友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

母の思い出

2019年05月12日 17時21分26秒 | Weblog

 私の母は明治40年生まれだから、私は37歳の時の子である。上には14歳違う姉と15歳違う兄がいるが、私と兄の間にはもうひとり兄がいたが、「幼くして亡くなった」と聞いた。母は知多半島の先端の農家の長女だった。母の実家には刀が飾ってあったから、百姓といえどもいざという時は駆けつける役割だったのかも知れない。

 祖父が亡くなったのが何時なのかは知らないが、私は祖父を知らない。田舎の農家に生まれた母だったが、なぜか女学校まで行かせてもらっている。母がいくら勉強家であったとしても、祖父の許可と援助がなければ女学校へは行けなかっただろう。母は教師となり、たまたま2歳年下の代用教員の父と出遭い、恋に落ちたようだ。

 母は人に頼まれると断ることができないし、物乞いがやってくれば何でも気前よく渡していた。世話好きで優しい母であったが、私は一度だけ、物差しを振りかざして追いかけられたことがある。小学生の頃だ、私が「姉の家の方がよっぽどいい」と母に向かって言った。母はそばにあった物差しを持って怖い顔で、「もういっぺん言ってみなさい」と声を荒げた。

 私は必死で逃げたが、あんな怖い母を見たのは初めてだった。母はよく笑った。それも大きな声で馬鹿笑いをするので、私はいつも恥ずかしかった。父の静に対して母は動の人で、理屈よりも行動の人だったし、高校野球のラジオ中継に一喜一憂する感情的な人だった。2歳年下の妹が中学生になったばかりの時に倒れ、1年後に亡くなる時、病室のベッドで姉に、妹のことを「頼むね、頼むね」と何度も繰り返していた。

 病気知らずの健康な身体が自慢だったのに、長年の無理が蓄積されていたのだろう。結局、母は幸せな人生だったのだろうかとフト思う時がある。好きな男と一緒になり、男の夢に賭けた母は負けず嫌いだったから、「幸せだった」と言うに違いない。今日は「母の日」。


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