昨日のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」(午後10:00-)の「宮崎駿のすべて」を見ました。
以前、予告を見て、楽しみにしていました。
「ポニョ密着300日」と、映画「崖の上のポニョ」制作の最初から完成までの密着取材です。
14万枚の手描き原画は、自宅から歩いて2分のスタジオで制作されました。
スタッフは、アニメーター、背景美術、色彩設計等350人です。
1.「イメージボード」
宮崎監督の制作方法は、最初にストーリーを作るのではなく、「イメージボード」という1枚の絵に、イメージの核となるものを描き、そこから自分の引き出しを開いてイメージを作っていきます。
2.「半径3mで仕事をする」
宮崎監督は、身近なものから想像力を膨らませます。「トトロ」は近所のバス停からでした。「ポニョ」は、スタッフの娘さん「とき」(1歳半)ちゃんが、とても気が強く元気な子だったことが、イメージのきっかけになりました。
3.宮崎監督の生い立ち
宮崎監督は、昭和16年に4人兄弟の二男として東京に生まれます。胃腸が弱く、医者には20歳まで生きられないかもしれないと言われます。
6歳のとき、母親の宮崎美子さんが病気になります。結核菌が脊髄を侵すもので、おんぶしてとせがんで、涙ながらに断られます。
無理していい子を装いますが、「生まれてこなければよかった」という気持ちが出てきます。
癒してくれるものはマンガでした。手塚治虫さんのマンガに熱中し、自分でも描き始めます。
中3の冬(1958年)に映画「白蛇伝」を見て衝撃を受け、アニメーションの世界に心を惹かれます。大学卒業後、「白蛇伝」を制作した会社に入ります。
才能はずば抜けていて、社内でも評判になります。
高畑勲監督と組んで「アルプスの少女ハイジ」を制作します。
初監督の「ルパン三世 カリオストロの城」を発表しますが、客席はガラガラでした。当時は「宇宙戦艦ヤマト」のようなSFブームでした。
4.どん底の3年間
「もののけ姫」「となりのトトロ」等の企画を作って提案しますが、一つも採用されませんでした。
「このままくたばるのは嫌だと思っていた」と語られます。
アニメ雑誌編集長の鈴木敏夫さん(現在のプロデューサー)が、雑誌にマンガを連載しないかと声をかけてきます。「風の谷のナウシカ」です。連載1年で、好評なので映画化しないかという話が来ます。
迷った末に引き受け、制作の途中で、お母さんの美子さんが亡くなります。72歳でした。死に目に会うことができませんでした。
5.映画のヒット
「風の谷のナウシカ」は全国で91万人が見る大ヒットになりました。
その後も次々とヒット作を制作します。
6.母の影響
病気がちでありながら、気が強かった母親は、宮崎監督のそれぞれの映画の中のキャラクターとして登場でぃます。「崖の上のポニョ」ではデイケアに通うトキさんがそうです。
宮崎監督は、そのトキさんと宗介の終盤のストーリーをどうするかで悩みます。
2007年12月3日の映画の記者会見でも、その部分は絵コンテすら決まっていませんでした。12月28日のスタジオの仕事納めでもまだ描いている途中でした。
歩けなかったトキさんを歩かせることで、病気のため歩くこともままならなかった晩年の母親に好きに動いてもらうことができました。
7.完成
2008年6月、映画完成の初めての試写会がありました。
声優を担当した俳優さん、関係者もほっとして涙ぐんでいる方もありました。
---------------
実際に映画を見たときに、映画の美しさに圧倒されると同時に、宗介の母親の行動に疑問も感じていました。
子供を連れた母親は、子供を守ることを最優先すると自分の経験からも考えるのに、宗助の母親はそうではありませんでした。
不思議に思っていましたが、今回、この番組を見たことで理解ができました。
宮崎監督のがどういう方なのか、映画製作とはどういうことなのか、大勢のスタッフがどのように作るのか、理解できた番組でした。
