卒業式シーズンですね。大学院を修了してからもう2年も経つのかーとびっくり。思えば、大学院に入学できたのはよかったものの、1年目は本当に辛くて、2022年の4月に「修了しました!」って報告をする、ただそれだけのために頑張っていたような気がする。
なんで1年目がそんなに辛かったんだろう?2年目は少しは緩和されて「辛い」って気持ちは無くなってきたけど、でも「楽しい!」なんて境地には到底至らずに終わった気がする。
50人からの同期がいて、オンラインで完結するプログラム、しかも時はコロナ禍真っ最中。学ぶことそのものには何の弊害もなかったはず。ハイスペックでエッジの効いた人たちの集まりはそれだけで魅力的だ。けれども、わたしはコミュニティにうまく入っていくことができなかった。越境学習だなんだとそれなりに学びのコミュニティには参加して、それなりにうまくやってきた自負があったけど、なぜだかうまく入れなかった。
ものすごい経歴の同期たち。自己紹介も自信に溢れていて、あらららー場違いなところにきちゃったかも、な気後れ感満載だった。のちに、みんなも緊張して、若干自分を盛っていた部分もあったってことがわかるんだけど、当時は一方的に引け目を感じてしまっていた。
あれから随分と月日が流れて、今となっては、夜の時間は完全にお互いに好きなことをやるようになったけれども、当時は夜ごはんは一緒に食べる(しかも何時に帰ってくるかわからない、帰ってきたら温かい料理を出す)生活で、部屋にこもって一人時間を楽しむ、なんてことができにくい環境だった。特にオンラインで何やら楽しげにやってる、なんてことはあまり歓迎されなかった。なので、ハッピーアワーと称する自主的なオンライン飲み会にも参加することができず、そうなるとどんどん足が遠のく。最初の一歩が踏み出せない。
ま、オンライン飲み会だけが交流じゃないし、そもそも学びに、探究しにきているわけだから別に参加しなくても何の問題もない。わたしがつまづいて、辛かったのは学びそのものだった。
出された課題の意味がわかんないんですよ。
いや、わかるんですよ。日本語としては。けど、この課題にどのように取り組むことを期待されているのか、がわからない。文面、額面を読んで、さらりと取り組んじゃったら、周りは全く違った。へ?ここまで深く取り組むの?設問にそこまで書いてあった???と混乱。さらにはテキストでのコミュニケーション(相互フィードバック)も、まずコメントを読んで意味を理解するところから始めなければならず、それに対してコメントする、ってことに相当な時間を要した。おかしいなぁ、フィードバックコメント的なことはずっと仕事でもやってきているのに、もっと要領よくできると思ってたのに、、、と自分ができていない、できないことを突きつけられて混乱していた。
メジローの言う「痛みを伴う」は、新しく学んだ知識やスキルがもともと持っているものに拒否反応を示す、だから一度捨てなきゃならない、このプロセスが本当に痛い、ってことなんだと解釈しているけれど、その域まで達することができなかった。なんでこんなにできないんだろう?わからないんだろう?と混乱したまま月日が流れていって、それでも、締め切りまでに提出する、言われたことはやる、を繰り返していた。
辛さの度合いは薄まったけれど、最後まで楽しいとは思えないままだったなぁ。キラキラした同期たちに圧倒されたって言うのもあるし、なんだか最後まで何を学びにいったのか、何を学んだのか、研究ってこういうものなのか、とかとか、腑に落ちないままだった。
チームで取り組んだ修了研究は、チームだったからなんとか最後まで完走できたけど、これ一人だったら絶対リタイアしてたな、ってくらい何が何だかよくわからないままだったなぁ。
その何がわからないのか?が最近ちょっとわかるようになってきた。他の同期と比較して、わたしは大学院での学び(内容や先生、クラスメイト)に絶対的な愛着を持てないままで修了してしまったのかもしれない。かけがえのない2年間だった、とか、ここでの出会い全てに感謝、みたいな言葉は到底出てこなかったんだよね。
だからといって、辛いことばかりで、行かなきゃよかった、行かなくてもよかった、と思っているか?といったらそんなことなくて、行ってよかったんだろうな、とは思っている。
新しい何かを身につけた・得た、とか、かけがえのない出会いがあった、などではなくて、ライフワークになるようなテーマに出会えたこと。それがそらウェル(空の写真を撮り続けると幸福度が上がる)。
ただね、研究員として活動(研究)を続けているわけじゃないから、あんまり認められてなくて、まぁ、そりゃそうだよね、全然違う先生、団体の元で研究を継続してます、なんて気持ちの良いもんじゃないことはわかる。不文律なのかもしれないしね。けど、研究は世の中を良くするためのものなんだから、誰に師事しようと、どこで活動しようと、続けること、そしてそれが広まっていくことが大事なんじゃないかなーと勝手に思っている。都合のいい解釈だけどね。
修了してからこっち、大学院の中では投げかけられなかった問いに、ずっと答え続けている。
「ひめさんたちの問題意識は解消(解決)されたの?」
アウトプット(アイデア)が素晴らしければ素晴らしいほど、この根源的な問いに答えることをおざなりにしてしまっている気がする。この問いに立ち戻って審査、助言をされなかったのはとても残念ではあるんだけど、そんなの問われなくても自問自答しなさいよ、ってことなのかもね。それが研究だよ、ってことなのかもね。
これからもそらウェルは続けていく。研究としてきちんと実証したい、という思いもあるし、いいことだから広めていこう、流通させていこう、という思いもある。けど、施策を一人歩きさせてはいけない。
そらウェルで「問題意識は解消(解決)されたのか?」
