細野豪志ブログ

衆議院議員 細野豪志の活動報告です

G1サミット

2011-02-12 22:11:39 | 沈思黙考

グロービスの堀義人氏、星野リゾートの星野佳路氏、iPS細胞の山中伸弥氏、短距離の朝原宣治氏、政界からは各党幹部が入れ替わり。この週末、小淵沢に集まった面々です。

主に、昭和30年代の各界のリーダーが始めたG1サミットも3年目。今年、初めてお誘いを頂いて、私は「経済開国」のセッションでパネラーを務めてきました。

刺激的だったのは、昨晩の日付を超えて続いたフリータイム。世界中の投資ファンドの経営者が、日本の財政のことを懸念していました。これだけ、財政赤字を積み上がっている中で、日本の政治家は何をしているのかという声です。皆さん、日本に固執しなくても、やっていける人ばかりなのですが、日本を何とかしたいという思いを持っています。

気になったのは、日本の永田町の危機感のなさです。菅総理は、党首討論で社会保障の協議を呼び掛けて、谷垣総裁から「八百長相撲には付き合えるわけがない!」とばっさりやられました。まさに、考え抜かれた決め台詞!

何ごとにも、真面目に向き合うのが、谷垣総裁の魅力だったはずです。谷垣総裁は、誰よりも社会保障と財政の危機的な状況は分かっているはずです。党内政局、マニフェストの検証など、民主党に問題があるのは認めます。ただ、ここで協議が成り立たなければ、日本の社会保障と財政の危機は、取り返しのつかないことになりかねません。

今年のG1サミットのテーマは、「次代に引き継ぎ、変革し、新たに創るもの」。政治とは絶望の連続ですが、我々には、諦めることは許されません。


謹賀新年

2011-01-01 19:08:29 | 沈思黙考

元日は、「朝なま」からスタート。寒空の中、三日、街宣車から声をからした後の完徹はヘビーでした。それにしても、4時間半は長かった。時に、パネラーと喧嘩腰のやり取りをしながら、最後まで集中力を切らさない田原さんは凄い。

討論を通じて、ウィキリークスやツイッターが政治家に変化を迫っていることを痛感しました。もはや、情報管理は無理だという前提に立って、政治を動かしていかねばなりません。これは、好き嫌いを超えた現実です。

難しいのは、ソーシャルメディアとの付き合い方です。クイックレスポンスが求められるネット社会と、熟慮が求められる政治をどうやって融合するか、私は未だ判断を保留しています。今回の討論を通じて、もう一度考えてみたいと思います。

 

一年の計は元旦にあり。無役でのスタートなった今年は、私自身の政治理念と国家ビジョンをまとめることを第一目標に掲げたいと思います。ブログでも、折に触れて私の考えをご紹介します。

昨年は下り坂を転げ落ちた民主党と菅政権については、元旦を「底」にしなければなりません。そのために、私も全力を尽くします。


共同体

2010-11-20 21:51:49 | 沈思黙考
このところ、私のテーマの一つに「共同体」があります。

明治以前、わが国には、農村には農村の、都市には都市の共同体がありました。農村においては、農作業を共同で行うために、都市では、信仰や講や無尽を通じて、共同体は形成されてきました。明治以前の人々は、共同体の中で生きており、国家を意識することはほとんどなかったのでしょう。

明治に入り、農村から都市への人口移動や徴兵を通じて、農村の共同体は変質していきました。都市部においては、廃仏毀釈を通じ宗教的な共同体は崩れ、農村からの人口流入によって、地域的なつながりが希薄になっていきました。その過程は、中央集権的な近代国家の構築とも重なります。

もちろん、明治に入ってからも、共同体が完全に崩壊したわけではありません。その例が京都に見られます。先日、私は京都の番組小学校の跡地を訪れてきました。写真はその一つ。京都国際マンガミュージアムです。

京都では、学制が導入される前の明治2年。旦那衆にって、番組小学校がつくられました。敷地も建物も、地域住民が経済力に応じて負担した「かまど金」によって賄われ、設計も旦那衆によって行われました。さすが京都と唸ったのは、昭和初期に建てられた現存している校舎に、茶室や作法室がつくられていたことです。

