細野豪志ブログ

衆議院議員 細野豪志の活動報告です

保守すべきもの 逝きし日の面影 田原総一朗との対談で考える 

2013-03-27 19:21:59 | 第三世代

保守とは何かについて、先日、田原総一朗さんと対談しました。田原さんからは、民主党の立ち位置を聞かれたのですが、私自身は、保守という言葉にこだわりを持っています。

保守を語るからには、日本の歴史を語らねばなりません。私が強い関心を持っているのは、明治以前の日本の姿です。渡辺京二の『逝きし日の面影』は、江戸末期の人々の生活を克明に分析した労作です。

日英修好通商条約を締結するために来日したエンギン卿の個人秘書であったエリファンとは、「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」と述べています。個人主義の英国人からは「共同体の犠牲」になっているように見えたのでしょうが、当時の日本人は、共同体と自らを一体のものと捉えていたのだと思います。

描かれている日本人は、同胞に対してはもちろん、外国人に対しても寛容でおおらかです。日本の歴史の起源とも言うべき古事記、日本書紀に出てくる神々も、実におおらかです。

渡辺京二は、そういう日本は面影、すなわち過去のものになってしまったとしていますが、私は必ずしもそうではないと思っています。私たちの周りには、地域共同体、学校、NPOなどに関わり、助けること、助けられること双方を喜びとする人々がたくさんいます。この精神を大切にしながら、過去に回帰するのではなく、わが国の進むべき方向を提示したのが「新しい公共」という考え方です。

民主党は、3年3か月の間、地域主権を推進し、NPOの税制優遇措置を導入し、コミュニティスクールを増やしてきました。「公を担う市民の自治を尊び、近代以降、官が独占してきた「公共」をそれぞれの主体に還す」という綱領の言葉は、この考え方を党として明らかにしたものです。

明治以降の、富国強兵、殖産興業を目標とする中央集権国家は、わが国を取り巻く外部環境を考えれば必然でした。「坂の上の雲」を目指した明治を経て、大正、昭和を迎える中で、国内外の荒波を受けて、日本人が本来持っていたおおらかさや寛容さは失われていきました。先の大戦では、国策を誤り、国民を存亡の危機に陥れ、アジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えました。

わが国は、多大な犠牲をもたらした先の大戦からも復興を遂げました。明治以降の中央集権体制は復興においても有効に機能しましたが、わが国のあり方は、今、大きな曲がり角を迎えています。私たちは、この国の目指すべき方向性として、内政外交にまたがる「共生社会」を提示し、その手段としての「地域主権」や「新しい公共」を綱領で示しました。

保守主義とは元来、人間の合理性に警鐘を鳴らす立場をとり、営々と持続してきたものは、自然で人間性に適したものであるとする考え方です。保守について考えるときに、問わなければならないのは、明治以降の日本のあり方を保守する立場に立つのか、この時期を特別なものとみなしてわが国の悠久の歴史を保守する立場に立つのかということです。

私から見ると、自民党は明治以降の日本の忠実なる保守政党。私は後者の立場に立ちます。つまり、日本に古くから存在してきた公を担う市民の意識や、多様な共同体を大切にする社会や価値観を保守するという立場です。

外交について、付け加えたいと思います。わが国の周辺環境を考えたとき、自衛力を着実に整備しなければなりません。ただ、忘れてはならないのは、我が国の発展は開かれた交流の中からもたらされたということです。日米同盟を深化させ、隣人であるアジアや太平洋地域との共生を実現する姿勢こそ、本来の保守の姿です。

中江兆民が遺作である『一年有半』の中で、日本人が「恐外病」「侮外病」にかかることを警告したのは、明治34年のことです。1世紀以上が経過した今日も、中江兆民の警告は意味を失ってはいません。排外主義に陥り、開かれた国益を忘れた時、我が国の国益は大きく傷つくことになります。



なめらかな社会とその敵

2013-03-24 23:30:00 | 国会活動

鈴木健氏の『なめらかな社会とその敵』を読了しました。提起された「なめらかな社会」は我々が目指す「強くてしなやかな共生社会」にも重なり合います。

民主党の綱領を改定し終え、ソーシャルメディアに参入した直後に本書を手にしたのは、偶然にしては出来すぎです。本書に大きな可能性を感じましたので、読後の感想を皆さんに共有します。

