懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

イチロー頑張れ

2014年09月30日 | 日記
イチローの今シーズンが終わった。規定打席にも満たなかったが100安打以上打ち王貞治さんの持つ21年連続100安打に並んだ。
今年は102安打、打率0.284 盗塁15だった。
これでMLB通算安打 2844本、日米通算 4122本
盗塁はMLB 487盗塁 日米通算 686盗塁

ヤンキースの監督のあんな待遇にも腐ることなく最高のパフォーマンを出すイチローは素晴らしい。人間落ち目になっても冷遇されても精一杯やれる人は凄いと思う。そんな人はそれを肥やしにして一段と成長する。人間的に尊敬できる。

みんなMLBで3000本打ち野球殿堂入りを一年目で果たしてほしいと願っている。
アジア人初の3000本を果たしてほしい。
私もイチローが現役でやるのが励みになっているし生き甲斐にもなっている。
世紀の瞬間を見るためにも死ねぬ。
来年はナショナルリーグの出場機会の多いチームに行って残り156安打を一年でクリアーしてほしい。650打席あれば一年で打てる安打だ。
イチローにとっては3000本打ってMLBの野球殿堂入りが一番の目標である。
イチローは安打、盗塁とも歴代50傑に入っているので殿堂入りは確実といわれている。
3000本打った暁には国民栄誉賞を三度目なので貰ってやってほしい。


日本茅葺紀行 NO,163  兵庫県三木市の茅葺きと彼岸花

2014年09月30日 | 日本茅葺紀行

今年は私の入院手術、家内の入院手術、9月には家内の母親が永眠し、まだ喪中である。
49日法要が終わるまでは泊まりがけの旅行はできない。次々と悪いことの起きる年である。
これが老いるという事か。
因果応報、悪い事の起きる原因を作らないよう生きないといけない。
喪中と言えども彼岸花はシーズンを逃すと来年まで待たなくてはならない。
場所によっても1週間程のズレがあるが9月23日ならばいいだろうと思ったが少し遅すぎた。
遠方には行かず高速道路で1時間半程度の三木市から神戸市に行く。
20回も訪れているので何処に彼岸花があるか記憶している。今まで花と茅葺き民家は撮ってこなかった。花も入れて撮ってみようと思い出かける。
茅葺き民家を30軒ほど訪れたら何軒か撮影できる。
悲しいかな彼岸花が群生している場所はない。畦道に何10本か生えている程度である。
彼岸花は毒もあり仏さんに飾るし墓場に多いので縁起でもないと子供の頃は触ると叱られた。
しかし、いつの頃がカメラで撮る人も現れ、埼玉の巾着田のように金を取って花見に行くところまでできた。
秋田の茅葺き民家友達が彼岸花の球根を買って茅葺きの近くに植えるがやっと花が咲いたが繁殖までいかない。彼岸花も東北も宮城や福島の太平洋側にはあるが青森県津軽地方には全くないという。秋田では茅葺き民家のそばにカタクリなどは沢山咲くが彼岸花だけはない。
雪の多い新潟県も秋に行っても彼岸花は見ない。ネットつながりの青森津軽の女性が彼岸花の赤の群生には強い憧れがあると言っていた。彼岸花の球根を買ってきて室内で育てている写真が紹介されたが生きるのが精一杯と言った感じだった。

彼岸花も竹のある場所でないとないようだ。半年も雪のあるところでは地下茎や球根が冷たさに耐えられないのだろう。彼岸花は暖かい地方の植物なのであろう。同じ球根でもチューリップや水仙は北海道や東北の方が大きく綺麗な花を咲かせる。








蒸気機関車 梅小路機関区

2014年09月29日 | 蒸気機関車
撮影場所 京都市梅小路機関区

かって東海道本線に蒸気機関車がいた頃は賑やかで活気あふれる機関区であっただろう。
しかし、山陰線に蒸気機関車がいたので機関庫も壊されずに残った。
今は保存機関車を集めて記念館として残っている。
機関庫は近代化遺産にも登録されている。
山陰線だけなので機関庫に入っている機関車は少なく閑散としていた。
広島や岡山機関区は蒸気機関車が沢山残っていたのにすでに機関庫は撤去されていた。
新幹線の建設に邪魔になり撤去された一面はある。
梅小路は新幹線などの建設の邪魔にならなかったため残ったのであろう。
残ったため記念館としての付加価値を生んだ。

