懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

昭和の古い町並み写真展開催中

2012年01月30日 | 日記
写真展開催中
本日から昭和の古い町並み写真展が始まりました。

昭和に生まれ、昭和に育ち、昭和に働いた我々世代。
人の記憶は曖昧なものです。しかも時代と共に変質します。
昭和という時代がどのような時代であったか記憶を呼び起こすためにも
再認識するためにも是非ご覧願います。

 期 日:平成24年1月30日(月)12時~2月5日(日)16時まで
       通常日は9時から17時まで開催
 場 所:岡山市内山下1-11-1うちさんげ電気ビル        
    エネルギアプラザ
 
 展示会名称:昭和の古い町並み写真展
  
  

鉄道 電気機関車EF58形

2012年01月24日 | 鉄道
撮影場所 岡山県山陽本線高梁川鉄橋 特急寝台 「あかつき」


EF58形電気機関車 172両製造
誕生は1946年、戦後まもなくして製造された。
1952年に大改造が行われ性能アップしている。
直流電気機関車として東海道線や山陽線で活躍
関西地区、岡山県や広島県はなじみの機関車だった。
客車の牽引が多かったが貨物も牽引していた。
山陽線では機関車が客車を引くのはブルトレか団体列車しかなかった。最終的には1985年まで運用されていた。

ゴハチの愛称で呼ばれ根強いファンがいた。
ブルートレインも牽引していたので夏場の早朝に高梁川の鉄橋に何回か撮影に行った。




撮影場所 倉敷駅 EF58牽引の団体列車

茅葺き民家 雪囲いのある風景

2012年01月22日 | 茅葺き民家


撮影場所  青森県津軽地方

板で雪囲いをしてある家があった。
茅葺き民家であったので撮影する。
この家の西側は田圃で全く障害物がない。
冬は酷い地吹雪が吹き荒れる事と思う。
雪囲いと言うと能登半島の間垣で囲まれた集落が有名である。
風の強い海岸部の集落の周囲を竹を並べて囲ってある、これは間垣と呼ばれている。
夏場でも囲ったままのところもがあり今も見られる。
間垣と言えば二代目横綱、若乃花の間垣親方がいるが能登半島の間垣と関係があるかは知らない。


津軽地方の集落は東西、南北の道路に沿って寄り添って家が並び暮らしている。
広い平野が続くが集落が筋状に寄り添っている。
冬場除雪してくれるところに住まないと孤立しては生活できない。
それと農漁村や環境が厳しいところはお互い力を合せながら暮らさないと生きていけない。

風の強いところは防風林や防雪林があり集落や畑を守るようにしてあるが津軽では見かけない。
海岸部の松の防風林があるが、集落や民家を防ぐ防雪林は見掛けない。
日本海側は屋敷林で囲われている地域が多いだけに不思議である。

青森の人が教えてくれた。この民家の近くで土日には「地吹雪ツアー」が開催されるのだそうだ。案内をネットで見ると、モンペ、角巻き、かんじき姿で地吹雪の雪原を歩く、馬ソリに乗る、じゃっぱり汁の昼ごはんで2800円
そういえばツアーの様子、旅行番組で見た事がある。







鉄道 山陽線庭瀬駅

2012年01月21日 | 鉄道


山陽本線 庭瀬駅(岡山県)の古い木造駅舎を撮る。
大きな駅以外はどこも木造のくすんだ駅舎だった。
岡山駅の次の駅だったが田舎の駅である。
若い女性が一人立って乗降の人を待つ。
家族を待つのか、恋人を待つのか、友達を待つのか
恋人を待つ女性の姿としたいがいかがであったのか
こんな写真を撮った事も忘れている。
Discover Japanのポスターが貼られている。Discover Japanは昭和45年から始まった国鉄のキャンペーン。古い物は壊されていった時代、日本の古き良き時代の再発見にもなった。


現代ならば若い女性はどんな格好で恋人を待つのだろうか
まず携帯の画面を見ながらパチパチやっている事であろう。
あの姿には情感も哀愁も漂ってこない。
駅は人の出会いと別れの場でもあり生活の場でもある。
今、思うともっと駅でどんな人が行き交ったかを撮影しておくと面白かったと思う。

