懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

日本茅葺紀行 NO,484 兵庫南部の民家

2018年12月03日 | 懐かしの蒸気機関車写真展

撮影場所 兵庫県神戸市 三木市

兵庫県や京都府は端正な茅葺民家が残る。

個人の民家であるが100年位の歴史があり建築法でも新たには建てられない民家である。

確実に姿を消す運命の茅葺民家である。

見方によっては文化財であり昭和の遺産である。

個人でこんな民家を持つことは経済的にも維持することも難しい。

仕方ないのでカメラで撮影して写真でコレクションしている。

鉄道の機関車も自分で持てないので写真でコレクションしている。

男の趣味は何でも集める事である。他人はゴミというが一部の愛好者にとっては宝である。

整理もせずにポックリ死ぬのであろう楽しい人生だったと子供たちには書き残しておこう。


懐かしの蒸気機関車写真展 その64「お召し列車 」

2014年02月26日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 岡山機関区

伯備線をお召し列車が走った。昭和46年だった。
沿道はすごい人出だった。
私も豪渓に行ったら人が多すぎて写真にならなかった。
もっと人の来ないところにすべきだった。
まだ伯備線はディゼル機関車が導入されていなかったので蒸気機関車が牽引された。
機関車のトラブルも想定して予備の機関車が待機していた。
正面には菊の紋章を付けて日本国旗、横には鳳凰のマークが付いていた。
菊の紋章は宮内庁で造ってお召し列車の都度付けられているもの、鳳凰は新見機関区で造られたそうだ。

お召し列車は初めて見た。列車内の天皇陛下と皇后陛下は席を立ったまま多くのカメラマンに手を振り続けるのである。天皇陛下など凡人には務まらないと思った。
国民に希望を与え続ける存在なのだ。特に皇后陛下の発するオーラはすごかった。
イギリス訪問の際にエリザベス女王と並んでも小柄だが風格では負けていなかった。
お召し列車を撮っていた者の中に天皇皇后陛下を見ていたらシャッターを押せなかったと言っていた。

写真展をやった時にお召し列車のデフについている鳳凰を作った人があらわれた。
蒸気機関車の写真展はマニアックな人が多く大変楽しかった。
その人は自宅まで来て鳳凰製作のいきさつを話してくれた。
お召し列車を牽引したD51838号機は井倉洞の駐車場に保存されている。
錆びくれて放置されていたので鉄道ファンの有志で整備する事になった。
その時に鳳凰と菊の紋章を製作して付けようとなった。
新見機関区で製作した時の図面などないか探したが見つからず梅小路に保管されている物を借りで複写して製作したのだそうだ。
梅小路と交渉し時間と金を掛けて製作した情熱の人がいる事を紹介します。
ブログ「 D51838 」で検索ください。製作の過程や過去の経緯がわかります。
わたしもお召し列車や伯備線の蒸気機関車の写真を提供しました。

今回で懐かしの蒸気機関車写真展は終了します。

引き続いて岡山の茅葺民家写真展が終われば投稿がはじまります。


懐かしの蒸気機関車写真展 その63「操車場 その3 」

2014年02月22日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 岡山操車場

回送の三重連と貨物列車の発車前
蒸気機関車となると発車のシーンや走行している風景ばかり撮ってしまう。
停車している時に十分時間があるので機関車一台一台を撮影したりプレートナンバーをすべて撮影するとか貨車を一台一台撮る事はできなかったのだろうか。
プレートも運転席の横のは機関車の履歴がわかる。いつどこのメーカーで造られ重量も表示されている。
D51形蒸気機関車など何台か撮影すれば必要ないと思っていた。
しかし、今思えば出合った機関車すべて撮っておけば思いでが一杯残ったであろう。
これが出来なかったのはフィルムが惜しいからであろう。駅舎の写真も貨物列車しかりである。
デジカメの人はなんでも撮影している。ブルトレが廃止される時など車内詳細から車体番号までなんでも記録していた。




懐かしの蒸気機関車写真展 その62「操車場 その2 」

2014年02月18日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 北海道函館本線 函館の操車場

函館の操車場も広い、発車前や入れ替え中の蒸気機関車を追って歩きまわる。ヤードが広く列車が行き帰ので横断するのは難しい。
今のようにズームレンズがあれば楽だが標準レンズではそばに行かないといけないので厳しいものだった。
しかし、国鉄の職員の方もSLファンの行動を大目に見てくれた。
職員の前で撮影しても許してくれたのが有難い。
鉄道は人身事故も多く大変な危険な場所である。
関係のない人間は立ち入り禁止の場所である。
立ち入りを厳しく制限されていなかった時期に撮影できたのは有難い。

