わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

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言語化と画像化~長岡ゼミでグラレコやってきた

2018-06-08 16:04:27 | グラレコ



今年で3回目となる法政大学長岡ゼミでのグラレコワークショップ。
長岡先生のキレッキレのゼミ指導も体験できちゃう特典付き。昨日も、わたしの方が勉強になったぞ、ってくらい学び多き時間でした。


昨日のゼミは、ゼミ生3人のプレゼン、それを受けてのペチャクチャ(ワールドカフェ)、そしてグラレコ、という仕立て。
昨日がプレゼン初日ということもあって、プレゼンの内容、仕立て、姿勢、準備などに温かな愛ある、そしてスパイシーなフィードバックが繰り広げられておりました。


どうしても言いたいことがたくさん出てきて、そして、“きれいな”“かっこいい”言葉で語りたくなってしまって、盛り込みすぎ作りすぎなプレゼンになりがち。そうすると、一番言いたかったことが薄れてしまったり、まだ自分の中で消化しきれないことは上滑りな表現になってしまう。流暢に話せたか、スライドが上手に作れたか、なんてことはそんなに大きな問題じゃなく、大切なのは「たったひとつの言いたいこと」。その「たったひとつの言いたいこと」があれば、あとはそれに何を付け足していくか?を考えていくだけ。きわめてシンプル。だから難しい。


オーディエンスが話したくなるようなプレゼンなのか?っていうのも至極納得。説得や情報伝達ではなく、あくまでも話題提供、プレゼンを聞いて「それについて話したい!」と思えたら、間違いなくそのプレゼンは素晴らしいものだよね。


そして、オーディエンスはプレゼンする仲間を助ける役割がある、ってこと。
コメントをきちんと出す、それは、批評するのではなく自分の感性で判断したコメントを出すことを意味します。そうやって聞き手と話し手がそれぞれの役割を全うしていくことが「みんなで場をつくる」ことにつながるんだなぁ。もちろんそのときには、聞き手はかくあるべし、というルールや正解はなくて、自分の感性に素直に従うのがいちばんいい。


そんなプレゼンにまつわるあれこれを受けてのグラレコ。


グラレコワークショップも授業も含めると2年間で1000人を超える方にご参加いただいて、試行錯誤、紆余曲折しながら、わたしがお伝えするグラレコってこれよ!が見えてきていました。


「残したいものを楽しく描く」
「正しい記録よりも楽しい記録を」


そう、きちんと正しく記録するとか、絵が上手に描けるとか、人が読んで共有できるとか、そんなことは割とどうでもよくて、この場で感じたこと、体験したことを残したい!というシンプルな動機で十分だと思っている。だから、誰かのためのものではなくて、自分のため。自分が描いて楽しい、読み返して楽しい、そんな記録でいいと思っている。そんな記録がいいと思っている。だから、正解もルールもない。


でも、この正解やルールがないことがどうにも曖昧ですっきりしっくりこないのもまた事実。
コツや書き方を教えてほしいというニーズはたくさんいただくし、どうしたらうまく描けるでしょうか?全部書けない、何を描いて何をそぎ落とすのかの判別が難しい・・・という質問もたくさんいただきます。


上手い下手もルールもないし、自分がこれは残したい!って思うことだけでいいんですよ、とお伝えしても、やっぱりもやもやは残るわけですよ。このジレンマwww


そんなジレンマも抱えながら、長岡ゼミのみなさんとグラレコワークショップをやってきたのですが、いくつか発見、開眼したことがあります。


ひとつは、楽しいってことは集中(没入)してこそ現れる感覚なんだな、ってこと。
「楽しい」っていろんなところで言われていて、楽しく学ぶとか、楽しみましょう!とか、ちょっと安易に「楽しい」って使ってない?楽しむマインド持ってないといけないの?的に、「楽しみましょう」圧がちょっとうざい感じを受けていたのです、ここのところ。これ、あくまでも自分感覚ですがw


昨日のワークショップ、「楽しかった」「時間を忘れた」という感想も聞かれたけど、みんなの顔つきが変わって「楽しい」雰囲気になったのって、グラレコ100本ノックと呼んでいる線を引く、絵を描く練習をしている時からだった。夢中になって線を引く、〇を描く、そして、話を聞きながら一言も聞き洩らさないぞ!と一生懸命聞いて、どうやって描こう、この絵はどう描く?なんてことを頭の中でぐるぐるぐるぐる考えている・・・そんな状態を称して「楽しい」って言っていたんだなー。


「戯れ」と「楽しむ」は違うって長岡先生もツイートされていたけれど、その違いはその場に一生懸命でいるかどうか、集中しているかどうか、ってことでもあるのかもしれない。
安易に容易に「楽しい」ってことを使いすぎていたなーとちょっと反省。集中する、集中できるためにはどうするか?ってことを少しだけ丁寧に考えていこうと思ったよ。


そして、画像化と言語化。
これは長岡先生が最後にまとめられていたことですが、
「言語化」は概念を明確化することであって、どんどんとそぎ落とされてシャープになっていく。
対して「画像化」は曖昧なままでもその場の雰囲気や印象を残すことができる。「言語化」していく段階でそぎ落とされた曖昧さや雰囲気といったものを残すのには画像化=グラフィックが役に立つ。
重要なのは、この2つをうまく使い分けることではない。どっちでもいい。どっちもあり。でもどっちも必要。どの場面で「言語化」するか「画像化」するかを決めるのは自分で、ルールや法則にあてはめないで自分自身でその考えることが大事。


そう。この自分で決めるってことが大事だと思うのですよ。
ルールも正解もないし、正しい記録とは言えないかもしれないけど、自分が一番印象に残ったことを描けばいい、って伝えていたのはそこなんだ!と腑に落ちた。
判断基準は自分自身。もっと言えば自分の感性。自分の感性を通して記録していくことが手描きではできる、ライブでもできる。そう、グラレコがもっとも得意とすることが、そこなんだと思う。


だから、自分が何に一番心を動かされたか、ってことを意識しながら聞いて描くのがいちばん大事だと思うのです。プレゼンにおける「たったひとつの言いたいこと」と一緒だね。


何を取捨選択して描いたらよいのか迷う、って質問に長岡先生はこうも仰っていた。
「そこに描かれていること(あなたが描いたこと)が正解」
つまり、描かなきゃいけないことがある、と思ってしまうことは、すなわち正解や正しい書き方があると思ってしまうってこと。自分の感情が動かされて描いたことが何よりも大事にしたいこと=正解なんじゃないのか?ってこと。


テクニック的なことやコツをお伝えしようと思えばそれはできます。けど、それじゃあ、わたしがやる意味がないし、アナログに手書きでその人のフィルターを通して描く意味がない。
自分が何に心を動かされたか、感動したか、印象に残ったか・・・それを描きたいし、描いてほしい。
今朝の秋風先生も言ってたもん。「オリジナリティとリアリティ。」グラレコも一緒だ。


勝手にもやもやしてたことを、勝手にクリアーにして帰ってきました。
毎年毎年、楽しく豊かな時間をご一緒できて、長岡先生には感謝してもしきれません。
長岡先生、ゼミ生の皆さん、チューターのくりちゃん、本当にありがとうございました!


