懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

津軽地方の身代わり地蔵

2011年11月30日 | 旅行
津軽地方を走っている時に旧稲垣村でよく見かけた地蔵に心惹かれた。
慈愛に満ちた表情に眼がとまった。それが地区ごとの角などに置かれている。
また、百万遍信仰も盛んなのであろうか石碑を見かける。津軽地方は民間信仰がよく残された地域でもある。
地元の人はこの地蔵を身代り地蔵と呼んでいた。地蔵は子供の守り本尊として民間信仰として定着してきた。子供に災難が降りかからないよう身代わりになってもらうのであろう。

よく判り易く説明されるのは不動明王は父親、菩薩は母親、地蔵は子供を護る仏さんとして信仰されてきた。話は余談だが観音菩薩や月光菩薩は柔らかい表情から女性の仏として西国三十三ヵ所観音巡りなどが盛んである。しかし、仏さんはすべて男性で女性はいないそうだ。弥勒菩薩などはいかにも女性的ではあるが仏の中にもニューハーフがいるとの事だ。

稲垣村にはこの身代わり地蔵が2000体ほどあるそうだ。詳しく知りたい人はネットで検索してください。ホームページがあります。
身代わり地蔵は今も地域で守られているようである。
各地で八月の末に地蔵盆がおこなわれる。地蔵や道祖神の管理は子供の役目であった。
地蔵盆の前には掃除をして化粧をし直す。
化粧地蔵の風習は岡山県にもある。玉野市から岡山市の児島湖周辺で残る。


地蔵の役割とよく耳にする名前を調べてみた。

「病苦の身代わり」
•化粧地蔵、おしろい地蔵。洗い地蔵、赤地蔵、味噌なめ地蔵、あごなし地蔵、塩地蔵 、あんこ地蔵、首なし地蔵、首切り地蔵 足切り地蔵紙張り地蔵、腰折地蔵、咳止め地蔵 、生木地蔵、ぬりこべ地蔵、目洗い地蔵、くろかね焼地蔵、身代わり地蔵

「子宝・子育て守護」
•賽の河原地蔵、子育て地蔵・子安地蔵、子守地蔵、三体地蔵、腹帯地蔵

「厄除け」
•釘抜き地蔵、 とげぬき地蔵、引導地蔵、 水子地蔵、六地蔵、苦抜き地蔵、毛替り地蔵船乗り地蔵

「災難予知・危難防御」
•汗かき地蔵、しばられ地蔵、芋地蔵、火焼け(ほやけ)地蔵

「延命・開運・勝利」」
•延命地蔵、首つぎ地蔵、勝軍地蔵、日限地蔵、開運地蔵、無尽地蔵








茅葺き民家 お背戸

2011年11月29日 | 茅葺き民家
里の秋に歌われている「お背戸」にあたるような写真を探してみた。
お背戸は現在では使われなくなった言葉である。家の正面ではなく背後にある戸から裏口の戸として呼ばれたのではないかと思われる。
この里の秋を聞いていてだんだん違和感を覚えた。
親子二人で秋の夜を過ごす歌かと思ったら南洋に出征している父親の無事を祈る歌である事に気付く。
そもそも昭和16年に「星月夜」書かれた歌詞で戦後、外地引揚者の激励の番組で川田正子さんが唄って人々の共感を得ている。
川田正子さんが12歳の頃であろう。
当初、星月夜は四番まであり戦争を称える歌詞のためカットされ曲名も里の秋にされたそうだ。
三番を修正するにも放送までに時間がなかった。

童謡唱歌の中でも聞いていて「おゃ」とすることがある。
とんがり帽子の歌、叱られて、
鐘が鳴る丘(とんがり帽子)の歌は明るい軽やかな曲だが「父さん母さんいないけど」と戦災孤児の孤児院を唄ったものであるし。叱られては10歳くらいの子が奉公に行って叱られ泣きながら買い物に行かされている情景が目に浮かぶ曲である。戦災孤児や奉公にでた子はどんな人生をおくったのだろうと思う。

