「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
その男の名は井伊直政(いい・なおまさ、幼名は虎松・仕官後の家康に万千代となづけられた)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
上州(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ!は……早う矢を放て!」
ぎゃーあああっ!たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
徳川勢の拠点・厩橋城で報告を受けた徳川家康(とくがわ・いえやす、北条征伐を企てる豊臣秀吉の関東派遣軍の軍団長)は「恐るべき巨馬で土地の者の話ではなんと悪魔の馬と申すそうだ。その馬を殺せ、忠勝!」と城内で言う。
「ごほんん」「さもないとこの土地では馬は手に入らん」「これはお断りいたそう」本多忠勝は髭を指でこすりながら断った。
「悪魔の馬などを殺す役目…誰が引き受けましょうか。いくさ人は古来、験(げん)をかつぐもので、その馬を討てば神罰が下りましょう。命がいくつあっても足りません」
「軍馬が足りぬでは戦にならぬぞ」
このとき突如として家康の『鷹狩り』の原野に、烏帽子直垂姿で尼姿の井伊直虎(義母・次郎法師)といて、平伏して見事な口上を述べ、徳川家康に仕官したのが井伊直政である。当然、徳川家には譜代の重臣たちがいたが、直政は仕官すると誰よりも大出世した。頭がいいのと武勇でしられ、どんぐり眼の色男である。のちに傾奇者で派手な服装にザンバラ髪で身の丈六尺五寸(一九七センチ)をこえる大柄の武士で家康の軍団にあってその傾奇者ぶりと棲まじいいくさ人ぶりで知られていた。
眉目淡麗な色男であり、怪力で、器の広いまさに男の中の男である。
「そうだ、万千代にやらせましょう」
直政ははははと笑い、「できませぬな。犬や猫なら殺せますがそんないい馬なら誰が殺せますか?殺すより飼いならして愛馬としたい」
「何だとこの赤鬼!今まで何人もの兵がその悪魔の馬に殺されとるのじゃぞ?!」
直政は、自分の軍団の甲冑の色を最近滅んだ甲斐・信濃の武田軍団にあやかって朱色・赤色に揃えていた。よって、家康は井伊直政を「赤鬼」と尊敬をこめて呼んだという。
「悪魔?」直政は嘲笑した。「悪魔と言えば織田信長じゃ。第六天魔王じゃとか?」
「これ!万千代、信長さまを呼び捨てにするな、そちの首がとぶぞ!」
直政は聞く耳もたない。
しかも暴れ馬を格闘することもなく本当に愛馬にして、「松風」と名前をつけて合戦に参加するのだからやはり井伊直政は凄い男だ。
秀吉軍は北条軍と合戦しようという腹だ。
巨大な馬に乗り、巨大な傘をさす男が北条方の城門に寄る直政である。
北条方が鉄砲を撃ちかけると傘で防いだ。「な!あれは鉄傘か?!あの男、あんな軽々と…」
北条勢は戦慄した。悪魔だ。敵に悪魔が、赤鬼が味方しておる。
北条勢ががくがく震え、もはや戦意消失しかけているところに、北条氏邦の侍大将・古屋七郎兵衛という荒武者が馬で開いた城門から現れた。
「わしは古屋七郎兵衛と申す!貴殿、名は?!」
「井伊直政!つまらん戦で命を捨てるな!」
たちまちに直政は古屋の片腕を斬りさった。
だが、あっぱれなる古屋である。「北条魂、みせん!」古屋は自分の刀で自分の首を斬りすてた。
おおお~つ!これで北条の戦意は復活した。
直政は「北条武士も見事也!いずれ戦場であいまみれようぞ!」といい去った。
まさに「傾奇者」である。
戦国時代末期、天正十年(一五八一年)天下の覇者・織田信長「本能寺の変」にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が「賤ヶ獄の戦い」において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。
されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。そして、三河の徳川家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・徳川家康四天王のひとり、井伊直政がいた。
戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。
天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。三河の雄・徳川家康は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。
秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて徳川家康に茶を差し出した。
「で…家康殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」
「はっ!」家康は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」
徳川家康、かつて小牧・長久手の戦で秀吉軍をやぶった知恵の武将であったが、今は、秀吉の軍門にくだり、三河の大大名、竹千代は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」
秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。
「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」
秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの家臣の井伊直政とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」