D52ラストナンバーの横を特急北斗が函館駅に向かう。
北海道の特急はキハ82系だったそうだ。馬力の強いキハ181系は入っていなかったと写真展の時に説明してくれた人がいた。鉄道マニアは詳しい。

蒸気機関車の写真展の投稿もあと残り二つ

次回の写真展が三月から始まるので今月中に終わらせたい。

懐かしの蒸気機関車写真展 その61「操車場 その1 」英雄気取り

2014年02月14日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 福岡県田川市後藤寺構内

国鉄は貨物の仕分けや客車、貨物列車の置き場に広い操車場のヤードを持っていた。
特に都会の近郊では駅にも近く一等地として売り出された。
国鉄の負債の処理にこの遊休地の売却益があてられた。
国鉄の民営化にあたり貨物輸送はトラック輸送に敗れ大きく縮小された。

蒸気機関車の終焉の頃にはまだ貨物輸送は盛んであった。
しかし、こんな昔ながらの貨物列車や客車、機関車が無くなるとは想像もできなかった。
そんな先読みが出来ればいくらでもいた貨車や客車、機関車の写真を撮っていた。
周辺の建物も木造が多く昭和の風景である。

蒸気機関車の前面に何も持たず立っている人々、機関車を足代わりつかっている。
まるで英雄気取りだが就業規則違反である。
国鉄の労働意欲のたるみをあらわしている。
こんな写真をよく撮っていたものだ。この時は25歳くらいだったと思う。
10代の学生ではこんな光景にはシャッターを押さなかったであろう。
その当時の国鉄の労使紛争も頭に入れてシャッターを押していると思う。少しは大人になったであろうか。


懐かしの蒸気機関車写真展 その60「三重連 その4 」

2014年02月10日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 岡山県新見市井倉 伯備線井倉の鉄橋


井倉周辺の地図を見ると高梁川は何度も蛇行している。
鉄道は直線的に造りたいので蛇行の都度、橋を架けたりトンネルを掘らなくてはならない。
蛇行の要因はこの地域が石灰岩のため浸食されやすく深い谷を作っている。
岡山県西部広島県の東部は石灰岩地帯である。
石灰岩の浸食された所は垂直に切り立った壁になっている。
その高さは100メートルを超える。
石灰岩は岩石ではなくサンゴなどの化石で炭酸カルシュームが主成分である。
岡山のある地域では日本のコロラドと命名しているが知名度は低い。

蒸気機関車が終焉の頃、いろんなイベントが開催されれた。
三重連の運転に井倉の先の鉄橋を選んだ。
三重連が全部入り障害物がないところで煙を吐きそうなところを選んだ。
知り合いの男の子を二人連れて撮影に行った。小学生で蒸気機関車の初めての撮影だった。
子供にとっては思い出に残る撮影だったとおもう。

写真展をした時に同じ鉄橋で撮影した写真を全紙のパネルに貼った写真を持ってきた人がいた。鉄道写真を撮る人からもらったと言っていた。
同じ日に対岸から撮った物で舟を手前に入れた素晴らしい写真だった。
大勢の人が撮影に行ったので沢山のネガが残っていても不思議ではない。
写真が素晴らしいのは昭和47年2月に撮った写真が現在にパソコンで見られることだ。



懐かしの蒸気機関車写真展 その59「三重連 その3 」

2014年02月06日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 岡山県新見市 伯備線布原

蒸気機関車ブームの頃、最後の三重連が撮影できる場所として人気を博した。
鉄道ファンのほとんどの人が足を運んだ。
撮影場所の山は木々に覆われていたが木を折ったりするので伐採し入場料を取るようになった。今の布原の撮影場所は木々に覆われて昔ここでドラマがあった事は想像もできない。

SLブームが社会現象としてマスコミにとりあげられていた。
地元のマスコミのテレビ局のスタッフがそのあたりのゴミをかき集めさもマナーの悪いさの撮影していた。こう言うのをやらせと言うのである。
それを見ていた鉄道ファンがマスコミはそこまでやるかいう声が聞こえた。
布原の登り勾配はたいした事はない。駅のスパンが長いため信号所を設けた。
三重連の石灰列車は下りの気動車を待つため停車する。
駅で停車しなければ重連なら惰性で登りきれる。
むしろ厳しいのは新見と布原の下りは厳しい登りである。

