懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

日本茅葺紀行 その31 佐賀県麦畑のある風景

2013年01月31日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 佐賀県武雄市


佐賀県は二毛作で冬場に大麦を植えている。焼酎やビール、味噌の原料になる。
味噌は米麹、麦麹、豆麹がある。関西は白みそに代表されるように米麹、名古屋は赤みその豆麹、九州の味噌は麦麹が多い。
麦は米の補助食品として雪の降らない地域で冬場に作られていた。
我々の子供のころはどこの家も麦飯だった。
弁当くらい米の飯にしてほしかったが麦飯を入れられた。
米飯の子供もいて大変惨めな思いだった。

佐賀県は大麦の生産量は日本一である。小麦は北海道が日本一である。
日本では皮が取り除きやすい大麦を主に食べてきた。押麦にして米と一緒に炊いて食べた。
穀類の食べ方は粒で食べる、粉で食べる、糊で食べる方法があるそうだ。糊で食べるとは雑炊やおかゆのように水や野菜でカサを増やして腹一杯食べるものだそうだ。

一方小麦も弥生時代に日本に渡ってきていたが皮が硬く、挽いて粉にしないと食べられないので大麦ほど普及しなかった。
挽き臼が出来たのが江戸時代と言われているのでうどんやほうとうにして食べたのは江戸時代以降といわれている。
小麦はグルテンが多く弾力性がありパンや麺への加工が容易である。

麦畑と茅葺を撮っていたらバギー車のような車に柔らかい大きな車輪を付けて麦の上を一筋づつ走って行った。こんな機械で麦踏をするのだと感心した。昔は子供が麦踏をしている光景を目にした。麦踏と言うのは霜柱で根が浮き上がるので根元を踏むのだと思っていたら麦の苗の上から踏みのだそうだ。踏むことにより軸が成長しすぎるのを防ぎ痛み付けられて刺激を受けて強い麦になるのだそうだ。


懐かしい物 木の橋

2013年01月30日 | 懐かしい物
撮影場所 島根県安来市郊外

安来市郊外に白鳥ロードというのがある。夏場に行くと何のこっちやと思うが冬に行くと白鳥がエサを食べているのが見える。

30羽、50羽と集団になって田の落ち穂をたべている。中海、宍道湖には1300羽がいるといわれている。
米子の水鳥公園や中海のコハクチョウが10キロほど飛来してきてエサを食べ夕方には中海に帰る。
そんな白鳥の飛来するところに木の橋があったので撮影する。いい味をだしている橋だった。安来のPRポスターにでも使えば良かったとおもう。
もう少し西に走れば足立美術館が見える。
中海の白鳥は人間が餌付けしていないので数は増えない。
この地方は雪が少なく北国のようにエサ不足で餓死することは無いので自然に任せているようだ。
余り数が増えすぎ鳥インフルエンザーで大量死が怖い。
渡り鳥は飛来してくるのに風の流れをうまく利用している。
冬場北から飛来してくる時は木枯らしが吹き始めるに合わせ偏西風と季節風にうまく乗ってくる。鳥と言えども5000キロの飛行は大変であろう。
北への帰りは北風がおさまり温かい南からの風に乗って帰る。





茅葺民家 山裾の民家

2013年01月29日 | 茅葺き民家
撮影場所  島根県安来市

安来市から少し山間部に入ったところにあった茅葺民家
山裾の自分の持ち山の法面を削り宅地にしている。
山裾側は裏で正面は石垣がうず高く積まれ補強されている。
この石垣はこの家の歴史でもある。石垣のいいところは人が住むために一個一個、積み重ねた思いがこもっている気がする。コンクリートにはミキサー車で型枠のコンクリートを流し込んだ事しか浮かばない。

平地の少ない日本の山間部ではごく普通に見られる宅地である。
厳しい傾斜地では石垣を積み重ねわずかな土地に家を建てているところもすくなくない。
民家はできる事ならば茅葺民家がよいが今は探すのが難しなった。
山裾の民家も大雨の時は土石により押し流される危険性がある。
300mmや400mmの集中豪雨に襲われば持ちこたえられる地層はない。火山灰が積層や堆積物が隆起した地層では深層崩壊を起こしやすい。大きな地震や集中豪雨で大きな被害をだしている。
自然災害の多い日本、どこに住んでも危険はある。都市部といえども安全ではない、人口密集、住宅密集ではるかに被害者が多い。阪神大震災と鳥取西部地震の規模は同じであったが鳥取西部地震は一人の死者もだしていない。(この茅葺民家のあたりも鳥取西部地震の震源地付近)
日本の厳しい地形や住宅状況、各地を旅して人々はどんなところに住みどんな暮らしをしているのかいくつかの視点を持ち、横断的に撮影するのもリタイア暇人のテーマによいかも






