懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

私の昭和鉄道遺産 C58がDC特急を移送

2022年06月06日 | 私の昭和鉄道遺産
撮影場所 伯備線清音付近

蒸気機関車がDC特急キハ181系を移送している。
蒸気機関車を撮る時はダイヤを見ながら撮影する。
時刻表は普通 客車だけしなか分からない。
貨物用の時刻表を買わないとすべての列車は分からない。
ダイヤは客車 貨物掲載されている。

ダイヤはダイヤグラムの略で線図と訳される。
電気の回路図もダイヤグラム
列車には列車番号がふられている。
MCは電車 DCは気動車 数字だけは機関車 (電気 ディゼル 蒸気)

列車の来る時間でもないのてボケーとしていたら、踏切の警報音がする。
遠くを見ると煙が見える。
一瞬何に!!と思った。今日は臨時列車があったのだ。
直ぐにカメラを用意する。
蒸気機関車の貨物はディゼル特急であった。

伯備線には特急は走っておらず、昭和47年3月の山陽新幹線 岡山開業に合わせ山陰との特急列車おきを運行する。その運行運転の訓練のため移送していたのだろう。



私の昭和鉄道遺産 長野機関区 扇形機関庫とターンテーブル

2022年05月14日 | 私の昭和鉄道遺産
撮影場所 長野県 長野機関区 8620型機関車

扇形機関庫もターンテーブルも、ほとんど姿を消した。それでも梅小路を含め残っている。
ターンテーブルは蒸気機関車の方向転回させる回転台
電車や気動車、ディゼル機関車、電気機関車は運転席が前後にあるので、乗り換えかポイントの切り替えで方向転換は必要ない。

梅小路機関庫は重要文化財である。
こんなコンクリートと鋼材が重要文化財になるとは思わなかった。
これが分かっていればもっと真剣に撮ったのにと思う。
こんな物も昭和の鉄道遺産である。

大体 重要文化財は昭和の時代には江戸時代の物が対象であった。
アメリカはその当時、200年の歴史しかなく車から電化製品、B29爆撃機、ロケットまで博物館に保存する。

日本も近代化遺産として明治以降の物も保存する。
そんな観点で写真を撮っておくべきだった。レンガ積みの倉庫や煙突、石造りの倉庫など

C56型機関車




私の昭和鉄道遺産 若松機関区 D50型機関車

2022年05月03日 | 私の昭和鉄道遺産
D50型機関車は、D51型と競合する路線で走っていたので早々と減った。
筑豊本線に辛うじて数台残る。
D51と外観の違いは蒸気ヘッダーが下にある。
C57もそうであるがヘッダーは下が好きだ。

若松は石炭の積みだし港として栄えた。今はコークスの集積場
筑豊炭鉱の集積場として労働者が働いていた。

この前の日曜のNHK小さな旅は若松をやっていた。
コロナで取材に行けないので、以前見たのを再放送していた。
若戸大橋、労働者相手の角打ちの飲み、立ち飲みの飲み屋だ。
家内がよく言っていた。 中学校の帰りに父親が立ち飲みの酒屋で飲んでいるを見るのが嫌だったという。 建具の製造をしていたので呑み助が誘いにくるのだろう。
昔ながらの天ぷら屋と散髪屋の紹介、労働者が減り細々とやっている。

若松には何度が行ったが機関区や線路脇しか知らない。
自分の興味のあるのしか、見ていないものだ。

私の昭和鉄道遺産 山陽線の特急列車

2022年04月26日 | 私の昭和鉄道遺産
山陽線は新幹線が開通は特急列車がよく走っていた。
山陽線は直流電化である。
昭和40年以降は半導体の進化で交流電化に代わった。
伯備線や予讃線は50年代に電化したが直流電化
交流電化は電圧20,000ボルト 直流電化は 1,500ボルト
交流電化は電圧が10倍以上、高いので給電線が不要、変電所が少くできる。る。

上の写真はEF58型の牽引する寝台特急 通称ブルートレイン 直流区間走行
下の写真は485系ボンネット型特急電車 交流直流で走行可能

寝台特急は東京行きは深夜の23時頃に走るので撮れない。大阪に朝到着便だけ撮れる。岡山通過が朝6時頃
ブルトレ牽引の電気機関車はEF58のあとはEF651000番台、EF66が牽引した。
寝台特急は天体や気象の名が付いた。彗星、月光、北斗星、 あさかぜ、あかつき、