「は…はあされど…」
家康は絶句した。
あの傾奇者・直政が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せればさすがの自分の家禄も危うい。もうすぐ北条攻めが始まり、天下はおさまる。秀吉が家康をおそれ、豊臣の未来の為に家康を殺しておきたいという感情くらい、家康には手に取るようにわかっていた。
そして古狸とよばれた家康は権謀術数の四天王の中でのちに「人格者の井伊直政」と後に呼ばれる前の直政の傾奇者の風体をひそかに案じていた。
秀吉はもはや天下人。邪魔ものの家康の瑕疵をみつけて、葬る算段をしているのを家康は知っていた。だが、家康は直政を評価して「天下の傾奇者」と評して、今後、直政が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。
井伊直政もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。
時代は、室町幕府の力がおとろえて全国の戦国大名が群雄闊歩の争いを続けていた戦国時代、である。天文四年(1534年)、井伊直虎(幼名は不明・ちなみに本書では麗姫と名付ける)は「井伊谷」一帯を治める領主の家に生まれた(実際には生年月日は不明。『剣と紅』高殿円著作・文藝春秋出版、からの情報である。ちなみに高殿氏の小説の直虎の幼名は香・かぐ、であるようだ)。一人娘なので可愛らしい名で、大切に育てられたのだろう。
麗姫は、菩薩のような美貌であったが、一方で「物事の先を見通す」ような、妖力のようなものも持っていた。麗姫は数刻後の「驟雨」「暴風雨」「台風」を予見できた。
それによって、領民は麗姫に手を合わせて、神仏のように「ありがたや、麗姫さま。次郎法師さま」とご利益を祈るのであった。「わらわは神仏ではないというに」直虎は苦笑するしかない。麗は風のように馬を走らせ、駆ける。さながら戦国のジャンヌダルクの如し、であった。
この頃、地方に根ざして領土をもつ武士武家を国人領主(こくじんりょうしゅ)と呼んだ。井伊家は十五ほどの集落を治める国人領主だった。質素だが、平城もかまえていた。標高115mの小高い山に井伊谷城(今はなく城跡があるだけ)があった。
天正三年、土を肥やす蓮華草が田の中に彩りを添える二月の二十五日、家康は久方ぶりに鷹狩りをしようと浜松に向かっていた。
その途中、彼は奇妙な邂逅(かいこう・不思議な出会い)を得た。家康は道のすみで伏して自分を待ちかまえている者たちを認めた。よく見ると、尼一人に十四、五歳の元服前の子供である。
近習の縁の者ということで話を聞くと、これが驚いたことに家康の過去に深い因縁を持つ者たちであった。
「いまでもよう覚えとる。そなたは朱鷺(とき)色の直垂(ひたたれ)姿で尼御前に付き添われて、道の脇にじっと伏しておった。鳥のように黒い、おおきな目をしての」
『東照宮御実紀』にはこうある。「三年(一五七五)二月頃御鷹がりの道にて姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧せらる」――猛将として知られる直政だが、意外なことにその容貌についての記述も多い。『太閤記』には、秀吉の母大政所や正室おねを岡崎で接待した際、直政のあまりの男ぶりに侍女たちまで熱狂した、とある。それほどまでの美男であった。
「まだ子供の顔だったが、付き添いの尼御前より背は高かった。見たところ義母どのは童女のように若かったが、ではもう…」
直政の義母について、家康は歳までは知らなかったが、記憶にある限りは、そばにいた尼はまるで彼の姉のように若かったように思う。
「某の父のめいで父とは兄妹同然であられた方です。八つまで、あのお方のもとで育ちました。確かに童女のように小さいお方でしたが、恐ろしいほどに先の見えるお方でした」
意味深なものいいを、直政はした。
「ほう、先を……?」
直政の義母の名は井伊次郎法師直虎という。もちろんこれは男名なので、彼女が井伊谷の領主を継いだときにつけたのだろう。
「井伊直盛(なおもり)どのの娘ごだな」
「御意にござりまする」
「そなたの父とは、許婚同士であったとか」
「祖父直盛には義母一人しか子がなかったため、叔父の子直親(なおちか)と婚約させて、家督を継がせようとしました。直親は某の父にございます」
「うむ」
家康は知っていた。直政の父親と義母次郎法師が、生まれながらの婚約者であったにもかかわらず、夫婦になっていないことも。直政が義母以外の女の腹から生まれたことも。
「して、先が見えるとは、いかなる意味か? 女の身で領主を継いだのだろう。物事の先を読むのに長けているという意味か」
「……というより、本当に二日三日先が見えておられたようです」
思いもかけぬ返答に、家康は喉がつまった。慌てて目の前の膳からみそ汁をとりあげ、汁をすする。家康はいつも一日一汁二菜の粗食だった。
「それは面妖な」
「義母は幼い頃、かの名僧黙宗瑞淵(もくそうずいえん)に、この娘はこの世を動かすだろうと予言されたと聞いておりまする。某が生まれるずっと前、まだ井伊家が祖父直盛のもとで安泰であったころは、井伊の総領姫は“”じゃと言われておったとか」
「…」
とはいわゆる“座敷童(ざしきわらし)”のことである。三河出身の家康にも聞き覚えがある言葉であった。
「義母どのは川の堤がいつ壊れるから直させよとか、三河から疫病が流れてくるので用心してあまり街道に近づくなとか、不思議なことをよく口にしていたそうです」
「なんと。義母どのはまるで戦の軍師のようではないか」
家康はあの小さな尼に、童女のような直虎に、そのような力があるとは考えられなかった。
彼女は直親の死後、幼なかった直政の代わりに急遽家督を継いだ。直虎は神仏のような能力があった?天下を動かすほどの能力を?もっていた?