気づけばお会いしてから10年になるのですねー。ひやー、時の流れは早い、早すぎる。


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行きつく先は「聞く力」?おもしろがって聞くときっと描きたくなるよね~大学でグラレコ授業をやってきた!

2018-05-01 19:18:42 | グラレコ


2週間に渡って、大学1年生全員を対象に「図や絵も使って読み返したくなるノートをとろう!」と題した授業を担当してきました。グラレコ講座の授業版です。
総勢500人。いつもグラレコ講座は多くても30人くらい。ワークしている時には手元が見えるし、反応を見ながら時間配分を変えたりしながらできる規模感なんだけど、今回は1回の授業につき150人ですよ。
学部再編で新たなカリキュラムとなった商学部1年生全員が対象で、「ノートの取り方」をテーマに2コマを充てるだなんて、かなりなチャレンジと調整があったと思います。わたしにとってもチャレンジだったので、この経験をきちんと振り返っておこうとだらだらと書き記します。


わたしのグラレコはそんなに絵や図は描かないし、目指すのは「残したいものを楽しく描く!」だから、自分のノートがカラフルで楽しくなって、その結果として人の話を聞くのが楽しい!って状態になっていることが何よりだと思っている。これって、ファシグラとかグラレコをがっつりやってる人からすると、「変化を起こさない活動は意味ないじゃん?」って思われても仕方がない。確かに変化を起こすことは大事だし、最終的には変化を起こしたり、課題を解決できてなんぼ、だと思う。けど、小さな第一歩としては、「自分のノートを楽しくとる」でいいと思う。小さく始める、楽しく取り組む…これが長続きする秘訣だよね。


2週に渡っての授業だったので、1週目は「いったい何やるんだ?」「ノートって板書を写すもんじゃないの?」といぶかし気だった学生たちも、2週目になると意外とおもしろがって描いている。最後の15分間スピーチの記録も事実と感情を対比させて記録していたり、早速習った「学校」のアイコン使ったり、表情のイラスト描いたりと、なかなか雄弁な記録になってたんだよね。



1週目が終わったあとに、振り返りのシートを課題として提出してもらったんだけど、
「事実と感情に分けて聞き取るのが難しかった」
「書こうとすると、話に集中できない」「全部書くのはムリ」
という感想が多かった。


ふむー。


学力とか知力の問題でもないし、いわゆる「質問力」とか「意味を捉える力」が足りないというわけではない。もちろん、そういう力は必要だ。けど、その前段階として、「おもしろがって聞く」「興味・関心を持って聞く」ってことが苦手なんじゃないかなー?という印象を持ったわけです。なんていうかねー、感情を動かす、ってことが苦手。苦手というのは乱暴だな。話(特に授業)を聞いて「おもしろい」と思うなんて想定してないって感じ。



確かにー。
わたしだって学生時代は、先生の話がおもしろい!とは思っていなかったもんなー。歴史の裏話的な話はおもしろい!と思ったりはしたけど、そもそも「勉強」は苦しくつらいことであって、楽しいこと、おもしろいことではない、っていうマインドセットだった。(だからといって教育システムが悪いとか、不満だとは思ったことはなくて、自分の成績が悪いから学ぶことが楽しくないだけで、それはさぼってるだけだ、という自覚があった。)


「全部書けない」という感想にも考えさせられた。
いろんなものがITの進歩で簡単に大量に保存できる時代だからこそ、量への安心感もあるんだろうなぁ。
記録って量じゃないと思うんだよね。残しておきたいという気持ちが沸き上がってきてはじめて、記録すればいい、と思っている。
35ミリフィルムの時代は、きっと構図や対象物を吟味して、渾身の一枚をカメラに収めてたんじゃないかなー。そんな感覚。興味を持って、おもしろがって聞くと「これは!」と思うこと、残しておきたい!と思うことが浮かび上がってくるはず。少なくともわたしはそう信じている。
感情を揺さぶられた話を記録する、そのための手助けのツールがグラレコにおける図や絵や色なんだと思ってる。だから無理に絵を描かなくたって、字だけで描いたっていいわけだよね。


自分が学生だった頃、「聞く力」ってあった?聞けてた?聞いてた?
学生時代、速記なるものをやっていたので、音声として聞くってことは鍛えられていたかもしれない。速記って、1分間に230字とか260字とかの速度で読み上げたものを、象形文字みたいな速記文字で書いて、それをその10倍の時間をかけて読めるように文章に書き直す、って仕組み。ちゃんと大会も検定もあって、5分間×260字=1300字の中の誤答の少なさを競う。究極、速記文字を1字も書かなくても、聞いたことをすべて覚えていて文章に書き直しができれば大会では優勝できるわけですよ。
とは言え、「できた!」と手ごたえを感じるときには、読み上げられた文章を音声ではなく意味が捉えられているときだったような気がする。そんな手ごたえを感じられることは、かなり稀有なことではありましたがwww
たぶん、この時期は音声でしか「聞く」を認識できていなかったんだろうな。意味を捉えて「へぇー」とか「ほほぉー」とか、おもしろがって聞けるようになったのはオトナになってからな気がする。


それってなんでだ?
いろんな経験、体験をしてきて、聞いた話を自分の体験や価値観に照らし合わせて共感したり、違和感を感じたりできるようになった、っていうのも大きいし、どんな捉え方をしたっていいんだ、ってことがわかったっていうのも大きいと思う。学生時代は、どうしたって評価がつきまといます。正しい答えを学生も先生も求めてしまう。そんなコチコチのマインドセットだったら「おもしろがって聞く」ってことはできにくいよね。そんな教育システムはけしからん!なんて思わずに、いろんな経験していけば、きっと「おもしろがって聞く」ようになるから大丈夫。
こんな変わった(!)授業を提供してくれる大学や、興味深い話をしてくださる先生がいる(最後の15分間スピーチは日替わりでこれまでのキャリアを語っていただきました。)ってことは幸せなことなのよ。そんな環境で過ごしていれば、きっと「おもしろがって聞く」人になるはず。


全員分の振り返りシートに目を通して、「意外とおもしろかった」「板書を写すだけじゃなくて、自分が考えたこと、先生が言ったことを書こうと思う」「絵があるだけで見返したくなる」という感想にわたしも勇気と可能性をいただきました。一人でも多くの学生が楽しくノートをとるようになったら嬉しいなぁ。


正しい記録よりも楽しい記録を。がんばれ、若人!




わたしにとっても学び多き貴重な2週間でした。機会を授けてくださった聞間先生はじめ商学部の先生方、毎日、スムーズな駐車場誘導をしてくれた守衛さんたち、そして学生の皆さんに力いっぱいの感謝を。


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何のために?誰のために?「そもそも」を大事にしたい。学びの目的って確認しないものなの?な話。

2018-03-29 06:48:30 | オトナの学び
ワークショップとか研修とか授業とか形態はさまざまですが、人に何かを伝える、教える、ことに携わっております。これがわたしの仕事です!と胸を張って言い切れないへたれですが、それでも、こだわっていることがあります。
それは、参加者にどうなってほしいか、どんな時間をすごしてほしいか?を大切にする、ってことです。
これね、アタリマエのようでいて、意外と忘れがち(あ?わたしだけ?)な気がします。
ついついコンテンツに目が行ってしまったり、満足度を高めるために行動してしまったりしがち。でもね、すべからく教育、学びに関わっているのであれば、このことは常に意識しておきたいなーと思うのです。


ありがたいことに、グラレコもいろいろなところで注目していただいて、講座をやってほしいというお声かけもいただく。よくよくお話をお伺いすると、なぜグラレコなのか、グラレコを通じて参加者(受講者)に何を得てほしいと思っているのか、〇時間の講座が終わったときにどうなっていてほしいのか?ってことがおざなりになっていることはある、とっても残念なことだけど。もちろん、流行っているから、話題になってるから、という理由であっても、学び楽しさ、新しいことに挑戦するわくわく感は伝えられるけど、それでいいのかなー?いや、いいはずがない。


つい最近のこと。
音楽をやってるうちのオットはボーカルスクールに通っております。ここでは発声などの基礎をはじめ「うまく歌う」ことを教えてくれます。そりゃそうだよね、ボーカルスクールなんだもの。
生徒さんの多くはの歌手を目指している若者だそうで、彼らにとっては「歌がうまく歌えること」「聞かせる歌を歌うこと」が目的で、その先にはデビューをはじめ、音楽を生業にしていく、という目標がある。だから、カリキュラムや学校の方針と目的は合っているわけだ。
うちのオットも当初は「うまく歌う」目的だったようだけど、いつ頃からか「うまく歌うだけでいいのかな?もっと違うことあるんだけどなー」と違和感を感じていたようです。
で、たまたま、それまでの先生が退職して、新しい先生になったときに何がしたいのか?どうなりたいのか?を聞いてくれたんだそうです。オットの答えは「歌がうまくなりたいというよりも、自分で曲を作って、オリジナリティある歌を歌いたい」ってこと。それからは、いわゆる発声やきれいにうまく歌う、ということよりも、楽曲のよさ、ポイントを活かした歌い方や、楽曲そのものの磨き上げに学ぶ内容が変わっていったんだとか。だから、声をきれいに出すことを第一義にしていたこれまでとは打って変わって、ロックっぽく声をつぶして歌ったりと指導方法もがらりと変わったそうです。


どうしたいの?どうなりたいの?と聞いてくれた先生に出会えたことは本当にラッキーだった思う。いわゆるお稽古ごとではあるけれど、学び手が何を求めていて、どうなりたいか?にきちんと向き合うってことは本当に大切なことだと思う。
もちろん、学び手におもねるだけではなく、学びを提供する側が、学び手にどうなってほしいかを考えることも必要だけどね。


新年度も、たくさんの学びの場に携わることになります。
手持ちのコンテンツを組み合わせてもそれなりの恰好にはなる。けど、それじゃダメだー。
その人にどうなってほしいか?どんな時間を過ごしてほしいか?を自問自答しながら、初心に戻って「そもそも」にこだわりながら進めたい。がんばろ。

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ハイヒールでうきうき、わくわく! Hi Heels Parfaitイベントに行ってきた

2018-03-26 06:41:40 | ライブ・イベント


3月24日の土曜日、午前中はグラレコワークショップやって、午後からは同じ会場でHi Heels Parfaitイベント。
浅草の老舗靴屋さんを応援しよう!きれいにハイヒールを履きこなす人が増えるといいな、なイベントとでも言いましょうか、とにかく楽しくわくわくなイベントでした。
(相変わらず、自分で描いたグラレコを写真撮るのを忘れちゃうので、これまた皆さんの投稿からこっそり拝借w)



圧巻でしょ。テンション上がるヒールたち♡


三澤社長によるハイヒールの歴史についてのお話し、そして、板谷さんからポジティブ心理学を交えて、これからは女性の時代、美の時代、美意識がだいじですよー、テンションあげてくれるハイヒールはいいよ♡ ハイヒール履いて外に出よう!(相当意訳)なお話し、そして最後は、9センチのハイヒールを履いて、プロのカメラマンによる大撮影大会!これが楽しくなくて、何が楽しいっていうのさ?(笑)


わたしは、そこでグラレコ描いてきましたー。暗がりの中で描いたのも初めてだったけど、描いてて楽しいお話もまた新鮮!
板谷さんの靴歴史は、本当にわくわく♡しながら描きました!


で、感じたことや考えたこと。


わたしも靴は大好きで、足の小ささ(21.5センチ、場合によっては21センチってことも)もあって、合う靴に出会えると、狂喜乱舞して大人買いしてきました。
でもって、ヒールが大好き。最低7センチ。8センチがベスト。
それは背が低いからっていうのもあるし、足が短いから少しでも足長に見せたいってのもある。けど、何よりもハイヒールのフォルムが好きなんです。エナメル、9センチヒールなんて瞬殺ですw


「アンカーウーマン」(だったかな?)で、バリバリキャリアウーマン(!)の主人公がニューヨークの街をスニーカーで颯爽と歩いて、オフィスに到着すると、ぱりっと9センチのヒールに履き替える・・・そんなシーンがとっても印象的で、「やっぱりかっこいい大人にはヒールだな」とすっかり感化されたのもきっかけ。スイッチ入る気がします、戦闘モードというとちょっと言いすぎだけど、「よーし、仕事するぞ!」って気分になる。


ちなみに、わたしのヒール歴は、17歳のお誕生日に、ダイアナで4.5センチヒールを買ったのがスタート。それ以来●年、いったいぜんたい何足ダイアナで靴を買い求めたんでしょう!100足は優に買ってると思うwww


でも、最近、特にいわゆる“会社勤め”をしなくなって、車で移動することが多くなってからは、すっかりローヒール派に。事務所の敷地が砂利だからヒールが痛みやすいし、通ってるオフィスがフローリングなのでヒールの「コツコツコツ」って音が響いちゃうのが気になるのもある。研修やワークショップなど立ち仕事が多くなった、というのもある。
けど、それじゃ、ダメだー、と思ったよ、緊張感がない。そして、美に対する意識やこだわりが薄まってしまってる。


昨今、自然が一番だよね、的な感じで、足を無理にゆがめている(押し込んでる)ハイヒールは体に良くない、みたいなことが言われてるけど、やっぱりヒールはキレイ。そしてテンションが上がる。
確かに、ハイヒールで長時間歩いたり、立ったりするのはしんどいけど、でも、そのしんどさがあるからこそ、キレイに見えるんだと思う。
三澤さんも最後に言ってたもん、ヒールを履くには鍛えていないとダメ、正しい姿勢と正しい靴選びが必須、と。そうなのよー、常にふくらはぎには緊張があるし、お腹やお尻もキュッとする感じあるし。ウェイトが重いと足への負担もそれなりにかかるわけで、ある程度は絞っていないとダメでしょ。もちろん、いろんな事情でハイヒールが履けない方もたくさんいらっしゃるのは承知ですが、でもやっぱり、ぺたんこ靴ではなくて、おばあちゃんになってもヒールを履いていたいなーと思ったよ。