ソーシャルメディアの登場で人的なネットワークは格段に広がりました。ただ、本書が目的としている「複雑な世界を複雑なまま生きる」のは簡単ではありません。

字数制限のあるツイッターには、ものごとを単純化し、犯人を捜して攻撃を加え、対立を煽る面があります。今、私自身も試行錯誤をしていますが、ソーシャルメディアを「なめらかな社会」のインフラにするには、まだ課題があるように思います。

特に興味深かったのは、投票権を分割して他者に委任できる分人民主主義で、重みの異なる代議士が議題ごとに誕生するという提案です。政治の現場にいる人間として、一つ心配になったのは、利害関係者が投票権を集めると、財政規律や法的整合性が維持できなくなるのではないかということです。職業政治家がいなくなる「なめらかな社会」で、行政をどのようにコントロールするかも、議論する必要があると思います。

社会は大きく変わりつつあります。政治はそれを視野に入れて動かねばなりません。以前からご指導頂いている松岡正剛さん。このところ、大澤真幸さん、東浩紀さん、鈴木健さんとご縁ができました。そうした交流の中で、自分自身を鍛え直したいと思っています。


福島第一原発停電トラブル発生 厳しい監視の必要性

2013-03-22 23:00:00 | 国会活動

矢のごとく過ぎて行った一週間でしたが、電力を巡って気になることが二つありました。18日に起こった東京電力福島第一原発の停電トラブルと電力システム改革にブレーキを踏む自民党の動きです。

停電トラブルについては、私自身が事故対応の責任者でしたので、国民の皆さん、特に、福島の皆さんにお詫び申し上げます。すでに私からエネ庁に対応を要請していましたが、今日、改めてエネ庁から説明を受けました。率直に言って、東電もエネ庁も危機意識が低すぎます。経緯を最もよく知る者の一人として、あえて、ここで警鐘を発したいと思います。

事故は、設備の信頼性向上の途上で起こりました。防げなかったことも問題ですが、東電が停電発生から公表するまで3時間もかけたのは、3.11後の様々なトラブルと比較しても遅すぎます。保安規定上の管理値(65度)に達するまでには時間的な余裕があると考えたのかも知れませんが、福一は通常の原発ではありません。29時間の冷却機能停止に恐怖を感じた福島の方がたくさんいたはずです。

東電には、緊張感をもう一度取り戻してもらいたいと思います。一方で、過酷な現場で通電確認に走ってくれた作業員には、心より敬意を表したいと思います。彼らの頑張りを会社も政府もしっかり支えていく必要があります。

監督官庁であるエネ庁の担当大臣である茂木大臣が一度も登場していないことにも、違和感を持ちます。私が担当していた時は、何かトラブルが発生した時は、東電に直接、指示していました。何度も言いますが、福一と通常の原発は大きく異なります。政府に当事者意識がなければ、責任を果たしたことになりません。


もう一つは、電力システム改革です。自民党は電力システム改革に急ブレーキをかけだしました。発送電分離のために「必要な法律案を平成27年通常国会に提出することを目指す」という表現は、発送電分離をやらない可能性があると認めたものです。発送電分離、すなわち電力自由化は、再生可能エネルギーの普及の前提であり、それなくして原発に頼らない社会は実現しません。

長年、再エネの普及にブレーキを踏んできた自民党がついに地金を見せ始めました。政治改革、行政改革、地域主権改革に続き、エネルギー改革でも後退の動きが明らかになりました。アベノミクスで絶好調の安倍政権ですが、改革路線については後退を続けています。ここは、我々が厳しく国会で指摘しなければなりません。


みんなの力でガレキ処理

2013-03-20 10:47:04 | 国会活動

18日、静岡県庁で震災ガレキの受け入れ終了宣言、記者会見がありました。私が、環境大臣として受け入れを要請し、静岡県内では島田市、裾野市、浜松市、富士市、静岡市が受け入れてくれたものです。静岡県から私もお招きいただいたのですが、党の役員会が重なり、ビデオメッセージを送りました。

「みんなの力でガレキ処理」という運動を開始したのが昨年の3月7日。当時は、めどが全くたっていませんでした。責任者として私が街頭に立ち、環境省、民主党はもちろん、自民党、公明党の皆さんにもご協力を頂き、国民の皆様に理解を求めました。街頭で厳しいご批判を頂いたこともありましたが、山積みのガレキと隣り合わせで避難生活を送る被災者の皆さんのためにと、関係者が力を合わせてガレキ処理に懸命に取り組みました。