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版社参考文献文章引用 序章九~十二ページ)
話を変える。
秀吉方の前田利家に敵対する武将・佐々成政の軍は、前田利家の甥の前田慶次たちのわずかな手勢である末森城に籠城している軍勢を攻めていた。
慶次は『大ふへん者』なるマントを着飾り、石垣を登り攻めようとする佐々軍勢にしょうべんを食らわせた。
普通の武将でも戦場になればいちもつは縮こまり、しょうべんどころか大便さえでないほどになるのが普通である。
だが、慶次のいちもつはおおきく、しょうべんもじゃあじゃあ出る。
さすがは「傾奇者」である。
籠城戦の末に前田利家たちの援軍がきて、佐々成政は白旗をあげて秀吉の軍門に下った。
面白いのは慶次の行動である。
恩賞を媚びるでもなく、加賀の城(尾山城・金沢城)で例の巨馬にのり、天守閣の利家に向けてケツをむき出し、オナラをして「屁でも食らいやがれ!」という。
かつて秀吉が賤ヶ獄で籠城する柴田勝家に尻をむけたが、慶次もそれをやった。
「慶次! おのれ信長さまの甲冑を持ち出したことを詫びぬどころか…尻を向けやがったな!」
利家は激怒するが、慶次は平気の平左である。
そのまま加賀金沢城下も出て脱藩、京に行き京で「天下の傾奇者・前田慶次」と畏怖されるまでになるのである。
漫画・劇画『花の慶次』では、慶次が、忍者の里に行って決闘したり、忍者軍団を一刀両断にする展開になるがフィクションである。
大体にして本当の忍者(いわゆる間者)は上杉(上杉家の間者は「軒猿(のきざる)」という)であれ武田であれ織田、羽柴であれ諜報工作員である。英語で言うならスパイだ。
映画や劇画で登場するような、空を飛んだり、木々の枝上から枝上をムササビが走るように飛んだりできる訳がない。
いかに忍者といえど人間であり、そんなことが出来るなら何でもありになってしまう。本来は要人警護と諜報活動と暗殺等が仕事である。
所詮は「漫画的表現」でしかない。でも、映像化では、CGとか特撮やワイヤーアクションやアニメーションでいいのではないか?
前田慶次と直江兼続・上杉景勝・伊逹政宗との出会いは史実通りである。
が、摩利支天のおばばさまが二十歳程の美貌のまま年をとらず戦神として雨を降らす等はよくわからない。いかにも漫画的でもあるし、そういうカリスマ教祖が戦国の世にもいたとしても不思議ではない。
上杉景勝と直江兼続との「佐渡の役」は歴史上の事実ではあるがここでは触れないでおく。
また、「佐渡の役」に前田慶次が参戦したかはよくわからない。
本当に「佐渡の役」で前田慶次が八面六臂な活躍をしたのか?そういう参考文献と運悪く出会えずよくわからない。
すくなくとも米沢市立図書館の「上杉家の歴史」を調べたが発見できなかった。「佐渡の役」は省く。原稿の枚数に限りがあるのだ。
それに戦闘やアクションシーンをどう活字で表現すればいいのか?私は脚本家ではない。映画監督でも映像作家でもない。作家・プランナー・ストラテジィスト・フリージャーナリストであり、それ以上でもそれ以下でもない。そういうのは映像化で存分にやって欲しい。
人生のほとんどを大国の人質として過ごした真田幸村と、前田慶次の出会いは、歴史上は正しいかはよくわからない。
また、幸村の元・部下の猿飛佐助(真田十勇士のひとりの架空の人物)の妹で想い人・沙霧(さぎり・架空の逸話上の人物)が盲目となり、一度は自殺しようとして兄にとめられて、
「わしがお主の目や手足になる」と兄・猿飛佐助が坊主になり沙霧が「幸村さまには沙霧は死んだとお伝えください。今の盲目の私をみれば…お優しい方ゆえきっと私めを妻にしようとするでしょう。でも、目の見えない私が嫁では足手纏いになるだけです」
と涙した。そこで幸村は正体を明かさずに沙霧と対面し、涙の別離になるのは歴史上の真実ではない。テレビの歴史の番組でも放送されていたが、当然ながら猿飛佐助、霧隠才蔵などの真田十勇士(猿飛佐助・霧隠才蔵・三好伊三入道・穴山小助・望月六郎・筧十蔵・根津甚八・海野六郎・由利鎌之助・三好清海入道)等というのは架空の家臣である。江戸時代、明治・大正・昭和初期に子供向けの小説などであまりの真田幸村人気で「架空の十勇士」が生まれた。
当然、猿飛佐助などという人物は存在しないから、盲目になった猿飛佐助の妹(漫画『花の慶次第七巻』(原作・隆慶一郎氏・作画・原哲夫氏)のエピソードは架空小説・漫画上の架空のお話である。
話が重複しますが、歴史に詳しい方ならご存知かもしれませんが「真田十勇士」なる猿飛佐助、雲隠才蔵などというのはフィクションの架空の忍者軍団である。
慶次は秀吉の北条攻めでも活躍しているが、ここでは省く。