ランキングに参加中です。応援クリックをお願いいたします
以前、予告を見て、楽しみにしていました。
「ポニョ密着300日」と、映画「崖の上のポニョ」制作の最初から完成までの密着取材です。
14万枚の手描き原画は、自宅から歩いて2分のスタジオで制作されました。
スタッフは、アニメーター、背景美術、色彩設計等350人です。
1.「イメージボード」
宮崎監督の制作方法は、最初にストーリーを作るのではなく、「イメージボード」という1枚の絵に、イメージの核となるものを描き、そこから自分の引き出しを開いてイメージを作っていきます。
2.「半径3mで仕事をする」
宮崎監督は、身近なものから想像力を膨らませます。「トトロ」は近所のバス停からでした。「ポニョ」は、スタッフの娘さん「とき」(1歳半)ちゃんが、とても気が強く元気な子だったことが、イメージのきっかけになりました。
3.宮崎監督の生い立ち
宮崎監督は、昭和16年に4人兄弟の二男として東京に生まれます。胃腸が弱く、医者には20歳まで生きられないかもしれないと言われます。
6歳のとき、母親の宮崎美子さんが病気になります。結核菌が脊髄を侵すもので、おんぶしてとせがんで、涙ながらに断られます。
無理していい子を装いますが、「生まれてこなければよかった」という気持ちが出てきます。
癒してくれるものはマンガでした。手塚治虫さんのマンガに熱中し、自分でも描き始めます。
中3の冬(1958年)に映画「白蛇伝」を見て衝撃を受け、アニメーションの世界に心を惹かれます。大学卒業後、「白蛇伝」を制作した会社に入ります。
才能はずば抜けていて、社内でも評判になります。
高畑勲監督と組んで「アルプスの少女ハイジ」を制作します。
初監督の「ルパン三世 カリオストロの城」を発表しますが、客席はガラガラでした。当時は「宇宙戦艦ヤマト」のようなSFブームでした。
4.どん底の3年間
「もののけ姫」「となりのトトロ」等の企画を作って提案しますが、一つも採用されませんでした。
「このままくたばるのは嫌だと思っていた」と語られます。
アニメ雑誌編集長の鈴木敏夫さん(現在のプロデューサー)が、雑誌にマンガを連載しないかと声をかけてきます。「風の谷のナウシカ」です。連載1年で、好評なので映画化しないかという話が来ます。
迷った末に引き受け、制作の途中で、お母さんの美子さんが亡くなります。72歳でした。死に目に会うことができませんでした。
5.映画のヒット
「風の谷のナウシカ」は全国で91万人が見る大ヒットになりました。
その後も次々とヒット作を制作します。
6.母の影響
病気がちでありながら、気が強かった母親は、宮崎監督のそれぞれの映画の中のキャラクターとして登場でぃます。「崖の上のポニョ」ではデイケアに通うトキさんがそうです。
宮崎監督は、そのトキさんと宗介の終盤のストーリーをどうするかで悩みます。
2007年12月3日の映画の記者会見でも、その部分は絵コンテすら決まっていませんでした。12月28日のスタジオの仕事納めでもまだ描いている途中でした。
歩けなかったトキさんを歩かせることで、病気のため歩くこともままならなかった晩年の母親に好きに動いてもらうことができました。
7.完成
2008年6月、映画完成の初めての試写会がありました。
声優を担当した俳優さん、関係者もほっとして涙ぐんでいる方もありました。
---------------
実際に映画を見たときに、映画の美しさに圧倒されると同時に、宗介の母親の行動に疑問も感じていました。
子供を連れた母親は、子供を守ることを最優先すると自分の経験からも考えるのに、宗助の母親はそうではありませんでした。
不思議に思っていましたが、今回、この番組を見たことで理解ができました。
宮崎監督のがどういう方なのか、映画製作とはどういうことなのか、大勢のスタッフがどのように作るのか、理解できた番組でした。
ランキングに参加中です。応援クリックをお願いいたします
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます