昨日書いた「なんであたしは越境学習してるの?」。あまりにもわけわかんない内容になってしまったので、ちょっと違う視点でまとめ直してみます。
結論としては、
あたしが越境する理由は、突き詰めて行くと
「越境学習してる=他に行く場所ある あたしってイケてるでしょ」って優越感
なんだと思ってます。
でもそれじゃあ、あまりにも学習者として寒いので、ラーニングイノベーション論の最後に中原先生が投げかけてくださった3段階目の「越境学習」と合わせて考えてみます。
昨日も書いたけど、最近のあたしは越境学習しに行くときには、面倒なので黙っていく。面倒な理由は何かって言ったら、「それに行って何になるの?」という問いに答えられないから。
昨日お会いした人は「その場に行って、世間の人たちはこんなすごいことを考えているのか、言うのかっていうのを身近に感じるだけでも意味がある(=健全な劣等感を持つ」と言ってくださったんだけど、「気づき」っていうのは内面のことなので、他者にはわかりにくい。カイシャってやつはわかりやすい成果を期待するから、「気づきや刺激を受けるだけでも価値がある」というのは声高らかには言いにくい。
それに、クレバーで感度の高い方たちは、何したって「気づき」は得られるわけです。それこそ、石ころからだって学べる。でも、ニンゲンはすべからく生まれながらのLearnerなのだ、と言うのであれば、今はそうじゃない人たちに対しては、きっかけは提供すべきなんじゃないか、と思う。でも、目に見える、手に取れる効果・成果がわからないと二の足を踏みがち。これが越境学習を阻む理由な気がします。
当社の事情で言えば、
あたしは全社の人材開発担当という役割と、大学院行ったりして勉強するのが好き(と映っているらしい)だというキャラクターによって、三日月さんはそういう人=越境学習する人、って認知されています。
でも、あまりにもそのキャラが強すぎて、三日月さんのマネしよう、とは思ってもらえない。別の世界の人なんですね。
で、最近のあたしは、この外学びの楽しさやおもしろさ、そして効果について(効果という点で言えば、少なくともケイエイキカク部門での仕事には相当、外で学んできたことを注入しとるもん)広報・普及活動をしていきたい、と思っている。
けど、阻まれる。
それが「で、どんな効果があるの?」
外に出ることって、果たして効果があることなんでしょうか?
越境しっぱなし、では越境学習ではなくてそれは場所を変える=引っ越すことになるから越境学習ではない。越境学習者は元いた場所に戻る。元いた場所に戻る、というのは、つまり、学んだことを持ちかえるってこと。
ラーニングイノベーション論の最後に中原先生がおっしゃっていたこととブログに書かれていたことをまとめると、
越境第1段階:誰かの作った学びの場に参加すること
越境第2段階:学びの場との相互交流≒持ち帰る
越境第3段階:自分で学びの場を作ること
となるんだと思います。あくまで、あたしの浅い理解ですが(^^ゞ
こんな感じかな?
ぢゃあ、越境学習することの効果って?っていうのを考えると
■第1段階:外に出る
・新しい知識を知る、身につく
・刺激や気づきが得られる
・健全な劣等感が得られる
■第2段階:持ち帰る
・知識を使ってみる(自分の仕事で)
・応用してみる
・他者に伝える、教える
■第3段階:場を作る
・今までの知識や知見を総動員する≒学びほぐしが行われる?
・学習者を育てる/仲間を作る
となるのかなー?
何が言いたいかって言うとね、誤解を恐れずに言うと、あたしはそんなに優秀じゃない。そして、当社のメンバーも優秀じゃない。優秀じゃないっていうよりも学習機会は圧倒的に少ない状態にある。経験できることも少ない。だから、先生がおっしゃるような第3段階とか、オトナの学びは自律的である・・・これらのことがにわかにはピンと来ないのです。
つまり、場を作って、あとは自発的に、というのは難しくって、手取り足取り、1から10までを段階的にフォローするってことが必要だし、都度都度どこまで到達してるかなーとチェックしてチューニングするってことも必要だったりします。
そう考えると、場があるから行きなさい、行くときっと何か気づくよ、っていう送り出し方、仕立て方ではなくって、そこに行って何を学べるのか、何を学びに行くのかというのは明確にしなくちゃならないんだと思います。
はて、それを自律的、と呼ぶのか?という疑問もありますが、気づきを得てそれを自分の中に還元できる人ってのはごくごく一部の優秀な人のように思うのです。多くの人は、そこまで自律・自立しようにもできない気がするのです。
そう、ラーニングイノベーション論をはじめ多くのところで語られる「越境学習」は、ぶっちゃけ、偏差値高い進学校の生徒さんだけを相手にしているような気がしてならないのです。ま、実際、そうなんだけどね。優秀なホワイトカラーの学び、なわけで。うわー、暴言!ごめんなさいっ
でも、これがあたしが最近感じている違和感なのです。
ニンゲンは生まれながらにしてLearnerである、根源的能動性があるのだ、と言い切るのだとしたら、自律的に学ぶことが困難な人に対して、どうしたら学べるのか、何を学ぶのかっていうのは永遠の問い、な気がします。
出来の悪い子は切り捨てるのか?という学校教育の問題と一緒ですね。
でも、ニンゲンは働いて生活していかんといけん。そのためには自分の能力はあげていかんといけん。そうするとやっぱり学習は必要なんだろうと思う。
あたしは少なくとも自分のカイシャ、自分のチームのメンバーとは一緒に学習して、一緒に能力あげて、一緒に働いて行きたいと思っている。それが、あたしのさらりーめんとしての役割だと思うし、越境学習しているあたしの恩返し、な気もしている。