蒸気機関車  米坂線沿線

2013年01月28日 | 蒸気機関車
撮影場所 山形県 米坂線沼沢周辺

豪雪地帯、沼沢駅前に積雪量の記録の表示があった。
これを撮影したのは三月中旬で雪の量は少なくなっていた。
米坂線は橋とカーブと山、渓谷の美しいところだ。
絵になる光景が沢山あったように思う。
蒸気機関車の撮影は煙の状態や風向きにより左右される。
煙が流れると車体もバックの風景も消されてしまうし、煙が多すぎゆっくり登ってくるとバックの景色は煙で消されて美しくない。
9600形蒸気機関車は大正時代の機関車で燃焼装置が悪いのは煙が多すぎるところがあった。





日本茅葺紀行 広島県北広島町の民家

2013年01月27日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 広島県北広島町

北広島町は広島県北西部にあり島根県に隣接している。
高原の盆地のため雪の多いところ、今だとかなりの積雪であろう。
神楽の大変盛んな地域でもある。天然記念物のオオサンショウウオの生息地も多い。
オオサンショウウオは全国的に見てもほとんどが中国山地に棲んでいて洪水で流され南部の平野部でも発見されることがある。

茅葺民家を探しに北広島町の走っていない道を走っていたら道を間違えたら茅葺民家を偶然発見する。
山懐に建ち下屋もなくいい家だ。背後の杉林も茅葺民家を引きたてる。縁側も懐かしい風景、犬も民家のアクセントになっている。
御主人と話をしていたら絶滅しそうな山野草を種子から育て増やしているそうだ。




懐かしい風景 倉敷下津井、金波楼

2013年01月26日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県倉敷市下津井

下津井に祇園神社がある。少し海に突き出ている。その隣に金波楼という料亭があった。
眼下に瀬戸内の海や潮の流れが見える風光明媚なところであった。
しかし下津井は交通の便は悪く道路は狭い。
瀬戸大橋の建設で下津井の港は外に出し従来の港は埋め立てられ土地は漁連施設などに利用されている。
現在は祇園神社や金波楼の跡地の外側を二車線の道路が走っている。
金波楼の料亭も廃業して造船会社の保養施設になった。
造船会社は船がドックに入り補修している間の船員の保養施設、宿泊施設、ゴルフ場まで持っているところもある。この茅葺民家も保養施設として利用されていた。
しかし、この金波楼だった茅葺民家も平成に入り不良グループの放火で焼失してしまった。

余談だが金波とは太陽や月の光で波が輝く様子をいい銀波とは月の光で輝く波の様子をいうとある。
昔の歌にも金波銀波の波乗り越えてというのがあった。バナナのたたき売りのセリフにも
「金波銀波の波を越え海原遠き船の旅 難関辛苦のあかつきに着いたところが門司港で」口上がある。

写真では右に櫃石島、左に松島が見える。薄い山は香川県の山である。現在ならば瀬戸大橋が眼前に見える。

茅葺民家 岡山県賀陽町の民家

2013年01月25日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県賀陽町(現在は吉備中央町)

賀陽町は吉備高原の中心にある標高が300メートルから400メートルの山の平坦地に集落が点在する。
典型的な日本の農村風景だが耕作地の面積も少なく農業所得では収入も限られているので都市部や工場地帯に働きに出ている人が多い。

そんな中に茅葺民家が点在していた。大きな茅葺民家は少なく零細な農家が多かった。
つつましやかに一生懸命生きたように思える。
人が歩きできた窪んだ道に時間の長さがうかがえる。
周りの風景もいい田あり山ありこんな田舎の風景に、なんの飾りもない茅葺民家、こんな風景に出合えてうれしい。
住む人でないと分からい厳しさにカメラを担いでやってきたよそ者がこんな事を書くのは申し訳ないが




鉄道 可部線17mさよなら電車

2013年01月24日 | 鉄道
撮影場所 広島県広島市可部

可部線を走っていた旧型電車17メートル電車が廃止になるので撮影に行っている。
いつ廃止になったのか分からず鉄道マニアのホームページを見ると昭和51年3月31日となっている。
鉄道マニアの人口は多く大変鉄道に詳しいマニアックな人が多くわからない事は検索すればすぐにわかる。
私も蒸気機関車がなくなり鉄道写真は撮っていないと思ったら撮っていたものだ。