三重連の発車は9時すぎであった。
秋から冬は川沿いのため霧がよく出る。山間でまだ太陽もでずカラーフィルムの感度では撮影が難しい。
天候に恵まれるかは時の運である。
停車の蒸気機関車から三本の汽笛が鳴ったらいよいよ一分間時のドラマが始まる。

夏場の布原はマムシが出没するため駅長が口うるさく注意していた。私も畦道でまるまったマムシを二度見掛けた。三脚を伸ばし押さえつけて逃げようとしない。叩き殺すのもむごいし三脚が壊れるので押さえていたらマムシのほうからノソノソ逃げ出した。

懐かしの蒸気機関車写真展 その58「三重連 」

2014年02月02日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
長らく入院で休んでいて申し訳ありませんでした。
大晦日に心筋梗塞を患ったのに二日我慢したため心不全になり息苦しくなりコーヒーのような尿が出たため命が危ないと思い救急に入院しました。
胸が苦しくなってすぐに入院すれば一週間で退院できたのに一カ月かかってしまいました。
ほとんど運動もせず体重も重く健康な人の何倍もリスクが高いのに不摂生を恥じています。
休んでいる間、励ましの言葉を頂き感謝しています。まだ本調子ではありませんがブログを再開いたします。今後ともよろしくお願いします。


撮影場所 播但線生野越え

蒸気機関車が各路線で終焉を迎えるのに合わせて色々なイベントが開催された。
播但線の三重連運転もこの一環でした。
和田山から生野の山を越えて姫路まで三重連が運行された。
生野の峠越えには大勢の鉄道ファンが群がった。
山といい田圃の周りに人が群がっていた。
遠く大阪や神戸から車で撮影に来ている人もいる。
道路にずらりと駐車されている。
道路の整備はされていなかったのに生野まで車で来ている。

私の住むところからだと新幹線もなく夜行の寝台特急に乗らないとイベントに間に合わない。
夜中に特急料金を支払いブルトレの空いている席に乗せてもらった。
生野越えは撮影ポイントとしては素晴らしかったが北風が強いと煙が巻いて写真にならなかった。
あの当時の手動フィルムカメラを使った人は一瞬一瞬に魂を込めて撮影したとおもう。

懐かしの蒸気機関車写真展 その57 「三重連」

2013年12月28日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 岡山市 国鉄岡山操車場

蒸気機関車が伯備線に走っていた頃、岡山操車場から倉敷駅まで回送列車が三重連で毎日
運行されていた。山陽線を回送されて走るのだがダイヤが過密なため三台を連結して倉敷まではしらせた。岡山操車場は広いヤードを持っていた。これがいまだに有効な利用方法がない。
都会の操車場は商業施設に生まれ変わっている。

回送の貨物列車が発車するところには架線がなく撮影には好都合だった。
操車場を跨ぐ跨線橋もあり撮影にき好都合だった。荷も軽いのに蒸気機関車はいい煙を吐いてくれた。
岡山駅から操車場までは歩くと30分以上かかる。途中岡山機関区に立ち寄り写真を撮ってきた。
ここへは何度も足を運んだ蒸気機関車が無くなるとこんな光景も見られないと思うと力が入った。時間が十分あったのだから今は無くなった貨物や客車、電気機関車も詳しく撮っておくべきだった。蒸気機関車だってD51であろうとすべての機関車を撮っておくと晩年になりそれを一台づつ眺めると楽しかっただろう。人間は無くなって初めて気づく事が多い。








懐かしの蒸気機関車写真展 その56 「宗谷本線 3」

2013年12月24日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 北海道宗谷本線

厳冬期の宗谷本線、温かい蒸気機関車の周辺にも雪が付着している。
そんな中でも機関士は窓を開けて走行する。
発車時や信号の確認は窓から顔を出し確認が原則である。
機関車の乗降口も後ろも開放のままである。テンダーの石炭をスコップですくって投炭するので後ろに扉はない。
停車中も機関助手はテンダーに登り石炭を寄せていた。
厳しく過酷な労働環境だ。
冬の北海道は停車中といってもすぐに写真は撮れない。
列車から外に出るとレンズの中が結露して消えるまで撮れない。
列車内は床面や靴が濡れたままで水蒸気は飽和状態、外にでて寒さで一気に冷やされレンズ内で結露する。結露が完全に取れるには10分近くかかる。
1分くらいの停車時間では撮影できない。
移動中にもっと撮影と思うがなかなかできないものだ。
冬の北海道では観察すれば厳しい写真がもっと撮れたように思う。