去年の今頃、「強み」講座を受けて、そのときに作ったコラージュで「スニーカーを履こう!」が残っている。ちょうど常勤の仕事をひとつ辞めて、いろんな意味で自由になって時間もできて、これから何しようか?少しのんびりしようか?なんて思っていたからか、いつもと違うマインドだったのかもしれない。確かにスニーカーは身軽で自然で自由だ。どこまでも歩いて行けちゃう感じ。
でもね、自然体であることと、ラクをする、ってことは別物なんだよね。


ちゃんとヒールが履けるようにカラダも作らなきゃ、美意識も磨かなきゃ、と思ったのでした。そして早速、昨日は9センチヒールを履いてお出かけ。やっぱり背筋が伸びるねぇ。


イベントでは、最後にプロカメラマンにヒールを履いた写真を撮っていただきました。
プロの仕事ってこういうことだー、カメラマンがもてるわけがわかった!(笑)
みんなどんどんその気?になって、ポーズをとるのも自然になっていく。

「そうそうそう」
「いいね、いいね」
「そうそう、その感じ♡」

そんな言葉と軽快なシャッター音。そうか、こうやってアイドルや女優さんは脱がされていくんだな、と思ったことはナイショです(笑)
声かけって大事ですね。それも自信をつけさせる声かけ。カメラマンからフィードバック術を学ぶwww


楽しくわくわくなイベントでした!
今後、このイベントは本格展開していきますが、どんなふうになっていくのかとっても楽しみです。でもきっと、多くの人に自信と笑顔をプレゼントしてくれることだけは間違いなさそうです♡

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越境学習は誰のため?自分のため?会社のため? 越境学習的メカニズム出版記念イベントに行ってきた その3

2018-03-24 07:16:06 | オトナの学び
たった1時間半のイベント。こんなにたくさんのことを考えてアウトプットできるって、どんだけ知的生産性が高いイベントなんでしょう!これぞまさに「越境学習」の効果www
という戯言はさておき、先日の「越境学習的メカニズム」出版記念イベント、後半のパネルトークを聞きながら思ったこと。


質疑応答の中で、越境学習に会社が送り出す場合、会社が求める成果(成長)と、個人が求める成果(成長)は違う、ということはないのか?というものがありました。(相当意訳)
それに対して、送り出す側の企業人事の視点から静香さんが、「ぶっちゃけ、越境先にコミットして、そっちに行ってしまう社員がいてもいいと思っている。本当のリーダーを育てたいと思っているから。これだけ変化の激しい時代なのだから、変化できる人になってほしい。」と力強くお答えされていて(かなり要約意訳w)、感動した。やっぱり静香さん、かっこいい♡


2枚目の名刺サポートプロジェクトに参加したような人、環境の変化に対応できる人が組織内にいるってことは、組織にとっても力になるよね。何か新しいことをやるとき、これまでと違うことをやるときにはどうしたって抵抗勢力が出てくる。でも、変化が怖くない人が社内にいることで、推進力が生まれる。それはとっても心強いことだ。
外に出て行ける力のある人が、あえて社内に“いる”(残る)状態にするためには、何か違うエンゲージメント施策が必要なんだろうね。平たく言っちゃうと「会社が好き♡」って思える状態であれば、出て行かない。いつかは出て行っちゃうかもしれないけど、そのときには「退職」ではなく「卒業」という表現がなされるんだろうなぁ。(退職を「卒業」という表現することはあんまり好きじゃないんですけどwww)


会社に貢献せよ、研修で学んだことを活かせ、と言われても、結局、学習・学んだことは個人にしか帰結・帰属しないと思うのだよね。インプットしてアウトプットする過程で、“その人自身”をフィルターとして通過されていくのだから。薄まることもあるだろうし、濃くなって味わい深くなることもあるだろう。だって、人だもの。
それを含み置いて、越境学習に送り出すのはありだと思うんだけど、わたしは、どーにも企業側が社内の人材育成、研修の一環として越境学習を奨励することに違和感を感じるのだな。


以前、組織開発のセミナーでなぜ参加したのか?という問いに「人材開発では限界があると思ったので、組織開発を学びに来た」と仰る人事担当者がいて、「なんじゃそりゃーーーー!」と違和感MAXになったことがあるんだけど、まさにそういうこと。
何か解決したいこと、困っていることがあって、あるいは、こうありたい、こうなりたいというゴールや目標があって、そのために何をするか?個人にフォーカスする人材開発なのか?集団組織にフォーカスする組織開発なのか?を考えていくんじゃないのかーーー?ジュンナカハラ先生も言ってたよね、組織開発は手段でしかない、って。


越境学習もそうでありたい。会社の中だけは足りないから学びに行くっていう動機でもいいとは思う。けど、送り出す側の企業は、少なくとも、その社員にどうなってほしいのか?は持っていてほしいし、ほんとに越境学習が最善の策なの?ってことは問い直してほしいと思うのです。


もちろん、時代が違うから一概には比較できないけど、かつて、ジャパンアズナンバーワンと言われていたころ、おそらくその頃のサラリーマンは越境学習なんてせずに、社内で先輩や上司の仕事を見ながら力をつけて行ったんだと思う。(その暗黙知が競争力を奪っていたのかもしれないけど)
本当に、社内だけで人材開発、教育をしていくことって限界なのかしら? とことんまでやったのかしら?そのうえで、最適、最善の方法として「越境学習」(他流試合)を選択したのかしら?っていう疑問。
なんかねー、うがった見方なんですが、「やっぱり外の知見を入れないとダメだよね」「外で揉まれた人は違うよね」的に、安易に越境学習がいいよ、って言ってない?っていう疑問が沸々と湧きおこるわけです。


わたしの父は、71歳まで企業組織の中にいて(創業者でもなんでもなく)、サラリーマンすごろくとしては「あがり」な人生だったと思う。でも、物心ついてからこっち、父が勉強している姿は見たことがなかった。日経新聞すら読んでなかったし。(ある程度偉くなると、会社で購読しているからそれを読んでたらしいけど。)でも、経済環境についてはちゃんと把握してたし、50年に渡るサラリーマン人生、時代の変化、技術の進歩にもついていっていたと思う。それって、きっと社内で“学んで”いたからだと思うのです。いわゆる”教育体系”の中での学びではなかったかもしれないけれど、長い時間を同じ場所で過ごすことによって得られる学びだったのかもしれないね。そんなのノスタルジーだよ、って思う反面、そうやって強くなっていった人もいたんだもの。多くの人事担当者は真剣に、その人にどうなってほしいか?を考えていますが、社内で教育するってことをあきらめちゃいけないと思うのです。


ちょっと話がそれてきた。
青臭いと思われようと、わたしは、「その人にどうなってほしいか?」を考えることが、人材育成、人材開発のスタートだと思うし、そんな気持ちで研修や教育プログラムを考えていきたい。それがたまたま「越境学習」だった、でありたい。


知的刺激を受けまくったイベント。こんなことを福岡でもやりたいなー、石山さんにも来ていただけないかなー?女子大の広報もできないかなー?と妄想を構想に昇華中。石山さんに妄想をお話ししたら、「リカレント教育とプロボノ、通常の越境学習の接続という新しいスキームの提示になると思います。福岡という地域活性と絡むので、さらに画期的です。」と凄すぎるまとめを。わたしの妄想をアカデミックにまとめられる石山さんはやっぱりスゴイ!!とりあえず、いろんな人に話してみよう。どこでどんなきっかけや機会が待っているかわかんないもんね。