この問いに答え続けていくことがわたしにとっての研究、実践なんだと思う。
卒業おめでとうございます。
なんで1年目がそんなに辛かったんだろう?2年目は少しは緩和されて「辛い」って気持ちは無くなってきたけど、でも「楽しい!」なんて境地には到底至らずに終わった気がする。
50人からの同期がいて、オンラインで完結するプログラム、しかも時はコロナ禍真っ最中。学ぶことそのものには何の弊害もなかったはず。ハイスペックでエッジの効いた人たちの集まりはそれだけで魅力的だ。けれども、わたしはコミュニティにうまく入っていくことができなかった。越境学習だなんだとそれなりに学びのコミュニティには参加して、それなりにうまくやってきた自負があったけど、なぜだかうまく入れなかった。
ものすごい経歴の同期たち。自己紹介も自信に溢れていて、あらららー場違いなところにきちゃったかも、な気後れ感満載だった。のちに、みんなも緊張して、若干自分を盛っていた部分もあったってことがわかるんだけど、当時は一方的に引け目を感じてしまっていた。
あれから随分と月日が流れて、今となっては、夜の時間は完全にお互いに好きなことをやるようになったけれども、当時は夜ごはんは一緒に食べる(しかも何時に帰ってくるかわからない、帰ってきたら温かい料理を出す)生活で、部屋にこもって一人時間を楽しむ、なんてことができにくい環境だった。特にオンラインで何やら楽しげにやってる、なんてことはあまり歓迎されなかった。なので、ハッピーアワーと称する自主的なオンライン飲み会にも参加することができず、そうなるとどんどん足が遠のく。最初の一歩が踏み出せない。
ま、オンライン飲み会だけが交流じゃないし、そもそも学びに、探究しにきているわけだから別に参加しなくても何の問題もない。わたしがつまづいて、辛かったのは学びそのものだった。
出された課題の意味がわかんないんですよ。
いや、わかるんですよ。日本語としては。けど、この課題にどのように取り組むことを期待されているのか、がわからない。文面、額面を読んで、さらりと取り組んじゃったら、周りは全く違った。へ?ここまで深く取り組むの?設問にそこまで書いてあった???と混乱。さらにはテキストでのコミュニケーション(相互フィードバック)も、まずコメントを読んで意味を理解するところから始めなければならず、それに対してコメントする、ってことに相当な時間を要した。おかしいなぁ、フィードバックコメント的なことはずっと仕事でもやってきているのに、もっと要領よくできると思ってたのに、、、と自分ができていない、できないことを突きつけられて混乱していた。
メジローの言う「痛みを伴う」は、新しく学んだ知識やスキルがもともと持っているものに拒否反応を示す、だから一度捨てなきゃならない、このプロセスが本当に痛い、ってことなんだと解釈しているけれど、その域まで達することができなかった。なんでこんなにできないんだろう?わからないんだろう?と混乱したまま月日が流れていって、それでも、締め切りまでに提出する、言われたことはやる、を繰り返していた。
辛さの度合いは薄まったけれど、最後まで楽しいとは思えないままだったなぁ。キラキラした同期たちに圧倒されたって言うのもあるし、なんだか最後まで何を学びにいったのか、何を学んだのか、研究ってこういうものなのか、とかとか、腑に落ちないままだった。
チームで取り組んだ修了研究は、チームだったからなんとか最後まで完走できたけど、これ一人だったら絶対リタイアしてたな、ってくらい何が何だかよくわからないままだったなぁ。
その何がわからないのか?が最近ちょっとわかるようになってきた。他の同期と比較して、わたしは大学院での学び(内容や先生、クラスメイト)に絶対的な愛着を持てないままで修了してしまったのかもしれない。かけがえのない2年間だった、とか、ここでの出会い全てに感謝、みたいな言葉は到底出てこなかったんだよね。
だからといって、辛いことばかりで、行かなきゃよかった、行かなくてもよかった、と思っているか?といったらそんなことなくて、行ってよかったんだろうな、とは思っている。
新しい何かを身につけた・得た、とか、かけがえのない出会いがあった、などではなくて、ライフワークになるようなテーマに出会えたこと。それがそらウェル(空の写真を撮り続けると幸福度が上がる)。
ただね、研究員として活動(研究)を続けているわけじゃないから、あんまり認められてなくて、まぁ、そりゃそうだよね、全然違う先生、団体の元で研究を継続してます、なんて気持ちの良いもんじゃないことはわかる。不文律なのかもしれないしね。けど、研究は世の中を良くするためのものなんだから、誰に師事しようと、どこで活動しようと、続けること、そしてそれが広まっていくことが大事なんじゃないかなーと勝手に思っている。都合のいい解釈だけどね。
修了してからこっち、大学院の中では投げかけられなかった問いに、ずっと答え続けている。
「ひめさんたちの問題意識は解消(解決)されたの?」
アウトプット(アイデア)が素晴らしければ素晴らしいほど、この根源的な問いに答えることをおざなりにしてしまっている気がする。この問いに立ち戻って審査、助言をされなかったのはとても残念ではあるんだけど、そんなの問われなくても自問自答しなさいよ、ってことなのかもね。それが研究だよ、ってことなのかもね。
これからもそらウェルは続けていく。研究としてきちんと実証したい、という思いもあるし、いいことだから広めていこう、流通させていこう、という思いもある。けど、施策を一人歩きさせてはいけない。
そらウェルで「問題意識は解消(解決)されたのか?」
この問いに答え続けていくことがわたしにとっての研究、実践なんだと思う。
卒業おめでとうございます。
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