友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

手段で政治をしてはならない

2009年08月04日 20時05分32秒 | Weblog
 選挙が近づいてきたせいなのか、私に声をかけてくれる人がいる。「いやもう選挙には出ません」と断ると、「もう一度挑戦してもいいじゃないですか」とまで言ってくれる。私は70歳までに全てを終わりたいと考えている。70歳を過ぎたなら、飄々と木の葉か鳥の羽のように生きていたい。私の希望では70歳で人生を終了したいが、その前で終わるのかまだ続くのか、それは神が決めることだと思っている。

 そんなわけだから、いろいろ言ってきてくださっても馬耳東風に聞き流している。今日も先日断った人からまた声をかけられた。もう一度議員となって地盤を固めて市長になったらどうかと言う。「まず、地域の利益になるようなことをやれば必ず票になるから、市から金を引き出すとか、公園とか道路とか集会所とかいったものを作らせればいい。議員になったなら市長選を戦える仲間を集め、市長になったら、あなたの思うようにやればいい」。

 私は黙って聞いていたけれど、この人が私に期待していることと私がやりたかったこととは全く違うので、何度も同じ話を聞くよりも私はハッキリと「私の考え方は違います」と伝えた方がいいなと思った。「私は地域の利益を優先させる政治手法は間違っていると思っています。これまで、自民党は地域や団体の利益を優先させ、そうすることで政権を維持してきましたが、その結果がこの現状です。子どもや孫にまで借金を残して、自分たちの利益を追求することは間違っています。お金は残しても借金は残すべきではないでしょう」。

 「いや、あくまでも手段ですよ。市長になることが大事なのですから」。「そういう考え方はありますが、結果がよければ課程はどうでもいいとは思いません。課程こそが結果につながっていきます。課程が非民主的なのに結果は民主的なんてことはありえないと私は思っています。国会議員なら国全体を、市会議員なら市全体を、しかも長期に見据えて、どうあるべきかを考える政治家こそが大事なのではないですか」。

 彼はまだ何か言いたそうだったが、丁度私の友人がやってきたので、口ごもりながら去っていった。確かに、地域や団体や特定の人々の利益ではなく、広い視野と見識を持つ政治家を選出しなくてはならないが、実はそうなるためには有権者そのものが「エゴ」を捨てなくてはならないと思う。自分たちにとって都合のいい政治家を選ぶ考え方を捨て去ることだと思う。誰かに何かをさせるのではなくて、みんなで責任を持ってやる考え方とその仕組みが必要だ。

 8月30日はその課程への第1歩となるだろうか。
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