりましたよ。ウココセの意味は、「神々を自 分の手元、この場所に降ろすんだ」と。だから、アイヌの男性にとっては、あの ウココセはとっても大事なんですね。

 

苅谷:  あれは震わしていますよね。あれはどういう意味があるんですか。

 

アトゥイ:  あれは、「オーオーオーオー~~~」とやるんですけど。これは何故震わすかと いうと、つまり、音が揺れますよね。声を出す時も魂を乗せる。乗せると魂が揺 れる。声が揺れる。どうもそれを神さまはとっても喜ぶ、と言われているんです よ。「アアー」じゃ、あまり喜ばない、と。ほんとに全身全霊真心込めて声を震わ せて、僕は音の魂─音霊(おとだま)と言っているんですけど─その魂を揺らすことによって、 実はそれを聞いた神さまはとっても喜ぶ、という具合に聞いているんです。

 

苅谷:  それが考古学的に証明できることではないんですけど、そのアイヌのウココセを 聞いた時に、「あ、これは確かに神を呼ぶものだな」と思ったんです。それが弥生 時代になると、銅鐸というのが出来るんです。あれは非常に、「カーン」という、 甲高い音なんです。銅鐸を復元して鳴らすと、「カーン」という、半鐘みたいな音 がするんです。あれが、単に、「カーン」と鳴らすんじゃなくて、今のみたいに、 「ガラガラガラ・・・」と鳴らすんだと思うんです。そうすると、大自然にあの 銅鐸の音が、「ワアッ・・・」と響いていくんだ、と思うんです。弥生時代は、あ れがお祭りの中の最高の祭儀なんです。あの音というのは、そのまま今のウココ セに繋がってくるんです。それともう一つ、神主さんが上座の前でやる時に、「オ ーオー・・・」とやりますね。あれは真似、同じようなことなんですか?

 

アトゥイ:  真似というより、やっぱり人間という生き物は、お互いにこの文化接触を行うこ とによって、影響し合いますからね。だから、もしかしたら、アイヌ文化からな んか感じ取ったのかも分かりませんし、また逆に、アイヌが、神主から影響を受 けたのかも分かりませんし、その辺は定かではないんですけど。確かに、神道と 言われている、つまり日本の神社思想なんかみていると、神主のやっている所作 とか、祝詞(のりと)を聞いていると─御幣ってあるでしょう。あれは紙で出来ているけど、 アイヌの場合は木で出来ている。あまりにも似すぎているんですね。

 

苅谷:  それがずうっと原始神道を辿っていって、それこそ古墳時代とか、弥生時代まで いくと、声は残っていないんですけど、仕草があの辺から出来上がってくるんで すよ。そうすると、枝葉が分かれたかも知れませんけど、根本的には、アイヌ文 化の、今の「オーオーオー」という音は、やっぱり弥生時代の銅鐸の音であり、 神主さんが神を呼ぶ時の声であり、ウココセであり、というふうに、分かれてい っている。その基本的なものがやっぱり残っているんだ思うんです。それが今の 音楽と非常に合うんですよ。神主さんのあの「オー・・・」というのは音楽と合 わないです。

 

アトゥイ:  神主さんは震わさないんですよね。「オー・・・」と。

 

苅谷:  だから、ちょっと違うんですよ。その辺が、アイヌの音の方がむしろ僕らには合 う。こういう動きになってくるんですね。それから、作曲されている音楽の音律 というんですか、あれの中にやっぱり子守唄がありましたね。あの中に出てくる あの音律なんかは、僕らの小さい頃の童歌(わらべうた)の音律がずうっと入ってくるんです ね。

 

アトゥイ:  ああ、そうですか。

 

苅谷:  あの感覚というのは、なんで生まれたのかな あ、と。
 


 

苅谷:  この子守唄は、アトゥイさんが、幼い日々へ の追憶を込めて作った曲です。優しい調べは、 日本人である私の心の中にも、どこか懐かし く安らぎに満ちた記憶を呼び起こしてくれました。

 


 

