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コロナ禍は「諦め社会」の到来なのか

2021年04月11日 17時19分56秒 | Weblog

 新型コロナウイルスの感染は、変異種も生まれて収まりそうにない。緊急事態宣言とどこがどう違うのかよく分からないが、「まん延防止等重点措置」が適応された地域もある。私は仕事も無いから家でジッとしていればよいが、どうしても出かけなくてはならない人は毎日大変だろう。

 商売も働き方も変わってしまった。飲食店の中には、「やっていけないから」と閉店したところもある。私が行く理容店の主人は、「食べ物屋さんは補償金が出るが、私たちにはありませんから、やっていくしかないです」と投げやりに言う。理髪を家でするようになると、理容店も潰れてしまうだろう。

 そういえば、テレビも新聞もコロナ禍のことばかりで、他にどんな問題が生まれてきているのかと思う。人流を抑える、会食はするな、会話も控えろ。それは、議論したり、声を上げたり、意思表示する機会が無くなることだ。黙って、与えられた仕事をこなすだけでいいのだろうか。

 官僚や役人がこれまで通りの習慣で、歓送迎会を行なった。「エッ、われわれはこんなに我慢しているのに」と思うけれど、抗議の行動は出来ないし、かといって「オレたちも飲もうぜ」と言い出すほどの勇気も無い。感染したら、「そら、みろ」と非難されかねない。

 コロナ禍社会は権力者には都合のいい社会なのかも知れない。黙々と仕事をこなしても経済が落ち込んだのだから、賃金が上がらないのは仕方ない、年金が引き下げられるのも仕方ない、高齢者の医療負担が増えるのも仕方ない。そんな「諦め社会」の到来なのだろうか。


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