島根県安来市郊外

2012年01月20日 | 懐かしい物


茅葺き民家の撮影に出雲や斐川平野に行くときに安来郊外の農免道をよく走った。
茅葺き民家の撮影に高速道路は使わない、使うにも高速道路も無かった。
国道9号線が一番判りやすいが生活道路で市街地をはしるので渋滞で走らない。 
国道9号線から5キロほど南下したところに並行して出雲まで農免道が走っている。
この道は便利であった。信号は無いし交通量は少ない。
しかし、道は一直線ではなく県道、県道と併用しながらの道路である。
余り便利な道路にすると高速道が出来た時に利用者が増加しないおそれがある。
安来市伯太町の県道102号線から分かれ農免道になる。
このあたりの道路は白鳥道路と呼ばれている。
冬になるとシベリアから飛来して米子の水鳥公園をねぐらにしているコハクチョウが日中餌を求めて飛んでくる。水鳥公園から10km離れていて飛行訓練にもなっている。
30羽、50羽の群れが落ち穂を食べている。
ここの白鳥には人が一切餌をやらない。人が手助けをしないので数も増える事はなく1100羽くらいで均衡している。雪の少なく餌がある地域では自然のままがよい。
東北の最上川の河口の白鳥などどんどん数が増えいる。
栄養過多と過密で鳥インフルエンザーに罹り壊滅するのではと心配している。出水の鶴に付いてもいえる事である。
大型の鳥が飛来するためには送電線や鉄塔、高層建築が無い事である。
障害物が無いことも白鳥が飛来する条件であろう。

そんな安来市郊外の風景をお送りします。










蒸気機関車  C55 1号機

2012年01月18日 | 蒸気機関車
撮影場所 宗谷本線名寄駅

宗谷本線の普通列車を牽引していたC55蒸気機関車、
1号機は現在、梅小路蒸気機関車館に保存されている。

国鉄の蒸気機関車が廃止される段階で梅小路に保存される計画が打ち出された。
その時に1号機が残っていたのは4機種だった。
C55.C57.C58.D51だった。

撮影をする時も1号機はみんな意識して撮影した。
私も名寄駅でC55 1号機に会った時は嬉しかった。
停車時間、雪の降る中、駆けずり回り撮影した。
宗谷本線まで来ると外気温が低く雪がカメラに付いても水滴にならず払ったら落ちる。



乗客がいなかったので扉を開けて撮らせてもらう。床も木製、扉も肘掛、椅子も木製だった。



スポーク動輪 雪が付くと風車のように見える。



茅葺き民家  雪の日

2012年01月17日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県阿波村

中国山地の積雪量は多い。今年も結構降っている。広島県にはスキー場が32か所もある。
西日本は温かくて雪が降らないと思っている人もいるようだ。
中国山地の雪は寒波型でシベリア高気圧の寒気が吹き込むと日本海の温かい海水が蒸発して大量の雪となる。それが山脈で降り落とされる。
寒波の後に降雪量が増える。低気圧が通過して1045ヘクトパスカルくらいのシベリア高気圧が張り出すと日本海は大雪となる。
日本海は対馬暖流が流れているので水温が高く降雪量が多い。
水温の低いオホーツク沿岸は降雪量はそう多くない。

雪の風景が撮りたくて何度も県北部に通った。寒波の日は怖くていけない。寒波が過ぎるとある程度除雪もされているので走りやすい。雪に慣れていない私はこれくらいの雪は行けると走っていて車の底を擦り全く動けなくなった事がある。そんな時は通る人に助けてもらうしかない。

しかし、苦労して撮った割に雪の日の茅葺き民家は大した事がない。
雪が乗っている時はトタンの家も茅葺き民家も大差がない。茅葺き民家の写真は雪のない時期がいい形も飾りも雪で隠れては面白味に欠ける。
余り雪が多いと裏側など雪おろしの雪で白いだけ、どこが屋根かも区別が付かない時もある写真展をする場合でも雪の写真は五枚以下でよい。
コスモスの白花と同じで適度にあればよい。
雪が半分溶けた状態も美しくない。雪の写真は難しい。












