懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

懐かしい物  井笠鉄道くじ場駅

2015年02月10日 | 鉄道
岡山県は軽便王国といわれていたそうだ。、しかし私が岡山県に転勤してきた時は二線路しか
軽便は走っていなかった。、

井笠鉄道も昭和46年に廃止となる。廃止になる前に何度か訪れて撮影する。
今、考えて見ると沿線風景や建物、人々の服装は昭和そのものである。䦰場(くじば)とは難しい漢字だ。普通はこの籤を書くが門構えに亀と書いてくじとよむのだ。
こんな建物は開業時(明治44年)のままではなかったかと思う。
建物の板も椅子も改札口も木材の天然素材がいい。
䦰場駅はどのあたりにあったかもうすっかり忘れた。どうも笠岡駅の次の駅で笠岡高校の近くだったようだ。訪れたいととも思わない過去の記憶のままにしておきたい。

写真は撮影のテクニックを書いた本は沢山あるがどんなテーマで何を何のために撮るのかを書いたものはほとんどない。
現在のようなネット時代だと人がどんな物に関心を持ちどんなテーマで撮っているかが簡単に検索できる。ブログ村などに行くと人の行動や趣味が検索できる。
昭和の時代にこんな風景は消えるであろうと自分になりに何を残すべきリストアップし確実に撮影を実行する必要があった。
考えるまではしても実行は難しいものだ。他人や世間に惑わされず実行するのが自分の修行なのかもしれない。


懐かしい物 稲架木のある風景

2015年01月07日 | 鉄道
撮影場所 岩手県久慈市山根町

茅葺きを撮りに訪れた久慈市山根町の集落、茅葺きも残っていたがバッタリ(水力で脱穀する機械)や稲架木もあり昔のままの生活が残っていた。
東北の岩手、青森は夏場はヤマセの影響で米が穫れない年がある。
それに備え雑穀も栽培されて干してあった。

この稲家木は栗で設置して百年になるそうだ。栗は腐りにくいので土台などに使われた。
稲架はもっと高かったが根元が腐り1メートル切り落とし再利用していると言っていた。
かっては集落を囲むように設置されていたと思う。今は木ばかりでなく鉄パイプの骨組みの部分もある。
集落の人が共同で使っているようだ。
こんな物も風景も庶民の文化財だと思い撮影した。 




懐かしい風景 ボンネット特急電車

2014年05月18日 | 鉄道
撮影場所 岡山県里庄町 山陽本線

昭和50年3月の新幹線博多開業までは在来線で多くの特急電車がみられた。
一日撮影したら何台撮影できたであろうか
撮っている時は電車をモノクロで撮影しても意味がないと思い本気で撮影しなかった。
電車はカラーでないと意味がなかった。
電車はモノクロ向きの被写体ではなかった。
それでも今となってはモノクロでも撮影しておけばよかったと思う。

「はと」や「つばめ」の歴史ある名前が山陽線を走っていたのは撮影しておくべきだった。
この電車は交流60HZ直流区間を走る481系ではなかったかと思う。
こんなボンネット形の特急電車も懐かしい。直流の大阪から交流区間の九州の乗り入れが出来る、以前は直流電車は関門海峡で電気機関車に牽引され博多に向かっていた。

昭和の時代だ左端に木の半鐘が見える。

懐かしい風景 田川線油須原駅

2013年12月30日 | 鉄道
撮影場所 福岡県田川線油須原(ゆすばる)駅

油須原駅の駅の正面と木の椅子を撮っている写真があった。
断片的に蒸気機関車の写真に混ざってこんな写真が残っている。
駅を撮るなら徹底して撮るべきであった。何事も中途半端である。
40年という時間が経過したら、その写真が時代の証言者になる。
人の記憶は実に曖昧だ、時代とともに記憶が上書きされたり印象に残った部分だけが誇張されて記憶に残ったりする。やはり写真に残さないと正確に時代は語れない。

駅舎も木造板張り、ダルマポストと公衆電話見がどこの駅にもあった。
ダルマポストと公衆電話も姿を消した。
椅子も木の椅子である。昭和30年後半からプラスチックや新建材、アルミ製品や鉄、ステンレス製品で建物も製品も変化していった。
木材も日本の杉などからラワンなどの木目のない南洋材に変わって行った。
木を接着剤で貼り付けた合板に変わっていった。天然の一枚板を使っていた以前の木の製品は素晴らしい味わいがある。