写真展をしたときに梅小路機関庫の石炭ホッパーの写真を見てよく撮っていましたねと言ってくれた人がいた。鉄道模型をやっている人で模型で製作するときに現役の頃の写真を参考にするそうだ。現在は石炭の補給もわずかなため建物から給炭設備は撤去されている。
機関庫の写真は蒸気機関車が消えれば懐かしい風景にはなると思い撮っていた、
しかし、レンガが石組の機関庫ならばまだしもコンクレートの設備に建造物としての価値はあるのかと思いつつ撮影していた。


岡山の茅葺民家写真展 - 45 過疎に生きる その3

2014年09月28日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県勝山町古々呂尾中 (現在は真庭市)

古々呂尾も典型的な過疎地である。
山間の集落で田も広くない。林業と農業の集落である。
集落への道は最後は行き止まり。
その先に道のない袋小路の集落は道も広くならないし交通量も限られている。
袋小路は道だけではなく集落自体が袋小路である。
ふるさと創生と言われているが金をバラまくだけで終わりそうだ。
田舎に若者が働ける産業や作業場をどう作っていくのか外国製品とのコストに対抗しながらは難しい。ふるさと創生について補助金をあてにするのではなく本気で議論しアイデアを出さないすと日本の田舎の将来はないとおもう。

茅葺き民家 滋賀県余呉町の民家

2014年09月27日 | 茅葺き民家
撮影場所 滋賀県余呉町川並

余呉湖は琵琶湖の上にある周囲6kmの小さな湖、池か湖がわからない。ワカサギ釣りに訪れる人も多い。余呉湖は三万年前に琵琶湖と分離したと書かれている。
琵琶湖は南から移動していて日本海まで移動するという人もいる。
伊賀や信楽も粘土が産出しているのでかっては琵琶湖の湖底だったと言われている。

周囲はに降った雨は湖に流れ込み琵琶湖にそそぐ、周囲は落ち着いた風景で写真でよく見かける。豊臣と柴田軍の合戦で有名な賎ヶ岳(しずがたけ)はすぐ近く。南の420メートル位の山

川並という集落に一軒だけ茅葺き民家があった。
雪のふるところだけに急な勾配である。この地域までは破風飾りのマ前垂れが付いている。
このあたりの民家とマキノ町の在原の民家とは形が微妙に違う。
今はこの民家も茅葺きではないだろう。

民家を見れば元気に活動していた頃を思い出す。
自分の思いで作りに各地の撮影していた写真が動けなくなっても役に立つ。

日本茅葺紀行 NO,162  広島県熊野町の茅葺き

2014年09月26日 | 日本茅葺紀行
広島県熊野町は広島市の東隣で呉市にも隣接している。
熊野町の由来は熊野神社があることに由来するそうだ。紀州の熊野大社から分祀されているのか。熊野筆が有名
広島市のベッドタウンになりそうだが茅葺き民家が残っている。
土地は標高が100メートルから200メートル登っている。
自転車通学の高校生にはこれは厳しい。
土砂災害のあった安佐南区や北区は電車やバスの運行も多いのでリスクのある土地ながら家を建てる人が多い。
土砂災害や河川の氾濫のリスクは熊野町の方が少ないとおもう。
茅葺きのある熊野町は土地整備がされておらず昔からの集落はとにかく道が狭い。
車をどこかに停めて歩いて撮影するのが無難である。
坂道もあるので私は車の中から撮影する。
私の運転では脱輪や車の接触をするので家内に撮影しやすい方向に向けてもらう。

そんな狭い道の集落に棟の短い民家があったので撮影する。
周りは放棄地で枯れ草が生い茂る。この枯れ草がタバコのポイ捨てで火災になればすぐに燃え移る。住宅地の放棄地の雑草は火災の危険があるので消防の指摘をうける。
私は化学コンビナートに勤めしていた消防の査察で芝生が刈り取られていない、芝生は枯れると可燃物であると指摘された事がある。