あれから一年、被災地での処理も本格化し、全国でガレキの受け入れも広がりました。広域処理の受入実施済み、実施中、受け入れ決定済みのところは、今年の1月末時点で1都1府13県。合計65件にのぼります。改めて、感謝申し上げます。

1月末時点の処理状況は、宮城県51%、岩手県39%です。今年の3月末の中間目標の達成は微妙ですが、来年3月の処理終了は実現できそうです。福島県についても、県内処理で31%まで来ました。

ガレキの広域処理は、被災地の復興支援に大きな役割を果たしましたが、フェイスブックやツイッターで、広域処理についての厳しいご意見を頂きます。被災地でも、受け入れ自治体でも放射線量のデータを公開してきました。安全対策に問題はありませんが、不安を持たれた方がおられることは国の責任です。その責任を担っていた者として、お詫び申し上げます。

ガレキの広域処理が進まなかった時期に、新たな補助制度をつくりました。広域処理を表明した自治体の処理施設整備を積極的に後押しするものです。

廃棄物処理の施設整備に対して、ガレキの広域受け入れを表明して頂いたタイミングで、国の補助部分を約1/3近く増やしました。

通常約2/3近く補助するところを、全額国が支援するという形です。

いくつかの自治体が手を挙げていただきました。当時の状況を振り返ると、ガレキの受け入れに手を挙げるということは、大変勇気のいることでした。受け入れの決断を迷っている自治体の背中を押すことが重要でした。

その後、被災地における努力や再生利用が進んだことにより、ガレキの必要処理量が、当初想定していたより少なくて済むことか分かりました。

結果として、一部の自治体にはガレキの受け入れなしで、高い補助率での補助金の交付をすることになりました。補助金を受けた自治体からは、被災地復興のために、何ができるか早急に考えたい旨、発言されていますが、受け入れの表明だけで補助することは、復興予算の流用ではないか等のご意見を頂きました。

特定の自治体の補助金だけを見ると、そうした意見が出るのは理解できます。ただし、いくつかの自治体が率先して表明して頂いたことで、迷っていた他の自治体も手を挙げやすくなり、ガレキ処理のスピードが加速化しました。

今では、被災地のガレキの山を見ることも少なくなりました。当時のガレキのホコリ、臭い、そして被災者の思い出の数々を目にしたときの切迫感をお伝えすることは、難しくなってきています。私は、あの時の判断は間違ってはいなかったと考えています。

18日、静岡県に、岩手県の山田町、大槌町の町長さんが来られ、感謝の言葉を述べられました。両町と静岡県の絆は長く続くでしょう。また、東海地震に備える静岡県にとっても、被災地のガレキ処理に貢献したことは、大きな意味があったと感じています。

ガレキ処理のメドは立ちましたが、復興は課題が山積しています。これまで出会った被災地の皆さんの顔を思い浮かべると、前に進めなければならないとの思いが強くなります。多くの皆さんの思いをかたちにすべく、今後も、復興に全力を尽くしていきます。

 


民主党綱領 田原総一郎さんの対談を終えて

2013-03-19 12:28:36 | 国会活動

中央公論の対談で、田原総一朗さんとご一緒しました。

田原さんには、滋賀県立彦根東高校出身というローカルなつながりもあり、新人議員の時からお世話になってきました。ただ、後輩だからといって質問で手加減は一切なし

朝ナマなどでは、厳しい質問を何度も受けてきました。今回も、ズバズバと突っ込みが入りました。


田原さん曰く、民主党は「保守リベラル」を使うべし。
私からは、綱領に託した思いを話しました。実に、刺激的な対談でした。

綱領はこちらをご覧ください。




伴走舎 すべてのひとに居場所と出番がある社会

2013-03-16 19:30:30 | 国会活動

商店街のど真ん中の狭い間口を入ると、数名の若者が、石鹸に模様をつける作業とデパートの商品券の箱折り作業をしていました。話しているのは、笑顔で後輩を指導している若者だけです。見慣れない我々が入ってきたことに、緊張感が漂っています。

「伴走舎」は、不登校・ひきこもり、ニートなどの若者に寄り添いながら、社会参加への道を歩む伴走型支援を目指しています。

一通り説明を聞いたあと、私が話しかけてみると、何人かが笑顔で応じてくれました。バイトをしながら週に2日ほど来ているという若者は「ここに来ると仲間がいるので安心」と話してくれました。精神障害があるとのことでしたが、人懐っこい笑顔が印象的でした。

