友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

不満などある筈がない

2012年07月20日 21時07分20秒 | Weblog

 予想に反して早くから強い雨が降っている。ペースメーカーの植え込み手術から4ヶ月、前の検査から3ヶ月が過ぎて、今日は定期検診であった。ペースメーカーが正常に動いているかをチェックするもので、検査を受ける身としては「始めますね」と「終わりました」の2つしか分からない。異常があれば医師が何か言うだろうし、異常がなければ何も言わないだろう。私は医者の診断に逆らうだけの知識はないから、とにかく言われたことを忠実に守っている。

 カミさんは朝の血圧計測では120-77-65なのに、夜は100-60-90と下がることが気に入らないようで、「薬を変えてもらった方がよいのでは」と言う。最近では100を割ることが多いから、より口喧しく言う。それで「今日はどうしても一緒に行く」と言って付いて来た。診察の先生に自分の心配を告げるけれど、まだ若い医師は「たくさんの患者さんを診ているとこのくらいの人はいくらでもいますので、私からかかりつけの医師に話すよりは、ご本人がそのことを話されたらどうでしょうか」と言う。

 本人である私が、別に異常を感じていないのに、数字だけを見て心配することはないと思うのだが、医者から直接聞かないとなかなか納得できないのは仕方ないことだとは思う。手術を受ける前、脈拍数が30台になっても、気持ちが悪いとかフラフラするとか、そうした異常をキャッチできない鈍感な身体だから、「数字の異常を見たなら医者に相談すべきだ」と譲らない。余りしつこく言われ続けると、それだけで病気になりそうだ。放っておいてもいいじゃーないか。苦しむのは本人なのだからと思うけれど、いやそれで、手間をかけることなくあの世に旅立ってくれればいいけれど、何年も寝たっきりの状態が続くようではやりきれないと思うのだろう。

 兄貴は話すことも出来ない寝たっきりになり、13年も(?)それが続いた。きっと悔しかったに違いないが自分ではどうすることも出来なかった。おとなしい性格がより正真正銘にあふれ出ていたから、まかない婦のおばさんたちからは親しくされていた。けれども生きていること自体が地獄の苦しみだろう。本人は苦しみさえも分からないのかも知れないが、耐えられないことだと思う。刺身が好きだったから、見舞いに行く時は刺身を持って行ったが、嬉しそうな顔をして食べてくれた。そんな時は分かるのかなと思ったりもしたけれど、本人でなければその気持ちは分からないだろう。

 だから、長く患いたくない。寝たっきりには絶対になりたくない。けれどもそれは私の意志で決められることではない。どのようになるのかは、神の裁断に従う他ない。神の裁断がどのようなものであれ、私は感謝して受け入れる。ペースメーカーは順調に作動しているし、お酒は飲めるし、井戸掘りも出来る。こんなにいい生活をさせてもらっている。不満などある筈がない。

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中国黄土高原で暮らす人々

2012年07月19日 21時05分19秒 | Weblog

 7月28日の大和塾市民講座で講演してくれる講師の大野さんが、講演会場を見たいというので案内し、その後で塾生の仲間と昼食を一緒にした。中国では1日2食の生活をしているので、「こんな時間(正午)に食べたことがない」と、彼女は戸惑っていた。「一ヶ月で生活費はどのくらいかかるのですか?」との質問に、「よく考えてみたら、村から出なければ、ほとんどかからないでしょうね」と答える。みんなが驚くと、「野菜は畑で作っているし、村の皆さんがいろいろ持ってきてくれますし」と言う。「何しろ、向こうの村の人たちの身なりよりも私の方が貧しい身なりなので」と付け加える。

 確かに彼女の靴は破れていたし、靴下も左右とも穴が空いていた。「村の人よりもいい生活をしていたのでは、心を開いて話してはくれなかったでしょう」。彼女が住んでいる村は、かつての日本軍が共産ゲリラと戦うために、殲滅作戦を展開したところ。日本人に対する恨みが強く残っているのではないかと聞くと、「はじめの1年はなかなか打ち解けてはくれなかったけれど、恨みを言われたことはなかった」と言う。世界中どこへ行っても、結局は人柄が、人と人とをつなげるかか否かを決めるようだ。