また劇画・漫画『花の慶次』では後半、慶次が琉球(沖縄県)に行って八面六臂な活躍をしたかのようなストーリーとなっている。
前田慶次が琉球に現れたという参考文献や歴史書を少なくとも私(著者)は知らないからこれも省く。
どうも慶次ほどの「天下無双の傾奇者」にもなると話に尾ひれ背びれがつく。
歴史家もいかにも「いい加減」であるものだ。
しかし、それであっても劇画・漫画『花の慶次』の息もつかせぬようなストーリー展開は「さすが!」である。この漫画が1989年に週一のペースで漫画雑誌に連載されていたという事実も驚愕するしかない。こんな凄い上手な話の基盤もしっかりした面画を一週間たらずの〆切で連載するとは、もはや脱帽するしかない。
なお、参考までに、劇画・漫画『花の慶次』を読むもよいし、漫画『花の慶次』を読んでからこの物語(小説)を読むのもいずれも個人の自由である。直政=慶次なのである。
詳しい痛快な戦闘シーンや喧嘩沙汰はやはり、「映像」や「劇画」の力には勝てない。悔しいが、活字離れが進んでいる原因は、「映像」や「劇画いわゆる漫画」では想像力がいらずそのまま直接にダイレクトに伝わる為に「見ているだけでいいから楽」ということだ。
だから、楽しみたい世代には「漫画」や「映像」が愛される。活字では「読めない漢字や言語の解読」や「想像力を働かせて読む」という困難がともなう。これが、意外に脳の運動に良いし、IQ(知能指数)を高める手段とおとなとしての成長になる。しかし、水は高い所から低い所に流れるのは道理で、楽に逃げる若者たちを私緑川鷲羽は責めることは出来ない。若き日の私もそうだったから(笑)。
秀吉と井伊直政「天下無双の傾奇者」
季節は風薫る五月、徳川家の縁側で、直政は「ひどいもんだ………だから、女はいかん」と横になり、右手で頭をぼりぼりかいてごろごろして考え込んでいた。
徳川家ののちの二代将軍秀忠の正室の江に、
「お目見えとなったら関白殿を怒らせるのだけはやめて頂きます。精々笑わせて差し上げればいい。さもないと徳川家は潰れ、私は路頭に迷うことになります」
と、天女のような微笑みでいわれたことを頭の中で回想していた。「勝手なもんだ」直政はごろんと仰向けになった。
「旦那………なにボケッとしてるんですか?逃げましょ!旦那と秀吉のこった、合う筈がない。会いに行くのは死ににいくのと同じだ」
捨丸は小柄な元・伊賀忍者である。荷造りして、逃げよう、という。元・忍びの勘が直政の死を察したのかも知れない。
「たわけ!」直政は怒鳴った。「それでは家康殿がそうしむけたと秀吉が邪推するに決まってるだろ!お江殿が路頭に迷う!」
直政はどうしたものか迷いに迷った。京の徳川本屋敷では家康と服部半蔵が囲碁を打っていた。「家康さま、井伊直政の関白殿下へのお目見えでは直政殿は不利かと」
「そうだのう。傾奇者は自己流の傾奇者としての流儀しか持たない。変に秀吉殿の気に入る挨拶をしただけでは命も危ない」
「万事休す、ですな」
「赤鬼、万千代………惜しい。あれほどの天下無双の傾奇者。傾奇者の意地を通せば…死ぬか………惜しいのう。惜しい命じゃ。」
「直政殿が秀吉にうまく取り入る様なマネをしたら、傾奇者の恥さらしだと京中の嘲笑の的…もはや京にはおられますまい」
家康は、囲碁の碁石を右手でいっぱい掴んで囲碁版のうえにざああっと落として「打つ手なしか」という。
「御意!」
「殿!ああっ盆栽の枝が…」「ああっ!しもうた!うう」「殿、御気を確かに!」
「やかましい!……クソッタレ!」
直政はしばらく悩んでいたが、釣りで釣って魚を入れて置いた桶に、死んだ魚が浮いているのに発想を得た。そうか!
さらに奇行は続く。明日には関白殿下にお目見えするのに夕方の暮れなずむ陽の外で遊女らと歌い踊りどんちゃん騒ぎをしてしまう。
「旦那!いいんですかい?!明日はお目見えでしょう?こんなところでこんなことしてる場合ですか?」
「捨丸、実はな。いい方法を考えたんだ。これなら、徳川家も安泰だし、お江殿も路頭に迷うこともなく…いやそれどころか徳川が天下をとれるかも知れねえぜ」
「どんな方法です?」
「死んだ魚は水をはねない」
「は?!」
「誰もぬれずにすむ」
「だ…旦那そいつはまさか」
「殺るんだよ、秀吉を」直政の目は真剣である。
のちの人格者の井伊直政はやはり傾奇者らしい服装を注文し、普通の三倍は厚いのではないかとも思われる短刀を、手にした。
………まさか?本当に秀吉を?馬鹿な?冗談だろう?捨丸はびくびくものである。
一方で、京都奉行職の前田玄以は嬉しくて仕方ない。あの自分に恥をかかせた徳川四天王のひとり直政が、関白殿下の前で馬鹿な事をやって処刑されるのは九分九厘確実である。
井伊直政はこれでおわり、だ。何が傾奇者だ…何が天下無双の傾奇者だ! この玄以さまに恥をかかせおって!