私の昭和鉄道遺産 D51重連

2022年02月13日 | 私の昭和鉄道遺産
撮影場所  宮崎県 日豊線延岡駅

D51重連が貨物を引き延岡駅に入ってきた。
重連も前がナメクジ型で後ろが門鉄デフだ。
鉄道マニアは大喜びする配列だ。

重連にするのには日豊線には宗太郎峠というのがある。厳しい勾配だ。
九州には峠名に太郎を付ける。
鹿児島本線には三太郎峠というのがある。熊本県南部に佐敷太郎、津奈木太郎、赤松太郎がある。それを総称して三太郎峠という。
若い頃、九州をヒッチハイクした事がある。その時に知った。  
余談だが九州の人はカエルの事をビキ太郎といった。略してびっきともよんだ。
私の婆さんはカエルの事をオンビキといっていた。
昔はカエルをビキと呼んでいたのか。

言葉は地方へ行くほど昔の言葉が残っている。辺境地や離島に

私の昭和鉄道遺産 室蘭本線栗丘

2021年12月18日 | 私の昭和鉄道遺産
撮影場所 北海道室蘭本線 栗丘

D51の重連で貨物を牽引。先頭はナメクジ型

北海道だけあって長い列車編成だ。
こんな貨物はほとんど姿を消した。
貨物や客車を置くヤードの風景は無くなった。
貨車や客車のマニアは横から形式別に記録している。
私は機関車までフィルムが惜しくてそこまで撮らなかった。

鉄道は摩擦係数が小さく一馬力で一トンの貨物を牽引できる。
トラックは250馬力で10トンの貨物しか運べない。
しかし、鉄道は勾配がキツイとスリップして登れない。

省エネ的には鉄道が良いが家庭まではトラックでないと送れない。


私の昭和鉄道遺産 鹿児島県 吉松機関区

2021年12月05日 | 私の昭和鉄道遺産
夕方の吉松機関区、黒い煙が立ち昇り過去を思い起こす。
何両も蒸気機関車がいた頃が懐かしい。
C57型は動輪が大きく3輪のため肥薩線大畑(おこば)ループの急坂は登れない。
四輪のD51型が牽引した。 客車と貨物の混合列車もあった。

旅館でゆっくりできれば心に余裕もあるが夜行で移動となると寂しい。
貧乏旅行だった。
鉄道マニアは似たりよったりだ。
吉松には共同温泉があった。 旅館から廊下伝いに温泉に行け。
霧島が近いので温泉も湧いたのだろう。 硫黄の匂いのする天然温だ。
定年後、元気だったら家内と温泉巡りをするのだった。

それでもそれでも九州では別府、湯布院、武雄、嬉野、雲仙、黒川,九重の温泉郷、指宿には立ち寄った。

私の昭和鉄道遺産 人吉機関区

2021年11月28日 | 私の昭和鉄道遺産
撮影場所 熊本県人吉機関区

人吉は球磨川流域にある盆地
数年前の球磨川大洪水で駅構内も浸水
気動車は高台に移動できたのか。
信濃川の氾濫で新幹線を水没させるような事はなかったのか。
肥薩線はいまだに全線開通していない。
線路や鉄橋の流失もありまだ復旧に時間が掛かる。
球磨川はU字型の渓谷を走る。豪雨では川幅が狭く水を流せない。
上流の人吉は民家が水没するほどに水位が上昇した。。

入れ替えの機関車 8620型が見える。
機関士が座って待機している。
のどかな風景だ。

私の昭和鉄道遺産 スポートのある風景

2021年11月18日 | 私の昭和鉄道遺産
撮影場所 北海道 函館本線 小沢駅

小沢駅をD51客車が発車
D51だとありふれているので撮らない人もいた。今となっては蒸気機関車が珍しい。昔の客車を見ることもない。何でも記録に残すことだ。
デジカメ映像は余り高くは売れないがネガフィルムはネットオークションでそれなりに売れる。私もネガフィルムは売りたい。
残しても化粧箱に10箱もあるので可燃ごみに廃棄される。

蒸気機関車に給水するホースが見える。
鉄道ファンはこれをスポート(Sport)と呼ぶ。
sportはスポーツ、運動する、物を移送する(給水装置)の意味もある。
米英語はスポーツ全般を指しsportsと書く。

今となっては機関庫、給水塔、ターンテーブル、給炭設備、機関車、客車、貨物を沢山撮っておくべきだった。フィルムカメラだと必要なものしか撮らない。

私の昭和鉄道遺産 D51ナメクジ

2021年11月07日 | 私の昭和鉄道遺産
撮影場所 北海道苫小牧機関区

D51型蒸気機関車は1184台製造された。
デコイチは蒸気機関車の代名詞にもなった。
初期の95両は流線形の形に造られた。

しかし、120km/h以下では効果はなく、それ以後は普通の形にされた。
形がナメクジに似ているのでナメクジ型と呼ばれた。

この形の愛好者は沢山いた。
室蘭線のようなトンネルの少ない平坦な地に配属された。