鉄道  標津線奥行臼駅

2013年04月19日 | 鉄道
撮影場所  北海道標津線奥行臼駅 昭和48年12月撮影

釧網線の塘路で蒸気機関車を撮影して別海駅(その頃は西別駅だった改称) から標津線に乗り厚床へ向かった。途中の奥行臼駅で停車した時にホームから駅舎を撮影している。
乗っていたのは気動車の客車だった。
標津線にはC11型の蒸気機関車が走っていた。
気動車も撮影しておけばよかったのに気動車には全く興味もなかった。
一枚だけ奥行臼駅舎の写真を撮っている。
古臭い駅がなかなかいい。駅前は駐車場になっている。結構、車を持っていた人がいたのだ。この駅舎は廃線後の現在も保存されていて有形文化財になっている。

標津線は標茶から根室標津まで69.4kmと途中の中標津からの支線47.5kmからなる。
奥行臼駅は標津支線にある。
この路線も1989年4月(平成元年)に廃線になった。
標津線の沿線は白樺林が続くこれと鉄道を一緒に撮ればと思ったが路線は今はない。

鉄道 駅を撮る

2013年04月15日 | 鉄道
気動車はキハ20系 


撮影場所  徳島県 徳島本線鴨島駅

自分の住んでいる地域の蒸気機関車が姿を消したのは昭和47年9月であった。
蒸気機関車が消えて鉄道への興味が無くなった。何を今後撮影しようかと考えたが結局鉄道から去った。
本当に鉄道が好きで撮影していたわけでも無かった。家庭を持って鉄道撮影にうろうろできる環境でも無かったので未練もなかった。
蒸気機関車が無くなり鉄道ファンは激減した。80系電車のさよなら運転が岡山であり行ったがほんの数人の鉄道ファンがきているだけだった。

今回写真展をやって蒸気機関車が無くなっても鉄道趣味を続け50年も60年も継続している人に何人か出会った。意志の強さに敬服する。

自分も蒸気機関車が無くなっても木造駅舎を撮影するとか鉄道の近代化遺産を撮影するとか国鉄の民営化で姿を消すものや廃止路線を撮影するとか鉄道の趣味を継続するすることができた。

今回は「鴨島駅」をサンプルに駅を撮影する事でまとめてみた。
昔はローカル駅はほとんど木造駅舎だった。駅をいろいろな角度から撮影しておくと面白い写真集ができたと思う。駅をこんな項目で撮影していったら面白かっだろうにと思う。
すくなくとも自分の住んでいる県だけでも撮るべきだった。反省も込めて

1.駅の正面、駅前の店屋などの風景
2.駅の待合室や売店
3.時刻表、料金表を撮る
4.改札口、切符売り場
5.プラットホーム
6.停車列車、通過列車 どんな列車が走っていたか
7.駅員の仕事を撮る
8.乗客を撮る。どんな人が利用していたか服装は
9.跨線橋から撮る。
10.信号機や駅の施設をとる。


キハ45系 普通列車用気動車











鉄道 可部線17mさよなら電車

2013年01月24日 | 鉄道
撮影場所 広島県広島市可部

可部線を走っていた旧型電車17メートル電車が廃止になるので撮影に行っている。
いつ廃止になったのか分からず鉄道マニアのホームページを見ると昭和51年3月31日となっている。
鉄道マニアの人口は多く大変鉄道に詳しいマニアックな人が多くわからない事は検索すればすぐにわかる。
私も蒸気機関車がなくなり鉄道写真は撮っていないと思ったら撮っていたものだ。

山陽本線で横川駅まで行き可部まで電車に乗り撮影している。
可部や横川駅の駅舎の写真や写真の隅に見える貨物列車の写真でも撮っておけばよいものを電車以外撮影していない。
この当時は可部から三段峡まで鉄道は運行されていたが、2003年12月に廃止されている。可部から戸河内まで途中路線が出来掛かっているが中止されている。周辺の人口密度を考えれば開業すべきではないと思う。後々に負の遺産を残すだけである。

可部線の17メートル電車は旧型電車でクモハ12系やクモハ16系が走っていた。
クモハの意味はクは制御車(運転席のある車)、モはモーター(電動機のある車、電源取入れのパンタグラフが付いている)、ハは普通車(イロハの三番目のクラスの車両)
現在の電車の一両の車長は20メートルあり小回りのきく17メートル電車は小さなカープの多い都市部ローカル路線で運行されていた。

