懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

山陽線 棒杭のある風景

2012年06月30日 | 鉄道
撮影場所  山陽線 庭瀬と中庄間

ディゼル特急やくも(伯備線経由)、583系特急つばめを水路護岸の棒杭と一緒に撮る。

岡山県南部は何本もの川の洪積地なので排水と灌漑のため水路がある。
庭瀬や中庄は佐賀平野のようなクリークも見られる。水路の多くは棒杭による護岸であった。
棒杭は4メートル以上の杭を連続に打ちこみ竹網や板で土留めをした。
しかし、耐久性はなく杭は腐り土留めできなくなる。しかし、魚や昆虫、蛙亀など水辺の生き物には好都合であった。゛

水路も今ではコンクリートの三面張りに整備されてきた。コンクリートのU字講にとりかえている。
水路用は深く2メートルから2.5メートルもあり子供が落ちたらまず助からない。
落下した時の安全策としてロープを張っているところもある。
コンクリートにした事により亀やダルマ蛙、ドジョウが棲めなくなった。

佐賀県にはよく行く佐賀のクリークも最近は直線的に水路が整備されて自然な水路の流れは少なくなっている。佐賀のクリークは1500kmあり700kmはコンクリート化未整備でそれを間伐材を使った棒杭の護岸を整備する計画がある。
工期が七倍早く低コスト、間伐材の利用、自然環境への配慮である。

こんな棒杭もいつか消える風景のひとつであろうと思い撮影した。



昭和の古い町並み写真展 その40 「働く 魚行商」 倉敷市玉島

2012年06月29日 | 昭和の古い町並み写真展
昭和の古い町並み写真展 その40 「働く 魚行商」 倉敷市玉島仲買町(今は玉島阿賀崎)

魚の行商の後を付いていって撮影させてもらう。

写真展をした時に県庁に勤めている人がすぐ近くなので昼休みに写真展を見に来てくれた。
「私この行商していているお婆さんを知っている。横で立ち話をしている人は○○さんでこの人も知っている」というのです。県庁勤めの男性は家は玉島で昔からの古い民家に住んでいるそうだ。
県庁に勤めて人は40代で若く見えた。四十年近く前だし幼い頃の事を何で知っているのだろうと思った。行商している女性の息子さんも知っていると言っていた。

写真展の最終日に行商をしている女性の息子さん夫婦が写真展を見に来てくれた。
県庁に勤めている男性が息子さんに電話をしてくれたのだ。
お母さんは82歳まで行商をしていて85歳で亡くなった、この写真は74歳頃だと思う。
家族の了解も得ず写真展にだして後ろめたい気持ちもあったが大変喜んでもらい良かったと思った瞬間である。県庁に勤めていた人は10歳くらいまで行商をしていた姿をみたのかもしれない。

写真展をすれば何かの出合いがある。出会いと共に何か得るものが多くある。
私は日頃人々と付き合いや会話の機会がほとんどない。写真展を開催し人にきてもらい刺激を受ける格好の機会でもある。





万治の石仏

2012年06月28日 | 旅行
長野県に行った。
目的は原田泰治氏の絵を見る事、諏訪大社を見る事、万治の石仏を見る事、長野の茅葺き民家を探す事
であった。
原田泰治氏の絵を見るあいだ二時間炎天下の車の中にカメラを置いてあったら液晶が液漏れを起こして使えなくなっていた。
電子カメラは高温と水滴、液晶部の衝撃は避けなくてはいけない。持って歩くのが重かったので置いていったのが失敗の元、出鼻からカメラの故障でがっくりきた。
しかし、一眼レフはモニターが使えなくても設定は初期値に戻り露出補正などの変更はできるしちゃんと撮れていたのが幸いであった。モニター補修に二万円近く掛かった。私のような愚かな事をしないでください。

万治の石仏の異様な姿は一度見たくなる。諏訪下社の春宮の隣にあった。
諏訪にくるまで諏訪大社が四カ所もあるのを知らなかった。上社二か所、下社二か所
諏訪大社へ行きたいと言っても通じない。諏訪大社のどこに行きたいかを言わないと話が通じない。

諏訪大社下社春宮の横に綺麗な川が流れていて子供が沢山水遊びをしている。
親がついているわけでもなく子供たちで遊びにきている。
子供にとってはやってはいけない事ほど楽しいものはない。
しかし、川の流れも速くこの日も雷鳴がなっていた。長野の山は高くて雷雨が一気に川を下り押し流される災害が過去にも何度もあった。子供にはその予知はできない。

