台風の影響で線状降水帯が発生し、朝から雨が降り続いている。昨日、思い切って植木鉢を運び出して本当によかった。けれど、ガランとしたルーフバルコニーに降り注ぐ雨を眺めていると、ちょっと寂しい気がした。
残っている植木鉢を見てカミさんが、「これくらいはあった方が、何にも無くなるよりいいじゃーない。工事が終わったら、また始めたら」と言う。果たして私に、もう一度花の手入れをする気力が残っているのだろうか。
作業をしている時は何も考えていない。花が咲いている状況だけを想像し、せっせと手を動かしている。絵を描いていた時も、構想が決まれば後はひたすら、いい絵になるようにと筆を動かしていた。
自分の実績を残したいという野心は無かった。その時その時で、選択はしてきたはずだが、振り返ってみれば流されて生きてきた。周りからは、「逆流に抗して」生きてきたように見えるかも知れないが、それしか選択肢がなかった気がする。
私が小学生の頃は終戦直後だったから、街には傷痍軍人や乞食が目に付いた。「どうして貧しい人がいるのか、みんな同じように暮らせないのか」と思った。キリスト教に関心を持ったのも、社会に目が向いたのも、そのせいだっただろう。
政治家になるというより、社会の問題をみんなに知らせ考えてもらいたい、そんな仕事をしたいと思うようになった。地域新聞を作ろうとしたのは、生活のためであったが、地域に貢献したいためでもあった。
生活に余裕が無ければ、花の世話など出来ない。街中を花で溢れさせようとするには、そこで暮らし人々が豊かでなくてならない。中国の昔の人は、「衣食足りて礼節を知る」と言ったが、まだまだ生活に余裕のある人は少ない。
「国境を無くしても、人同士の差別や格差が無くならないと、本当の平和は訪れない気がする」とコメントをくださった人がいたが、生活が満たされていけば、心にも変化が生まれてくるのではないかと思う。
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