山陽本線で横川駅まで行き可部まで電車に乗り撮影している。
可部や横川駅の駅舎の写真や写真の隅に見える貨物列車の写真でも撮っておけばよいものを電車以外撮影していない。
この当時は可部から三段峡まで鉄道は運行されていたが、2003年12月に廃止されている。可部から戸河内まで途中路線が出来掛かっているが中止されている。周辺の人口密度を考えれば開業すべきではないと思う。後々に負の遺産を残すだけである。

可部線の17メートル電車は旧型電車でクモハ12系やクモハ16系が走っていた。
クモハの意味はクは制御車(運転席のある車)、モはモーター(電動機のある車、電源取入れのパンタグラフが付いている)、ハは普通車(イロハの三番目のクラスの車両)
現在の電車の一両の車長は20メートルあり小回りのきく17メートル電車は小さなカープの多い都市部ローカル路線で運行されていた。

さよなら運転にも関わらずほとんど鉄道ファンが写っていない。蒸気機関車が全廃され鉄道ファンを魅了する列車がなく継続するのか別のテーマにすべきが迷っていた時代だ。
鉄道ファンの人口が激減した時期でもある。私を含めて蒸気機関ブームに乗ってにわか鉄道ファンが多かったので当然の成り行きだった。




日本茅葺紀行 その30 南会津の民家

2013年01月23日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 福島県南郷村

多分撮影したところは南郷村だったように思う。
伊南村と南郷村の境界が分からない。
舘岩村から只見町に向かう途中だった。
撮影した時は東北の旅を終えて帰路の途中だった。
もう14時を過ぎていた。茅葺が結構残っていて撮影していたら遅くなった。
これから磐越道の坂下インターまで向かわなくてはならない。
まだインターまで二時間近くかかる。
16時に高速道路に乗らなくてはと気持ちがあせる。
高速に乗っても帰りつくまで11時間は掛かる。
次の日は家内も私も仕事だった。
帰りついたら三時前だった。三時間ほど寝て仕事に行った。
時間を気にせず気の向くまま行き当たりばったり旅行がしたい。
いまだに家内が働いているのでそれもかなわない。

この家はお気に入りの家だ。小屋や母屋、分かれなど4棟が茅葺だ。棟のトタンがなければ江戸時代、七人の侍が出てきてもおかしくない光景である。
こんな家に家に出合えるのは茅葺探訪の冥利に尽きる。


古い町並み  倉敷市連島西ノ浦 その1

2013年01月22日 | 古い町並み
撮影場所 倉敷市連島西ノ浦

私は水島の工場に勤めながら連島西ノ浦に古い町並みがあるのは知らなかった。
連島公民館でのカルチャー講座に通っていた。始業までに時間があったので附近を散歩していて古い町並みに気付いた。
しかし、その時は写真撮影に興味がなく、カメラを持って撮影に来たのは平成になってからである。三回程訪れたであろう。
昭和40年代の風景とは人々の服装も違っていたし散歩させる犬の種類も洋犬に変わっていた。
撮影したからと言って何に使う目的もななかった。平成の自分の目で撮影して見るのも面白いかと思った。それと昭和40年台との大きな違いはカメラのレンズがズームレンズになり狭い場所でも撮影できる事であった。昭和40年代は標準レンズだけで撮影してきたので撮影できるものが限られていた。

連島西ノ浦は連島の山際を理箆取神社を中心に東西1キロくらい町並みが続く、道は直線的でなく何度も曲がって続いている。かって綿花で栄え大きな屋敷の家が今も残っている。

千年も昔、岡山南部はほとんどが海で児島、連島も島であったようだ。洪積と新田開発で田地化された。
倉敷の阿智神社や葦高神社、箆取神社は船の航行を守る灯篭があり海の神様となっている。
連島一帯は三宅水軍の一族が住みついたといわれている。
瀬戸内海には村上水軍や塩飽水軍と遠い昔は海賊まがいの事をやり戦の時は水軍として活躍した一族がいる。
連島一帯は今も三宅姓が多く、石を投げれば三宅に当たると土地ではいわれている。
地元の小学校では三宅姓がひとクラスに五、六人はいるそうだ。
三宅の姓の元は屯倉に由来すると言われている。
屯倉(みやけ)は朝廷の直轄地を指し屯家、御家、三宅、三家に変化していったと言われている。