 たまたま彼女が中国を旅行中、土砂崩れのために迂回したところが黄河流域の貧しい村だった。村人から「どこから来た?」と声をかけられたのが運命の出逢いだった。再び村を訪れた彼女はそこに住み着き、村人と話し、村人の写真を撮るようになる。「運命の出会いというものがあるんだと思う」と彼女は言う。なぜ、住み着くようになったのか、それもまた興味深いけれど、全てを受け入れていく(実際はそうではないのかも知れないが)、そんな彼女の生き様が面白いと思った。話を聞くうちに、アメリカにも2年ほど滞在したことがあったそうだが、「アメリカ人にはなれなかった」と言う。

 中国に住み着いて7年余となると、もう立派な中国人である。自分勝手で、他人に手を差し出す余裕などないと言われている中国人だが、彼女が住み着いた村はまだまだ物々交換が通用するくらい、人と人とが助け合って生きている。そんな村も今、変わりつつあるそうだ。若者は現金を求めて村を出て行く。村には電気はあるが電気冷蔵庫はない。テレビはあるが電気洗濯機はない。必要ないからだが、これからは変わって行くだろうと彼女も予想している。

 北名古屋市の文化勤労会館のエントランスホールで、彼女が写した130人の老人の写真を展示している。昔、私たちがまだ子どもの頃に出会った老人たちによく似ている。今、こんな豊かな顔をした老人は見なくなった。写真展は7月28日まで。講演は7月28日の午後2時から、同館の小ホールで行なう。入場は無料、誰でも自由に参加できる。

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参議院議員、谷岡郁子さんガンバレ!

2012年07月18日 21時19分58秒 | Weblog

 本当に暑い。出会う人は皆、「暑いですね。もう死にそうで、息もしたくない」とオーバーに暑さを強調していた。オーバー過ぎると言えないくらいの暑さだ。今朝は早くから神社境内での井戸掘りの後始末に出かけた。11メートル50センチほど掘ったけれど、水は出なかったので、大型の重機を持っている業者にバトンタッチし、掘った穴を埋めて元の状態にしてきた。場所は森の中だから、作業もしやすかったけれど、それでも身体を動かすと汗が噴き出してくる。宮司に報告し、現場を見てもらった。終わってみるとなぜか気が抜けた。「暑いし、お茶でも飲んで帰りましょう」と言うので、喫茶店に入った。30分ほどして出てくると灼熱の地獄だった。

 家に帰って新聞を読む。愛知選挙区の参議院議員の谷岡郁子さんら3人の女性議員が民主党を離脱し、新会派「みどりの風」を結成した。谷岡さんのこれまでの言動からすれば当然の帰結だろう。彼女は強く脱原発を主張していたし、政府の大飯原発の再稼働に反対していた。また、消費税の増税についても反対であったから、小沢一郎さんが民主党を出る時、ひょっとしたら小沢グループかと懸念もした。小沢新党に名前はなかったので、民主党に留まり戦うとなると厳しいだろうと思っていたので、この選択はベストだろうと思う。小沢新党は次の選挙で大敗するだろう。谷岡さんには議員を続けて欲しい。新会派「みどりの風」は、日本に「緑の党」が誕生するならきっと一体になるだろう。

 私が参議院議員の秘書となった時に、最初に浮かんだのはドイツの「緑の党」について調べることだった。それで同僚のベテラン秘書に頼んで国会図書館などから「緑の党」に関する論文や記事を集めてもらった。私が勤めた議員は無所属だったから、これからの政治がどうなっていくのか、必ず「緑の党」は飛躍するだろう、彼女がその魁になるようにと思い、資料を整えておいた。けれども議員は「楽して当選できる」ことに関心があり、「緑の党」には全く目も向けることがなかった。

 それから何年かして、ドイツでは「緑の党」が与党になるまでに成長した。日本でも俳優の中村敦夫さんらが「緑の党」を立ち上げたけれど、いつの間にか消えてしまった。今再び、日本にも「緑の党」を創ろうという動きがある。私の高校時代の友だちも熱心に取り組んでいる。今度は時の流れが味方してくれるのではないかと思うけれど、何をスローガンに、どういう運動をしていくのか、によるのだろう。申し訳ないけれど、今の私は政治に関わるだけのエネルギーが残っていない。