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それでいいんですか?それがいいんですか?ガチにならないと学びは少ないよね~越境学習的メカニズム出版記念イベントに行ってきた その2

2018-03-16 06:17:30 | オトナの学び
先週参加した「越境的学習のメカニズム」出版記念イベント。どうしても書き残しておきたいことがあったので、自分へのメモも兼ねて。


後半のパネルディスカッション。
石山さんの著書の中で、事例分析として紹介されていた2枚目の名刺サポートプロジェクトのお話し。
プロジェクトに送り出す側の企業人事の立場からは静香さんが、プロジェクトに並走していく事務局の立場から松井さんがそれぞれお話しされていた。


この事例分析の中で興味深かったのが、曰く「越境しに行っているはずなのに、最初の数か月は「違っていること」がわからない状態だった」ってこと。もちろん「違い」はあって、そのこと自体は認識しているけれど、これまでの組織(ホーム)ではアタリマエとされていた前提条件とは違う違和感や、分かり合えない葛藤やざらつく感覚は持てていなかったそう。それが、本当に「違う」と認識できたの
は、クライアントであるNPOへの中間報告のとき。言葉にしてクライアントに伝えたときにはじめて、ミッションや目的に齟齬があったこと、理解しきれていなかったことに気づいたんだそう。


ふむー。
わかるようなわからないような。


わたし的バイアスでこのことを考えてみると、おそらく、サポートプロジェクトに参加された方たちはとっても能力が高くて、コミュニケーション力であったり、まとめ上げる力だったりがあるから、きっと「違い」もうまく呑み込んで、ある程度のかたちにすることが可能だったんだろう、と思う。
それを言語化して、伝えてみてはじめて「あれ?」という感覚になった。遡上に乗せること、つまびらかにすること、言語化すること・・・アタリマエのようにやっているようで、あらためて丁寧に行うことで、本当の課題や取り組むべきことが見えてくるんだろうな。


言語化するってだいじだ。
けど、意外と世の中的には、この「言語化する」ことが染み渡っていない様子。ちょうど、このイベントの翌日に、女子大の学び直しプログラムについてヒアリングを受ける機会があって、その席で「言語化するってことを奨励しています。学習したら振り返る、そのときにはビジネスパーソンに求められる“簡潔さ”は求めずに、“だらだら”と自分の言葉で言語化することを求めています。」とお話ししたら、相手の頭に「?」が飛んでいた。
厚労省の委託を受けて中断再就職の支援プログラムを作っているコンサルティングファームのその担当者は、ビジネス現場で役立つ力を育てる=簡潔にわかりやすい文書をつくること、だと思っていたと仰っていたけど、大人の学びって、新しく仕入れた知識や経験を自分なりに咀嚼して、自分の“言語”にして発する、という「加工貿易」的なものだと思うんだよね。だから、だらだらと「風が吹けば桶屋が儲かる」的にストーリー立てて語れるようになることがだいじ。そしてその物語に共感して、賛同してくれるから何かが始まる。(というようなことをお話ししたら「なるほどー」と仰っておりましたが。)


そして、もうひとつ。
能力の高いメンバーが集まって、課題解決に向かって進んでいくわけで、きっと「越境」体験などしなくても、修羅場や軋轢を乗り越えなくても、“そこそこ”のアウトプットはできるんだろう。けど、それでは意味がない。プロジェクトの成果物(クライアントへの満足度)の面からも、参加者一人ひとりの学習の面からも。
それを、2枚目の名刺サポートプロジェクトのコーディネーター松井さんは、最後の最後まで揺さぶりをかける。

「それでいいんですか?それがいいんですか?」


この問い、お互いに相当な覚悟がないと言えない。


そして、これはクライアントがいるから言えることでもあるような気がする。おそらく、自分たちのための課題研究であれば「それでいいんですか?」と問うたら「それでいいです」で終わってしまうこともあるだろう。評価するのは自分たちであり教員であって、ガチで提案を待っているクライアントではない。けど、2枚目の名刺サポートプロジェクトでは、プロボノではあるけれども、ガチにクライアントがいて、クライアントに対しての責任があるから、最後まで踏ん張れるんだろうな。


わたしがプロボノやってたときもそうだったもん。きれいにまとめようとする人なんていなくて、最後まで「本当にこれでいいの?」と問い直していた。お金ももらわないのに、なんでだろう?って思うけど、責任ももちろんあったし、何よりも、クライアントの思いを聞いたら「それに答えたい」と思うのは至極当然なことかもしれない。この人たちの思いを形にしなくてプロボノって言えるか?そこに魂はあるのか?みたいなwww


今関わっているプログラムで、この問いが言えるだろうか?学習者のためだけを思って、この問いは発せられるだろうか?
教育プログラムと、プロボノ活動とはその目的も成果(ゴール)も違うから、一概に比較はできないけど、でも、本当に学習者の変化や学びを深めたいと思うなら、揺さぶりをかけられなきゃダメだ―。さらに迷走して、困窮するかもしれないけど、それにとことん付き合う覚悟がなきゃダメだー。


そんなことを思いながら、次年度のプログラムを準備していこうと思ったよ。
松井さん、ガツンとくるメッセージをありがとうございました。
だいぶ、プログラムは磨かれてきたように思っていたけど、まだまだできること、伝えなきゃならないことはたくさんある。初心に戻って頑張ります。



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どっちがホームでどっちがアウェイ?越境的学習のメカニズム出版記念イベントに行ってきた

2018-03-14 06:51:52 | オトナの学び


気づけばもう1週間も前のことになりますが、大学院の先輩でもあり、尊敬する石山さんの新著「越境的学習のメカニズム」の出版記念イベントに行ってきました。
せっかくだからと図々しくグラレコも描かせてもらっちゃいました♡
(毎回、自分の描いたグラレコって写真撮り損ねちゃうので、ご参加の皆さんがSNSにアップしてくださっているのを、こっそり拾っておりますm(__)m 今回は事務局のナガサワさんの投稿からこっそり拝借。この切り取り方、素晴らしすぎる!!!)


