浄土宗の大本山、天照山蓮華院光明寺へ行ってきました。
このお寺さんは大変興味がありました。
なぜなら昨年11月に開催した「十日夜の宴」の取っ掛かりを作っていただいたお寺だからです。
念願叶ってやっとお参りに行ってきました。
とっても心が洗われたというか心静かになりました。
見事なお庭にしばし釘つけでした。
少し説明したいと思います。
この寺は、といい、浄土宗の大本山です。創立は鎌倉時代の寛元元年で西暦1243年といわれています。寺を開かれたのは浄土宗三祖然阿良忠上人です。
宗祖は法然上人で、二祖は久留米の善導寺を開かれたお弟子の聖光上人という方です。良忠上人は石見国(島根県)に生まれ、深い学問を達成された後、三十八歳で聖光上人のお弟子となり、法然上人の教えを受け継がれて浄土宗の三祖になられました。また良忠上人は、浄土宗に関する多くの書物をのこされ、弘安十年(1287)七月六日、八十九歳の高齢をもって入寂されました。その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜りました。
良忠上人は鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開かれたといわれています。その後も第五代の執権、北条時頼公をはじめ歴代執権の帰依をうけ、七堂伽藍を整え、関東における念仏道場の中心となり、後土御門天皇より『関東総本山』の称号を受け、国と国民の平安を祈る『勅願所』となりました。
江戸時代になると、徳川家康公は当山を関東十八檀林の筆頭におき、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場となりました。檀林とは徳川幕府が定めた学問所です。
当寺は浄土宗の「お十夜」発祥の寺です。お十夜法要は第九世観譽祐崇上人の時(明応四年・1495年)に始まりました。御土御門天皇の勅許をうけ、引声阿弥陀経と引声念仏による十夜法要を勤めるようになり、今も古式によって毎年十月十二日より十五日までの四日間盛大に法要を勤めています。
光明寺の前の海、材木座和賀江島築堤の痕跡は海から鎌倉に入る湊の跡です。急速に都市化した幕府開創当時にはおびただしい量の物資が海からここに陸揚げされたのです。材木座は建築木材の集積から出た名です。
湊に船が着くと、眼の前に宏壮な山門がそびえ立つ、その光景を想像してみてください。
山門に「天照山」という大額が掲げられています。この額は旧門に永享八年(1436)後花園天皇より下賜されたご宸筆であります。今の山門は弘化四年の再築のものです。
ご存知のかたももう一度と思えるお寺さんでした。
このお寺さんは大変興味がありました。
なぜなら昨年11月に開催した「十日夜の宴」の取っ掛かりを作っていただいたお寺だからです。
念願叶ってやっとお参りに行ってきました。
とっても心が洗われたというか心静かになりました。
見事なお庭にしばし釘つけでした。
少し説明したいと思います。
この寺は、といい、浄土宗の大本山です。創立は鎌倉時代の寛元元年で西暦1243年といわれています。寺を開かれたのは浄土宗三祖然阿良忠上人です。
宗祖は法然上人で、二祖は久留米の善導寺を開かれたお弟子の聖光上人という方です。良忠上人は石見国(島根県)に生まれ、深い学問を達成された後、三十八歳で聖光上人のお弟子となり、法然上人の教えを受け継がれて浄土宗の三祖になられました。また良忠上人は、浄土宗に関する多くの書物をのこされ、弘安十年(1287)七月六日、八十九歳の高齢をもって入寂されました。その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜りました。
良忠上人は鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開かれたといわれています。その後も第五代の執権、北条時頼公をはじめ歴代執権の帰依をうけ、七堂伽藍を整え、関東における念仏道場の中心となり、後土御門天皇より『関東総本山』の称号を受け、国と国民の平安を祈る『勅願所』となりました。
江戸時代になると、徳川家康公は当山を関東十八檀林の筆頭におき、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場となりました。檀林とは徳川幕府が定めた学問所です。
当寺は浄土宗の「お十夜」発祥の寺です。お十夜法要は第九世観譽祐崇上人の時(明応四年・1495年)に始まりました。御土御門天皇の勅許をうけ、引声阿弥陀経と引声念仏による十夜法要を勤めるようになり、今も古式によって毎年十月十二日より十五日までの四日間盛大に法要を勤めています。
光明寺の前の海、材木座和賀江島築堤の痕跡は海から鎌倉に入る湊の跡です。急速に都市化した幕府開創当時にはおびただしい量の物資が海からここに陸揚げされたのです。材木座は建築木材の集積から出た名です。
湊に船が着くと、眼の前に宏壮な山門がそびえ立つ、その光景を想像してみてください。
山門に「天照山」という大額が掲げられています。この額は旧門に永享八年(1436)後花園天皇より下賜されたご宸筆であります。今の山門は弘化四年の再築のものです。
ご存知のかたももう一度と思えるお寺さんでした。