廃校になった番組小学校は、今では、京都国際ミュージアムや京都芸術センターなどとして有効に活用されています。地域の住民の拠りどころとして、利用されています。私も、両施設を連合町内会長さんにご案内頂きました。

小学校というのは、共同体の核となる施設として最も適しています。

平成に入り、地域の核の施設として小学校を活用する動きが出てきています。9月に、私は、三鷹市の第四小学校のコミュニティスクールを見学してきました。第四小学校では、学校の警備、図書館の管理、授業のサポートにも、地域住民が参加しています。三鷹のような都市部においては、学校を通じて地域のつながりが強くなっているとのことでした。

学校にとっても、メリットがあります。第三者のサポートを得ることで、先生の授業の質が格段に上がったということです。総合学習において、一流の講師や地元の特産品を取り入れることもできます。先生と生徒、保護者との中で閉ざされた学校から、地域に開かれた学校への転換です。

共同体は、地域ごとに単独で存在するものではありません。むしろ、複数の共同体が存在する多様性、重層的が必要です。小学校だけではなく、鎮守の森や祭り、現代においてはNPOも重要な共同体の担い手になりえます。

これまで、地域社会という言葉は頻繁に使われてきましたが、ある種の復古的なニュアンスを含む共同体という言葉は、敬遠されてきました。私は、最近、むしろ復古的な意味も込めて、共同体という言葉を使うべきではないかと感じるようになってきました。

明治以降、国家と個人が正面から向き合った結果、今や砂のようなもろい社会となってしまいました。国家はどんどんお節介になり、国民はどんどんわがままになってきました。その中で、果たして人は幸せになったでしょうか?「共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる」「自分の存在が共同体と一体になっている」(内山節著「共同体の基礎理論)のと、どちらが幸せでしょうか?

鳩山前総理が提唱した「新しい公共」は、単なる税制優遇を意味するのではなく、新たな社会づくりへの挑戦です。中央集権的な国家運営を続けて140年以上。しなやかな、真に強い社会づくりに勇気を持って漕ぎ出す時期を迎えているように思うのです。

オリンピックの思い出

2010-02-26 22:48:27 | 沈思黙考
バンクーバーの思い出は、間違いなく浅田真央選手でしょう。13時半頃ちょうど来客が途絶え(なぜか、予算委員会も行われず)、生で彼女の演技を見ることができました。あの緊張感の中で、トリプルアクセルを二回跳んだ精神力には、感激しました。

浅田選手と安藤選手のことを考えると、金姸児選手の得点が伸びないことを望みたいところですが、不思議と金姸児選手の素晴らしい演技に拍手を送りたい気持ちになりました。ナショナリズムを高揚させられるオリンピックですが、スポーツは時として国の壁を超える力を持っています。

12年前のスピードスケートの清水選手の日は、亡き祖母の葬儀の日でした。原田選手のジャンプには涙しました。当時、私は三和総研の研究員として研鑽を積んでいた時でした。

8年前は、岡崎朋美選手の頑張りに、拍手しました。彼女は私と同い年。今回も頑張っている岡崎さんは、本当にエライ!当時の私は一期生。新しい選挙区と国会を行き来しながら、個人情報保護法という重要法案の責任者を任され、がむしゃらに走っていました。

4年前は、何といっても荒川静香選手。前原代表の下で役員室長であった私は、必死で小泉政権と戦っていました。何としても政権交代をという思いは人一倍強く持っていたものの、まだまだ、我々は未熟でした。

4年に一回のオリンピックは、その時々の人生と重なります。4年後、私はバンクーバーをどのように振り返るのでしょうか?

