友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

教師の言葉は本当に重い

2011年01月04日 19時29分25秒 | Weblog
 明けましておめでとうございます。

 年末から風邪を引いたようで、咳が止まらなかった。大晦日も友だちが「一緒に飲もう」と誘ってくれていたし、3日は私の兄弟につながる家族が集まって新年会を行う。このままでは出来ないかもしれないと不安だった。友だちが「何時からやるよ」と電話が入ったら、「申し訳ないけれど、今回は風邪で遠慮する」と答えるつもりだった。私の体調不良を知っていたのか、幸い電話はなかった。紅白歌合戦も見たのか見なかったのか覚えもないまま眠ってしまった。元旦もその次の日も、咳と鼻づまりは治らなかった。こんな正月は始めてのような気がする。3日、これだけは私の責任でやらなくてはならないと気が張っていたせいか、風邪はどこかへ行ってしまったくらい元気になった。

 やれやれ、これで今年の正月行事は何とか無事に終わったと思っていたら、卒業生が今日遊びに来てくれた。久しぶりにやって来た彼らとお酒を飲む。昭和49年の卒業生で、私とは同じ干支の一回り下である。私が大学を卒業して高校の先生になったのは昭和42年、翌年から学級担任を持った。その最初の学級の時に結婚したので、彼らは学校でお祝いの会まで開いてくれたし、我が家へもよく遊びに来てくれた。我が家の娘たちは高校生の彼らに遊んでもらったのだが、きっともう覚えていないだろう。それから5回担任をしたけれど、やはり一番我が家へよく遊びに来たのは始めて担任をしたクラスと今日来た連中のクラスだろう。始めて担任となったクラスはまとまりもよくて、クラス会もよく開き招待してくれた。

 真にありがたいことだけれど、私が22歳で先生になった時の3年生の学級から「クラス会」に招待されたが、本当に先生冥利に尽きると思った。担任でもないし、確か授業をしたこともなかったと思う。彼らからすれば歳の差もほとんどない、新米の先生だったのによくまあ招待する気になってくれたものだ。その学級の生徒に、生徒と言ってももう還暦も過ぎているが、誘われて信州へ出かけたこともある。彼が「先生の絵を見せてもらったことがある」と言ってくれたけれど、私は覚えていない。どんな絵だったのだろう。油絵であることは確かだけれど、あの頃描いていたのは凄く古典的で写実的な宗教っぽい絵ではなかっただろうか。

 覚えていないことで、後から先生の影響力は凄いなと思うことはいくつかある。今日も話題になったけれど、今では有名なイラストレーターとなり大学で教える人になった卒業生がいる。高校の頃はちょっと変わっていたけれど、先生方の評価は生意気な生徒であった。私はこの学年だけ担任をさせてもらっていないので、一度も授業したことがなく、外から見ていたに過ぎなかった。どちらか言えば、ちょっと変わった生徒は気になるし好きなタイプでもあったが、直接声をかけることはなかった。それがたまたまデッサンの時間に担当の先生が休まれたので、私が代わりを務めることになった。

 彼は相変わらずヘソを曲げた作品を描いていたと思う。つまり他人と違うことをやっていたのだ。決してうまいとは言えないけれど、他人と違うことができることは能力でもある。線描きの、その線の描き方がなかなか面白いと思った。先生方は生意気なだけの奴と言っていたけれど、私は「個性的」だと思った。それで、「いい絵だ」と思ったままに伝えたけれど、うんと後になって、彼から「先生の評価が自分の出発点になった」と言われ、教師の言葉は本当に重いものだと思った。

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