 谷岡さんのインタビュー記事が彼女の思いを語っていた。「原発事故は、(略)主権者全員を政治の当事者にさせた。その当事者意識が国民を立ち上がらせた。国民生活を根底から覆す原発はなくすべきなのに、政府の意思はまったく違う方向を向いている」「野田佳彦首相は自民党より右派的だ。そういうものへの違和感も離党を決めた原因だ。自民党政治の是正をしようとした民主党が国民の支持を受け、政権交代したが、私たちが知らない間に理念が変わってしまった」。でもね、谷岡さん、「知らない間に」と言ってはダメですよ。みんなそう言って責任逃れをしています。

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民主主義の形とは何だろう

2012年07月17日 20時05分49秒 | Weblog

 暑い。我が家ではまだ一度もエアコンを使っていない。カミさんは、南に面したバルコニーにゴーヤのすだれを作った。次女のダンナのお父さんが、昨夏にゴーヤで日よけをしたところ結構役に立った話を聞いて、俄然やる気になったのだ。ゴーヤもいろいろ種類があるが、これが一番いいだろうというものを勧められて、その苗を買ってきたのだ。肥料が足りないのか、葉っぱの育ちは悪いが、何本かの実が大きく育ってきた。

 この暑さの中で昨日、政府による原発の依存度を将来どのくらいにするか、国民の意見を聞く聴取会が名古屋で開かれた。全国で行なわれるものの3度目だそうだが、仙台市に次いで名古屋市でも電力会社の社員が原発推進の発言をして、会場は騒然となったようだ。発言した人は「あくまでも個人的な意見」として、「原発をなくせば経済や消費が落ち込み、日本が衰退する」と述べたばかりか、「福島原発事故の放射能で亡くなった人はひとりもいない」と言い切った。

 誰がどのような発言をしても、それは民主主義だから自由と考える人もいる。それは民主主義を手前勝手に解釈していると私は思う。この会の目的は広く国民から意見を聞くもので、電力会社の原発推進の意見はいくらでも発言できるし、政府への影響力を持っている。だからこそ、政府が広く国民の意見を聞くというのは文字通り一般の人々を指すと考えるのが常識だろう。それをわざわざ電力会社の原子力部に勤務する課長が発言するのはおかしいと指摘する方が正しいと思う。

 それにしても、この課長は「原子力のリスクを過大評価している」とか「再生可能エネルギーを拡大させるシナリオは破綻している」と政府を批判し、原発依存度を「35%案や45%案があれば、それを選択していた」と発言する熱烈な原発推進論者である。これが電力会社で原発の放射線管理の専門家の考えなのかと知ると恐くなる。しかも、「放射能で亡くなった人はひとりもいない」とどうして言えるのか、私には理解できない。政府から立ち退きを言い渡され、再び故郷に帰ることが出来ない人々がいる現実をどう考えているのだろう。この課長は自ら進んで、放射能汚染で苦しむ福島に移り住み、放射能被害なんかないと実証する気はあるのだろうか。

 意見聴取会の運営の仕方も考えさせられる面がある。0%、15%、20から25%の3案に対して各3人が平等に意見を述べるのだが、応募者は0%が106人、15%が18人、20から25%が37人あったというから、比率で見れば15%が1人なら、20から25%は2人で、0%は5人である。この方が公平であるように考えるがどうだろう。多数が正しいとは限らない。小数の意見を尊重してこそ民主主義という。しかし、意見を述べ合うことこそが民主主義と私は思う。だから原発推進も排除すべきではないが、どのように議論をしていくのかを考えて進めるべきだろう。

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歌を忘れたカナリア

2012年07月16日 21時26分12秒 | Weblog

 共同通信社が実施した世論調査では、小沢新党に期待しないの回答は81%だと新聞が報じていた。テレビでも河野洋平さんが、民主党の支持率も自民党の支持率も小沢新党の支持率も大きな違いはないと言い、「政党への期待感が国民にないことが問題ですよ」と発言していた。政党に期待が出来ない人々は、大江健三郎さんや坂本龍一さんらの呼びかけに応えて、『さよなら原発10万人集会』に参加して、自分の気持ちを表している。ここ、名古屋でもツイッターの呼びかけで「原発いらない」デモが行なわれた。政治への関心の形が政党を越えている。これからは、無党派市民派あるいは無党派改革派が増えていくと思う。

 小沢さんは消費税増税反対と脱原発の2つをスローガンに掲げている。私は正しいスローガンだと思うけれど、それでも小沢新党を信用していない。それは、小沢さん自身が「消費税増税は今はすべきではないが、いつかしなければこの国はダメになる」「脱原発の方向を向くけれど、諸外国との競争に勝つためにはエネルギーの安定供給は不可欠だ」と考えているからだ。消費税増税反対も脱原発も、選挙で勝てる政策だからだ。勝てるための政策と自分の思想とがかけ離れている点で、全く民主党と同じで信用出来ない。

