懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺民家  大阪府河内長野市の茅葺

2013年07月31日 | 茅葺き民家
撮影場所 河内長野市滝畑

河内長野市のダム湖の脇に茅葺民家が三軒並んでいた。
これを知ったのは和歌山県のかつらぎ町の険しく狭い道を走っていて岩清水を容器に
いれている人に教えてもらった。大阪府から毎週水を汲みにきているという中年の男女5人組。水道水は美味しくないのでコーヒーやお茶に使うためこの岩清水を汲みに来ると言っていた。
茅葺民家が無いか聞いたところこの山道を大阪府に下ったところにダムがありそこに三軒茅葺民家があると教えてくれた。
ダムの近くだからダムで沈む民家を移築した観光施設だろうと余り期待もせず車一台しか通れない道をくだっていった。
一応府道となっているがこの狭さは何か、車が退避できない。川側は不法投棄防止のコンクリート塀があり余計走りにくい。
県境の道路で民家の無い道は酷いところが多い、金を掛けて改善する意志がない。
対向車が来なかったからよかったが二度と通りたくない道だ。
ダム湖畔に下ったらすぐに茅葺民家は分かった。

観光施設か移築された別荘くらいに思っていたが土地の人の住む民家だったのがうれしかった。
三軒は棟に乗せるカラスオドシの数が違う。








なつかしい物 足踏み脱穀機

2013年07月30日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県津山市

子供の頃よく見かけた足踏み式脱穀機を使って大豆を鞘から外していた。
まだこんなのが現役でつかわれているのだと思った。
足踏み式脱穀機はペダルを踏むと丸いドラムが回転するそのドラムに太い針金の輪が埋め込まれている。回転することで穀物類の種が軸や鞘からちぎれて落下する。
落ちた種は篩(ふるい)で分離する。
足踏み式脱穀機は自転車のスポークに稲が引っかかると米が外れるのを応用して作られた。
今は電動化されている脱穀と篩の機能を持ち実だけにすることができる。

植物の種子は熟れると落ちか飛ぶか動物に食べられ子孫を残すようになっている。
しかし、米は長年の品種改良で種が落ちなくなった。
品種改良されていないラオスなどの米は落ちる前に穂ごと人が摘み取っている。
豆類は鞘が乾燥すると口が開きねじれバネのようになり種を遠くへ飛ばす。
豆類は余り乾燥が進むと実が勝手飛び出すので乾燥具合が肝心だ。


日本茅葺紀行 その68 反り棟の民家

2013年07月29日 | 日本茅葺紀行
出雲平野、斐川平野から安来まで出雲地方特有の反り棟の茅葺民家が残る。

民家も同じような形では面白くないその土地土地の形が見られるのが楽しみである。
観光用に民家を集めて展示してあるのではなく実際人が生活している生きた民家を見てみたいものだ。
出雲地方は本来は寄せ棟造りであるが棟を反らせて格好よくしたものと思われる。
築地松も江戸時代には農民が贅を尽くすことは許されなかったと思う。明治、大正、昭和時代の出雲地方の写真を見れば変遷が分かるとおもう。
棟を反らせる事で煙抜きの破風もできるのと格好もよくなるので造られるようになったのではと推測する。

築地松と反り棟が良く似合う、これぞ出雲の風景である。竹簾で巻いた棟仕舞がいい。
デジカメ時代になり築地松と反り棟の民家の取り合わせが少なくなった。
築地松に寄棟の茅葺民家ならばあるが

こんな反り棟の茅葺民家は愛知県の一宮でも見掛けた。




懐かしの蒸気機関車写真展 その19 「通勤風景」 兵庫県溝口駅

2013年07月28日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
播但線溝口駅

撮影した日の早朝は霧がひどく走行の写真は撮れずに駅でくる列車を撮影する。
朝の通勤列車は頻繁にくるようだった。
播但線も今は寺前までは電化され溝口駅の通勤列車は電車である。
ホームの移動も線路を跨いで渡っていたが今は歩道用の跨線橋もある。

この頃はまだ腕木式の信号機だった。
今は溝口も姫路のベッドタウンになっている事であろう。
今残念に思うのは駅に蒸気機関車が停車している風景を撮っておかなかった事である。
移動中の停車時間に撮らなかったのであろうか
やはり客車がなくなる貨物がなくなる木造駅舎がなくなる駅員がいなくなるの先読みが出来なかったからであろう。
せめて自分の住む県の駅舎と列車の風景を全部撮っておけばそれだけで写真展もできた。
今は移動に車があるしデジカメはあるし容易になったが骨董価値のある列車も駅の風景も少なくなった。




茅葺民家 島根県の民家

2013年07月27日 | 茅葺き民家
山間の狭い谷筋のわずかな平野に人々は暮らす。田の広さも余りなく農業所得だけでは生活は苦しいであろう。近くに働くところがあればいいが都市に働き口を求めて通う。
子供孫の代になれば故郷を捨て都市部に就職する。
斜面を平地にして家を建てる。どこにでも見られる日本の光景である。平野部の広々とした敷地の茅葺民家とはちがう。
奥出雲の反り棟の茅葺民家、郷愁の湧くこんな風景がいつまでも残ってほしいと地域に住みもしないカメラマンが言っている。
働きもせずカメラを持ち撮影ですか安気なもんだねと言われるのが辛い。
農業をやっている人は80歳が来ても現役だ。
邪魔にならないようにこっそり撮影させてもらっています。






