懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

懐かしい客車 スハフ32

2012年10月31日 | 鉄道
撮影場所 熊本県人吉駅構内

肥薩線人吉駅で乗り換えのため時間があったので機関区や蒸気機関車、客車を撮影した。
その中に古い客車を撮っていた。
蒸気機関車には興味があったが客車や貨車については余り興味がなかった。
車両記号が何か分かりにくくて興味を引かなかった。しかし、鉄道ファンになるにはこの最初の壁を乗り越えなくてはならない。

結局私はこの壁を乗り越えずに鉄道ファンをやめた。
国鉄が民営化して味のある客車や貨物列車が姿を消した。
私は民営化するときにはもっ鉄道ファンはやめていたのでどれくらいの人が貨車や客車を撮っていたか不明だがホームページを見ると車両記号別に撮影している人がいる。
世の中には凄い人もいるものだ。

人吉駅構内で撮影したスハフ32についてネットで調べると
昭和4年(1929年)から国鉄の前身の鉄道省で105両製作さた20メートル鋼鉄車。
1972年(昭和47年1月)に肥薩線に配置されていたのが除籍されすべて廃車となった。
特徴は二層屋根になっている。余り見掛けない客車である。

車両記号一覧よりスハフ32について説明します。
ス・・積車重量が37.5トンから42.5トン
ハ・・普通車
フ・・緩急車 ブレーキのある車(車掌室で車掌が非常時ブレーキ操作)
32・・3は一般客車、2は2軸ボギー車

茅葺民家 斐川町の民家

2012年10月30日 | 茅葺き民家
撮影場所 島根県斐川町

斐川町は斐伊川の洪積地で広い平野が広がる。
冬場は北風をさえぎるものがないため築地松を植えて防風林にしている。
茅葺民家も沢山残っていた地域でもある。
ここは斐川町の南部の山裾にそった集落
家の前の草刈り中の奥さんに話掛け自宅とともに撮影させてもらう。
今や茅葺民家は文化財である。
政府が決めた物だけが文化財ではない。
自分でこれは素晴らしい庶民の文化だと思えば文化財にすればよい。
人に言われて初めて文化財といわれて撮影を初めてはもう遅い。
文化財や保存された地域や民家を撮影しても魅力はない。
自分が撮らなくても沢山写真が残っている。
庶民の生活が残っている時代に撮らなくては価値がないと私は思っている。
茅葺民家もさることながら80年、90年真面目に精一杯生きてきた人も文化財だとおもう。何十年も生きた庭木もまた文化財。


日本茅葺紀行 その9 枚方市の民家

2012年10月29日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 大阪府枚方市

大阪府内の茅葺民家の情報は他府県に住む者にとっては得にくい。
やはりネット時代である。
ネットの情報を見逃さずひとつひとつ拾っていけば貴重な情報がえられる。
茅葺民家か茅葺民家画像で検索すれば一杯出てくる。いただけないのは自分が投稿したのが数多く残っている事である。

枚方市に茅葺民家があると聞いて門真I/Cで降りて一般道で目的まで走る。
大阪の街中を走るのは田舎者に取っては苦手である。
しかもカーナビは付けずに走っている。地図を見ながら苦労しながら走るのはイライラ、ハラハラしながらは老いた脳にはたどり着いたあとは心地よさよ。
歳をとると不便、苦労を楽しむ事も必要かと思っている。

枚方市の茅葺民家が残っているだけあって周囲の民家は昔ながらの日本家屋が多く落ち着いた町並みが残っている。日本瓦に板塀の家が多かったように思う。
目的の茅葺民家は大和棟で重厚感のある民家である。
土塀も味わいがある。大阪北部は入母屋造りだがこのあたりは奈良に近いので大和棟がみられる。
奥さんが華道の先生をされていて入りずらい玄関の構えだ、それでもここまで来た以上、話を聞きにお邪魔した。歳とともに厚かましさに磨きがかかる。
聞くは一時の恥とばかりに話をお聞きした。
もう一軒裏の方に大和棟の茅葺民家がありますよと教えてくれた。
同じ苗字なので親戚であろうとおもった。


懐かしい風景 木の半鐘

2012年10月28日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県落合町(今は真庭市)