 「歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか」という童謡を思い出す。歌えなくなったカナリアは棄てられたり、埋められたり、柳の鞭で打たれたりと、実に恐ろしい歌詞が続く。きれいな声で鳴くカナリアへの期待が大きいだけに、鳴けなくなってしまっては価値がないということなのだろう。でも、歌詞の最後は「象牙の舟に銀のかい 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す」とある。作詞者は西条八十で、国が教育のために主導した唱歌に対して、「子どもたちの美しい空想や純な情緒を傷つけず、優しく育むような歌と曲を与えよう」と、童謡が生まれたのだが、内容的にはかなり文学的だと思う。

 小沢新党も民主党も自民党も、「忘れた歌を思い出す」ことは決してないだろう。その点では無情のようだけれど、棄ててしまった方がいい。既成政党に幻想を抱いていたから政治は変わらなかったのだ。むしろ、最近なぜか頻繁に起こっている「小中学生の自殺やいじめ」の問題に、「カナリア」の歌を重ねてみたいと思う。カナリアは鳴き声もキレイだが、その容姿も美しい。そんなカナリアなのに1羽だけが声が出ない。中でも一段とキレイなカナリアがそれをあざ笑う。するとお調子者のカナリアたちが「歌を忘れた」とバカにする。周りのみんなも「どこに棄てようか、埋めようか」とはやし立てる。悲しくなったカナリアは死を決意する。これを大人たちは「遊びでやっている」としか見ない。

 いじめは時々遊びの形を取る。だから、いじめた側の連中は大人になると忘れてしまう。しかし、いじめられた側の者は深く心に刻み込まれている。一番大事なのは、相手の立場に立ってみることだ。自分は遊んでいるつもりでも、相手は苦痛と思っている。消費税増税も脱原発も、そういう社会をどうやってつくっていくかだと思う。一歩前に進んでみよう。相手はどう思うのか、それではどうなるのか、考えてみよう。

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弁護士からの手紙

2012年07月15日 21時09分34秒 | Weblog

 蒸し暑い一日になった。九州では豪雨が続いている。昨日、知らない弁護士から1通の封書が届いた。開けてみると、債権者等各位とある。「不況の波をうけ、債務超過、支払い不能となりもはや営業を続けることが困難となりました。このうえは、法的に破産手続きによらざるをえず、自己破産の申し立てをすることになりました」とある。真面目な男で、仕事も順調に会社を大きくしてきた。ズバッと芯の通った面倒見のいい男で、友人も多かった。私が初めて選挙に出た時、彼に事務長をやってもらった。

 彼から「お願いがある」と言われて会社へ行ったのは、2年前だった。「お金を貸して欲しい」と言う。「今は景気が悪いけれど、そのお金があれば乗り切れる。必ず返す。毎月10万円振り込むので、2年分の240万円を貸して欲しい」。カミさんも知らない300万円ほどの預金があった。市長に当選したら、事務所に改装するための費用だった。世話になった男の頼みである。返済の時期が伸びることがあっても、彼ならば必ず返してくれるだろう。そう思って貸した。

 翌月の振込みはなかった。遅れることも仕方ないと思っていたが、半年経っても振り込みはなかった。10ヶ月待って、会社に行くと、「必ず返す。もう少し待って」と言う。それからも振り込みはなかった。2度ほど会社に行ってみたけれど、「もう少し待って。必ず返す」と繰り返す。男の友情を信じるべきかと思いつつも、返さないつもりかも知れないという不信が湧いてくる。そんな男じゃーない。義理すら通らなくなっているのだ。そんな思いが堂々巡りをしている最中だった。

 私の家は材木屋だったけれど、兄貴が保証人となったことが直接の契機で、つぶれてしまった。叔母さんが「どうして相談してくれなかったの」と憤慨して泣いていた。私は兄貴を見て、絶対にギャンブルはしない、保証人にはならないと決めた。だから、卒業生の子が事業に失敗して「お金を借りるから、その保証人になって欲しい。絶対に迷惑はかけない」と頼みに来た時、断った。お金を貸してくれというのであれば、その金額にもよるけれど、返ってこなくてもいいと思って貸しただろう。しかし、保証人はいくらになるのか分からない怖さがある。