里の秋の歌詞
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります
撮影場所 上から鳥取県、兵庫、鳥取、鳥取の順









蒸気機関車  伯備線プッシュプル

2011年11月28日 | 蒸気機関車
蒸気機関車  伯備線プッシュプル


伯備線と芸備線の共通区間を走るC58形蒸気機関車の牽引する貨物列車。
後ろにも機関車が付いているプッシュプルである。
備中神代と布原信号所間で撮影、機関車や貨物から見て芸備線、姫新線走行の貨物列車だとおもう。
雪が残る寒い朝の情景、山の霧が晴れていない。
風がなくこんな日は煙の状態がよい。
ローカル路線で貨物は見る事がすくなくなった。
今の貨物は荷積み降ろしの効率をはかるため味気ないコンテナばかり、この当時の貨物をみると無蓋車もいたり古ぼけた貨車がいい味をだしている。
貨物列車もまた消えた昭和の風景のひとつである。
その当時、ローカル路線から貨物列車が消えると想像できた人がどれほどいたであろうか
未来を予測する事は難しい。そんな能力もない凡人はひとつの事を継続して粘り強く撮るしかないと思っている。

鉄橋脇の川に積まれた石垣の風景もいい、コンクリートになったら味わい一気にを失う

古い町並み  室津

2011年11月27日 | 古い町並み
室津は兵庫県御津町(今はたつの市)の半島の先にある。知っている人はよく知っているが知らない人は全く知らない場所である。奈良時代からの良港である。
港にも荷物の受け渡しをする港と休息、宿泊のための港がある。
荷物の受け渡しをする港は消費地の都市近郊の港である。室津はむしろ宿泊の海の宿場的な役割を果たした。海の宿場港は半島の先端部にあることが多い。湾内の港だと海流もないし風を帆に受けて走るので大変時間が掛かるので最短距離で瀬戸内海を走った。
瀬戸内海は波が穏やかだし進路を見失うこともなく満ち引きの海流に乗れば楽に走る事ができたので古くから航路が発達した。牛窓、下津井、鞆、御手洗、上関などが歴史を残した港町である。
室津は入り江になっていて島が風除けになっている天然の良港である。洪積地の港は川からの土砂で埋まってしまい使えなく事があった。今のように機械が無いので浚渫が出来ず埋まった港は放棄された。室津は潮の流れも速く河口から遠いので港が堆積物で埋まることは無かった。
瀬戸内海航路は江戸時代には参勤交代にも使われた。本陣が六か所もあったと書かれてる。街道を使っての参勤交代は大変であったと思う平坦なところばかりではなく山越え、川越えの連続であったと思う。
その点、海路は楽であったと思う。しかし、海路も大坂までである。大坂からは陸路で江戸に向かわなければならなかった。
参勤交代は紀伊水道を通り海路で江戸に向かうのは許されなかった。それは紀州、尾張、江戸の徳川三家が海上より攻入られるのを恐れたからであろう。
街道にはいくらも関を設けて出入りのチェックが出来るが海路は無防備である。

私が初めて訪れた時には建物の痛みが大きかった。どの家も解体補修が必要な状態であった。
平成になり車で訪れた時には古い昔の建物はほとんどなくなっていた。しかし集落の道は躊躇するほど狭いままだった。海岸線に沿って走る道は七曲といわれるほどカープが多い。


江戸時代の建物と思われる造り、傷みが酷い改修の必要な状態だった。


本瓦葺きの重厚な民家が並ぶ、左の島が風除け波除になる自然の良港だった。



茅葺民家  柵のある風景

2011年11月25日 | 茅葺き民家
民家の周囲を柵で囲った風景  撮影 秋田県

柵は家の境界を明確にするためや人や動物の侵入を防ぐために設けられる。
塀や生垣、壁がその役割を果たすことがある。
茅葺民家にはブロック塀やアルミフェンスは頂けない。
温かい地方では竹が使われる事が多いが耐久性に乏しい。雪多い地方は丸太の柱や棒をよく使う、杭や雪支えや囲いに使う。
昔ながらの棒を打ちこんだ柵に素朴さを感じた。こんな生活に溶け込んだ風景が私は好きだ。
演出された懐かしい風景はすきではない。
人々が長年暮らしてきた風景をが今後も撮れればよいのだが。