一言も話さなかった若者は、行商の屋台を一人でつくったそうです。拡声器までついている立派な屋台で、お年寄りの家を訪問して、自分たちでつくった野菜や日常品を売っているそうです。

活動を支えている町内会長さんや、商店街の人たちが集まってくれました。平日は、お年寄りや放課後の小学生が立ち寄る商店街のオアシスのような場所になっているようです。

伴走舎に通うことで引きこもりから抜け出し、就学したり就職したりする若者がいます。戻ってくる若者もいるそうです。
ここには、民主党の綱領で書いた「すべてのひとに居場所と出番」があります。

今は、給食業を営む社長さんの善意で成り立っている活動を、社会全体で支える仕組みをつくりたいと思います。
それが私たちの仕事。


這い上がる

2013-03-13 19:30:15 | 国会活動

先ほど、日本記者クラブで話をしてきました。

新綱領を題材に、民主党の目指す方向について話しました。この手の話になると、私の場合、どうしても力が入ります。

民主党政権でコミュニティスクールは475校から1183校に、学校に関わるボランティアは647万人と20倍に増えました。授業、放課後、クラブ活動、図書館、警備など、関わり方は様々です。
多くの人が学校に関わることで、子供たちは多様な経験ができ、学校、地域にも愛着を持つようになります。

郷土愛なき愛国心は危険です。
国を愛する心は、家族、学校、地域社会などを愛する中で、涵養されるべきものです。それらが折り重なり、強くてしなやかな社会ができてはじめて、国は強くなります。
これが、我々の綱領であり、民主党の理念です。

記者クラブでの会見は今回で3回目。過去2回と違い、今日は小さな会場で話をしました。野党になると参加者が少ないということなのでしょう。

民主党の現状を受け止め、ここから這い上がるしかありません。ガッツだぜ!


3.11を福島で迎えて

2013-03-11 23:50:15 | 国会活動

3.11を福島で迎えました。
追悼式典に出席をした後、福島の小学生のお母さんたちと懇談しました。原発事故を防げなかったことに対する反省の気持ち、改めて政治家として福島の復興に取り組む決意、そして、個人としても福島に向き合っていく覚悟を固めることもできました。

個人として取り組みたいのは、子供のサポートと風評対策。この分野で数々の実績を持つ鈴木寛さん、環境省で一緒に福島に通った高山智司さん、野球の古田敦也さんなどにも力を借りて取り組みます。



ガレキに立てられた白い旗 あれから2年 思い出の写真の修復

2013-03-10 19:30:06 | 国会活動

2011年6月25日、私は、福島の南相馬市の避難区域に入りました。

津波で洗われた海岸は、ほんとうに静かでした。言葉が出ませんでした。

あちこちに、白い旗が立っているのが目に入ってきます。ガレキを片付けた自衛隊員が、行方不明者がいないことを確認して立てたものでした。

原発事故が人の全ての営みを奪っていました。失われた命を弔うことさえ、福島の人たちには許されていませんでした。

ガレキの中から取り出された写真を修復するボランティアに加わりました。30年ほど前に撮影されたであろう結婚写真。中学生の卒業式の写真。修復しても、顔が鮮明には浮かび上がってこない子供の写真もありました。

一枚一枚、泥をふきとって乾かします。きっと、誰かが取りに来てくれるはずだ。気持ちを込めて作業をしました。

次の日、私は原発事故担当大臣に指名されました。福島の人たちの悲しみと怒りは、あまりに重い。それがいかに重いものであろうと、受け止める覚悟で、閣僚になりました。

福島には、毎週行き、懸命に取り組みました。ただ、振り返ると、できなかったことばかりが浮かんできます。

明日で事故から2年。政治家としての立場は変わりました。ただ、「福島のために」という思いは変わりません。

明日は福島です。政治家としてだけではなく、仲間と共に、個人として福島の復興に取り組もうと思っています。



3.11 あれから2年

2013-03-08 18:00:13 | 国会活動

あれから2年が経とうとしています。

当時を振り返り、課題を掘り下げる取材を受ける機会が増えました。事故対応、除染、ガレキ、原子力規制など、懸命に取り組みましたが、まだまだ課題が残っています。政治家としてはもちろんですが、個人としても被災地を継続的に支援する方法を考えています。

写真は福島県川内村の遠藤村長と村民の皆様です。