 卒業生のクラス会の案内が来て、出席したが安心した。保証人を断ったために彼がどん底の苦しみの中にいたらと思ったが、高校時代と変わらない明るさがあった。どのようにして立ち直ったのか知らないが、本当によかったと心から思った。真面目に働いていても、どこかで落とし穴に嵌まってしまう人もいる。情けないけれど、人にまで迷惑をかけないことのないように努めることが人の生き方のような気がする。力になれなくて、本当に申し訳ない。けれど、詰まるところは自分の力で生き抜くしかない。

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生き甲斐と生きるエネルギー

2012年07月14日 21時46分48秒 | Weblog

 雨が上がって曇り空になった。絶好の作業日和りである。井戸掘りの時は、日焼けしないためと虫刺されから身を守るために、長袖を着用している。今日はルーフバルコニーでの植木鉢の土の入れ換えだから大丈夫だろう。それに太陽は隠れているからと、ちょっと油断した。午後5時過ぎに作業を終えて、バルコニーで汚れた手足を水で洗っていると、両腕が真っ赤になっている。ゴシゴシ洗い過ぎたのかと思ったが、洗面所で顔を洗って鏡を見ると、顔も真っ赤である。太陽は出ていなくても紫外線は確実に届いていた。

 朝の9時から作業を開始し、もちろん途中で昼食を食べ、先週見られなかったNHK大河ドラマ『平清盛』も観て、再び外に出て作業を続けた。残りの鉢は大きめのものが4個で、小さなものが5個である。延び延びになっていたけれど、植える材料は既に揃っている。成長の悪いサルビアは諦めて、白・赤・ピンク・紫の4色の箱売りの日日草を買って来たが、雨降りのために作業が出来ずにいた。今日やらないとまた遅くなってしまう。そう思ったら、休むことなく続けてしまった。

 全部の作業を終えてルーフバルコニーは花でいっぱいになった。休みなく働いて少々疲れた。ペースメイカーの辺りが痒いような、それでいて心臓はなぜか重い気がする。晩御飯の時は、今日はビールだろうと決めて、喉が渇いていたからガブガブと飲んだ。最近は酒に弱い。飲むとすぐに酔っ払ってしまう。いつもなら、食事の前にブログを書き上げてしまうのに、今日は酔っ払ってパソコンに向かっている。腰が重いということから、次に何につないでいくつもりだったのか、思い出せない。

 憂鬱である。身体が無理が利かなくなっただけでなく、社会全体が重苦しい。私たちのような1940年代に生まれた人間は昔の人になってしまった。新聞や雑誌の学者や評論家の年齢を見ると、もう私たちの時代ではないと思う。しかし、それは当たり前のことだ。私も若い頃は、どうしてこんなに年寄りがのさばるのかと思った。私たちのような人間が60代や70代になれば、分別を知り、懐の深い人間になれるだろうと思った。しかし今、そうなってみると何も変わらない。全く同じことを繰り返している。

 社会的な発言は極力少なくして、もっと個人的なというか人間の原点に近いところで、思うことを描いた方がよい気がする。たとえば、私たちの子どもの世代の中で、私たちが一番頼りにしている女の子がいる。今年の夏祭りは彼女が中心になるだろう。気がいい子で、よく動くから、オジサンたちがみんな大好きになっている。色が白くて、ちょっとやせているけれど、最近はどうしたわけか色っぽい。私の娘たちもここで暮らしていたなら、きっとそんな風にオジサンたちに見られていたことだろう。

 歳を取っても、オジサンは男で、オバサンは女である。煩悩から脱却することは不可能なのだろう。むしろそれでいいのではないのかと私は思う。それは生き甲斐でもあり、生きるエネルギーでもある。

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出逢いが人生に与えるもの

2012年07月13日 19時16分29秒 | Weblog

 「そろそろキュウリを採らないと、大きくなりすぎてしまうよ」。友だちが電話で伝えてきた。アメリカに夫婦で旅立った友だちの1坪農園の畑には、キュウリやナスやトウモロコシ、トマトが実をつけている。時々、収穫するようにと言われていたけれど、雨降りが続いたり、天気のよい日は忙しかったりで、畑へ行く暇がなかった。それでも次女がいた時に一度、ふたりで畑に行ったがそれっきりになっていた。夕方、雨が一時止んだ時に、野菜を収穫してきた。採り立ての野菜は甘みがあって美味しい。何もせずに頂いて、申し訳ないような気がする。

