青山霊園の続き。
速水家のお墓の隣のブロックには西郷隆盛、木戸孝允とともに明治維新の三傑といわれ、幕末明治の日本の基礎を築いた大久保利通のお墓があります。
とてもおおきいのです。はじめて見た時はびっくりしました。
立派な碑に大きな鳥居、亀の背(亀趺)に乗る見上げるような墓石。墓前にならぶ石燈籠。
何回か見にいったある日、石燈籠の竿の部分にぐるっと名前が彫られているのに気がつきました。
橋本正人、千阪高雅、前田正名‥‥「勧農局員」とも書かれている。堅曹さんの日記によくでてくる名前だ!
もしかして速水の名前もあるかも、と夢中でさがしました。
一対の燈篭の向かって右側に。
そちらは木に半分ほどおおわれて、裏のほうは見ることができません。でも正面の部分に名前があったのです。
当時の部下たちが献燈したのでしょう。「地租改正事務局員」と彫られた石燈籠もありました。
帰りに青山霊園管理所で献燈の経緯や名前のリストを尋ねましたが、わからないということでした。
大久保利通が紀尾井坂で暗殺された明治11年、堅曹は内務省御用掛であり、大久保が力を入れた殖産興業政策を強力に推進する技術官僚でした。
そして大きな事業を計画していたのです。しかし
五月十四日午前第八時大久保内務卿ハ赤坂紀尾伊坂ニ於テ石川県島田一郎ニ殺害セラル、言語道断天命ナリ、旻天ニ怨泣ス(『速水堅曹履歴抜粋 甲号自記』)
五月に於て内務卿は賊手に薨せられたり嗚呼天命の許さゞる事は為し得べからずと旻天に號泣す爰に至って百般の經畫滅亡す(速水堅曹自叙伝 『六十五年記』)
堅曹の悲しみ。悲哀。無念。
彼は大久保利通を心より尊敬していた。
果断で厳正な仕事。 威厳に満ちた所為。 公平無私な判断。
晩年になっても堅曹は折にふれ大久保公を偲び、語っています。
そんな堅曹が大久保公との憶い出をインタビューで語った新聞記事が10ページにわたって載っています。
堅曹さん71歳です。