そして、いよいよ、聚楽第で、秀吉と天下無双の傾奇者・井伊直政とのお目見えの日となった。
巨大な馬に乗り、直政は門前で降り立った。「髑髏(しゃれこうべ・どくろ)の紋所に…虎皮の裃とは………!!」「そのような姿で御前に出るなど不謹慎な!」家臣たちは反発した。
「そうですか?」
しかし、前田玄以は心の中で………”ふふ、いいぞ。それがお前の死に装束だ”…とほくそ笑んでから言葉では次のように言った。
「いやいや、殿下には当節はやりの傾奇者が見たいとの所望でござる。本日ばかりは多少無礼な服装でも差し支えござるまい」
「それはありがたきお言葉、さればとくとご覧(ろう)ぜよ!」
直政は背中を向けた。そして両足の股を開くと、陣羽織の隙間から、ぽん!、といえばいいのか尻に”猿の赤いケツ”があしらわれている。
「そ…それはサルのケツ……!!」玄以は戦慄した。冷や汗と体の震えが止まらない。
「はい!いや~~玄以殿にそのようにほめていただけるとは」
玄以は愕然とした。恐怖で失禁しそうだった。「い…いかん、いかん!それはいかん!」
………こやつ…わしを道連れにする魂胆か!!
「いやあ~~玄以殿にお許しを頂き安心しもうしたぞ!!」直政は顔を振り向いてウインクをした。どこまで豪胆な男なんだ?!
やがて聚楽第の謁見の間である。
間には全国の有力大名20名はどが勢ぞろいしていた。
そこには落ち着かぬで冷や汗をかいている徳川家康の姿もあるのである。秀吉はにやりとした。……ふん、わしのことを”サルサル”いっていた”三河の古狸”もこれでおわりか?くくく、こりゃあいい。立場はもう逆転してるんだぎゃあ!
やがて直政がやってきた。「井伊直政にござりまする!」大男なので鴨居(かもい)で頭が隠れている。
………ほおっ。大男とは聞いていたが、おおきすぎて頭が鴨居に隠れている。ぬう、直政が頭をさげて鴨居をくぐる。ぽん!
直政は髪の毛を右片方に思い切り片寄せ、髷(まげ)を結っていた。そのためまるで顔がひきつった様な錯覚をおこさせた。
当然、見物人の大名たちは両横に列して座っている。……何だ?天下無双の傾奇者ときいていたが? こけおどしか? 恰好だけは派手だが、たいしたことないな。
う…何い?!
直政が平伏するとともに首をまげ顔を右に向けて、平伏した。「!?」「ああっ!」「なっ!」
この時、全員が初めてこの髷の意味がわかった。見事な傾きぶりだった。たしかに、髷は秀吉に正対している。頭を見る限り直政は平伏して見えるのである。だが、顔は横を向いている。
つまり、直政は秀吉に頭をさげることを平然と拒絶したのだ。漫画的表現や小説的架空話でもない。傾奇者にとって天下人など何者でもない。この髷はその思いを露骨に示していた。
髷だけは平伏するが、本当の俺はそっぽを向いているんだよ。そういっているのである。見事な根性であった。大名たちは寂(せき)として声も出ない。正直の所、度肝を抜かれていた。
だが、秀吉もまた一箇(こ)の傾奇者である。そんな直政の気持ちなど一目でわかっていた。ならばこそここで怒るような秀吉ではなかった。
「うわはははは」秀吉は大笑いした。大名たちは冷や汗ものだが、つられて笑った。顔がひきつった。
「面白いな。こんな趣向は初めて見た。なんとも変わった髷ではないか…ははは」
直政は頭を挙げてにこりとした。と、同時に聚楽第の謁見の間が広すぎて秀吉を刺し殺すのは無理だと悟った。
ならば、と、直政は猿踊りをはじめた。ひとりで猿回しの踊りを踊ったのである。それは滑稽だが笑いをさそう芸でもあった。
秀吉が猿面冠者(さるめんかんじゃ)と呼ばれるほど猿に似ていたのは周知の事実である。あの尻を関白殿下に見せたら大変なことになる。大名たちは戦慄し、全員の顔が顔面蒼白である。
そして直政は赤い”サルのケツ”を秀吉に見せた。
秀吉は笑い続けたが、……なんでこいつはわざわざわしを怒らせようとしているのか?死にたいのか?と疑問に思っていた。
「はははは」「うきぃ!うきぃ!」……しかしこの猿芸は行き過ぎじゃ!笑い転げて見せるのも限度がある。いつまでも馬鹿にされ続けては関白の沽券(こけん)に関わる。
秀吉が隣の小姓の刀にすすっと手をそっとのばすと家康が驚愕と戦慄の顔をした。
「ふかははは」……家康のやつなにに驚いておったのか……?まさかあの舞いにはなにか理由が……!!
「はははは」……試すか……秀吉は鮮やかな絵柄の扇子をひろげ、何尺もの遠きにいる直政へゆっくり投げてみた。
ばしっ!直政が扇子をばしっとつかんだ。ぐく!……今、見たのは確かに殺気!この男、死ぬ気どころか、わしを殺す気なのだ!!きゃつはわしを誘い出そうとしておったのだ!
……ちい! ばれたか!狒々親爺(ひひおやじ)がいくさ人(にん)の顔になったわ!
