わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

意味付けのプロ

2012-03-12 01:45:11 | コトバ・ニッキ
いろいろリフレクションしてみた。
結論めいたことは何一つ出てないけど、ここ数日に体験したこと見聞きしたことと、ここ最近のもやもやもやったーずをちょっと考えてみようと思う。


っつーことで今日もだらんだらんな長文です(^^ゞ


大学院OBOG交流会、なんちゃってイブニングダイアローグが盛況で、長岡先生が羨ましがるくらい、予定調和であって予定調和でない”自由”な空間だったのはなぜか?って話。

・関係者限定だったこと
・その関係者が同じ学び舎のもとでツライ体験を一緒に乗り越えてきたから
・一度、交流会をやっていたので集まった人にある程度の親和性があったから
・慣れ親しんだ教室が会場だったから(肩書きを越えて、個/素に戻れた)
・偉い人がいなかったから
・ツカハラさんのキャラクター

なんてことをいっこ前のブログに書いた。


で、あらためて考えたこと。


本家イブニングダイアローグに感じていた違和感。
それは、集まってくる人たちが、「わたしが学びたい」<「誰かを学ばせたいわたし」だったこと。だからダイアローグも一般論になりがちで、ガチでリアルな一人称の会話にはならなかった。まぁ、ターゲットが人材育成マネジャー、で、本学の顧客がいらしているわけだから、そのことをどうこう言うのは間違い。


で、ラーニングバー。
これは、イブニングダイアローグと比較すると「わたしが学びたい」人が多く集まっていたけれども、でも思惑はあったように思う。あたしもそーだった、最初は。曰く、自分がこの話おもしろそう、この人の話聞きたい、と言って出掛けるものの、その腹には、仕事に活かしたい、何かのヒントが見つかるかも、人材育成に関わっている身としてはトレンド知っておかんとねー、というものがあったように思う。学生はじめ、社会人もコンサルからベンダー、営業等々と属性は様々だったから一概には言えないけどね。


その後、ラーニングイノベーション論とか人事系、人材開発、組織開発系の学びにいろいろと参加し、たくさん参加するようになるとホーム感は漂う。どこに行っても、自然に、というか、臆することなく振る舞ってる自分がいる。
けど、どこかでずーーーっと感じていた違和感があった。


それが「人事のプロ」ってキーワードだった。


ラーニングイノベーション論のみんなといると楽しいし、学んだことを組織に持ち帰っている/持ち帰っていることに刺激も受ける。


でも、どこかでアウェイ感を感じ始めていた自分がいた。
(あれだけ差し入れだー、サプライズだーやってて、番外編の出席率もよいのになんで?という感じもしましょうが)


「人事のプロ」としての覚悟が持てないでいた。


ちょっと話を戻して、なんちゃってイブニングダイアローグがなんであんなにステキな場だったのかの話。


ひとつの仮説として、完全に「個」の欲求として参加していたからではないか、と。


ぬぬ?矛盾がありますね、ここに。
あたしたちの大学院は(途中でカリキュラム変更があったので、すべての修了生に当てはまるわけではないのですが)、組織の課題を解決するための大学院で、修論は実践論文で、組織に持ち帰って実践したまえよ、というもの。
だから、在学中は理論と実践を紐づけるってことを意図的に行っていたようにも思う。修了後のキャリアを考える代わりに、修了したら学んだことをどう組織に還元するのか、実装させるのか、っていうのが重要だった気がする。


これがとても不思議なのだけれども、修了したあとに、別の大学院に進まれたり、ドクターに進学したり、と学び続ける方が非常に多い。もちろん、仕事に直結する学びを継続的に行っている方もいらっしゃるけれども、どちらかというと「極めている」印象を受ける。学びたいから学んでいる、って印象。


組織に持ち帰ること、実利を伴うことを目指していた大学院なので、修了したら学びは終わり、でもいいわけですよ、組織に還元できればよいんだから。
けど、学び続ける。
これってなんでだ?
理由は人それぞれなので憶測でしかないけれども、学ぶことそのものに価値や意義を見出したんじゃないかと。そして知的好奇心から、もっと深めたい、と思ったんじゃないかと。


で、そのマインドのままに、なんちゃってイブニングダイアローグには、完全に「個」の立場で参加されていたから自由な場、になったんじゃないかと。
カイシャ名の入った名刺で名刺交換してたけど、それは記号でしかなくて、○年修了の~~です、ってそっちが重要だった。


じゃあ、なんで学ぶことそのものに価値や意義が出てきたのか?ってのはよくわかりません。
あたし自身のことを振り返ってみれば、確かに進学するときには色気もあった。研究計画は、シェアドサービスセンターにおける組織設計を行動科学的アプローチでやってみたい、ってなもんだったし。今と全然違いますねwww MBA取ったらキャリアに箔が付くなーって思いもなくはなかった。
でも、学んでいくうち、通っていくうちに、そんなことどーでもよくなって、ただ学ぶことが楽しかったし、興味の対象がどんどんと「個」に向かって行った。


