空港にはドラマが溢れている。「ねえ、逢いたかった?」「うん、逢いたかった」「どのくらい逢いたかった?」「ウーンといっぱい逢いたかった」。久しぶりの出会いなのだろう。旅行なのか単身赴任なのか不倫なのか恋人同士なのか、女性の少し甘えたおしゃべりと男性の少し戸惑った調子が印象的だった。女性がイタズラっぽい目で男性を見つめるのに、男性は愛しくてたまらないといった目で女性を見つめていたように思う。
私の中学からの友だちもきっとこんな風に15年もの間、女友だちを見つめていたのではないかと思った。女が甘えてくれるのを拒む男はいない。もしいるとしたなら、女の心が読めない男だ。「何か言うとすぐにケンカになってしまう」と言う女性がいる。「甘えてみたら」と勧めるのだが、「そんなことが通用する相手ではない」と言い切る。ああ、この女性は甘えたことがないなと思った。甘えるような行為は媚を売るというか、自分を蔑むことだとでも思っているのだろう。相手を本当に愛しているなら、別に謙ってもかまわないはずなのに。
その女性の所に迎えの車が来た。マンションの下に着いたと電話が入る。「あのねえ、着く前に電話をしてくれるんじゃーなかったの?」と言う。迎えに来てくれた人に対してそんな言い方はないと私は思う。たとえ迎えに来る時間が予定よりも早かったとしても、非難するようなことではないはずだ。「ありがとう。ちょっと待っててね」でもいいし、「ありがとう。少し待たせることになるけど、ごめんね」とか、言い方はいくらでもあるはずだ。
会話は相手が気持ちよく受け止められるようにした方がいい。それは充分わかっていても実際にはなかなか出来ない。次女が大和塾の案内文を封筒に入れる作業を済ませておいてくれた。「ありがとう。助かったよ」と礼を言うべきところを、「やっておいてくれたんだね」と言ってしまった。もちろん「ありがとう」と続けるつもりだったのに、「やっておくと言ったでしょう」と言われて続く言葉が出なかった。
どういうわけか、娘たちとはうまく会話が出来ないことが多い。つい、お説教調子になってしまう。これではいかんと思うけれど、なぜだか普通の会話になっていかない。大和塾の塾生で、つまり高齢の人ばかりで話していた時、葬儀のことが話題になった。「私の葬儀はこうして欲しいと子どもたちに話してあるけれど、実際は私の希望がかなえられるかどうかはわからない。私は死んでしまってもういないし、葬儀を行なうのは息子だから、彼がいいようにやることになる」。
そんな話を聞いていて、親子というのは難しい面もあるけれど、さらにそれぞれの立場もあるけれど、でも一番理解してくれているのではないだろうかと思った。表現される形がどうであれ、実際はそんなことはどうでもいいことで、言葉や態度では表せない理解があるような気がする。子どもたちに私の方から甘えることが大事なことかも知れないな、そんな気がするが、まだ素直に出来ないところが「親の気負い」なのだろう。
私の中学からの友だちもきっとこんな風に15年もの間、女友だちを見つめていたのではないかと思った。女が甘えてくれるのを拒む男はいない。もしいるとしたなら、女の心が読めない男だ。「何か言うとすぐにケンカになってしまう」と言う女性がいる。「甘えてみたら」と勧めるのだが、「そんなことが通用する相手ではない」と言い切る。ああ、この女性は甘えたことがないなと思った。甘えるような行為は媚を売るというか、自分を蔑むことだとでも思っているのだろう。相手を本当に愛しているなら、別に謙ってもかまわないはずなのに。
その女性の所に迎えの車が来た。マンションの下に着いたと電話が入る。「あのねえ、着く前に電話をしてくれるんじゃーなかったの?」と言う。迎えに来てくれた人に対してそんな言い方はないと私は思う。たとえ迎えに来る時間が予定よりも早かったとしても、非難するようなことではないはずだ。「ありがとう。ちょっと待っててね」でもいいし、「ありがとう。少し待たせることになるけど、ごめんね」とか、言い方はいくらでもあるはずだ。
会話は相手が気持ちよく受け止められるようにした方がいい。それは充分わかっていても実際にはなかなか出来ない。次女が大和塾の案内文を封筒に入れる作業を済ませておいてくれた。「ありがとう。助かったよ」と礼を言うべきところを、「やっておいてくれたんだね」と言ってしまった。もちろん「ありがとう」と続けるつもりだったのに、「やっておくと言ったでしょう」と言われて続く言葉が出なかった。
どういうわけか、娘たちとはうまく会話が出来ないことが多い。つい、お説教調子になってしまう。これではいかんと思うけれど、なぜだか普通の会話になっていかない。大和塾の塾生で、つまり高齢の人ばかりで話していた時、葬儀のことが話題になった。「私の葬儀はこうして欲しいと子どもたちに話してあるけれど、実際は私の希望がかなえられるかどうかはわからない。私は死んでしまってもういないし、葬儀を行なうのは息子だから、彼がいいようにやることになる」。
そんな話を聞いていて、親子というのは難しい面もあるけれど、さらにそれぞれの立場もあるけれど、でも一番理解してくれているのではないだろうかと思った。表現される形がどうであれ、実際はそんなことはどうでもいいことで、言葉や態度では表せない理解があるような気がする。子どもたちに私の方から甘えることが大事なことかも知れないな、そんな気がするが、まだ素直に出来ないところが「親の気負い」なのだろう。
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