アトゥイ:  子守唄というのは、人間が─子どもであっても、大人であっても寝るということ は、一番無防衛な状態になりますよね。無防衛な状態な時が一番人間が安心しな ければいけませんね。安らぎを持つわけですから。よい静けさを持つわけですか ら、いっときね。だから、ほんとに人間という生き物は、一番安心して、無防衛 になれる音が子守唄だ、と思うんですよ。

 

苅谷:  小さい頃、自然に、例えば、「何々ちゃん、遊ぼう」とかいう音律がありますね。 これはそのまま童歌の中に出てくる音だと思うんです。人間の音階というのは、 頭の中で、「ドレミファソラシド」がなくても、節を付けていつもいっていますよ ね。

 

アトゥイ:  「ドレミファソラシド」という理論は後から出来たものですからね、便宜上。

 

苅谷:  そういう音律というんですか、それがすごくアイヌ文化の音の伝統の中に、節の 中に残っていて、どこかそれを、なんか身体に付いていたものがこう出てきてい るんじゃないかなあ、という気がしましてね。

 

アトゥイ:  人間という生き物の感性というのは、本人が考えなくても本能的なもので、ちゃ んと遺伝子の中に組み込まれていると思うんですね。だから、僕は曲を作る時に、 「さあ、曲を作るぞ。作曲するぞ」と思ったことは、今まで一度もないんです。 自分の遺伝子に仕組まれている感性が、なんか自然に触れて、刺激を受けるのを 待つんですよ。そうすると、実は聞こえてくるんです、音がね。だから、僕が家(うち) らの仲間と音楽をやっている時に、夜中、突然起きるんですね。そうしたら、気 が付いたらピアノに向かって、メロディが聞こえてくる音を弾いている。ギター を弾いている。そして、昼間でもそういうことありますよ。何時でも聞こえてく るわけではないんですけど。僕は、最初、家(うち)にいるメンバーや周りの人たちもみ んな聞こえているものだ、と思ったんです。そうしたら、「わあー、聞こえてくる、 聞こえてくる。お前ら、聞け!聞け!」と言ったら、キョトンとして、「何にも聞 こえてこないよ、私たちには」と言うんですね。

 

苅谷:  可笑しいじゃないか、って。

 

アトゥイ:  可笑しいじゃないか、って、ほんとに悩んだことあるんですよ。みんなも聞こえ ていると思っちゃうんです。そうでしょう、だって、自分が湖が見えるのに、相 手が見えない、と言ったら、ビックリしますよね。だから、それから、「あ、俺は 自分の内に秘めている遺伝子の感性が、何かの形で刺激を受けたら、フッと出て くるんだなあ」という感じしましたね。

 



苅谷:  人間の手によって滅んでいった多くの生き物 たちの魂を慰めるように、アトゥイさんはギ ターを奏でます。

「ペウタンケ(危急の声)」。その後半は、「ウ ココセ」をきっかけに、一転して激しい曲調 に変わりました。人間のあり方は、今のまま で良いのか。自然を傷付け、子孫に残すべき 貴重な財産を失っているのではないか。アトゥイさんのメッセ ージが、激しくダイレクトに心に伝わってきました。まさに、 音楽に魂を乗せたかのような熱気が、小さなライブハウスを満 たし、私はいつの間にか涙を流していました。
 


 

アトゥイ:  今、僕は、日本人の作った社会の仕組みの枠の中で生活をして いますね。朝起きた時には、「おはよう」とか、「こんにちわ」 とか、「こんばんわ」とか、挨拶言葉がありますね。人と人とが出会った時に、顔 を合わせた時に。まあ今の日常生活には、我々にはそういうのは少ないんですけ ど、その昔は、人と人が初めて会った時、交わす挨拶言葉があるんですよ。アイ ヌ語に、「おはよう」「こんにちわ」「こんばんわ」という言葉がないんですよ。 人と人が初めて出会った時に、こうして礼拝をしながら、「イランカラプテ」と言 って挨拶するんです。これは日本語に直すと、「あなたの心にそっと触れさせて頂 きます」という挨拶なんです。それを受けた相手は、男性であれば、両手の掌を 上にして上げる所作をしながら、「ウエランカラプ アンナ」─互いの心にそっと 触れ合いましょう。このような挨拶の言葉から、人と人としての付き合いが始ま り、それが長く付き合えば付き合うほど、美しさが増していく、と考えるんです ね。だから、僕は民族が違うと、一つの挨拶の仕方、感性が違う。感性が違うと いうことが如何に美しいか、と思っているんですよ。

