友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

愛し方は学習するしかない

2016年08月23日 17時54分03秒 | Weblog

 台風一過なのにまるで真夏がやって来たような暑さだ。暑さのせいではないと思うけど、父親が小6の息子を、母親が幼い子ども4人を殺害する惨事が起きた。どういう事情かは分からないが子どもの命を奪うことなど決してあってはならない。生死は神様が決めることだ。殺人を犯した父親も母親も共に40代、悩みを抱え込む年齢なのだろうか。

 大和塾が10年経ち、9月24日の姜尚中先生を講師に迎えた市民講座で幕を閉じる。私が創設したが、今は紙名が変わってしまった地元紙の編集長が代表のところに取材に来た。私の手を離れてもう20年になるのに、「師匠の前ではやりにくいです」と言う。広告会社に勤めていた彼女に地域新聞の作り方を教えてきたが、新聞の愛し方までは教えられなかった。愛し方は人様々、自分で身に付けて行くしかないからだ。

 親が子を愛するのは当然のことだが、その愛し方は学習でしか得られない。子育てやその前の子作りも人間の本能だと思っているが、動物の中で人間だけが本能を失ってしまっている。動物のように子作りして、生まれ出たなら子育てができる、そういう仕組みを人間は進化の過程で学習に置き換えてきた。人間に残っている本能は食べることと眠ることくらいではないか。

 本能ではないから家族であっても居心地がよいとは限らない。下重暁子さんが『家族という病』で「家族ほど、しんどいものはない」と書き、上野千鶴子さんが「結婚しない、家庭に束縛されない、自由な生活」を主張するのに対し、金美齢さんが「家庭ほど安らぐ場所はなく、夫婦ほど支え合える関係はない」(『家族という名のクスリ』)と反論している。下重さんも上野さんも「家族という概念にこだわり苦しむことはない」と言っているだけのことであり、金美齢さんは恵まれた家庭が持てたというだけのことだ。

 子作りや子育てそして愛し方は学習していくしかないのだから、何がいいのかどうすればいいのか、手本を探し学んでいくことだろう。絶対的な方法も到達点も自分が見つけていくしかない。そもそも絶対そのものがないのかも知れないが、それもまた人間に課せられた学習なのだろう。

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