広島 府中焼

2013年07月26日 | 日記
広島の府中市に行く用がありお好み焼きの府中焼を食べていった。
広島の世羅町あたりに撮影に行く時は府中を11時過ぎに通るのでお好み焼きを食べる。
お好み焼き屋は沢山あるが駐車場がなかったり車椅子で入れなかったする店もあるのでいつも吉川食堂に立ち寄る。
頼むのは麺に唐辛子を練り込んだ赤い麺の「赤ゴジ」にしている。
口から火を吹く事からゴジラのたとえてこの名がついた。
壁に貼られた写真が増えている。NHKアナウンサーの小野文恵さんとここの店の奥さんが一緒の写真が貼ってある。
今年の三月に帰省の際に立ち寄ったそうだ。お母さんに会計の時に小野文恵さんですかと聞いて乗っていた車からわざわざ降りて写真を撮らせてもらったそうです。
家族に乾杯で鞆の浦の放送の時に福山市は私の出身地ですといっていたが高校が福山で出身は府中市なのだそうだ。
「家族に乾杯」は初めから見ている。鶴瓶のうまい会話もあるが小野文恵さんの大ファンでもある。
この店に来たのは小野さんが郷里の友達に府中焼の美味しい店をメールで教えてもらったそうだ。


日本茅葺紀行 その67 夏の風景

2013年07月25日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 広島県熊野町

熊野町は広島市の東の町、広島に近いのに茅葺民家が残っている。
しかし、道が狭い、茅葺は民家の建ち並ぶ中にある。細い道をどこへ向かうのか分からず走る。時々対向車があり退避するところがなくどぎまぎしたことがある。
歩ける人は歩いて撮影するのが一番であろう。
笠岡で花火があり日中、熊野町まで足を伸ばし何時間か撮影した。
夏の風景を撮りたかった。
青田、蓮、夏野菜、ヒマワリやムクゲ、芙蓉、夏の入道雲の風景、
網を持った子供やワラぽうし姿の農作業風景が撮れればよいが
水田の緑と茅葺民家が好きだ。

写真展の入選作品には孫に網を持たせて演出する人がいるがあれだけはしたくない。自分に嘘をついてまで撮りたくはない。




懐かしの蒸気機関車写真展 その18 「通勤風景」 倉敷駅

2013年07月24日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
伯備線の蒸気機関車が倉敷駅で交換する風景を撮った。
朝の通勤通学の列車が倉敷駅で交換する。
岡山きで行くので大勢の学生が乗っていた。
女子学生は蒸気機関車に乗ると煤で白いブラウスが汚れるので嫌った。
乗る時に手摺を握ったら手が汚れていた。

上り列車は編成が長くホームからはみ出している。
客車にはスハ33と書いてある。
スハのスは客車重量が37.5トンから42.5トンと大型の客車である。
ハは普通車を意味する。

この時間帯に山陽本線の上りには寝台特急「きりしま」が入ってくるので蒸気機関種と一緒にとれる。寝台特急は583系で40年使用されているが今ものこっているのか、定期運行は無いがまだ残っているようだ。

写真展をした時に見に来てくれた鉄道ファンの人がこの列車は通勤に乗っていたので懐かしいので写真を譲ってほしいと自宅まできた。伯備線に限定してお召し列車など30枚ほどCDに入れあげた。彼は何人かの仲間と井倉に保存されているお召し列車を牽引したD51838が余りにも管理が悪く錆びだらけでだったので手弁当で維持管理しているそうだ。
又、お召し列車のデフについている鳳凰のマークを梅小路から本物を借りて模写して作ったそうだ。
ブログ「D51838」参照ください。本物に劣らず良くできている。
専用工作機械を使っているので金属加工に手慣れているのでしょうか
とにかく蒸気機関車の写真展はマニアックな人が大勢来てくれて日頃会話のない私には大変楽しい写真展でした。










棚田の集落

2013年07月22日 | 農作業
撮影場所 岡山県建部町(現在は岡山市)

吉備高原の棚田地域、山の頂上部に広がる。この台地の上に高い山はほとんどない。
河川や池のないところで米を作っている。
天水まかせである。異常渇水の時は米が作れなかった。
こんな厳しい条件のところでも作物を作り生活してきた。
生活するのに欠かせないのが水であるが三軒ばかりの集落の共同井戸があった。
50メートルほどの岩山の下に岩盤を掘り下げた共同井戸はあった。
岩山から滲み出す水を井戸に風呂や料理に使っている。
井戸にはポンプがあって水道をひねれば圧力低下をキャッチしてポンプが起動するようになっていた。
50メートルほどの岩山にも沢山の水を含水しているものだ。

こんな集落がいつまで存続するだろうかとここに住む人を撮影させてもらった。
このご夫婦は長年、田と畑を守り子供を育てて生きてきた。親も同居していて世話もしてきたことであろう。自然を相手に災害の危険性もある山間部での暮らし、幾多の苦難を逞しく生きてきたのであろう。奥さんも都会暮らしには分からない苦労を背負って生きてきたとおもう。

今後どう変化していくがのか引き続き撮影していこうと思ったが自分の身体が悪くなり他人の心配するより自分の心配しなくてならずその後、行っていない。