 

苅谷:  そういうことはまあないですね。

 

アトゥイ:  僕が突然苅谷さんに出会った時に、「イランカラプテ」って、ご挨拶しても、「何 だろ、これは?」と思いますよね。

 

苅谷:  思いますね。ただ、やっぱり人の心をやっぱり感じるものは持っていると、自分 では思っているんですけど。

 

アトゥイ:  さっきからお話を聞いているけど、自分の感性を大事にして、それを理屈抜きに 素直に感じる方だなあ、とお見受けしたんですけどね。僕はアイヌの一人として、 やっぱり祖先がいろいろ教えてくれたものの考え方。これはきっと何かこれから の人間の社会、人類のために、役に立つことが一つや二つある筈だ、と。そして、 アイヌの財産、つまり、我々の祖先が残してくれた精神文化、哲学は、アイヌ民 族だけの財産ではなくて、地球人類が共有する財産である、という。僕はそうい う考えを持っているんです。だから、祖先が教えてくれたことを、歌や踊りに、 そして、「ペウタンケ」に気合いを入れて、心を込めて、あれはきっと死ぬまでや るでしょう。

 

苅谷:  「ペウタンケ」、これはどういう意味なんですか。

 

アトゥイ:  「ペウタンケ」というのは、人間が長い人生生きていく中で、もっとも危急を感 じた時に行う所作のことを「ペウタンケ」というんですね。例えば、物事によっ て変化するんですが、火事になった、と。そうしたら、女性が、もの凄い甲高い 声で、隣の村に聞こえるぐらい、今のように騒音がありませんからね。ほんとに 遠くまで聞こえたらしいんですよ。それで、「この家は大変だ。火事になってい る」と言って、危急を知らせる、という時も「ペウタンケ」と言いますし、それ と、神の前で、「我人間として、何も間違ったことをしていない」と言って、「こ の我の願いを、この声を聞き届けよ」と、言って、神様に呼び掛ける時にも使う んですね、「ペウタンケ」。それを今日(こんにち)のモシリのライブで、最後に定番として取 り上げているのは、「もうこのままでいくと人類危ないよ」と。「今、本気になっ て起ち上げなければいけない。僕は危急の時期だ」というふうに考えて、ライブ に取り入れているんです。つまり、「人間が居なくなても、地球は何も困らない。 子々孫々に残すべき財産は、何なのか。共に考えよう」。そういう意味なんです ね。

 

苅谷:  最後にやっぱりシンセサイザーの、ちょっと不気味な、「ホワーン」という、

 

アトゥイ:  ギター弾いている時と一緒ですね。不安感、もう不安感を感じる。

 

苅谷:  それから、今の「オーオーオー・・・」が入ってきて、あの曲。あの曲を聴いて いる時に、やっぱり僕ら後ろでやっぱり涙が出てきましたね。

 

アトゥイ:  僕はほんとに、言い過ぎかも知れませんけど、私初め現代人というのは、集団自 殺する思想を持って、まっしぐら、もうレミング(lemmig:ネズミの一種。時々大 増殖した死の大行進をする)状態のような気がするんですね。だから、俺も生き ている人間の一人として、自分で果たすことは何なのか。命を懸けて、「ペウタン ケ」を音楽に託して、そして、二千円も払ってくれたお客さんに向かって失礼な んですけど、「あんたがた、これでほんとにいいんですか」と。「こんなにボオッ としていていいんですか」と。「本気になって考えて下さい。起ち上がって下さ い。私も頑張ります」という意味であの「ペウタンケ」を最後にやるんです。こ れは、僕が死ぬまで一生、最後の曲で続けるでしょう。「また同じ曲やっているの か」と、お客さんに怒られてもいいんですよ。これは人類の存亡をかけて。やっ ぱり人間が気が付かないとダメですから。

 

苅谷:  そうですね。

 