万治の石仏は万治3年(1660年)に建立された。
石仏までの道は平坦でなく階段があり私は諦めて待っていたら地元の人が通りかかり、「ここまで見に来たのに見ないと悔いが残るでしょう行きましょう」と観光客の若者四人を連れてきて車椅子を持ち上げてくれた。有難い親切を受け感謝しています。
地元の人の話では長年首が落ちたまま放置されたり周囲は畑で行く道もなく不遇な石仏だったそうです。
しかし、岡本太郎さんがこれを見て高い評価をしてPRをしたため人気がでたそうだ。 








蒸気機関車と旧型電車

2012年06月27日 | 蒸気機関車
撮影 山陽線倉敷駅

伯備線のホームにD51蒸気機関車、山陽線のホームに旧型電車
蒸気機関車を撮影にきていて旧型電車がきたので撮影したのであろう。
電車や電気機関車はモノクロ撮影だったので余り積極的には撮らなかった。
いまだに気動車や電車を見て型式が判らない。

モノクロでも良かったから一日ホームで来る電車や蒸気機関車、気動車をすべて撮ったらどうであったろうか。
何時間飽きずに撮影できたであろうか、フィルムが惜しいと途中で投げたさなかっただろうか
二万日以上の人生にそんな日が一日くらいあってもよかったようにおもう。

それと岡山県内の駅に蒸気機関車や電車、気動車停車しているところを撮影しなかったのが悔やまれるところだ。物事は思いつきでは続かない、ちゃんとした計画と目標設定をしないと継続も達成もでない。この歳になりつくづく思う。

茅葺き民家 金屋子神社と茅葺き民家

2012年06月26日 | 茅葺き民家
島根県の山間部の地図を見ていると金屋子神社というのをよく目にする。
ネットもない時代、何の神社か分からずそのままにしていた。
それがタタラ製鉄の守り神である事がわかった。
たたら製鉄に関わった者の信仰だけではなく製鉄や金属メーカー、電炉メーカーや鋳物関係に従事している人も信仰されている。
安来市の日立金属にも小さな金屋子神社の祠がある。キューポラのある川口の鋳物工場の神棚にも金屋子神社が祀てあった。ご神体は砂鉄が溶けたケラである。

金屋子神社の総本山が島根県広瀬町西比田にあると言うので茅葺き民家探しのついでに観に行った。
国道から5kmくらい入ったところで訪れる人はほとんどなかったが社殿は新しくなっていた。
全国に信仰している人がいるのがうかがえた。
中国地方は全国の7割の鉄を産していた。花崗岩の風化した地質が多く森林も豊富であったため製鉄が近代化するまでの日本の鉄をささえてきた。

しかし、砂鉄を採るために山を切り崩し下流へと流した。
島根県は地形が変わるほどの大量の土砂を流した。大雨で土石が流れる様子を龍にたとえヤマタノオロチ伝説が生まれ出雲神楽で演じられてきた。
もともと島根半島は島であったそうだ。斐伊川は出雲から日本海に流れていたのが大量の土砂で埋まり陸続きとなり宍道湖、中海から境港に流れるようになった。

明治以降、大きな川は蛇行しているのを直線に改修したりバイパス化したのに斐伊川は元の河口にもどさなかったのか不思議である。
岡山県の児島湖もたたら製鉄のかんな流しの土砂で埋まり江戸以降に干拓地として使われるようにむなった。

そんな昔の思い抱きながら広瀬町の茅葺き民家を探索した。
茅葺き民家も残っていて牛を飼っている家も多かった。
写真は広瀬町西谷地区 (現在は安来市)














昭和の古い町並み写真展 その39 「働く 鋳掛屋」 倉敷市玉島

2012年06月25日 | 昭和の古い町並み写真展
昭和の古い町並み写真展 その39 「働く 鋳掛屋」 倉敷市玉島

玉島の柚木家の近くで鋳掛け(いかけ)屋さんがいたので撮影させてもらう。
鋳掛けは鍋などの穴を塞ぐ仕事で所得も低い時代は物は補修してつかった。
今風にいえばコ―キングである。
アルミも鉄鍋、フライパンの品質が悪くよく穴が開いた。
穴を叩いて金属を延ばして塞ぐか半田を流しこんで塞いだ。
鋳掛屋は包丁研ぎや傘の修繕、取っ手の取れた容器の補修もした。

玉島は戦災を受けず今も昔ながらの家並みが残る。
大学に依頼して古い町並みを調査した本が図書館にある。
町に立ち並ぶ民家を一軒一軒調査して図面と説明をいる。
下津井、高梁、玉島の町について調査報告書があった。
貴重な財産に気付き町おこしをするのは地元の熱意でしようか
国の指定地域と違い盛り上がり知名度に難がある。