2010年頃、石山さんから越境学習の実践者としてインタビューを受けたことがあるけど、その頃と比べると、世の中は確実に変化している。だって、その頃は「越境学習者は隠れキリシタン!」なんて言われてて、勉強会に行くと言って会社を出ると白い目で見られるから、「合コンに行く」って言ってたとかなんとか(笑) 合コンはさておき、社内に公然と越境学習、さらには副業・複業してる、なんて言える雰囲気じゃなかったわけで。それが今や、企業が主導で、社員に越境体験をさせるわけですもの。すごい変化だ。


この新著、中原先生や長岡先生がべた褒めするなど、「そうそう、そういうことなのよー!」とこれまで、ひっそりと暗黙の了解の上に語られてきた越境学習について、その定義や範囲、効果について、丁寧に書かれていて、とーーーーっても勉強になった。これ、完全マスターしたい。本当に多くの人が待っていたご本だと思うのですよ。


そんなご本の出版を記念してのイベント。
相変わらず石山さんの講演(トーク)はキレッキレで、ついつい聞き入っちゃってきちんと記録できなかったことは内緒です(汗)
石山さんは、越境学習を「自分が思うホームと、自分が思うアウェイを行ったり来たりすること」と定義されていて、この「自分が思う」という但し書きに大いに納得、共感、腹落ち。


ずいぶんと昔、自分の越境学習について、長岡先生の授業でお話ししたことがあって、そのときに、自分なりのまとめとして、「越境学習っていいもののように思うけど、結構、罠があるよね。行った先が気持ちよくなって帰ってこない罠とか、越境してると思ったらいつもの顔ぶれで全然越境じゃなかった罠とか…」というようなことをお話しした。
そうか、往還かーーーー!と今更ながら腑に落ちたわけです。


チープな表現ですが、
外で学んだことを仕事や自分の活動(=ホーム)で活かそうとする。そうするとやってみるとできることもあれば、できないこともある。足りないと思ったら、また外に出て学ぶ。そんなサイクルが学びなんだと思うわけです。
一方で、たまぁにあるけど、外に出ていることが気持ちよくなっちゃう。特に今の会社や仕事にちょこっとでも不満や居心地の悪さを感じているときには、「へへん、わたしには外の世界があるもんね」的に、外にも世界を持っていることでなんだか安心しちゃう。外の世界がよりどころになったり、つまらない日常を補ってくれるものになってしまったりするわけです。となると、この時点で、アウェイだったはずの外の世界が、ホームにすり替わっちゃう。だから、こういう場合には、「越境」とは言わないんでしょう。


今回、石山さんのお話を聞きながら、つらつらと考えたのは、アウェイであると認識するのってどんなときなんだろう?どんなこと/要素があればアウェイだと感じるのだろう?ってこと。そのひとつが「違和感」を感じるかどうか、なのかもしれない。越境って、物理的に違う境界に行くことではなくて、ホームではない場所に行くこと。だから、仮に「越境」である場に行ったとしても居心地がよいと感じればそこはホームになるし、違和感を感じればアウェイにもなる。


わたし自身の越境史をひも解くと、
初期(大学院に通って、中原先生のイベントに行き始めた頃)は、そりゃーもう違和感満載。違和感っていうよりも「すみません、わたし、こんな場違いなところに来ちゃって…」という気後れ感。お近くの人と名刺交換して談笑、なんて高等なことはできないし、話を理解するのも大変だし、とにかく肩身が狭い。

中期(大学院修了して、いろんな場に出かけて、社内でもワークショップをやり始めた頃)は、どこに行っても楽しい期。知らない話を聞くこと、新しい経験をすることがとにかく楽しくて、さらに場慣れしてきたこともあって、名刺1枚で延々とお話しし続けられる技術(?)も身につけた。荒れた(!)イベントや場であってもおもしろがれたし、いまだにわけわかんないプレイフルラーニングのワークショップ(2011年12月に吉野ネオミュージアムで行われたワークショップ)も泰然とその場を楽しんでいた。長岡先生に「ひめさんは、大抵のことは楽しいって言うもんなぁ」と言われたっけ。

そして後期(この地に来て以降)は、どこに行っても違和感満載(え?)。これまでの経験もあってか、大抵の場に行くと知り合いもいるし、気づくとコミュニティの中心付近に居られる。それってとっても光栄なことだし、学びも大きいんだけど、常に違和感。全力で楽しんだり、全力で傾倒したりできなくなってる。


これってなんでだろう?とずーっと考えていたのですが、1つは、還元する先がぼんやりしていることが大きいんじゃないかな?と思う。サラリーマン時代のわたしは、誰に頼まれたわけでもないのに、学んだことや体験したことを社内で実施しようとしてた、役割や年次的にもそれができる環境だったこともあるし、何よりも、みんなにこれを体験してほしい!という暑苦しい思いがあった。今は不特定多数に向けてであり、一期一会的な還元であることが影響しているのかもしれない。
そしてもう1つは、曲がりなりにも、わたしがホームを持ってしまったこと。ホームっていうか、専門分野や価値観が強固になってしまったことによるのかもしれない。自分のやり方、自分の譲れない思い、価値観・・・そんなものができつつあるから、それと違ったことに「むむむ?」と違和感を覚えるのかも。


なるほど、これが「学び直し」Unlearnなのですね。
「学び直し」は「学びほぐし」だから、「これまでの自分をひも解けばよいのですよ、みなさんは既にたくさんのものを持っているのだから」と担当している社会人向けの大学院プログラムではお伝えしているものの、やっぱりUnlearnには痛みが伴うものなのだなぁ、としみじみ。ひめさん越境中期のように、何を聞いても楽しいと吸収していた頃とは違って、苦いんだけど自分の中に飲み込んで、それをアジャストさせていく、という作業が必要になってきている。
でも、一方で違和感を感じること=アウェイな感覚を持てるってことは、学びも大きいわけで、ぐっと飲みこんで咀嚼して味わっていこうと思うのだな。子どもの頃に苦手だったピーマンが、大人になったら食べられるようになってたみたいにね。


がつがつ噛んで、丈夫な顎にいたしましょう。


最後に、石山さん、グラレコ描かせてください!という突撃お願いをありがたがってくださった2枚目の名刺のみなさん、九州からご一緒したえがちゃん、会場でお会いできた学び仲間のみなさん、良質で豊かな時間・場をありがとうございました! そして空き時間にKatyで食べたアップルパイに最大級の感謝を。


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NO KIKKAWA NO LIFEなのだ

2018-01-24 06:23:26 | キッカワコウジ
行ってきた、KIKKAWA KOJI LIVE 2018 "Live is Life"」東京・武蔵野の森総合スポーツプラザ メインアリーナ。




なぜか、ブログを書きたい、感じたことを残しておきたい、言語化しておきたい、という思いが高まっているのです。
その昔、25周年ツアーくらいまでは、参加するたびに、「晃司、わたしのこと見た♡」的などーでもいい感想をだらんだらんとブログに書いていたのですが、SNSが出てからこっち、長文を書くってことが本当になくなってしまった。
感じたこと、考えたことを、ドキュメントに残しておくってだいじだもんね。



いわゆるライブレポートは、ナタリーさんのこちらが詳細に語ってくれているので、わたしはわたしの目線で、やっぱりキッカワコウジかっこいいわー、ってことをつらつらと。



今回の2Daysはポリープ抱えながらのステージで、ところどころ、なんか声出てないなー、つらそうだなー、というところもあったけど、晃司曰く「鍵盤で4つか5つ音が出ていない状態だけど、カバーできるだけのすべを身に着けた」ってこともあって、気にならずに楽しめた。
でも、最後のMCで「自分でやるって言っちゃったけど、本当にできるのか、こんなにドキドキしたことはこれまでなかった」と語っていたように、万事OKって感じでもなかったんだろうな、と思う。



制約なんてない方が自由にできるのかもしれない。けど、制約や不便があった方が、どうやったらうまくやれるんだろうか?って工夫する。知恵も使う。30年を超えるキャリアで培ってきた経験がブレンドされて晃司の中で暗黙知が形式知になっていったんじゃなかろうか? 



