懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

岡山の茅葺民家写真展 - 31  動物のいる風景 犬

2014年07月31日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県湯原町

茅葺民家に放された犬1匹
何匹かいたのだが怖がって隠れてしまった。
明治までは日本では犬は放し飼いだったようだ。明治以降、西洋のしきたりで犬はつないで飼う法律ができたようだ。
犬はつながれているので民家と一緒に撮るのは大きさの差もあり難しい。
最近はどんな田舎に行っても雑種が少なくなり金を出してペットショップで買った犬がむおおくなった。
小型犬を飼っているお婆さん、昼間寂しいだろうと息子が買ってくれたという。


岡山県加茂町 後ろに雪の茅葺民家


茅葺民家 ハッポーのある家

2014年07月30日 | 茅葺き民家
撮影場所 新潟県村上市

山形県鶴岡市から新潟市まで一般道を南下し茅葺民家がないか探す。
探すというより茅葺民家が残っていそうかどうか確認していった。
しかし、昔の民家が少なく新しく建て替えている。
昔ながらの田舎の風景も少ない。
この日は旅行の最終日、新潟まで下り高速でその日に帰らないといけなかった。
じっくりと脇道散策はできなかった。
羽越線沿いに走る。私の持っている昔のカラオケのレーザーディ久の「悲しみ本線日本海」は羽越線の風景だった。森昌子の歌った悲しみ本線日本海は冬の日本海沿いの羽越線がぴったりだった。ここを走ったのも一般道で下関から竜飛岬まで走る一環であった。
この日は風も強く笹川流れを走る時は潮をかぶり路面は海水で濡れ二度と走るものではない。


村上市に入りやっと茅葺民家を発見する。民家の中央に煙抜きのハッポーのある民家だった。
家の中央部に煙抜きのある民家は少なくなった。
山形県鶴岡の郊外で見た民家と似ている。
旧南部地域の草棟の民家民家に見られる。今の時代は煙抜きも必要でない家が多い。煙抜き部を撤去して葺き下ろしたほうが構造的にも簡単におもう。
しかし、写真撮影する者にとってはハッポーは家の顔でありこれが無いと鼻のない顔になる。

鶴岡市郊外の民家

日本茅葺紀行 NO,148 鉄道沿線の茅葺民家

2014年07月29日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 大分県玖珠町

この民家は久大線沿いにある。曲がり屋のような角屋造りのような矩形の形をしている。
日田地方では時々見掛ける民家の形である。

久大線は久留米と大分を結んでいるのでこの名が付いた。
古い線路は旧国名を一文字づつ撮ったものがある。(肥薩線、日豊線、伯備線、羽越線)
旧街道(海道)をつけたもの東海道、山陽、山陰、北陸などもある。

玖珠町の久大線沿いに何軒か茅葺民家がある。
全国にも線路脇に茅葺民家が少しは残る。
ここの路線には特急列車が走る。「ゆふ」と「ゆふいんの森」のディゼル特急で博多と大分別府を久大線、鹿児島本線、日豊線経由で走る。
私には身体的に鉄道写真は難しい。長く鉄道写真から遠ざかっていたが現在の鉄道に魅力を感じられないのも鉄道を撮らない理由の一つでもある。




北条の五百羅漢

2014年07月28日 | 旅行
撮影場所 兵庫県北条町(現在は加西市)

北条の五百羅漢に立ち寄った。中国道の高速道路脇にある。
もう夕暮れだった。住職が数多くの石仏に読経とともに手を合わせていた。
素人が彫った余り上手くない石仏がならぶ、下手なだけに庶民の苦しみや幸せを願う気持ちが溢れているように思う。
「親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢の堂に御座れ」と謳われている。
若く死に別れた親や晩年になりもう一度親に会いたいと願った者はここを訪れて安らいだ事と思う。今は写真やビデオで生前を偲ぶ事が出来るが写真のなかった時代は石仏にそれをもとめたのであろう。
今の時代は親をないがしろにする子がふえている。経済的な理由もあろうが死体を放置するや葬式もしない人が増えている。
これは流紋岩に彫られてと書かれている。
瀬戸内海沿岸の山や島はほとんどが火山のためマグマの隆起で地表に露頭した部分に流紋岩が近くに産していたようだ。

鉄道の写真を撮っていた頃に加古川線は訪れたがその支線の北条線には行っていない。
今も北条鉄道として残るがローカル味十分の路線だ。蒸気機関車の頃に訪れていたら懐かしさ一杯の写真が撮れたとおもう。






岡山の茅葺民家写真展 -30  動物のいる風景 牛

2014年07月27日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県加茂町(現在は津山市)

これは三月に行いました「岡山の茅葺民家写真展」の写真を順次投稿しています。
今回から三回は動物のいる風景をお送りします。

昔の茅葺民家の本を見ると中国地方は牛を飼う農家が多かったようだ。

茅葺の農家は零細なところが多く雌牛を飼って子牛を生産する農家が多かった。
飼っていても数頭の家が多かった。
肉牛を生産するところは資本力もある大規模農家である。
牛を農作業の役牛に使っていたころはどの農家にも雄牛を飼っていた。
農作業は雌牛では役に立たず雄牛を飼っていた。
雄牛は特牛(こっとい)と呼ばれていた。
山陰線の西の端(山口県)に特牛の地名と駅名がある。
鉄道ファンは難読駅の横綱くらいにランクされているでよくしられている。
「こっとい」は中国地方ではよく使われていたようだ。
こってえと言う人もいる。
私は岡山の出身でないので特牛は方言だろうと思っていたら広辞苑にちゃんと乗っていた。
地方の言葉は昔言葉が残っている事が多いので軽蔑しないほうがよい。

