群馬県高崎市へ座繰り器を取りに行った帰り、桐生市黒保根町水沼に行きました。
たしか以前は勢多郡黒保根村といっていたような。
平成の大合併で桐生市になったのでしょうか。
ここには明治7年、民間ではじめての器械製糸所、水沼製糸所ができました。
星野長太郎という、この地の豪農で江戸時代に名字帯刀を許されていた家の長男が
維新をむかえた時、これからは器械製糸だと説く藩士速水堅曹の考えに傾倒し、
堅曹が作った日本最初の藩営前橋製糸所に弟子入りをして、技術、経営を学び
自宅に器械製糸所をつくったのでした。
新井領一郎という弟も堅曹らと相談してアメリカへ行かせ、ニューヨークで生糸の販売をさせました。
その後もつきあいは深く、座繰り製糸の結社や直輸出の同伸会社創立にもかかわり、
常に堅曹の同志として行動を共にしていました。
当時の雑誌では
二人は「水魚」(魚と水が離れがたいように、きわめて親密な交友のたとえ)のようだと書かれています。
まさに50年近くに及ぶ一生の付き合いでした。
その水沼製糸所跡を訪ねてみました。
当時の石垣や長屋門は残っています。
敷地内には貴重な史料が入っている当時の蔵もあります。
現在もご子孫が住んでいますが、中に入ることはできないそうです。
外観だけ写真に収めました。
すぐ裏は山になっており、その斜面に家がたっているような感じです。
水沼という地は、渡良瀬川に沿って国道122号線とわたらせ渓谷鉄道が走り、
それに連なるように山に囲まれた、ほんの少しの土地に住民が住んでいる町でした。
もともとは林業が盛んな土地で、江戸時代にはたくさんの木を切り出し、渡良瀬川をつかって江戸まで送ったそうです。
製糸所跡の前には元役所だったという黒保根歴史民俗資料館があり、そこを見学しました。
館員の方と話をしていたら、星野家のお墓はそこですよ、と道路をはさんだ向かいの場所を教えてくれました。
え~、ここにお墓があるんだ、知らなかった。
星野長太郎は国会議員もつとめていたので、東京に自宅があり、そこで亡くなっています。
そして立派な石碑が前橋の臨江閣のところにあります。
だから、お墓はもしかしたら東京かもしれない、とおもっていました。
早速行きました。
館員の方は
「戒名しか書いてない墓ばかりだから、長太郎さんのがどれか、わからないかもしれないよ」
と心配してくださったのですが、
なぜか、絶対にわかる、という確信がありました。
道路を渡ったところに観音堂があり、そこが星野家一族の墓所です。
中に大きな銀杏の木が一本あり、黄色くなった葉っぱが落ち始めていました。
順番に墓石を見ていくと、あ、これだ!とおもうのがありました。
星野長太郎の没年は知っていたので、側面をみると、たしかにその年月が彫られており、
俗称 星野長太郎と書かれていました。
隣には奥さんの墓が並んでありました。
丁寧にお参りさせてもらいました。
まさか今回星野長太郎のお墓参りまでできるとはおもっておらず、
おもいがけずこうなったのも、きっと堅曹さんがお参りしたかったのかな、
と思わずにはいられませんでした。
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