「どうも!」直政は今にも飛びかかろうという感じだが、遠い。届かないだろう。
猿踊りで誘い込もう、そして斬り殺そうとしたがダメだ。
「まずは座れ!」直政は諦めて深いため息を吐くとどかりと不敵にその場に座った。
「……で、なぜだ?」
……そうだ。なんでわざわざ猿芸など……するのだ? そんなに死にたいのか信じられん奴だ。
居並ぶ諸大名たちはこの言葉の意味をとり違えていた。これは、なぜ自分を殺そうと決意したのかという意だ。直政と家康だけがその真の意味を悟った。
「……さて~~」
「何びとかのためか!?」
「まさか!ははは」直政は笑った。そして本当に考えた。お江さまのため……ではないなあ。本当は、何故、なんだろう……
とうとう秀吉が怒鳴った。「理由(わけ)がない筈はあるまい!よく考えろ!」……理由もなく殺されてたまるか!
大名たちは……よく考えろとは異な仰せ……!と戦慄する。
「あ……」直政は思いついた。「左様……強いて申さば……意地とでも申しましょうか」
「?! 意地だと?! ……傾奇者の意地と申すか」
「人としての意地でござる!」
直政はいった。
そ……そうかわかった!! 関白であろうと牢人であろうと同じ人である。面白半分に人が人を呼びつけて晒し者にしていいわけがない。直政は秀吉を刺すことで、秀吉もまた一人の人であるということを証明し、その思い上がりに鉄槌を下そうとしたのだ。
直政はその後「それと我が義理の母ごぜ井伊直虎・次郎法師のためやもしれません」
「直虎?次郎法師?お主の義母は女子なのに男子の名じゃな。何故だ?」
「わが義母・直虎は女子ながらある国人領主との戦では、白馬にまたがり一騎で敵の領主大将の陣に突撃し、見事な槍さばきで敵国人領主の大将の首をとりました!それゆえわれもその義母にならい、槍さばきに長けて御座る」
「たった一騎で敵の陣までかけて、敵将の首を?まるで川中島合戦の上杉謙信公の如き軍神じゃのう?」「はっ!まさに義母・直虎は女謙信公の如きで御座った」
この男……絶対に飼い慣らぜぬ獣…殺すか!! 秀吉のこの反応は恐怖に対する最も自然な反応である。そして、一座の諸大名もこの息の詰まる状態を抜け出すために秀吉が直政を斬ることを期待していた。
だが、秀吉もまた一箇の傾奇者である。当たり前の反応に身を委せることを嫌う性癖がある。ゆえに、大名たちの思い通りに振る舞うのは癪だった。それに、自分がこの男に恐怖を抱いたことを知られたくなかった。
「…………その意地……あくまで立て通すつもりか……?!」
「やむを得ませんな」
「……立て通せると思うか!!」
「手前にはわかりませぬ」直政は悪戯小僧のようなほわっとした笑みで答えた。
「!」……こやつなんとも素直な男じゃ。なんとも素直な含羞(はにかみ)の微笑み……秀吉は、昔、浅井朝倉軍に追い詰められた信長軍の殿(しんがり)をつとめて信長公を助けた時の、加勢してくれた若き家康のような人物を見て、惚れた。惚れこんだ。
「見事にかぶいたものよ。大義であった!」
「はっ!」直政は「大義であったとは家名を背負わぬ一傾奇者に仰せられておるのか?」
「ん?」
自分の振るまいは家康とは関係ないと大名たちの前で明言することによって、徳川家に非を及ばせぬように秀吉に釘を刺しているのだ。それは、まさしく直政がお江さまに対する思い以外の何ものでもなかった。
「ふ……無論だ。わしは傾奇者を見たいと所望した。それが叶い、もう用は済んだ」
直政は微笑してまた顔を横にして平伏する。「手前にはとうてい真似ができません。天下人たるもの思い通りに振る舞えぬことさぞや難儀でござりましょう」
見破られたか。ふっ。秀吉は何故か爽快な気分になった。
直政が去る。
と、秀吉は「誰か舞わぬか?」と所望した。
諸大名たちは躊躇した。直政のあとに下手な踊りを舞えば首が飛ぶ。
「ならばあの直政の主の家康が百姓踊りを」家康は頭巾を頭に巻いて、百姓踊りをしたという。極端な短足にでっぷりと家康は肥えている。
百姓踊りは笑いをさそう滑稽さであった。秀吉は腹を抱えて笑った。そして「直政を呼び戻せ!褒美をやるのを忘れた」という。
直政は「半刻後に出頭する」と伝えてくれ、といい、きっちり半刻後井伊直政は現れた。
今度はちゃんとした鮮やかな色どりの裃姿である。おお!なんと見事な!「可観小説」にあるこのくだりの描写を引用して見よう。
「今度(このたび)は成程くすみたる程に古代に作りし、髪をも常に決直し、上下衣服等迄平生に改め、御前進退度に当り、見事なる体也。」
秀吉は「何故その恰好を?」と訊いた。
「傾奇者はもう用がないと申されたので、こたびはひとりの武士(もののふ)として井伊兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)直政まかりこしました」