これが「人事のプロ」に対する違和感の出発点なんだと思う。


ご縁があって、ハナジョブ女子会の運営にちょこっとお手伝いさせてもらったり、ハタモクとか、自分でも社内研修の一環でキャリアに関するワークショップを企画したりと、キャリア支援とか「はたらく」ってことを考える場に立ち会うことが多い。


ここでいつも感じる違和感が、
「はたらくってそんなに大変なことなわけ?」
ってこと。


あたしにとって、はたらくは「労働」と結構近い意味合いがあって、自分の身一つくらいは養えるだけの経済的自立をするためには仕事なんて選んでる場合じゃないっしょ、まずはやってみたら?と本気で思ってる。たまたま今はオフィスワーカーで企画ちっくなこともできていて、世間様からは「かっこよく働いている」的に見えるかもしれないけれど、労働者でいたいし、”労働”できるマインドと体力を持っていたい、と思っている。ここ、おおいに語弊と誤解があるかもしれませんが。


人事に近いところにいながら、今どき新卒の採用には全然関わってないから、こんなにのんきなことが言えるのかもしれないけれど、はたらく、就職するのに、めんどくさい理屈や自分探しをなんでしなきゃならないわけー?といつも思っている。
でも、それが重要なんだよね、今の就職市場では…。


仕事、はたらく、ということに関してちょっと違うアプローチの話をします。


昨日、東京都市大の岡部先生の卒展にお伺いした。SFCの加藤研の卒展のときにも感じたけれど、いまどき学生はホントに素晴らしい。可能性に満ち溢れている、と心の底から思う。
っつか、卒業研究をこんなふうに発表できる機会、場・・・あたしたちのときにもあったんだろうか?あったとしてもこんなに立派にできただろうか?資料のアウトプットのレベルの高さは言うまでもないけど、来場者に対して自分の研究をきちんとプレゼンしていること、これが何よりもすごい。しかも、展示を眺めている人に果敢にアプローチして、ですよ。営業マンだってできんよ、飛び込み営業と近いもん。


あ、話がそれた(^_^;)


3年生が「フィールドワーカーの卵なんです」と言いながら説明してくれたのが、「まちじかん」プロジェクト。街にフィールドワークに出かけ、商店街の人に話を聞きながら、○○屋のおっちゃんたちをモデルにポスターを作る。で、作ったポスターを後日届ける。
そうすると最初は「話すことなんかねーよ」とよそ者扱いしてた○○屋のおっちゃんたちがどんどんと協力的になり、「お、せっかくだから法被でも着るか?」と前のめってくれたり、ポスターを渡す段になると、恥ずかしがりつつも、喜んで貼ってくれたり、隣の店と「俺の方がいい」的に競争したりするんだそうだ。


彼女たちが解説してくれたのは、
「ポスターを作ることで、街の人たちとのつながりが生まれ、関わりが生まれた。よそ者が身内になった。」
とコミュニティデザインがどう形成されていったか、というものだった。すごい勇気が必要だっただろうなぁ、といろんなエピソードを聴きながら思った。これを乗り越えたからこそ、の作品なのだね。


で、あたしが彼女たちに話したのは、
「卵焼き屋のおやじは、きっと仕事選びにそんなに悩まずに家業を継いだにすぎないんだと思う。けど、こうやってあなたたちにインタビューされて、彼は初めて自分の仕事ってものを見つめて、価値を見出した。これって卵焼き屋のおやじのキャリア再発見につながるおもしろいツール。今、シュー活で大変だろうけど、きっと、卵焼き屋なんてシュー活では出会えない職業だけど、街に出たことで”仕事”の視野が広がったんだと思う。」
ってこと。
(あ、こんなに流暢になんて話してないですよー、フツウにトークを楽しんでたまでで(^_^;)


大卒の彼女らにとって卵焼き屋は”仕事”じゃなかったかもしれない。けど、これも立派な仕事。味にこだわり、商店街に向いて卵焼きを焼く、という焼き方にこだわるおやじに、仕事ってものを教わったんじゃないかと思う。


そ、文系ホワイトカラーが到達できない、尊い労働がそこにある。


フィールドワークで仕事観を見つけるっていうのは完全な副次効果だけど、実際に足を運んで話をしているからこそリアリティをもった気付きになる。彼女たちも「そうなんです、いろんな仕事があるってはじめて知りました!」って言ってたし。


対話、語り…言語化することで、自分って何?はたらくって何?をあぶり出す手法もあり、だと思う。でも実際に動いて、行動して、飛び込んでみることの方がよりリアルに感じられるんじゃなかろうか、と思った。
対話がいいものだと頭ごなしに決めつけるのはやめよう。ホントだ。あたしたちはアタマでっかちになってたかもしれん。


