友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

友よまた飲もう

2010年08月17日 19時33分27秒 | Weblog
 今日は暑い。甲子園の高校野球もなぜか点の取り合いの試合が多い。これまで好投を続けてきた投手が乱打されている。8強が出揃うこの試合はいつもこんな風にハラハラドキドキの展開となるような気がする。おそらく、それまでの試合はちょいと画面を眺めるばかりで真剣に見ていないからだろう。「野球は筋書きのないドラマ」などと言うけれど、高校野球はまさにそのとおりだと思う。

 小学校の時に、無理やりに町内会の子どものソフトボールチームに入れられ、こういう夏の炎天下でノックを受けたりした。普通の子どもは強くなるためには練習は当然だと思っていたのに、私はどうしてこんなことしなくちゃーいけないのかとイヤだった。ソフトボールが面白くて仕方がないわけではなかったのに、ピッチャーやキャッチァーをさせられた。朝早くからの練習や日曜日の試合など、全く気が進まなかったのに、黙っていた。小学校を卒業して、子ども会がなくなりホッとした。

 体育の授業は好きだったけれど、運動系のクラブには所属する気はなかった。短距離走と懸垂は得意だったが、これを生かそうとも思わなかった。「楽して」高校生活を送るはずだったのに、新聞部に入って、新聞部のために3年間を通ったようにさえ思う。その母校から同窓会の通知が来た。新聞部の仲間の中に同窓会の役員をやってきた者がいて、必ず連絡が入るようになった。母校の記念行事がある時には、一般紙が広告を掲載させて欲しいといってきたり、寄付金を頼まれたりした。広告は出せないけれど、寄付金には応じた。自分にとって高校時代は青春そのものだったから、その恩返しは当然と思った。

 けれども、同窓会には一度も出席したことがない。どうして同窓会を行なうのか、私にはその意義が見つからない。クラス会なら顔見知りだけれど、同窓会となると300人の顔は覚えていない。高校は新聞部の集まりで充分だ。あるいは新聞部にかかわりのあった連中だけでいい。今年はその新聞部の集まりのある年だ。またワイワイと、政治の話でも社会の話でも哲学的な話でも、気ままにやればいい。自分の人生の出発点がここにあったなと思うことがままある。

 中学時代からの友だちが、中学時代からの男友だち5人で昔のように「飲もう!」ということになって飲んだ席で、ケンカになりそれっきりになってしまったとブログに書いていた。「原因は中学時代のことで言った言わないということであった」とあったけれど、そうではない。「お前たちはオレがガンだと言いふらして喜んでいる」と、彼は茶化して言ったのだろうけれど、私はたとえ笑いのために言ったとしても、そういうことは言うべきではないし、「言いふらして喜んでいる」とは何事かと腹が立った。友だちが病気になり、それを喜ぶような「友」がどこにいるか。その発言を謝らないなら、今後一切お前とは会わないと妙に私の頑固な面が出てしまったのだ。

 けれども、「そんなものに出て何になる」と言っていた彼が先回のクラス会に出席してくれた。だからもう何もこだわることはない。また、中学の仲間の5人で「飲もう」ということだと理解した。しかし、酒は飲まないという友だちもいる。その友だちが呼びかけてくれるのが一番スムーズだが、気付いてくれるだろうか。
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