蒸気機関車 ボタ山

2011年11月24日 | 蒸気機関車
福岡田川炭鉱のボタ山です。田川後藤寺駅より撮影 蒸気機関車は9600形
九州では石炭を採掘した時の岩石や質の悪い石炭をボタとよばれている。一般的にはズリとよぶところが多い。
石炭を採掘の歴史とともにボタの山は高くなる。100メートルを超える山もあったそうだ。
ボタ山の中にも家庭で使える石炭もあった、そのボタ拾いは子供の役目であった。崩落や転落の危険のなか子供は家庭のため石炭拾いをした。

ボタ山は自然発火して何にも燃え続けたり火災の巻き添えで焼け死ぬ人もいた。
崩落事故も起きて建物の損壊や人が生き埋めになる被害もおきた。
石炭採掘が終わり負の遺産として残った。
北九州の炭鉱では各地でボタ山が見られると言われるが私が蒸気機関車を撮影に行っていた頃には数少なかった。
この厄介物のボタも工場の埋め立てや学校や宅地造成に活用された。これを入れる事で水はけがよく運動場や競技場に重宝され姿を消した。

その頃の私は蒸気機関車ばかり追ってそんな炭鉱施設には興味も湧かなかった。
田川地方は三井石炭の本場で田川伊田駅にはもう使われなくなり錆びた石炭の積み込みの大型施設があった。今もってあれと蒸気機関車を一緒に撮らなかったか悔やまれる。
その近くに石炭歴史博物館があり世界記憶遺産になった山本作兵衛氏の絵画が保存されている。
田川市は盆踊りでなじみの炭坑節の本拠地である。
月が出た出た月がでた、あんまり煙突が高いのでと歌われた三井石炭の煙突は近代化遺産に指定されている。






古い町並み  倉敷駅前の文具店

2011年11月23日 | 古い町並み
古い倉敷駅のころに駅前の西側筋に文具店があった。まったく駅前に似合わない商売だった。美観地区の中に数軒店がありその一軒が文具店だった。
古い倉敷駅も撮ったように思うがネガがわからない。
いまでこそ駅から駅前はすっきりしているが昭和40年代はひどいものだった。バス乗り場は錆びたトタンの停車場で他県から移り住んで酷いものだとおもった。
あまりの酷さにカメラに撮ることもしなかつた。
裏には粗末な造りの飲み屋街になっていた。
歳も若かったのであんな光景にはなるべくならふれたくなかった。
今は駅から水島に広い道路があるが車一台が通れる細い道だった。
こんな商店街もまっったく撮影していない。
このような風景は何故撮るのか何を撮るのがとう撮るのかどう生かすのかをむ決めてとらないと継続できない。本人に取り組む強い意思と諦めない粘りが必要だった、
あの頃の私には考えも意思もなかった。






茅葺民家  猫のいる風景

2011年11月22日 | 茅葺き民家
茅葺民家に猫のいる風景をおおくりします。
猫と茅葺民家は対象の大きさが違うので難しい。
しかも警戒心の強い猫もいて一緒にとるのは難しい。
牛くらいのの大きさがあれば茅葺民家とつり合いも取れるのだが

屋根に猫が登るのは出くわす事もあるが絵になる写真は撮れないない。
縁側で寝ている風景がいいが逃げて撮影にならない。
いつかよく吠える犬と茅葺を撮影していた。どう猛そうな犬で鎖を切らんばかりにひっぱり二本足で大口を開けて吠えまくていた。大口を開けてほえたてる犬を至近距離で民家をバックに入れて撮っていたら家の人がでてきた。
余り犬が吠えるので何があったのかと出てきたという。
「私がけし掛けていたとも言えず、よく吠える犬ですね」と弁解
多分、一部始終を見られていたと思う。いい歳して大人げない行為が忘れられない私であった。