そしてちゃんと平伏した。礼儀をちゃんと守った、げにもゆかしい武者ぶりであった。古典はおろか古今の典礼にも通じ、諸芸能まで極めたと噂される当代稀有の教養人の姿がそこにはあった。
大柄な躰がいっそう涼しげで匂うような男ぶりである。とても半刻前の『傾奇者』とは思われなかった。これこそが井伊直政の本当の姿である。
「気に入った!今後どこでもその意地を立て通せ、余が許す!」秀吉の傾奇御免の御意は直政に今後どこででも誰が相手でも勝手気ままに振るまっていい、ということである。
そしてこの『傾奇御免の令』のおかげか直政はあらゆる武者たちに命を狙われることにもつながる。
眩しすぎる陽の光は無能ものにとって無性にムカムカするものだ。凡人は天才の心の苦労がわからず、天才の血反吐の努力も判断もできず、ただ嫉妬して、嫌味や悪罵やいやがらせや罵倒や批判をするのみである。
直政が「この男は凄い」という男がいた。
それは秀吉政権の五大老のうちの会津百二十万石もの大大名の上杉景勝と、執政・直江兼続である。
上杉謙信の名声からだけではなかった。上杉の人間が骨の髄まで義、仁義で出来ている、と理解したからだ。
上杉の義、忠義は質素倹約だけではなく、家臣も領民も心優しく、温かい。
直政は『上杉家』に『上杉の義』『上杉謙信』『上杉景勝』『直江兼続』に、漢(おとこ)として惚れたのである。だからこそ、徳川家康・東軍隊が『上杉景勝征伐』をやめて関ヶ原に軍を反転させたのは無性にほっとしたのである。
戦国時代に地方の国人領主にすぎなかった井伊家が、徳川家康に仕えて、大大名になり、江戸時代に繁栄、幕末の大老・井伊直弼は子孫。拠城は滋賀県彦根城。
静岡県浜松市の龍譚寺(りゅうたんじ)が井伊家の菩提寺(寺)。寺に伝わる井伊家の資料。井伊家の歴史書『井伊家傳記』(平安時代から続く井伊家の歴史書)。初代の井伊家は井戸に捨てられていたという。家康は直政に「井戸に捨てられれば水で赤子は溺れる、蔦にからまった?そうか、井戸の側に捨てられていたのか?」
「御明察でござりまする、大殿さま」
直政はわざと驚いたふりをした。
狐と狸の化かし合い、である。
井伊家伝記の有名な言葉“女こそあれ井伊家惣領(そうりょう)に生まれ候”(父親の殿さまのただひとりの子供が女子という意味)男子が生まれなかったらしい。惣領=跡継ぎ。この文献で直虎が女性だった、とわかる。
井伊直虎は美貌の少女であった。生年月日は不明、没年は義理の息子の武功『主君・徳川家康の伊賀越え』を成功させた年のわずか数か月後の天正十年(1582年)八月二十六年(九月十二日)没している。幼名・不明、改名・祐團尼、直虎、別名・次郎法師、女地頭(綽名)、戒名・妙雲院殿月泉祐團大姉、主君・今川氏真→徳川家康、氏族・井伊氏、父・井伊直盛、母・友椿尼。養子が井伊直政である。
「直政、お主がわしの鷹狩での草原で、烏帽子直垂でわしらと遭遇したとき、となりに若き尼がいたが、それがお前の義理の母ごぜか?」
「いかにも!徳川さまに仕官する案も義母ごぜのものでした」
「太閤殿下の前では女謙信とまで申したの?」
「あれは、本当にございます。なれど心は優しい艸風(そうふう)の如き母でありました」
「なるほどな。惜しい人を亡くしたのう」
「御意にござる」
「で、お前さんの本当の父と母は?」
「父は井伊直親(なおちか・幼名・亀乃丞・直虎のいとこで許婚)と母は引在郡奥山因幡守の娘で於須賀(おすか・出家して「南渓和尚」)でした」
「父は息災か?」
「いいえ、父・直親は義理の母の元の許嫁でしたが、家中の老中に殺されかけて所在不明になり、直虎は無念のまま尼寺へ出家、だが、数年後にわが父はもどり、於須賀と結婚し、それがしが生まれます。その直後、父、直親は殺され、義理の母親が井伊家の跡目に……」
「しかし、尼寺にはいれば女子は生涯結婚も俗世、一般社会にも戻れない法度じゃろう?」
「そこです、大殿さま」直政は声を大にしていった。「わが義母は予見していたのでしょう。ですから『次郎法師』『直虎』なる男子名を名乗っていたのです」
「成程なあ、男子ならば俗世に戻れる。上杉謙信も武田信玄もそうだったからのう。赤鬼の義母ごぜは知恵がまわるのう」家康は感心した。「なるほどのう」
「次郎法師直虎とは地頭職を継いだときにつけた男名であろう。名はなんと申される?」
「麗(れい・幼名は不明な為にこの小説ではこう呼ぶ)と申します」
麗とは珍しい名である。女名の場合、幼名を生まれた土地や母方の出身地からとることも多かったとされるが、次郎法師もそうだろうか、と家康は思った。
――紅はいらぬ。剣をもて。
麗は走る。
泥濘(ぬかるみ)のない枯れた田のあぜ道を駆け抜け、無心にひた走る。