アトゥイ:  今、感謝をすること─一杯の水を飲むのでも、美味しい空気を吸っていても、ほ んとに有り難いと思っている人は少ないんですよね。

 

苅谷:  まず、ないですね。

 

アトゥイ:  だから、その辺から、人間は一回考え直す必要があるかも知れませんね。

 

苅谷:  諦めていますけどね。そこがやっぱり僕がダメなところだと思うんですけどね。 自分を諦めないでいいんじゃないかとは思うんだけども。

 

アトゥイ:  もう開き直ったらね、結局、諦めた方が楽になるんですね。だけど、僕には十二 人の子どもがいますから。やっぱり自分の子どもたちに残す心の財産は一体なん なのか。諦めないで、気合いを入れて生きていく。やっぱり人間は諦めてはいけ ない。というのを、せめてその心だけをなんか財産として残したい。だから、親 父も頑張る、というところがありますよね。

 

苅谷:  随分いろいろなことを勉強しましたね。

 

アトゥイ:  いや、勉強しなくていいから、なんか感じてくれればいいんですよ。僕は、苅谷 さんに教えているつもりはないし、僕の感性を素直に語っただけであって、それ を何か感じて頂ければ、これも自然界の神々が縁を取り持って下さったんだなあ、 と。僕も感じるわけですね。だから、僕が、苅谷さん、さっき言ったように、人 が人を教えるという仕組みは、アイヌ社会には非常に少ないですから。互いに刺 激し合って、自らを育てていく。そして、自らの個の確立した哲学を構築する。 そのことを互いに尊重しあう。たまたま同一価値観を共有した時には、ああ、偶 然だった、と。だって、苅谷さんは人間で、俺も人間で、眼が二つあって、鼻が 一つあって、眉毛が二つあって。でも、「ああ、苅谷俊介」「アトゥイ」と言って、 お互いに区別も出来るし、周りも区別出来るじゃないですか。人間には代わりは ない。じゃ、そこで、人間には代わりはないけれども、じゃ、己の感性、感じる 価値観の哲学というのは、人に教えられるのではなくて、自分で構築していかな ければいけない、と思うんですね。僕は、それはとっても人間が幸せになる重要 な仕事だ、と思うんです。だから、感性が違うほど美しいんです。僕は、いつも 異なる世界は美しい。異なる価値観の美しさを発見する旅が二十一世紀だ、と思 っているんです。それは、現代の宗教とか、思想というのは、同一価値観を無理 矢理共有させよう、と。結果として、人が人を支配し易くなる。ややもすると、 戦争にも繋がっていく、ということになりますよね。だから、僕は個の確立とい うのは、大自然と心豊かに語り、そして、人間という生き物は、人間同士互いに 刺激しあって、相手に迷惑の掛けないような価値観を、自分の心の中に構築して いく。それが哲学だと思うんです。だから、哲学というのは、何も学者がするも のではなくて、一人ひとりの生活の中で、個人が常日頃、哲学をやればいいんで すよ。そんなもの学校で教えられるものでも何でもないし。ただ、僕は、哲学者 という人がいるんだけど─学問する人だと思うんだけど─それはそれでさて置い て、でも一般の庶民の一人ひとりの心の中に、そういう哲学する心が、きちんと ある社会が確立されれば、もっと安心して平和に暮らせる、と思うんですね。人 を殺すのが俺の趣味だ、というのは頂けないけど、条件がありますよ。著しく他 人に迷惑を掛けない哲学。そして、ああ、苅谷さんの考えと、俺の考えはこんな にも違うのか。その考え方の違いに美しさを、お互いに発見する努力をする必要 がある、と思うんですね。だから、苅谷さんが僕の話を聞いて、あんまり「ウン ウン」と同意されると、何か背中が痒くなってきて、俺は好き勝手に言いたいこ とを言っているだけなのに、と思うんですよ。

 

苅谷:  よく分かりますよ。よく分かるんです。自分がそういうふうになれるか、という ことを考えて、ウンウンと頷いているんですよ(笑い)。

 

 

これは、平成十三年十一月四日に、NHK教育テレビの

「こころの時代」で放映されたものである。