撮影場所 栃木県 大きな屋敷林に囲まれた歴史のある民家だった。
敷地も広く林の中に民家があるのが外から見えなかった。屋敷の中に竹林があり春にはタケノコが沢山取れると言っていた。ここの猫は人見知りをせず廊下をゆっくりと歩くので撮影できた。



撮影場所 山形県 曲がり屋です。部屋には囲炉裏もあった。男性の一人暮らし、連休に娘さんが都会から帰省していた。父親は娘を案じ、娘は一人暮らしの父を案じていた。
次に行った時は人の気配はなく草も隅に生え生活感がなかった。この集落も過疎化と高齢化が迫っている




撮影場所 岩手県 草棟民家、棟仕舞に草むを植える草棟、岩手県も急速に姿を消している。
土壁の倉庫が懐かしい。こんな昔ながらの民家と出会うとうれしい。倉庫の壁のように柱を露出させ柱の間を土で塗るのを真壁という。全部土で塗り柱を隠すのを大壁という。




蒸気機関車 函館本線急行ニセコ

2011年11月21日 | 蒸気機関車
蒸気機関車 函館本線急行ニセコ


函館本線のC62重連急行ニセコ号 長万部駅を発車して雪の山岳コースを北進する。
時刻は14時を過ぎていた。
走行する機関車を撮影するのにはこの時刻がリミット、
シャッタースピードを1/250秒で打ちたい。冬の北海道は三時を過ぎると薄く暗くなる。
多くの若者がこの機関車を撮影のため北海道に渡った。
蒸気機関車ブームの一番華やかな舞台である。
私もブームにあやかり大揺れの青函連絡船にのり北海道に渡った一人だった。
C62重連の発車の音は今も耳から離れない、リズムカルに力強く駆け抜けていく、もう一度あの音を聞いてみたいがNHKのアーカイブも映像だけで音が乗っていない。

蒸気機関車は五感に沁みる、煙の迫力、煙突からのドラフト音、シリンダーやドレン、動輪やクランクやレールの音、みんな入り混じって迫りくる。通過したあとも石炭の燃えた匂いを残し通り過ぎる。その間わずかな時間である。

C62は車軸の形態よりハドソンと呼ばれている。2-C-2の配列である。先輪2軸、動輪3軸、従輪2軸の配列である。
ニューヨークのセントラル鉄道の機関車がこれと同じ配列でハドソン川をはしっていたのでこの名がついた。ゲーム機メーカーにハドソンがあるが会社を興した工藤氏は鉄道ファンで北海道でC62のニセコの写真ばかり撮影し本も発行している。会社名もハドソンにし郵便番
号も062の札幌に会社を設置した。

古い町並み  子供将棋

2011年11月20日 | 古い町並み
夏休みに子供が暑さを避け陽の当らない北側の軒下で将棋をしている。
少し高くなっている犬走りが子供遊び、女の子とも幼い子とも遊んでいる。
ここならも車が通っても安全

子供が外で遊ぶ光景が少なくなった。
こどもの遊びを通しても社会の変化が読み取れる。
子供がみんなで遊ぶ事は子供の体験として欠かせない。みんなと協調することを学ぶ、小さな子をいたわる心をそだてる。
大人になるまでに外遊びで協調性や危険の回避する能力、季節や自然を観察する能力を養う必要があると思う。

人間の記憶は実に曖昧である。時間が経過し主観や感傷が入るとその記憶の風景は大きく変っている事がある。
時代を記録するためにも写真の記録は必要である。
私は100年後でも撮れる写真は今撮らない。今しか撮れない物しか撮らないことにしている。
他人の後追いでなく自分だのテーマを持ち記録していくことは継続性と活動の広がりと深さをもつために必要な事である。


撮影場所 倉敷市下津井 この子供も40代、このブログ見ていたらごめんなさい。

男の子二人が将棋遊び



そこへ女の子がふたりやってきた



小さな子がちょっかいをだしてきた。



兄ちゃんのお仕置きだ。今のこどものように切れることなく手加減をして