 電話をしてくれた友だちも同じように野菜を育てているので、彼は時々、アメリカへ行っている友だちの畑も見回り、雑草などを抜いてくれるが、野菜はこれ以上いらないからと私に収穫の時期を教えてくれる。バルコニーで野菜を育てている人もいるけれど、なぜか私はその気にならない。バルコニーは花たちでいっぱいの方がいいのだ。ある意味では贅沢なことかも知れない。生きることに必死であれば、なりふり構わず野菜を育てるだろう。1坪農園で野菜作りをしている人たちも、生活のためというよりも育てることを楽しんでいるし、新鮮な野菜を食べられることに満足しているように思う。

 私がルーフバルコニーで植木鉢を並べて花を育てているのは、子どもの頃に見たヨーロッパ映画の影響だろう。どんな映画だったのかは分からないけれど、屋根の上のバルコニーには鉢植えの花木があり、それがとても空によく合っていた。時にはバルコニーに長イスを出してきて寝そべったり、恋人同士がコーヒーを飲んだりしていた。私もいつか、そんな空中庭園を造ろうと思った。部下だった子の家に行った時、群生のチューリップを見て魅せられた。また、スペインのアルハンブラ宮殿で壁を登るアサガオを見て、あるいは中国の重慶の公園で真っ赤なサルビアを見て、いっそう庭造りに駆られた。

 人の一生はまず出逢いだろう。どこで誰に出会うかで人生は決まってくるし、またどこで何に出会うかでやりたいことに影響が出る。あの人に出会わなければ今日の自分はなかっただろうという出逢いを人は何度も経験しているはずだ。逆にどんなに素敵な出逢いがあっても、それが受け止められなければ出逢いにはならない。大和塾の講演会で金美齢さんが「チャンスはあなたの目の前にある」と言っていたことを思い出す。掴み取るために自分を磨いておかなければ見えないというわけである。不遇だとか不幸だとか言うまえに、掴み取ろうとする積極性がなければ捕まえられない。

 人は誰でもいろんな才能を持っているが、本人が気付かないことの方が多い。この能力を伸ばすことが教育である。時期を逃してはならないが、いつでも時期はあるのだから、挑戦する気持ちを失わないことが一番大事なのかも知れない。

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世の中がよくならない原因

2012年07月12日 20時15分37秒 | Weblog

 昨日、出かける時にルーフバルコニーの排水口を掃除しておかないとマズイと思ったのに、今朝見るとかなりの水が溜まっている。思いついた時にやらないと、結果は必ず悪い方に出る。個人的なことも、国家的な規模のことも、変わりないようだ。こうしておいた方がいいと思ったことは、まず何よりも優先してやらなくてはならない。個人的なことは、つい忘れてしまうこともあるが、国家的なレベルのことは組織が見逃さないはずだ。しかし、政治の世界を見ているとそんな風に組織は機能しないようだ。

 大津の中学生の自殺問題でも、教育委員会は学校の対応に落ち度がなかったように言っていた。福島の原発事故でも監督する側の保安院は、東電からの情報をそのまま流していた。大津の場合は市長が、「いじめに原因があったのでは」と言い、昨夜は警察が学校と教育委員会を捜査する事態となった。教育長も教育委員も市長が任命し、議会が承認するのだが、市長は今年の1月に就任しており、教育長も教育委員も前市長が任命した人である。教育委員は一般の人から選ばれる場合が多いけれど、教育長は校長を勤めた人から選ばれるのが圧倒的だ。

 以前、教育長を一般から募集した自治体が幾つかあった。そんな形で教育長になった人と話をしたことがあるが、「現場(学校)は私の言うことを聞いてくれない」と嘆いていた。現場の先生は「理想論ばかりで現場を知らない」と批判する。そういう面があったとしても、そうであるなら教育のあり方を本気で議論できてよいと思うけれど、不満は「現場を知らない」だけではなかった。先生の出世コースは、校務から教務、そして教頭となり校長が学校の頂点である。その校長の中からさらに教育長という職があるのに、一般から教育長になる人が出てくると校長止まりになってしまう。

