昨日(4月27日)の上毛新聞に速水堅曹のお姉さん、西塚梅さんの紹介記事が掲載されました。
いつもコメントをくださる梅さんの子孫である「夢酔い人K」さんが取材をうけ、記事になりました。
Kさんとは一昨年の秋に知り合いましたが、その頃から、ご自分の先祖である梅さんのことを熱心に調べていらっしゃいました。
その後、私と同じように富岡製糸場世界遺産伝道師になり、歴史ワーキンググループにも入られ、一緒に勉強しながら、先祖調べや情報交換をしています。
とてもフットワークが軽く、どんどん人に会いにいったり、現地へ調査に行かれるので、いつも感嘆しています。
それが昨年の川越の速水家先祖の墓の発見につながりました。
そして今年1月の「速水堅曹翁を偲ぶモニュメント」建立、となったのです。
Kさんがいなければあのお墓はみつけることはできなかったでしょう。本当に感謝しています。
そのKさんが、梅さんの明治21年(1888)の写真を見つけ、その他の資料と共に今月、群馬県立文書館に寄託しました。
梅さんは、明治3年(1870)堅曹さんが日本で最初の器械製糸場である「前橋藩営製糸所」を作ったとき、片腕として、真っ先にミウラーから製糸技術を習い、教師となり若い娘たちを指導しました。
その後同じ前橋の研業社(関根製糸所)で工女取締として長く活躍しました。
当時梅さんは40歳代で、子供を何人も育てながら働きました。
そのころのことを深澤雄象の娘こうさんは「西塚のおばさんと呼ばれ皆から慕われ、よくなかをまとめていました。」と回想しています。
男勝りであり、とか、その気性は堅曹にそっくり、と書かれた文章を読んだことがあったので、私はとてもしっかりした人との印象があり、写真をはじめて見るときはドキドキしました。
でも新聞の写真のように、やさしい、たおやかな、品のある方でとても意外でした。
群馬県から何回も表彰されて、亡くなるまで20年余製糸業に従事し、工女教育につくし、製糸業の発展に寄与しました。正に働く女性の先駆けのような人であったとおもいます。
弟、堅曹が必死になって、世間の誹謗をあびても、生糸や器械製糸のことをやろうとしていた時、いの一番に信じて力になってサポートしてくれたのだと思う。こんなに心強いことはなかったとおもいます。
こうやって堅曹さんがどんどん仕事ができるよう、製糸場内をしっかりまとめ、技術を伝え、支えてくれた周りの人々のことが明らかになってきて、新聞に取り上げられることは本当にうれしいです。
夢酔い人Kさんが梅さんについて詳細にレポートしたものが、伝道師協会のブログhttp://blog.goo.ne.jp/whtomioka/に載っていますので、どうぞお読みください。
ご先祖様の梅もあの世で大変喜んでくれてると思っております。
これも速水家の嫁様をはじめとする伝道師の方たち、遠藤家、西塚家
の親戚の方たちの協力があって、今回、上毛新聞に記事を載せる
ことが出来たと思っております。
ブログの文章で一箇所、資料の寄託をしたという箇所がありますが
ここは遠藤家の資料の仲介を行ったということです。