友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

言葉の

2007年04月04日 22時44分00秒 | Weblog
 昨日のことだった。
 孫娘の様態もよくなりつつあるようで、彼女は「今日から塾とプールに行く」と言う。それでもジジババとしては心配だから、体温を測らせたところ、37.1度ある。「止めておきなさい」と言うが、「これ以上休んだら置いていかれてしまう」とムキになって言う。「じゃー塾だけにしておきなさい」と言い、塾へは車で連れて行く。

 夕方、孫娘の母親である長女から「プールに行っている?」という電話がある。「熱があったからプールへは行っていない。それでも塾へは行きたいと言うから連れて行った」と答える。「何度だったの?」とちょっと怪訝そうな雰囲気。「37.1度あったけど」と言うと「そんなの平熱!ちょっと代わって」と孫娘を呼び出す。

 長女の言い方には時々トゲがある。孫娘は私たちジジババが預かっているのだから、私たちとしてはどうしても安全策となってしまう。それが長女は不満かも知れないが、ジジババにとっては当然のことだ。孫娘のことを考えれば、無理をして様態を悪くしない方が良いのだから、「ゴメンナサイ。迷惑かけるわね。でもちょっと、甘すぎるかもしれないわね」とでも軽く言ってくれれば、私たちとしても甘かったことを素直に認められる。

 人は事態が、自分が思い描いたものと違ってしまうと、咄嗟にはなかなか受け入れられないものだ。相手がどういう思いでそれをしたのかを考え、それから自分が何を言えばよいか、この順序が欠落してしまうのだ。長女の場合はこれが顕著に現れる。自分の思いが強ければ強いほど、そうではない事態になると激しい怒りが顔に出てくる。言葉に表れる。

 孫娘が手を洗って拭くタオルをババは気にして、「自分のタオルを使いなさいね」と言ったようだ。その言い方がくどかったのか、孫娘は「わかっとるわ」とか、言ったようだ。それでババは逆上して「そんな言い方はないでしょう」と注意をしたという。孫娘は「そんなことは言っていない」と言うが、まあ似たような言い方であったであろう。そこで長女は娘に向かって、「いい、ママチャンやパパチャンから叱られるようなことがあるというのは、たとえ100分の1であっても、あったことには違いはないのだから、あんたはお世話になっているママチャンやパパチャンの言うことをチャンと聞かなくてはいけないの。わかったね」と注意をしている。

 孫娘はまだ子どもだから、いずれは自分の言葉に気をつけるようになるだろう。問題は長女自身が自分の言葉遣いや態度に反省が見られないということだ。長女に言わせれば、「自分は職場ではとても気を遣って話をしているし、少なくとも上司の皆さんはそのように私を評価してくれている」そうだ。多分それは間違いではないと思う。けれでも、同僚や年下の人たちに対して、つい羽目をはずした言い方をしていないだろうかと心配する。

 実は私自身が場を盛り上げようと思って言った言葉なのに、「時々きついイヤミを言うわね」と言われた経験があるからだ。長女と私はよく似たところがあって、お互いに相容れないが、人のことをとても大切に思い、とても気にしているのに、時々ズバッとイヤな気分にさせてしまうようなことを言ってしまう。最近では言葉が怖くなって、いつも言葉には気をつけ、言葉を選んで話すように心がけている。
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