最後のMCのときに、「ひとつの完成形になるんじゃないかな?って思ってたけど、完成してどうするよ?壊していかないと」(やや意訳)と言っていて、あぁ、なんて、この人は貪欲な学習者なんだろう、って思った。きっとこの2日間、そりゃー、百点満点ってことはないし、ああすればよかった、ここがイマイチだった、ってことはたくさんあるだろうけど、それでも、現時点で出せるかなりハイパフォーマンスなステージだったと思う。それでも、それに満足せずに、変化・進化し続けるってことが本能的にできるひとなんだなーって。小さくまとまんなよ、今が最高だなんて思うなよ、と言われてる気がしたよ。



あとねー、ライブって「生」ものなわけで、そのとき、その場を全力で楽しむって大事だわーとあらためて思ったわけで。
最近、いろんなところで「楽しむのが一番」的なことを言われるわけだけど、なんだか、「楽しい」の押し売り、押し付けをしているみたいで少し違和感があった。楽しいことばっかりじゃない、楽しいと思えないこと、つらいこと、憤ってしまうこと、そんなマイナスの感情は必ずある。でも、それを見なかったことにして「楽しもう」って言うのは傲慢じゃね?と。
「楽しむ」ためには、つらいこと、しんどいことも乗り越えるタフさと、下準備や努力が欠かせないって思うのだよね。そして、どんなことが起きてもおもしろがるマインド。



歌詞を間違えるとか、機材のトラブルとか、MCがグダグダだとか、いろいろいろいろありますよ、生ものだもの。
でも、そんなこともひっくるめて、その場に居合わせられたことに感謝して面白がれるってのが大事だよなーと、最後「モニカ」で、あらあらまぁまぁどうなっちゃうの?どこでどう入るの?終わるの?ってな展開になったのを見ながら思ったのでありました。アタリマエっちゃアタリマエだけど、イマココ、目の前に集中する、ってのもライブの醍醐味なわけでw



いいライブには席の良し悪しは関係ない!
確かにそうなのですよ。スタンド席には全体を見渡せるってメリットあるし、スポットライトがすーっと伸びていく構図は大好きだけど、でもねぇ、そうは言っても没入感が違います(笑) 無心。そして晃司以外目に入らない(笑)
適度な距離感っていうのも一体感、没入感を感じる上では必要なことなのだな。



20周年のときにドはまりして、それからツアーは「迷ったら行け」を合言葉に、「仕事は休まない」を前提にできる限り行っていた。5年もたてば「もうお腹いっぱい、もうそんなに行かなくてもいいや」ってなるかと思ってたけど、とーんでもない。来年35周年。かれこれ15年間、本当に楽しませてもらいました。
東京から遠く離れて4年。結構、自由にいろんなことやらせてもらってるし、行かせてもらってるけど、それでも物理的な距離を埋めるのは大変で、行きたいと思っても行けないこともたくさんある。夫婦共通の趣味がライブなので、「行く」前提で調整できるのはありがたい限り。
今回のライブでわたしの晃司ライブ通算92回。何回まで伸ばせるかな?伸ばしましょう、どこまでも。
NO KIKKAWA NO LIFEなのだもの。



おまけ。

何事もおもしろがらないとね、ってことで、一緒に行ったお友達夫妻と4人でお揃いのTシャツ作っての参加。
わたしとオットはパンツも靴もすべてお揃いですよヾ(≧▽≦)ノ←バカップルwww






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はじめてでも門外漢でも敷居が高くない場ってあるのかな?な話。

2017-09-25 22:58:12 | ライブ・イベント
先日、ライブができるダイニングバーで行われたフリーライブに行ってきました。ここ、結構重要。結婚式の二次会やパーティーなんかもできちゃうダイニング付きのライブハウスではなくて、きちんとした機材があってライブもできちゃうダイニング。



通常、ライブハウスでライブをやるときには、時間あたり●万円の利用料がかかったり、機材を借りるといくら、受付やったり集客を請け負ったりするといくら、みたいな取り決めがあって、集客のノルマがあるところも。
つまり、アマチュアで音楽を楽しんでいる人がライブをやろうとすると、それなりにハードルが高い。資金面、集客面など“音楽”以外の要素も備えなきゃいけない。


それを、参加費を払って、持ち時間の中で好きなようにライブしていいよ、っていう制度があります。これって、結構、秀逸な仕組みで、主催するほどの技術や資金がなくても、腕試し的にライブを行えるっていう参加者(演者)側のメリットもあるし、ほかの参加者(演者)も自分が演奏する時間帯以外は、観客になるわけだから、集客をがんばらなくても、聴衆がいる。これってライブをやる上では結構重要だよね。やっぱり観客がいないライブってさみしいし、反応があってこそ、その後の演奏に活かせるわけだし。
箱側にとっては、参加者(演者)の分の収入と、演者の連れの分の収入が見込めるし、そうやって知り合いを連れてきてもらうことで、リピーターになってもらえる可能性もあるわけだ。



この手のフリーライブとかセッションライブには何度か行っているけれど、ぶっちゃけ、とっても居心地が悪い。それはわたしが演者ではなく、単なる観客ということもあるわけだが、ライブハウス特有の敷居の高さや、バンドマンにありがちなライバル意識やそれが転じた仲間意識に「ごめんなさい、ごめんなさい、わたし、場違いなところに来ちゃいましたよね」な気持ちになること、しばしばでした。
決して、彼らが排除しようとしているわけでもないんですけどね。なんでしょ、このアウェイ感。


その居心地の悪さが、このフリーライブにはなかったんです。
ようこそ!よく来てくれましたね、的な歓待とも違っていて、そこにただいることが許される、そんなおおらかな空気があったのです。



それってなんでだ?



内省が好物なわたしは、ついついその理由を考えてしまうのですが、思うに

・オールジャンルOKな懐の深さ 
80年代バンドソングから、フォークから、ジャズから、ビートルズから、オリジナルから、タップダンスまでなんでもあり!

・みんな、めっちゃうまい!! 
聴いてるだけで十分楽しめる

・ソロだと20分、
バンドだと25分の持ち時間  飽きない!持ち時間を有効に使おうとするからセッティングもスピーディーだし、余計な(おっと、失礼)MCもないからテンポよく進む

・ごはんがおいしい  
ライブだけではなく、ほかにも楽しめる要素がある。これって結構重要な気がする。一粒で二度おいしいお得感と、どっちかがイマイチでも、どっちかがイケてれば、行ってよかったね、ってなるもんね。

・分煙  
世の中の飲食店ではアタリマエになりつつありますが、ライブハウスって喫煙OKで副流煙もくもくってところが少なくない。

・みんな上品  
これ、私の偏見ですが、バンドマンとか、ワークショップとかやってる人って貧乏くさい人が多いんですよ。暴言失礼。いいことやってるんだから、夢を追いかけてるんだから、好きなことやってるんだから、だから儲からなくてもいい、赤字になってもいい、と思ってたり、好きなこと極めすぎちゃってなんだか不器用に生きてる人とか。それがなかったんですよねー。余裕のある大人が純粋に楽しんでる感じがとってもよかった。余裕っていうのは、経済的なことだけではなくって、好きな音楽を聴いたり、奏でたりする気持ちの余裕だったり、他の人の演奏を楽しめたりする余裕。