アタマでっかち。


「人事のプロ」になんだか違和感感じてたのはここ。みんなが、ではなく、あたしがアタマでっかち。
人事のプロって、いろんなカイシャを「人事」軸で渡り歩けるポータブルスキルを指すんじゃなくて、いかに自社のメンバーと組織/カイシャの成長を戦略的に情緒的に覚悟を持って取り組めるか、ってことなんだと思う。けど、どーにもあたしのなかで、上から目線な感じが否めなかった。「個」よりも「組織」にフォーカスしてしまう。もっと一人ひとりに関わりたいのに、「組織」の事情、「組織」の成長を第一義に当てはめていくような感覚を覚えていた。


研修もそう。


全社の人材育成、人材開発担当をやってもう3年になる。全社でやることの限界感を感じていて、それは「ここから先は現場でお願いします」となってしまうこと。現場が困っていること、やってほしいこと、全社横断でなければできないことをやっている自負はあったけど、でも、現場にはかなわない、という無力感を感じることがしばしば。250人全員一人ひとりを暑苦しく関わればいいじゃん、こいつのために、と一人ひとりに思えばいいじゃん、規模が大きくなっただけだろ、と異動したときに時の上司から言われて、そう思おうとしたけど、力が足りなかった。だから、「個」を見たい、といいながらも、組織の事情を優先させていたかもしれない。それは事実。


もっと、「個」に関わりたい。


岡部先生が案内してくださったときにおっしゃっていたこと。
とある展示は3年生が担当したそうです。可愛いもの、わたしの好きなものを集めたコーナー。このスペースはすべてお前の好きなように使っていい、と言って創らせたそうです。「好きなもので飾れ、意味づけは来年でいい。」
彼女にとって可愛いものは、首から血を流している人形とか、ちょっと「え?」となってしまうようなグロい、というかヲタ系の可愛さ。たぶん、王道の可愛さではないけれど、彼女にとっての可愛いはこれ。これが彼女の核。


4年生の卒業研究は、生協の販促も兼ねて、オリジナルキャラクターを作ったもの。でも彼女はキャラクターを作って販促していく、という販促≒マーケティングの効果はさておいてしまい、キャラクターを作る、というクリエイティブの精度を上げていく楽しさ≒創造と、創ったキャラクターをいろいろなアイテムに展開していく楽しさ≒消費、を同時に達成していた。PrductorとConsumerをかけた造語 Prosumerがここに誕生した。
でも、このことは楽しいけれど、人には話せない、ヲタって言われるから。つまり、自分の黒い部分(人に言えない)の歴史≒黒歴史を上書きしていくことに他ならない、という意味づけをしていた。


これ、あたしは、制作物の精度を上げていくクリエイターとしての喜びと、いろいろと形を変えて展開されていく・・大衆化していく喜びが自分の中で自己完結していく様子がおもしろい、ひとり遊びの極み、みたいだけど、自分で作って自分で消費することができたら、これ以上のモティベーションってないよなー、とそんなことを考えながら聞いていた。


でも、そのあと岡部先生がおっしゃっていた「今は好きなものだけでいい、意味づけは来年やればいい」というコトバを反芻するうちに、学ぶこと、はたらくことっていうのは、経験や体験を意味づけするってことなんだな、って思った。


好きなことを仕事にするなんて、雲をつかむようなものだ。
たぶん、シュー活指導のときには、自己分析ができてない、くらいのことを言われてしまうんだろう。


けど、好きなものをとことん突き詰めて、意味づけしていくこと。その過程がだいじなんだと思った。自分で意味づけできたものは何よりも強い。その人にしかない”キャリアアンカー”なんだ。


こんな先生に出会えた彼女らはシアワセものだなー、と思った。と同時に、ここまで彼女らの可能性を本気で信じ、それを発掘し、本気で支援している先生を目の当たりにして、あたしはそこまでの覚悟を持てているか?と自問。


ちょっと前に、長岡先生が、「いまどきの学生は可能性に満ちている。バブル世代の僕らよりもよっぽど輝いている。自分たちができることはせめて彼らの可能性を潰さないこと」とおっしゃっていた。ホントそう思う。けど、そういう熱い思いを持ったオトナがいるってこともまた事実。


岡部先生からこんなコメントをいただいた。


「若い人はやりたいと思ったことをやるべし。ぼくらはそれに意味づけるプロフェッショナルになるべし。」です。
一生懸命な若者とともに、この社会をより楽しくしていきたいと思う。


あたしは教員ではないし、これから先も、”先生”にはならないだろうけど、カイシャには若くて(若くない人もいるけどwww)一生懸命なメンバーがたくさんいる。仕事だからやりたいことをやる、ってわけにはいかないかもしれない。やりたくないこともやらなきゃならない。けど、カイシャにいてあたしができることは、彼ら一人ひとりの可能性を本気で信じて、やりたいこと、やること、やったことに意味づけをしていくことだと思った。


意味づけのプロ


具体的に何をどう、っていうのはわからないけど、あたしがはたらく、学ぶ上での目標、指針ができた気がする。
がんばります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする