先週の土曜の夜おそくに姫路に行き、日曜日(3日)に先祖の墓探しと松平家の藩主の墓参りをしてきました。
一昨年の夏、速水家の3代目政勝さんのお墓を探しに姫路に行きました。
姫路にある、という記録だけで、お寺がわからないので、
その当時藩士のお墓がたてられたお寺を片っ端からさがしたのですが、
なにせ二百年以上まえのお墓です、しかも下級武士の。
そのときのブログはここ。
結局見つかりませんでした。
しかし、今年にはいってそのブログをみた地元の方からコメントをいただき、
景福寺には古い藩士の墓があり、松平家の藩主のお墓もある、と教えていただきました。
それから気になってしょうがなく、機会があればもう一度とおもっていました。
さらに調べてみると姫路には、藩主の墓が書写山圓教寺にもあることがわかりました。
多分先祖の墓をみつけるのは難しいだろうとおもったのですが、
速水家が武士の時代に仕えていた藩主のお墓がわかったのならお参りにいってもいいのではないか
という気持ちが強くなってきました。
なんだか自分でも変だとおもうし、誰が聞いてもどうして藩主の墓参りなんかするの?という話しだとおもうのです。
でもしたいとおもうのだから仕方がありません。
行ってきました。
さて、天気予報ではくもりから雨、昼ごろからは大雨の予報も。
山で墓探しといえば雨ではたいへんなことになります。
急ごう、とおもい朝食もそこそこに墓探しをする予定の景福寺へ。
一昨年のときも真っ先に来たのですが、墓地に行く道がわかりませんでした。
今回は大丈夫。
本堂の横にある引き戸を恐る恐るあけて、墓地にはいり、山に登る道をみつけました。
無縁のお墓もたくさんあるようで、整理のための札があちこちの墓にかかっています。
政勝さんのお墓をさがすより前に、とにかく山頂にある4代藩主松平明矩(あきのり)のお墓参りをとおもい、
登っていきました。
道はそれなりにあるのですが、人っ子ひとりいません。
ちょっとした物音にもなにかいるのかとビクッとしてしまいます。
うっそうとした山の斜面にはたくさんのお墓があり、上にいくにつれちょっと怖くなってきたのですが、
ここで引き返すわけにはいきません。
たくさんのくもの巣を小枝とタオルで払いながら上にむかいます。
やぶ蚊がものすごいのです。
立ち止まって写真をとろうとすると、カメラを構えた手に一瞬のうちに真っ黒になるほど無数の蚊がとまります。
びっくりです。
そうして20分程登って山頂についたのですが、藩主の墓がありません。
写真をもっていったのですが、いくら探しても当てはまるものはなく、どうしようかとおもいました。
しかたがない、山を降りてお寺の方に聞いてみよう。
僧侶の方が、松平明矩の墓はもう一本別の道があって、そちらを登っていくとある、と教えてくださいました。
そちらは道が急ですからくれぐれも気をつけて、といわれました。
たしかにそうでした。
狭くて急勾配の道に石段がところどころにある程度で、
両手をつかわないと登れないほどでした。
そうでなくても骨折したばかりで、また滑って転ぶわけにはいかない、と慎重のうえにも慎重に足を運びます。
目印の水桶をみつけ、ほどなく墓に着きました。
そうだとは聞いていたのですが、とても荒れていました。
広い平らな敷地に五輪塔と亀の背に乗った墓碑銘と石の門のみ建っていて、
石の扉も柵もすべて倒れていて、多分塀に使われていたとおもわれる瓦も多数散乱していました。
しばし見て回り、丁寧にお参りをさせてもらいました。
すると雨がポツポツと降り始めました。
下りはもっと気をつけて、枯れ枝を杖にして一歩づつ降りていきました。
途中でいくつかお墓をみていきましたが、とてもたくさんあるのと、古いお墓は文字も消えかかっていて、
すぐには政勝さんのお墓はみつけられそうにありません
この景福寺には現在4000(!)もの無縁のお墓があるそうです。
そのどこかにあるのかもしれないとおもい、多くの無縁の霊にむかってなんどもなんども手を合わせました。
景福寺をあとにする頃には雨は本降りとなってきました。
次はバスに30分ほど乗って、書写山圓教寺にむかいました。
山のふもとに着いてからロープウエイにのり、
おりたところからまたマイクロバスで本坊へむかいます。
ここは千年以上の歴史のある天台宗のお寺で西国第27番目の霊場でもあり、
僧侶の修行道場として「西の比叡山」ともよばれていました。
最近では映画「ラスト・サムライ」のロケ地としても有名です。
傘に雨合羽も着て歩いて奥へむかうと、とても立派なお堂があらわれました。
重要文化財にもなっている大講堂、常行堂、食堂です。
雄大で力強く、素朴でありながら圧倒されるほど美しいのです。
深い山に抱かれたその威容にしばし見とれてしまいました。
中に入るとまたとても重厚なつくりで、回廊に座って外を眺めれば、
いつまでもいつまでもその場にいたいとおもうほどでした。
この一角にはやはり姫路藩主であった「本多家廟所」もあり、そこがまた独特の素晴らしさでした。
さて3つのお堂からすぐ先に松平家墓所があります。
ここは松平家初代の直基(なおもと)のお墓です。
土壁の塀に囲まれ寄進の灯篭がたくさんならんでいます。
係りの方が入り口の柵をはずしてくださったので、中にはいることができました。
石の門と柵の中には「空・風・火・水・地」と刻まれた五輪塔があり、戒名や没年が記されています。