麗は男子のように田のあぜ道を走り回り、予言めいたことを言って領民たちから「さま」と手を合わせて祈られる姫さまであった。侍女からは「もう少しで鉄漿(おはぐろ)を入れて眉をおつくりになる歳なのですから、下男のように袴を穿き、走り回るのはおやめくだされ」と言われていた。
「亀乃丞(のちの直親)、どうした?」
「また麗は“”“ありがたや”と拝まれましたな?」
「そうじゃ、神仏ではないというに。ところで亀よ、わらわの鉄漿や眉つくりは亀の元服と同じ日でよいか?」
「まあ、いいのでは」
「だが、祝言の何がおめでたいのだ?何があるというのだ?その先に?大人は教えてくれずわらわはわからぬのだ」
「わしとてわからん。だが、みながめでたい、めでたい、というのだからめでたいのであろう?」
「そうか。亀も知らぬか。」
「弁当など持って今度はどこまで行くのじゃ?」
「あ、これは弁当じゃない。“姫さま”“さま”と拝まれて渡された笹団子じゃ」
「また先が見えたな」
「うむ。三日後に大雨になり台風がくるぞ」
「それは大変だ」
「領内に知らせねば。年貢に影響がある」
「そうか」亀乃丞は頷いた。
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版社参考文献文章引用 序章五~三十三)
「旦那!石田三成様がおいでになりました」
直政のかまえる京の屋敷に三成が訪ねてきた。しかも武装兵に屋敷を取り囲ませて。
「きっと旦那が京に戻ったことを嗅ぎつけてきたんでしょう。どうしますか?」
「かまわんさ!とおせ!」
直政は言った。部下は、直政が京のキリシタンの木像を磔にしたのを見て、昔、「へいへい!これが治部だ!こせこせしていて滑稽でしかも残忍極まる。とても人間の類とは思えんな!」と大声で罵倒して、京を去ったのを思い出していた。
今や石田治部は豊臣天下の大宰相である。
そのことで三成が現れたのは明白であった。
「直政殿、京での暴言、堺沖での大騒動…これはもはや太閤殿下に対する反駁以外の何ものでもない!」
「………で、手前にどうしろと?」
三成はにやりとした。「なにも追放にしようと言っている訳ではありません。ただ………朝鮮に行ってもらいたい。そして現地で朝鮮の内情をつぶさに調べ、太閤殿下に見たままをご報告して頂きたい…この戦がいかに無益であるかを…」
同席していた直江兼続は、三成ほどの男がわざわざ一介の徳川家臣である直政のところまで来た意味を悟った。
三成たちはこれまで秀吉に対し、朝鮮・明国の状態を隠し、秀吉が知らないのをいいことに嘘の情勢を知らせてきた。しかし、これ以上嘘をつき通せなくなったときに直政に真実を語らせ、これまでの嘘をごまかそうと。三成はただ莫大な戦費を費やすことによって豊臣政権の基盤が弛むのが心配だった。そのため直政を使って時間かせぎをしたかったのだ。
「返事は?」
「…まずは茶でも飲め」
三成はお椀のお茶を飲み「さすがは天下無双の傾奇者、茶もうまい」と褒めた。
「だろう、馬のしょうべんをまぜたからな」直政はにやりとした。直政のいたずらぶりは有名である。三成は「貴様!」と怒鳴り、お茶碗を投げつけた。
直政は三成をボコボコにする。
「治部、貴様のやることはいちいち手が込みすぎておる!石田三成ともいわれる者が首一つ失うのがそれほど恐いか?命が惜しいのか!」
三成は顔面蒼白である。
「そんなにこの”いくさ”を止めたければ命懸けで太閤に掛け合えばいいではないか!わざわざ俺を使ってまわりくどいことをするな!自分でまいた種は自分で刈りとれ!死してこの”いくさ”を止めてみろ!」
直政は喝破した。兼続は………確かにその通りだが、それは直政殿だからこそ言えること…並の人間にはそれは出来ぬのだ………「井伊殿、この男は仮にも治部少輔(じぶしょうゆう)、それまでになされ、さっ、三成殿手をかしましょう」
三成は醜態を見せた。
「うう………うるさい!うるさい!馬鹿!阿呆!鬼畜!天魔!」涙を流し「貴様に何が…何がわかる!天下百年の計のかけらも判るまい!」
醜態は続く。「だいたい貴様は今まで何をした!?この無益で無謀で残忍な”いくさ”を避けるために一体何をしたというのだ!?古今未曾有の”いくさ”が迫るのも知らず、知っても止めようとせず太平楽に、だらだらと生きてきた貴様たちにわしらを裁くどんな資格がある!言ってみろ!どんな資格があるんだ!」
井伊直政は号泣しながら迫る三成に懐から洟紙を取りだし、
「洟(はな)をふかれよ」といった。
三成は洟をふいた。直江山城は「治部殿、今日のことは見なかったことにしまする。いきましょう」といった。
「そうだな」
三成は意味深な顔で頷いたという。
(劇画・漫画『花の慶次』隆慶一郎著作(原作)原哲夫作画(漫画・絵)新潮社コミックス参考文献参照)