さよなら運転にも関わらずほとんど鉄道ファンが写っていない。蒸気機関車が全廃され鉄道ファンを魅了する列車がなく継続するのか別のテーマにすべきが迷っていた時代だ。
鉄道ファンの人口が激減した時期でもある。私を含めて蒸気機関ブームに乗ってにわか鉄道ファンが多かったので当然の成り行きだった。




鉄道 井笠鉄道沿道風景

2012年12月29日 | 鉄道
撮影場所 岡山県笠岡市郊外(井笠鉄道沿線)

井笠鉄道(廃線)の沿道の風景
笠岡市の郊外の井笠鉄道沿線を撮ってみた。
鉄道写真は民家のゴチャゴチャ建ち並ぶところでは普通、撮影しない。
列車主体の写真にはこんなところは不向きである。
しかし、年齢を重ねるに従いこんな沿線に家が建ち並ぶ生活感のある風景が好きになってくる。
沿道に花や野菜を植えたり植木鉢が置いてあったり、都会近郊の鉄道沿線では柵に植木鉢がぶら下がったり置き場になっているのを見かけた。
のんびりと軽便が走った在りし日の光景です。







鉄道 予讃線丸亀駅

2012年11月22日 | 鉄道
撮影場所  香川県丸亀市(予讃線丸亀駅)

丸亀駅に停車するキハ20系の気動車とDF50型ディゼル機関車を撮っている。
気動車キハ20系は1957年(昭和32年)から1965年(昭和40年)に1100両製造されすべて廃車されている。
DF50型ディゼル機関車は昭和32年から昭和38年までに138両製造され1983年(昭和58年)に四国での運転を最後に廃止されている。
DF50の写真の前の大八車、貨物を運搬するものであろう、いまではこんな光景もなくなった。

なぜ撮影したのかわからない。カメラを持っていてたまたま撮影したのであろう。
気動車などは積極的に撮影はしていない。
電車や気動車の外観は特徴的な差がそんなにない。特急列車はそれなりに形に特徴があるが
それとごく普通に頻繁に走っている列車を撮影する気にはなれない物である。
しかし、マニアはいるものだキハ20系の気動車を番号別に撮っている者もいるしDF50機関車を番号別に撮影している人がいる。
DF50系のさよなら運転の頃(昭和58年)はビデオで撮影されている。ユーチューブを見ていたらそんな映像があった。


荷物運搬用の大八車が懐かしい。

鉄道  宇野線茶屋町駅

2012年11月08日 | 鉄道
撮影場所 岡山県倉敷市茶屋町(国鉄 宇野線茶屋駅)

国鉄、宇野線茶屋駅は瀬戸大橋が開通して宇野線から瀬戸大橋線になると大きく変わる可能性があった。
この駅舎と構内の電車を撮影したのは昭和53年に瀬戸大橋の建設が着工したのでそのあとだっと思う。
現在は高架になりホームは階上になっている。
今の茶屋駅周辺は岡山、倉敷の住宅地になり大きなスーパーやホームセンターができて買い物も便利になっている。
瀬戸大橋線ができる時に茶屋駅は東倉敷駅にしょうかと言う話があった。倉敷の東の玄関口とする意向だったようだ。それが改称されず茶屋町駅の名が残った経緯は地元の反対が多かったのか、距離が離れて新倉敷もあり倉敷のイメージが損なわれるためかいきさつは知らない。

撮影した頃、茶屋町駅を岡山方面に出ると線路脇にスッポンの養殖場があった。甲羅干しをむしている風景が電車の中から見えた。一度スッポンの養殖場を見に行った事がある。
スッポンは大変臆病で近寄ると甲羅干しをしていたのがすべて水中に隠れた。
スッポンの養殖場と電車をなぜ撮っておかなかったかと悔やまれる。
物事は思い立ったらすぐに行動しないとチャンスを失う。すぐに10年くらいの時間は経過する。それも撮影するならじっくりと時間を掛けた写真でないと訴えるものがない。
写真の凄いところ嫌なところは本人がどれくらい時間を掛けて撮影したかが判る事である。通りすがりのチョイ撮り写真か努力しているかがわかってしまう。


昭和46年 下津井電鉄を撮影に来た時に撮影した旧型電車 








現在の茶屋町駅 ネットより借用