私も何で玉島に行ってみようと思ったのよくわからない。岡山文庫の岡山の街道を見たからか
走っていていて古い町並みや建物が見に入ったためか定かでない。

岡山には岡山文庫という本がある。
他府県から岡山に移り住んだものにはこの本は大変ありがたい。
私は岡山に住んでから岡山の民家、岡山の街道、岡山の民具の三冊を買った。
岡山の街道の本を参考に自分の眼で走ってみなかったのかと思う。
昭和40年代だったので今にないいろんな発見や出会いがあったと思う。


蒸気機関車  姫路機関区転車台

2012年06月24日 | 蒸気機関車
撮影場所 兵庫県姫路市 姫路機関区の転車台
姫路機関区は山陽本線、播但線、姫新線の蒸気機関車の基地であったため大きな扇形機関庫を持っていた。

蒸気機関車は前方走行が基本のため転車台(ターンテーブル)で方向転換する。
電車や気動車、電気、ディゼル機関車は運転席は前後についているので方向転換の必要はない。

姫路機関区には播但線のC57.C11、姫新線のC58は入庫していた。
機関区に一日いればいろんな機関車が入れ換わり入ってくるので楽しいが限られて時間ではそれも難しい。
早朝に姫路まで普通電車できて蒸気機関車の走行写真を撮って帰りに機関区に立ち寄る事が多かった。
機関区に行ってもターンテーブルで蒸気機関車が方向転換してくれると限らない。
C62などの大型機関車はターンテーブル一杯の長さがあり転換中に引っかからないか気が気でない。
それにしても機関車の回転、移動するところで撮影させてくれたものだ。






茅葺き民家  兜造り

2012年06月23日 | 茅葺き民家
撮影場所 秋田県西部

曲がり屋の兜造り民家があった。
兜造りとは養蚕をするために妻側を切り落とし採光と風通しをよくするために窓を開けた構造のもの、断面が兜に似ているからこの名がついた。
山梨県の養蚕農家などは豪壮て見事なものである。
茅葺き民家は地域性、産業、気候によって形が違うので発見が楽しい。
二度と同じ形がないのが面白い。

この民家の斜面は春になるとカタクリやイチゲの仲間が咲き楽しかったが木を伐採して日陰がなくなったら山野草はものの見事に消えてしまった。


昭和の古い町並み写真展 その38 「働く 桶屋」 倉敷市本町

2012年06月22日 | 昭和の古い町並み写真展
昭和の古い町並み写真展 その38 「働く 桶屋」 倉敷市本町

倉敷市本町に本瓦葺きの作業場で桶わ作っていた。
時代はもう大量消費の時代、桶も庶民は安いプラスチック製を使っていた。
こんな桶屋が残っているのに感動した。
職人さんに了解をもらい撮影させてもらった。
なるべく言葉を掛けずに撮影させてもらった。
自分がいるのにも気づかないように黙々と作業していた。
職人さんは凄い、言葉少なく黙々とやる。

仕事でもおしゃべり好きや休憩の多い人間はミスが多い。
女性の中にもわずか二分間でも黙っていられない人がいる。話が夢中になりポカが多い。
私も話に夢中になると何かミスをしている。
桶屋の職人さんを思い出しこんな事を感じた。

容器は陶器が木しかなかった時代に板を曲げて円筒形にして接合する技術は凄い。
接着面が精度よく平面になっていないと水漏れを起こす。
接合面には接着剤も膠(にかわ)も使わない。面タッチでシールする。
木片が強く接合するためにタガをいれる。
竹や針金、同線が使われる。

タガが外れるのことわざにもなっている。

会社勤めをしている時に組織の実力を桶にたとえられた。
組織は桶と同じで一人レベルの低いのがいるとそれが組織のレベルとなる。
桶の木片が短いのがあればそれで溜まる水はきまる。みんな木片が長くとも一本低いのがあればあればそれ以上溜まらない。安全意識や事故の防ぐ能力のたとえに使われた。
福島原発はどの組織もみんな桶が浅かったように思う。


蒸気機関車  C61型南延岡駅

2012年06月21日 | 蒸気機関車
撮影場所 日豊本線南延岡駅 C61の牽引する貨物列車

日豊線はD51が配属されているのに客車用のC61型やC57型蒸気機関車が貨物を牽引した。
この日もC61が貨物を牽引して南延岡駅を宮崎に向けて発車した。

C61型蒸気機関車は昭和22年から昭和24年に掛けて33両製造された。
戦後、大型旅客機関車として誕生した。
旅客の大量輸送のために余剰の貨物輸送のボイラーを使い製造された。
D51のボイラーを使い生まれたC61蒸気機関車

多くは東北本線や常磐線、奥羽線、鹿児島本線で特急や急行も牽引した。
鹿児島本線で切り取り除煙板のC61を見たことがある。

上越線でC6120が復元され運行されるようになった。
NHKスペシャルで一時間15分にわたり復元の様子が放送されて見ごたえがあった。