「民主党にとってあの時は厳しかった。だけど、あそこを踏ん張ったからこそ、わが国は良くなった!」と言いたいものです。

阪神淡路大震災から15年

2010-01-17 21:09:39 | 沈思黙考

あの時、私は京都で一人暮らしをしていました。大きな揺れを感じて、ベットで目を覚ますと、隣の本棚がまさにこちらに倒れんとしています。飛び起きて、背丈ほどの本棚を抑えましたが、中の本は飛び出してきます。その間、十数秒。今でも、阪神淡路大震災の朝のことは鮮明に覚えています。

多くの知人が被災し、神戸の復興のボランティアをしなければ、私は政治家にはなっていなかったでしょう。

あれから15年。わが国の危機管理体制は格段に整備されました。ただ、決断が遅れて多くの死者を出した政治、そして政治家は、良くなっただろうか?犠牲者のご冥福を祈りつつ、政治家となった自らの責任を痛感しています。

合掌


先の大戦を考える

2007-08-15 22:45:31 | 沈思黙考
今年も8月15日がやってきました。セミの声も盛りを迎えるこの日の正午、日本中が一瞬静まりかえります。

戦争を知らない、豊かな時代に育った私にとって、8月15日は先の大戦について考えるかけがいのない日です。

今日は、恒例の富士市戦没者追悼式典に出席し、戦没者への弔いと、ご遺族のご労苦に対する感謝の気持ちを表して来ました。

この時期に合わせて、毎年、戦争に関する本を一冊読むことにしています。今年、私が出会ったのは「巣鴨の生と死」(中公文庫)でした。著者は、東京裁判で戦犯とされた人たちを送った教誨師・花山信勝氏です。

東条英樹氏、広田弘毅氏、板垣征四郎氏などが、最期に残した遺言や歌、死を受け入れた姿などが克明に記録されています。国家、国民、そして家族に対する思い。記述は淡々としていますが、彼らの想いの強さが伝わってきます。

「戦禍を受けた同胞を思う時、私の死刑によっても責任は果たされない。全く相済まないと思っている」東条氏の遺言の一部です。政治家が取るべき責任とは何か。考えさせられる言葉です。

東京裁判で極刑になった中に、元陸軍大将・松井石根氏がいます。熱海市伊豆山には、氏が、南京、上海などで亡くなった方々を弔うために自宅上の山中に建てた興亜観音があります。巣鴨での処刑が行われた際、GHQは、遺族に遺骨を返すことを認めませんでした。興亜観音には、彼らの遺骨を集め、弔ったという秘められた歴史があります。

元選挙区である熱海を訪れる際に、時々、興亜観音に上り、手を合わせるようにしています。これが、歴史を背負って逝った政治家に対する私なりの弔いの作法です。

城山三郎氏ご逝去

2007-03-22 17:09:45 | 沈思黙考
「粗にして野だが卑ではない」とは、三井物産から国鉄総裁をつとめた石田禮助氏の言葉です。今日の昼、たまたまよった本屋で城山三郎氏の本に目が留まり、久々に読みたくなって買って帰りました。訃報を知ったのは、議員会館についた直後です。

中学生の時に「男子の本懐」や「雄気堂々」を読んで痛く感動したものです。氏の本との出会いは、私が政治家を志したこととも関連しています。今日、懐かしい本を手にしたのは、何かの縁かも知れません。

議員になって初めて担当した重要法案、個人情報保護法の時には、城山氏に政府案に反対する先頭に立っていただき、野党の集会にも出席して頂きました。「私が生きている限り、言論の自由を弾圧する法案には反対だ」と、静かに、しかし力強くおっしゃった言葉の重みは忘れることが出来ません。

今晩は、買った本をゆっくり読んでから寝ようと思います。ご冥福をお祈り致します。

小泉政治を振り返る

2006-08-30 22:29:11 | 沈思黙考
このところ、小泉政権の評価を聞かれることが多くなりました。今日は、書評を交えながら、小泉政権を振り返ります。

この間、巷では多くの小泉本が流布した中で、私の小泉評と重なる部分が多いのが、某紙政治部の「外交を喧嘩にした男」です。日米同盟の記述など、礼賛が過ぎる感がなきにしもあらずですが、小泉外交の演出の巧みさと、功罪(日米同盟とアジア外交)のコントラストは的確に表現されていました。

総理の再訪朝の発表は2004年5月14日。同じ日に小泉総理の年金未加入が公表されました。ジェンキンス氏と曽我さんの再会は、参議院選挙の投票日の2日前でした。そうした演出がなされる度に、演出を疑問視する我々の声は、外交の成果と映像の力にかき消されました。

そうした小泉外交が行われた経緯が、この本には詳細に書かれています。社説を読むと民主党の主張と一致しないことの多い某紙ですが、周辺取材の徹底ぶりは、新聞社の政治ものとして評価されて良いと思います。政治家が回顧本を出すことの少ない我が国において、事実を書き残すことは、メディアの役割の一つかも知れません。