そう、キーワードは「美しい労働者」。長い長い道だけど、がんばろ。
結論としては、
あたしが越境する理由は、突き詰めて行くと
「越境学習してる=他に行く場所ある あたしってイケてるでしょ」って優越感
なんだと思ってます。
でもそれじゃあ、あまりにも学習者として寒いので、ラーニングイノベーション論の最後に中原先生が投げかけてくださった3段階目の「越境学習」と合わせて考えてみます。
昨日も書いたけど、最近のあたしは越境学習しに行くときには、面倒なので黙っていく。面倒な理由は何かって言ったら、「それに行って何になるの?」という問いに答えられないから。
昨日お会いした人は「その場に行って、世間の人たちはこんなすごいことを考えているのか、言うのかっていうのを身近に感じるだけでも意味がある(=健全な劣等感を持つ」と言ってくださったんだけど、「気づき」っていうのは内面のことなので、他者にはわかりにくい。カイシャってやつはわかりやすい成果を期待するから、「気づきや刺激を受けるだけでも価値がある」というのは声高らかには言いにくい。
それに、クレバーで感度の高い方たちは、何したって「気づき」は得られるわけです。それこそ、石ころからだって学べる。でも、ニンゲンはすべからく生まれながらのLearnerなのだ、と言うのであれば、今はそうじゃない人たちに対しては、きっかけは提供すべきなんじゃないか、と思う。でも、目に見える、手に取れる効果・成果がわからないと二の足を踏みがち。これが越境学習を阻む理由な気がします。
当社の事情で言えば、
あたしは全社の人材開発担当という役割と、大学院行ったりして勉強するのが好き(と映っているらしい)だというキャラクターによって、三日月さんはそういう人=越境学習する人、って認知されています。
でも、あまりにもそのキャラが強すぎて、三日月さんのマネしよう、とは思ってもらえない。別の世界の人なんですね。
で、最近のあたしは、この外学びの楽しさやおもしろさ、そして効果について(効果という点で言えば、少なくともケイエイキカク部門での仕事には相当、外で学んできたことを注入しとるもん)広報・普及活動をしていきたい、と思っている。
けど、阻まれる。
それが「で、どんな効果があるの?」
外に出ることって、果たして効果があることなんでしょうか?
越境しっぱなし、では越境学習ではなくてそれは場所を変える=引っ越すことになるから越境学習ではない。越境学習者は元いた場所に戻る。元いた場所に戻る、というのは、つまり、学んだことを持ちかえるってこと。
ラーニングイノベーション論の最後に中原先生がおっしゃっていたこととブログに書かれていたことをまとめると、
越境第1段階:誰かの作った学びの場に参加すること
越境第2段階:学びの場との相互交流≒持ち帰る
越境第3段階:自分で学びの場を作ること
となるんだと思います。あくまで、あたしの浅い理解ですが(^^ゞ
こんな感じかな?
ぢゃあ、越境学習することの効果って?っていうのを考えると
■第1段階:外に出る
・新しい知識を知る、身につく
・刺激や気づきが得られる
・健全な劣等感が得られる
■第2段階:持ち帰る
・知識を使ってみる(自分の仕事で)
・応用してみる
・他者に伝える、教える
■第3段階:場を作る
・今までの知識や知見を総動員する≒学びほぐしが行われる?
・学習者を育てる/仲間を作る
となるのかなー?
何が言いたいかって言うとね、誤解を恐れずに言うと、あたしはそんなに優秀じゃない。そして、当社のメンバーも優秀じゃない。優秀じゃないっていうよりも学習機会は圧倒的に少ない状態にある。経験できることも少ない。だから、先生がおっしゃるような第3段階とか、オトナの学びは自律的である・・・これらのことがにわかにはピンと来ないのです。
つまり、場を作って、あとは自発的に、というのは難しくって、手取り足取り、1から10までを段階的にフォローするってことが必要だし、都度都度どこまで到達してるかなーとチェックしてチューニングするってことも必要だったりします。
そう考えると、場があるから行きなさい、行くときっと何か気づくよ、っていう送り出し方、仕立て方ではなくって、そこに行って何を学べるのか、何を学びに行くのかというのは明確にしなくちゃならないんだと思います。
はて、それを自律的、と呼ぶのか?という疑問もありますが、気づきを得てそれを自分の中に還元できる人ってのはごくごく一部の優秀な人のように思うのです。多くの人は、そこまで自律・自立しようにもできない気がするのです。
そう、ラーニングイノベーション論をはじめ多くのところで語られる「越境学習」は、ぶっちゃけ、偏差値高い進学校の生徒さんだけを相手にしているような気がしてならないのです。ま、実際、そうなんだけどね。優秀なホワイトカラーの学び、なわけで。うわー、暴言!ごめんなさいっ
でも、これがあたしが最近感じている違和感なのです。
ニンゲンは生まれながらにしてLearnerである、根源的能動性があるのだ、と言い切るのだとしたら、自律的に学ぶことが困難な人に対して、どうしたら学べるのか、何を学ぶのかっていうのは永遠の問い、な気がします。
出来の悪い子は切り捨てるのか?という学校教育の問題と一緒ですね。
でも、ニンゲンは働いて生活していかんといけん。そのためには自分の能力はあげていかんといけん。そうするとやっぱり学習は必要なんだろうと思う。
あたしは少なくとも自分のカイシャ、自分のチームのメンバーとは一緒に学習して、一緒に能力あげて、一緒に働いて行きたいと思っている。それが、あたしのさらりーめんとしての役割だと思うし、越境学習しているあたしの恩返し、な気もしている。
そう、キーワードは「美しい労働者」。長い長い道だけど、がんばろ。