常々、はじめての場で居心地悪くなく過ごすには(過ごしてもらうには)どうしたらいいんだろ?なんてことを考えていますが、やっぱり、初めての場って緊張するよね。それって、お作法がわからないから、な気がするんですよ。
ラーニングイベントでも「お近くの方と名刺交換、自己紹介」といったお作法は慣れないととても不安だし、いったい何をしゃべればいいのさ?という気持ちにさせます。
ライブハウスのお作法って行ったことない人にとっては、なんじゃそりゃ?なことだと思うのです。
ワンドリンクオーダーって何?500円のミネラルウォーターって高くね?
荷物はどうすりゃいいの?上着は?
疲れたら座れる場所ってあるの?
とかとか…。



だから、最初はお作法を教えてくれる人の存在って必要だよね。そして、なんでもありで懐が深くて緩やかな場だと、スムーズに場に合流できるような気がするんだよね。
ライブでも、ラーニングイベントでも、そういう仕掛け、雰囲気を作っていくことが、集客につながるんだろうな、なんてことをつらつらと考えるこの頃。もちろん、それはコンテンツがしっかりしていてこそ成り立つわけで、場をつくる以上、どっちも満たすように心を砕いていかないといけん。がんばりましょう、がんばります。
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古くて新しい学びのかたち。苅宿先生のお話し聞いてきた。

2017-09-24 22:27:56 | カイシャ・シゴト
苅宿先生がやってきた!




これは、今年3年目になる「ふくおか教育を考える会」が主催の平田オリザさんに学ぶ演劇の発表会+トークイベント。そこに苅宿先生がやってきた。
聞けば、この演劇づくりワークショップに九州WSD(ワークショップデザイナー)のお仲間でもあるみよちゃんが参加しているっていうじゃないですか!これは何をおいても行かなきゃね。というわけで、高速をビビりながら愛車を走らせ行ってまいりました。


この演劇づくりワークショップでは、7月から5回にわたってワークショップを開催し、参加者みずから寸劇を作り上げるんだそうです。寸劇の発表の後はオリザさんの解説付き。


ワークショップデザインとか学んでいて、自分でもワークショップやったりしてるから、演劇とワークショップの関係はわかっていたつもりだったけど、あらためて生オリザさんから解説をしてもらうことで、なるほどーーーーーと深く腑に落ちた。
演劇では「運命」がポイント。出来事=運命が起きて、それに対して登場人物がどう感じ、どうふるまうか、が演劇であって、個人の内面、独白に迫るのは“小説”の役割なんだそう。演劇は2500年前からあって、小説の方がずっと新しい。こんな違いがあるってこと、あらためて知れたのは知識獲得の収穫でした。


寸劇の発表の後、「古くて新しい学びのかたち」というテーマで苅宿先生の講演(講義)+オリザさん、苅宿先生の対談。



苅宿先生の講義は、わたしにとっては学び直し。今から7年前に受講したワークショップデザイナー育成講座での学びがよみがえってきた。
何かを覚える、知識を習得するだけが学びではない。その過程での友達との関係など社会的な学習こそが学びであるっていうのは、あらためてその通りだよなーと思う。



WSDで学んでいた時よりもパワーアップした印象を受けたのは、「できない」から「できる」に至る過程では、「できてきた」という段階が必ずある、ってこと。そしてこの「できてきた」っていう感覚こそが学習には必要であり、それこそが「学び」だと苅宿節炸裂www 
教える人たちは、この「できてきた」をどうデザインするか、そして、「できてきた」という感情に着目するような教育をしなきゃならん。
この「できてきた」って感覚が達成感だったり、自己効力感であります。苅宿先生は「明日の自分が楽しみになっている」と表現なさっていました。



「発達の最近接領域」は久しぶりに聞いた!この理論、めっちゃ共感していて、社内研修やOJTを行うときには、意識的にデザインしていたなーなんてことを思い出しながら聞いておりました。
一人ではできないけど、支援者がいればできる、周りの人のまなざしこそが応援っていうのは、何度聞いても素敵な理論だ。同志社女子大学の上田先生はあの人とだったら乗り越えられる「憧れの最近接領域」っておっしゃってましたよね。


今日、あらためてお話し聞いて、ひとつ新たに視座として得られたことがあります。支援者がいればできること=乗り越えられることがある、だけでなく、「他の人と一緒にいるとできる」と意識できることが学びを促進する、というお話し。これまではどちらかというと、提供側(教える側)が最近接領域をデザインすることが必要、という文脈で語られていたような気がするけど、今日のお話からは学習者が意識すること、意識できるようにいざなっていくことが大事、という新たな視座が付け加わったように感じた。



オリザさんと苅宿先生の対談は本当に面白かった!
公教育に関するお二人の熱く確たる思いがたくさんお聞きできて、なんだか元気をいただいた。
もう長いこと言われているけれども、全国津々浦々統一された教育をしていくことの限界があって、小さな町だと首長さえその気になれば独自性を持った教育はすぐにもできる。活性化、地方創生の策をいろいろ講じてきても何も手ごたえを感じられないような小さな町は、教育と文化しかない!と腹ぐくりができるのかも。中途半端な(オリザさん談w)福岡みたいな町がいちばん厄介で(汗)、市内全域で何かをやろうとするには導入のコストもかかるし、かといって大都市圏ではないからスケールメリットも見込まれない。地元に残って、地元で活躍してもらう人材を育てたいのに、結局、中央(東京)に出ていく人材を育ててしまっているっていうのは皮肉だ。グローバル人材教育もそんな感じだよね。グローバル人材を一生懸命育てたら日本にはとどまらないで世界に出ていくでしょ。みんな一緒の共通の教育は、「村を捨てる教育」なんだってお話はなるほど納得。



でも、そうすると、教育はどんどんと細分化、カスタマイズされていって、手間暇がかかる。人を育てるんだから手間暇かかってアタリマエ、とも思うが、一方で、多様性だとかインクルーシブだとか言って、なんでもあり、にしちゃうのもしんどいよなーと思う。
日本のコミュニケーション教育は、「みんな仲良く」から始まって、合意形成をスムーズに行うことが求められてきたけど、一方で、クリティカルシンキングだとかロジカルシンキングが必要だ、なんて言われて、せっかく決まりかけてたことに「ええ?それでいいわけ?」的な茶々を入れることも必要だとされている。それを指して、オリザさんが「うまく話の腰を折るコミュニケーション」っておっしゃってたのは当意即妙でしたwww



個性だ、多様性だとなんでも認める、受け入れるっていうのは、今の時代は必要なことかもしれないし、否が応でもそうせざるを得ない。
アタマではわかっているけど、わがままとどう違うんだ?と思う昭和の教育を受けてきたわたしがいる。
決まりは守れ!と言えない、自由に振る舞うことを尊重しなくちゃならない空気は時として傲慢な気もするんだよね。
そういう矛盾を抱きしめて、世の中は矛盾で満ち溢れているってことを自覚しながら、それに気づいて悩んでいく、っていうことがこれからの教育者には求められるのかもしれない。



久しぶりに「学習」について、じっくり考えた時間でした。こういう時間って本当に貴重。この手の領域の知識は5年前で止まってるもんなぁ。きちんとアップデートしていかないと。


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