落合町の醍醐桜に入口部にカタクリの自生地があるその周辺にある木の半鐘
今も残っているか判りません。
集落を見降ろす小高い所にあります。

木の半鐘には腐りにくい栗の木が使われる事が多い。
地域の住民の男が総出で設置した事でしょう。
しかし、住む人も減りこの木の半鐘のある事が判る人も少なくなっています。
現在のような通信手段の発達した時代、
「あなたは今も半鐘で火事を知らせますか」木の半鐘の上からスマホが便利ですというコマーシャルがでてきそうだ。
これを作った住民の心を踏みにじるようなコマーシャルはやめるべきだと反論がでてきそう






蒸気機関車 伯備線井倉鉄橋

2012年10月27日 | 蒸気機関車
撮影場所  伯備線井倉周辺

岡山県の西北部は石灰岩地帯である。石灰岩は岩とは名が付いているが岩石ではなくサンゴなどの化石で成分は炭酸カルシウムです。
硬度も岩石に比べて柔らかい、水や土砂の浸食で深い渓谷を造る。高梁川の川筋でも渓谷が見られる。石灰岩の浸食でできた谷は垂直に削りとられたのが特徴です。断崖絶壁が見られる。井倉峡や阿哲峡は伯備線も並行して走っているので渓谷を見ながら景色を楽しむ事が出来る。
また鉄道写真の撮影ポイントでもある。重連の貨物列車を撮影した。夏場は白煙が出ないので絵にならない。
渓谷は冬場には太陽が当たりにくい。どの時期にはどんな角度で太陽が差し込むかを会得する事が肝要でしょうか
しかし、今は鉄道を撮影するのは楽である。鉄道撮影の三種の神器がそろっている。
私は鉄道撮影の三種の神器はカー、カメラ、コンピューターと思っている。性能といい趣味の応用といい我々の頃とは隔世の感がある。私どもは歩いて場所を探すしかなかった。

茅葺民家 水車のある風景

2012年10月26日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 京都府京北町(現在は京都市に編入)

京北町も美山町と同様に山間の平野で農耕をしながら昔の風景が残る土地である。
山は杉の植林が美しい。家々も杉を植えている。
この家も屋敷林に杉を植えている。
砺波平野、東北や新潟の雪の多いところは杉の屋敷林のところが多い。
杉はまっすぐ伸びるし葉もそんなに横に広がらないし剪定に強いし家の周りを整然と取り囲む屋敷林に適している。
秋田や新潟の杉は雪の重さにも耐えるしなやかさを持っている。
高知県の牧野植物園に秋田杉と西日本の杉を並べて植えてある。
秋田杉は枝先が柔らかで雪に重さに強いのが判る。曲がる事で雪も落ちやすくするのであろう。

杉に囲まれた茅葺民家の脇に水車があった。水路の水流で水車を回し田に水を供給するものです。今は水路も整備され堰板で水位を上げれば田に流入するようにできているので水車を使うところがすくなくなった。しかも水車の製作費用よりエンジンポンプの方が安いし仕事が早いので使う人が少なくなった。
省エネの観点から見れば自然エネルギーを利用した方がよい。
木材の消費拡大の一環でも水車を大量生産してコストダウンすれば活用を促進できる。
水車一台が10万円もするようではエンジンポンプや水中ポンプを使うであろう。
強化プラスチック製の水車が造られてもよいと思う。

エネルギー資源のない日本は小さな自然エネルギーを拾い集めるて利用する事が課題である。小規模水車による発電も有効である。しかし、自然エネルギーは電気の品質が非常に悪い。
水車を造るにしても回転速度を調整する機能は最低必要である。品質の良い電気にするには制御装置に金がかかる。
回転数の合わない発電機を並行につないでも短絡して使えない。電力会社の送電線につなぐにしても回転数が一定しないと御荷物になるだけだ。
五人乗りの自転車に一人デブで脚力の弱いのが乗っていたため他の四人はデブのために余計な力が必要になるようなものだ。