 教育長が頂点であるから、教育長に逆らえばその道は遠のく。校長に逆らえばその道は遠のくのと同じだ。教育の世界はそうしたピラミッド型の構成になっているから、ある意味で教育者としての能力に疑問な人でも校長になっていく。現場の教育に熱心な先生よりも、上に見込みのよい先生が出世していく。これにどこの大学を出ているか、学科は何かという閥が絡んでくる。真面目に教育に取り組む先生が平教員で終わってしまうのもこの仕組みのためだ。

 大津の教育長がいじめについての生徒のアンケートを「しっかり読まなかったかも」と答えたのは本当かも知れない。事件が起きれば校長は教育長と相談する。お互いに大きな事件にならない方が出世と名誉のためにいい。互いの利益のために、小さいうちに済ませてしまおうとする。校長が「調査したが、自殺はいじめとは関係ない」と言えば、「そうではないだろう。もっとキチンと調べた方がいい」と言う教育長は少ないだろう。

 けれども今、教育長も校長も「しまった」と思っているに違いない。マズイと思っていたことを見逃した時点で、教育者としての自分の務めを放棄してしまったと気付くべきだった。責任を取らない大人が多いと以前書いたけれど、気付いてもやらない大人が、私を含めて多い。世の中がよくならないのはここに原因がある。

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ジュディ・オングと中島潔さん

2012年07月11日 20時46分47秒 | Weblog

 古川美術館でジュディ・オングの木版画展を観てきた。才能の豊かな人は何をやってもその力を発揮する。ジュディ・オングの歌『魅せられて』は、メロディーとともに羽を広げた衣装でよく覚えている。版画の技術も素晴しく、趣味で作っていますという域ではなかった。空間の扱い方が特に秀でている。履歴を見たら、1983年に日展に初入選していて、2005年には特選に輝いている。現在は日展会友で白日会正会員とあったから、プロの版画家である。

 ビデオルームでジュディ・オングの版画制作の過程を上映していたけれど、作品作りのための機能を充分に備えたアトリエだった。スタッフも何人かいて、刷り上がりの具合を相談しながら仕上げていた。1枚の下絵からどのように版木に写して掘っていくのか、その企業秘密のような部分が知りたいと思った。作品はかなり大きなものだから、全体の感じや色を載せた時の微妙な具合を、彼女は目を見張って指示していた。版画は下絵どおりというよりも、摺りだして行くバレンの力の入れ方や動かし方で、下絵にはない「いい具合の作品」になっていく。そのためにどうやっているのか、そこが見たかった。

 もうひとつ、松坂屋美術館で行なわれていた中島潔さんの京都清水寺の襖絵など作品を並べた『生命の無常と輝き』展を観てきた。中島潔さんは子どものいる風景が印象深い作家だが、作品展を観たのは初めてだった。中島さんは私よりもひとつ年上だった。佐賀県の高校を卒業した後、伊豆下田の金鉱で温泉掘りとして働き、独学でデッサン力を身につけていった。新聞にカットを投稿し、それが縁で東京の広告会社に就職、イラストレーターとして活躍する。ところが28歳の時に、半年間パリで放浪している。美術学校や美術館巡りをしていたそうだ。

 作品を見ると、水彩絵の具で描いているけれど、それだけではないように思った。鉛筆の下書きがそのまま残っている作品があるが、ペンで輪郭された作品もある。絵の具が日本画のように盛り上がった作品もある。私は思わず監視役の係りの人に、「絵の具は何を使っているのでしょうか」と聞いてしまった。その人は「水彩絵の具です」と教えてくれたけれど、どうもそれだけではないので、作品の一つひとつをじっくり見て回っていたら、先ほどの係りの人がやって来て、「冊子の後に作品の解説がありますよ」と教えてくれた。そこで冊子の中では一番安い3千円のものを買ってきた。

 中島さんの源氏物語絵巻は、人物の顔などは童子の顔の描き方だが、衣装やすだれなどの文様は一つひとつ面相筆で仕上げている。これを描くだけで何日かかっただろうと思うほど手が込んでいる。私は学生の時、藻や菌の形に魅せられて作品を描いたことがあったけれど、余りに手間がかかるので再びモチーフにすることはなかった。中島さんの作品はどれを見ても、見た目以上に手が込んでいる。しかし、それがこの人の作品としての価値を高めているのだから、どこまでもやり遂げなくてはならないだろう。ジュディ・オングと中島潔、ふたりに共通するものは、「労を惜しまない」ということかも知れない。

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