TPPの参加が言われてといるので日本はどれくらいの牛が飼育されているか世界で飼育の多い国を調べたら。
1位インド2億1千万頭 2位.ブラジル2億950万頭 3位.アメリカ9300万頭
4位中国8300万頭  日本は420万頭だそうだ。世界とは規模がちがう。

インドは牛を神聖な動物としてヒンズー教徒は食べないのではと思うが牛の輸出は世界一だそうだ。まさかあんな痩せた牛を輸出しているのではないと思うが
中国やインドで大量の牛を飼えば飼料の争奪戦が起きてもおかしくない。

茅葺民家 滋賀県余呉町上丹生

2014年07月26日 | 茅葺き民家
余呉町など滋賀県の北東部の町村は平成の合併で長浜市に編入された。
二日間掛けて滋賀県の東北部を走り茅葺民家の撮影にいく。
余呉町では川並、菅並を訪れる。
菅並に立ち並ぶ茅葺民家の写真をみて誰もが素晴らしいとおもう。一度は行ってみたかった。しかし平成の時代まで残るっているはずもなかった。
一軒倉庫代わりの茅葺があった。茅葺にトタンを掛けた民家など写真に撮っても一文の値打ちもないとぶつぶついいながらその場を去った。

しかし、その手前の上丹生に滋賀県北部の特徴のある茅葺民家にであった。
写真の民家です。
丹生は「にゅう」とも「にぶ」とも言われ全国各地に名が残る。
JRの駅にも高校名にもある。
丹のつく地は水銀の産地といわれている。
赤い色を丹と表現する・。金属の傷を検査するのに使う光明丹も赤色顔料
硫化水銀から水銀を精製していた。
水銀化合物は朱とよばれる赤色の顔料
朱は魔よけとか延命、防腐に使われていた。
延命の薬として服用され水銀中毒で命を落とす人も多かったといわれている。



日本茅葺紀行 NO,147 長野県白馬村の民家

2014年07月25日 | 日本茅葺紀行
白馬村は大きな観光地で夏冬通して多くの観光客が訪れる。
登山やスキー、ハイキング観光と雄大な北アルプスを近くで見られる光景はすばらしい。
七月の暑い日に白馬に行ったら北アルプスの山の斜面は雪だらけに驚いた。
高速道路が無いので白川郷などに比べて観光客はすくない。
ペンションや民宿の多さは白馬村か浅間山周辺であろう。
村が開発して分譲したのかペンション村は数が多すぎて探すのに苦労する。
そんな中にも茅葺民家が残る、大糸線沿いにも何軒かあるし大出のように観光地のなかにも残っている。さすがに大出の茅葺民家は勝手に庭へ観光客が入ってくるので立ち入り禁止の表示と塀をしてしまった。

写真の民家のところには三軒の茅葺が残るネットでも投稿されているのを見る。私は車の中から撮るしかなく茅葺民家の前の車を草か植木で隠したいがどうしょうもない。
こんな時に身体障害者の限界を感じる。







蒸気機関車 岡山機関区のC11形

2014年07月24日 | 古い町並み
撮影場所 岡山県岡山市岡山機関区

岡山機関区はD51形とC11形蒸気機関車がいた。
伯備線にC58が走っていた頃もある。
C11形は津山線や吉備線を走っていたが人気のない機関車で私は走行している写真を全くとっていない。
津山線と吉備線は行った事ない。
人気が無かったのはC11形やC58形であったが他人の言う事をうのみにした自分がアホだったとおもう。
物事は他人の言う事や本に書いてある事を鵜呑みにしない事である。
自分にしっかりした考えがなかったのを今になつて反省している。
津山線や吉備線のローカル駅に停車している写真があれば立派な記録写真になっていた。

この写真は岡山機関区で投炭給水をしていた時に撮影した。
ナンバープレートに形式名が入っている。

岡山の茅葺民家写真展 -29 小屋も茅  その4

2014年07月21日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県阿波村(現在は津山市)

阿波村大高下は茅葺民家が残っていたので岡山県のふるさと村に指定されていた。
しかし、県も財政難で支援できなくなりふるさと村の言葉はきえた。
店や民宿もあったが前に増して寂しくなった。
茅葺民家は人の住む民家や移築した茅葺が何軒か残っている。
ふるさと村発足時(昭和50年代)に訪れていた茅葺民家も残っていたとおもう。
公共の設備や街中の民家は昭和40年代に大きく変わったが田舎の民家は10年の遅れがあり昭和50年代にも昔の民家や生活が残っているようだ
近隣の町村を走れば15軒の茅葺民家は撮れる。桜の頃や翁草を見に毎年のように訪れている。


茅葺民家 美山町の民家

2014年07月20日 | 茅葺き民家
撮影場所 京都府美山町

美山町に母屋に離れか台所か増設したような民家が三軒ほどあった。
この民家は県道沿いの目立つところにあった。
家族の増加とともに母屋に増設して隠居部屋にしたか台所や物置にしていたのであろうか
最初からこんな形であったかは住人に聞かないとわからない。
しかし、かなり傷んでいて人が生活していなかった。
間もなく家は壊された。
地域によって建物には違いがあり面白いものだ。