日本茅葺紀行 その8 上田市

2012年10月25日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 長野県上田市

長野県軽井沢から上田市市周辺の茅葺民家を探しに行く。
軽井沢など観光地も多く茅葺民家はほとんど残っていない地域でもある。
軽井沢の観光地から南に随分外れたところで茅葺民家を探していた。
あそこで赤軍派の浅間山荘事件の場所だったといわれた。
遠方に浅間山から随分離れている。私はてっきり浅間山荘は浅間山の山腹にあるものだと思っていた。
余り残っていない茅葺民家を探した。今の時代、収穫は少なかったが何軒か発見する事ができた。茅葺民家の近くに道祖神もあったやっぱり長野県だと思った。






井笠鉄道のあった頃

2012年10月24日 | 鉄道
撮影場所 岡山県井笠鉄道沿線

井笠鉄道が廃線となったのは昭和46年3月31日
その後、バス路線に切り替えられたがローカル路線は乗客の減少で経営圧迫ししている。
井笠バスは経営破たんでこの10月末で廃止する事となった。
その関連で井笠鉄道のあった頃の写真を投稿しました。
この鉄道に乗って大きな町に出るのは楽しみのひとつであったと思われる。
とくに子供は思い出に残っている事であろう。
乗客のうち中高年女性は着物姿が多い。
気動車に引かれ木製の客車が連結された。暖房もなく冬は寒かった。この木製客車はマッチ箱と呼ばれカープや発停車では木の軋む音がした。気動車にもトイレはなく駅に停車してトイレに駆け込む、用を足すまで待ってくれた。

バスの廃止は交通の足のない高校生や老人には生活の足を奪われる。
公共交通機関は地方では経営が難しい。県や市町村が負担しないと交通の足が確保できない。これは地方で生活するのがますます厳しくなる。子供を高校に通学させるのもむつかしくなる。地方の市町村の人口は減少し都市部に人口が集中する事が加速される。









茅葺民家  縁側

2012年10月23日 | 茅葺き民家
撮影場所  島根県木次町

縁側と障子のある家を撮影させてもらった。
縁の下の覆いの空気抜きの意匠が面白い。
家自体が新建材やコンクリートが使われておらず暮らした長さを材料が語る。
この縁側で近隣の人と語らいをしたであろうし裁縫や農作業もしたであろう。
ある時はネコの昼寝の場であったり子供が漫画を読んだり将棋遊びをしたところであろう。
老人の一人暮らしとなった今、暮らしや生活環境の時代の変化が見えてくる。

個人の民家を撮影させてもらっているが住む人にとっては迷惑な事である。
個人のプライバシーが家庭環境まで撮影記録されるのは申し訳ないと思っている。
しかし、古い建造物といっても寺院や保存地域の民家では人々の真の暮らしが見られない。
撮影するためにある観光用の建物と個人の民家では撮影する側も緊張感がまるで違う。
撮影を硬く拒まれる事も覚悟しなければならない。
茅葺民家で暮らしている生活の様子を記録撮影する事はアマチュアカメラマンの使命であると思いやっている。







日本茅葺紀行 その7 養蚕農家

2012年10月22日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 群馬県長野原町

群馬県は国営の富岡製糸が出来た事などで養蚕が大変盛んなところだった。合成繊維の生産や中国からの安い生糸の輸入で産業として衰退していった。
群馬県では茅葺民家に限らず瓦葺きの民家でも養蚕農家を今でも目にする事ができる。
コンニャク造りも盛んだが外国の安いコンニャクに押され関税を掛けて何とか維持している。
二階建ての養蚕農家は比較的新しい民家であろう。昭和の時代の建物と思われる。
長野原は浅間山の北側に面する。クヌギや楢等の落葉樹の樹海が広がる。
そんな中にペンションなどが点々とある。通称、北軽井沢といわれている。

浅間山町は過去に大きな噴火を繰り返しいる。
天明3年(1783年)の大噴火では噴石や火砕流で多くの犠牲者をだしている。
神社が埋まった嬬恋村の鎌原や火砕流の流れた後を走ってみた。
浅間山から流れ下り吾妻川を流れ下ったといわれている。
浅間山から吾妻川までは15kmはある。それからどれくらい下ったのであろうか
浅間山の大火砕流があればJR吾妻線も飲み込まれる。
富士山は浅間山より1000メートル以上高い火砕流はどこまで駆け下るのであろうか