懐かしい物  倉敷市連島西の浦の民家

2014年09月25日 | 懐かしい物
連島西ノ浦の山沿いの旧道に古い町並みが残る。
昭和の終わりに連島公民館で講座聞きに行っている時に時間があったのでぶらぶらしていたら古い町並みを見つけた。
昭和40年代に見つけていたらいい町並みが撮れていたと思う。
昭和40年代の町並みは結婚もしていたのでそんなに本気で撮っていなかった。
岡山県内すべてを撮ろうとも思っていなかった。まあ適当にやった程度であった。
後になって思うのはこんなのは大変悔やまれる。

古い昔の商家が蔵とともに残っている。
昔のままが良い蔵の漆喰もナマコ壁も崩れかかっている。
三階建てである。中の柱も白アリに食われたり木も腐れて強い地震で倒壊しそうだ。
商家も自然の昔のままがよい。
古い町並みもサントリーの宣伝ではないが「何も足さない何も引かない」
昔のままがよい。壁の崩れも板の黒ずみもその家の歴史である。


岡山の茅葺民家写真展 - 44 過疎に生きる その2

2014年09月24日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県高梁市中井町西方


岡山県内の道を一本一本走った。山間地の細い道も一本一本走った。
茅葺きを求めてひたすら走った。
ガソリンと時間の浪費になるかもしれなかった。
しかし、何かに夢中になれる事は心地よかった。
こんな事をやっても何になるかと思ったら何もできない。
結果はどうなろうと自分の脳のエンドルフィンが湧き出る時は楽しかった。
他人が見れば詰らないものでも一度の人生、無我夢中で何かに打ち込むのは必要である。

高梁市から新見市豊永に向かう細い道に人の暮らしていない茅葺き民家があった。
小屋は壊れかけていた。次に来たときは小屋は壊されていたが母屋は残っていた。数年して訪れたら建物はすべて亡くなっていた。
この地区には他に何軒かあった。
田や畑も狭く道も狭く買い物も遠く離れている。典型的な過疎地である。
限界集落から壊滅集落へと進んでいる。
民家の撮影に行くと田はまだ耕作されていた。石垣や畦道には人の生活の痕跡が残されている。遠くで住人の話し声が聞こえる。かなり離れているのに話の内容が聞こえそうな静寂である。鳥の鳴き声も驚くほど大きく聞こえる。
現代社会は騒音と派手な色彩の中で生きているのがわかる。
車のなかった時代、人工染料や顔料のなかった時代には自然の音や色彩がすべてであった。
昔の人は自然の草木の色彩や移ろいに敏感であったと思う。
和歌や俳句随筆に日本の四季の移ろいがよく残されている。




茅葺き民家 亀岡市の民家 モノクロ

2014年09月23日 | 茅葺き民家
撮影場所 京都府亀岡市

山陽自動車道がない時は早朝に出発して一般道で京都まで来ていた。
姫路から国道372号線で京都の亀岡まで来ていた。
国道372号線と今の京都縦貫道が交わるあたりにこの茅葺き民家はあった。
京都まで五時間は掛かった。往復で10時間掛かり帰ったら22時くらいになっていた。
この372号線は阪神淡路大震災の時は阪神間の高速道路、一般道が壊滅的になったので姫路から亀岡、京都経由でトラックが運行された。

この民家はトタンを覆ってしまった。亀岡周辺の茅葺き民家の形を残している。
棟にはカラスオドシが11本も乗っている。


日本茅葺紀行 NO,161 秋田県秋田市両中門の民家

2014年09月22日 | 日本茅葺紀行
秋田市の郊外に両中門の民家が残っている。
平成の時代に有難い事である。
しかし、10年、15年後に残っているかは疑問である。
他の地区では余り見掛けない造りである。
L形は曲がり屋、T形は片中門、コ形は両中門である。
中門造りは新潟や山形でも見られる。雪の多い地域でみられる。
しかし、現在の新築民家にはこんな中門造りのような民家は少ない。
日本家屋ならばそれに近い民家にはあるが住宅メーカーの建物にはそんな造りはない。
玄関側の中門には二階に窓がある。すす窓と呼ばれている。
屋根裏の部屋で若者などの寝室や倉庫に使われている。