顔のある倉

2012年01月16日 | 懐かしい物





]旧国名の摂津、丹波地方には倉の明かり窓が円形で二つ付いてまるで人の顔に見える家がある。
この明かり窓が泥棒に対して睨みを利かせいるのか。
睨みにしては迫力のないにやり顔である。
明かり窓の上に水切りのついたのもありまるで眉と眼にみえるのもある。

こんなむ丸い窓が多いのは神戸から篠山市にかけてで、大阪にもあるようだ。
普通、倉の窓は四角が多い姫路は四画で段々六角形、八角形に変化し神戸では丸になる。

健康で時間のある人は顔のむある倉を撮影されるといかがでしょうか、全国の倉を撮るのも面白と思う。

茅葺き民家 里山の風景

2012年01月15日 | 茅葺き民家
旅行中、 朝食の時に隣の席で食事をしている中年の夫婦に声を掛けた。
だれかれとなく話し掛けていく私に家内は呆れ顔、いつも連れ合いでないような顔をする。東京にお住まいで秋の紅葉を見に来たそうだ。
奥さんが「里山の風景が好きで散策するのだそうだ」と名もない里山を巡って歩くのだそうだ。
こんな名もない風景を求めて旅行する人を見るとうれしくなる。
近年、里山の言葉をひんばんに聞くようになった。
この里山と言う言葉は私の広辞苑には載っていない。25年ほど前から使われ始めたようだ。みんなに浸透したのは1995年に今森光彦氏が発表した写真集『里山物語』であろうか、琵琶湖西岸に居を構え周辺の里山をフィールドワークにしている。

それまでは集落の取り囲む山並みを外山(とやま)とか端山(はやま)と呼んでいた。それに対して深い山は深山(みやま)と言われていた。
深山、外山を詠んだ句にこんなのがある。
「深山には霰降るらし、外山なるマサキのカズラ色づきにけり」

里山は山のみをさすのではなく小川、ため池、水田、棚田、集落や動植物、昆虫の生態を言うのだそうだ。これば琵琶湖の周辺をフィールドにしている写真家、今森光彦氏の「里山物語」を見るとよくわかる。
外山は本来は「そとやま」であるが言いにくいので「とやま」になったのであろう。
人名にも外山さんは九州に多く何人か知っている。
話は余談だが略す言葉は沢山あるが代表傑作は柳楽(なぎら)であろう。息子の同級生にこの姓の子がいた。なんで「なぎらな」のと平仮名で書いてハットわかった。
「やなぎらく」の頭のやと尻のくを略したのだ。
深山の言葉は花の名前に残っている。深山きりしま、深山りんどう、深山おだまきなどに残る。

写真 島根県大東町のある茅葺き民家








写真展ご案内

2012年01月12日 | 日記

「昭和の古い町並み」写真展のご案内

 期 日:平成24年1月30日(月)12時~2月5日(日)16時まで
       通常日は9時から17時まで開催

 場 所:岡山市内山下1-11-1うちさんげ電気ビル        
    エネルギアプラザ
 
 展示会名称:昭和の古い町並み写真展
写真はモノクロ 65点

ここでは開催者氏名は書けませんのでエネルギアプラザのホームページで確認ください。

 
写真の内容: 写真は昭和47年から二年間、岡山県内の古い町並みの風景や生活を撮影したものです
当初は本四連絡橋の建設が始まるに合わせて完成まで撮影しようと思っていましたが、第一次石油ショックで超インフレとなり本四連絡の建設は凍結となりました。
そのうち本四連絡への興味はなくなり下津井を中心とした古い町並みを撮りました。
そんなに情熱を持って撮影したわけでもなく、二年間で撮影をやめるの程度のものでした。しかし、老後になればいつかきっと自分の生きた時代を振り返るに違いない、自分の老後の楽しみのために記録しておこうと思い撮影したように思う。

その当時を振り返るとペットボトルもレジ袋、コンビニも全国チェーン店もなかった時代です。昭和という時代の生活はどうであったか、何が消え何があらわれたか、どう変化していったかを感じとっていただければ幸いです。
当ブログの古い町並みの写真を参考にしてください。


写真は倉敷市下津井の祇園神社から下津井の町並みと鷲羽山を撮ってものです。
現在は本四連絡橋ができて風景は大きく変わりました。