「5年で駄目ならクビをはねろ」伊坂幸太郎氏が書いた小説「魔王」に出てくる政治家・犬養の言葉です。ファシズム、テロ、そしてそれを支えるメディア政治がこの小説のテーマです。この小説のモチーフが、覚悟を口にした小泉総理と今の時代であることは間違いないでしょう。伊坂氏は私と同い年。彼の時代に対する洞察力には感心しました。

靖国を前後して起こった加藤紘一氏の自宅への放火。当初は変人の犯行と切り捨てていましたが、先日、自宅にあった「魔王」が目が留まって、認識を改めました。今の日本社会には、嫌な雰囲気が漂っています。

「いつ参拝しても批判があるので、8月15日に参拝することにした」とは、参拝直後の小泉総理の一言です。政治家に、社会の雰囲気を変える力は無いのかも知れません。ただ、今本当に必要なのは、時代に煽られることなく、静かに国民に語りかける政治家ではないかと感じています。

ブログ休止のお知らせ

2006-06-28 14:46:05 | 沈思黙考
長らくブログの更新を怠り、大変失礼いたしました。この間も、多くの皆さんからご意見を頂きました。ありがとうございました。

思うところがあり、本日からしばらくの間、ブログを休止致します。

政治は、かつての新聞報道に依存した時代から、テレビ時代を経て、今やインターネットと携帯電話によって動かされる時代になりました。メディアが政治を追いかける時代は過去のものとなり、今やメディアに政治がせっ衝かれ、キャッチアップを迫られる時代となりました。煎じ詰めて言えば、メール問題はそうした政治土壌から生まれたとも言えます。

これまでそのスピードについていこうと必死になってきた私ですが、ここで一旦立ち止まって、リアルタイムで情報を発信し、携帯電話で記者から問い合わせがあればその場で答える政治が国民の幸福と直結するのかどうか、また、情報発信のあり方として、どのような方法が最も適しているのか、考えてみたいと思います。

多様な情報が交錯するブログというコミュニケーションの場に参加できたことは、私にとって貴重な経験でした。情報公開と説明責任は政治家にとって大切であるとの認識は変わりませんので、当分は、HPを通じて日常活動を報告してまいります。私になりのスタンスが固まりましたら、ブログの更新を再開したいと考えております。

役員室長留任のご報告

2006-04-10 17:44:11 | 沈思黙考
小沢代表就任と執行部留任について、皆さんから厳しいご意見を頂いています。私も再度、役員室長の任にあたることになりました。

幹事長から電話をもらったのは8日夕刻。その場で、明確にお断りしました。
1.メール問題で大きな責任があること
2.前原代表との個人的な関係が役員室長として前提となってきたこと
3.小沢代表、菅代表代行、鳩山幹事長の重量級執行部の調整役を担うには経験が不足していること

結局、
1.執行部は全員留任するので一人だけ交代というわけにはいかないこと
2.国会中に党務を混乱させるわけにいかないこと
3.前原前代表とのつなぎ役として残るべし
との数時間の説得を受けました。「それでは役員室長代理なら」と最後まで粘ったのですが、受けざるを得ない状況になりました。

印象的だったのは、小沢代表、菅代表代行、鳩山幹事長の三人が同じ部屋から電話をかけて、人事を決定していたことです。これまで、バラバラとの批判が常につきまとい、どの執行部に対しても党内からどこか醒めた目が向けられてきた民主党としては、画期的なことです。

前原前代表(4月11日に訂正しました)からは、受けるべしとの話がありました。それでも、役員室長留任は、会社で言えば社長が辞めるのに秘書が残るという話ですので、どう考えても美しい姿ではありません。最後に留任を受け入れたのは、窮地でまとまりをみせている党の結束に、私が水を差すことはできないという気持ちでした。

皆さんからの厳しいご批判は、受け止めるしかありません。ただ、役員室長を受けるからには、民主党再生に何としても貢献する覚悟でおりますし、若輩の私が、この重量級の布陣でどこまで調整役を果たせるか、新たな挑戦だと考えています。