それは先に見てきた4代松平明矩の五輪塔とほとんど同じものでした。
石の門もほぼ同じで、多分あの荒れ果てた景福寺の墓所もこのような墓だったのではないだろうかと想像されました。
あまりの落差に心が痛みます。
ちょうど墓所に着いた時には雨がやみ、写真をとったり、ゆっくりとお参りをすることができました。
しかしまた雨は降りだしてきて、急いで山をおりることにしました。
今回もまた速水家3代の政勝さんのお墓は見つけられなかったけれど、
気になっていた2人の藩主の墓参りができて満足しています。
バスで姫路駅に戻り夕方の新幹線で帰路につきました。
なんやかやと落ち着かない生活をしていて、ブログの更新が間延びしています。
九州の旅行記が3週間もかかってしまい、読んでくださっている方に申し訳ない。
さて10月に入って最初の日曜日に藤沢のEさんに誘われ、横須賀見学に行ってきました。
これは堅曹さんの姉の子孫にあたるEさんが、
ご自分の先祖、川越藩士だった遠藤鐘平さんらの足跡を調べて、
黒船がやってきた幕末の時代、浦賀が含まれる相州警備の任についていたことがわかった。
堅曹さんの日記にも記述があります。
弘化三丙午年 (堅曹)歳八
相州二異国船来ル 鐘平出張ス
[速水堅曹履歴抜粋甲号自記]より
川越藩は江戸湾岸の警備を仰せつかり、藩士らは相州の地の浦郷、大津、鴨居の陣屋に行き多くの台場を築造したという。
その陣屋の跡地や有名な浦賀湾、ペリー来航の記念館などを見学しようと、
Eさんがいろいろと調べて準備をしてくださった。
いまでは様変わりをしていて、ほとんどが解説板があってここがそうだったのか、とか
古地図と現在の地図を照らし合わせて場所を確定したりするしかありませんでした。
そこで海から陸地を眺めて、湾の広さや入り江の具合などを見学するのもいいかもしれない、とクルージングを取り入れた見学となりました。
さて、当日はとてもすばらしい秋晴れとなり、
こころウキウキして集合の横須賀中央駅に向かいました。
三笠桟橋からシーフレンドⅢ号に乗り、猿島経由で観音崎まで行きます。
所要時間35分。
船からは昔川越藩の陣屋があった大津陣屋のあたりの地形を見ました。
下船して観音崎灯台にむかいます。
ここは明治2年日本ではじめてつくられた洋式灯台で、現在は3代目です。
穏やかな東京湾が目の前に広がります。
灯台の少し先のところには川越藩がつくった鳶ノ巣台場がありました。
ここからは自動車で移動します。
入り江に沿って車を走らせ、湾岸警備をしていた先祖たちが拠点とした場所を辿っていきます。
まずは東浦賀地区で鴨居陣屋跡。
案内板がありました。
有名な浦賀湾にいきます。
おもっていたより、ずっと小さな港です。
咸臨丸が出港するとき勝海舟が航海の無事を祈って、ここで断食をしたと伝えられている東叶神社を見ました。
小さな湾ですが渡し船があり、それに乗って向かい岸へ行き番所跡の碑をみました。
そこから浦賀湾西岸の先端にある燈明堂に行きました。
その先の突き出たところに千代ヶ崎台場がありました。
たっぷりと東京湾の浦賀海峡をながめました。
眼のまえには千葉の富津岬や鋸山が見えます。近いのですね。
大型客船、軍艦、漁船、タンカー等々、たくさんの船が行き交っています。
船好きなら一日見てても飽きないという。
遠く150年も前、ここに今まで見たこともない巨大な黒い蒸気船があらわれ、人々は度肝を抜かれたという。
その場にやってきて、実際に海辺にたつと、実にリアルな感覚にとらわれた。
先祖たちがそこに遭遇していたという事実は、絵空事ではなく現実味をおびた身近な話となり、気持が150年まえに飛んで行ってしまいます。
当時の人々の気持ちがわかるような気がして、不思議でした。
ほんとうにこの地に来てよかったとおもった。
先祖調べで幕末明治時代をちょこちょこ調べている私にとって、
開国のはじまりとなるこの大事件の場所に立てたことは、何にも代えがたい体験でした。
海辺の景色を満喫したあとはペリー公園へ。
伊藤博文の揮毫する大きな碑を見ます。
記念館も見学しました。
次はクルージングで海からながめた大津陣屋の跡地にむかいました。
9800坪という広大な川越藩の陣屋でしたが、現在それを示す遺跡は大津中学校の入口にある小さな石橋のみです。
最後は金沢文庫まで足をのばし、そこでちょうど行われている「幕末明治の横浜・金沢展」を見ました。
隣の称名寺も見学。
夕方まで、目いっぱいの横須賀見学となりました。
天気に恵まれ、下調べの完璧な案内は最高でした。
Eさんありがとうございました。
九州の旅4日目。
最終日9月27日、長崎。
泊まったホテルの目の前が長崎港。
堅曹さんは熊本三角西港から汽船平安丸にのり、長崎港に着いたのが明治21年4月5日。
3日後の4月8日午後、長崎港から乗船して下関、神戸をまわって横浜港へと帰った。
『六十五年記』より
同八日・・(略)・・午後一時去て知事来、暇ひを為して乗船す。此港にて
わが庭と思ふものから外国の 船賑わしき長崎の海
同九日下の関に着。上陸せず此港にて
あら浪をうしろに前の海原は 風も治まる下の関かな
同十日神戸に着。・・(略)・・
同十一日・・(略)・・十一時乗船、衆人送り来る。
大阪をひだりに右は淡路しま 船の出入る神戸港に
遠州は浪荒くして何の景色もなく、切に我家を思ひ
同十二日夜横浜に着。
その長崎港をしっかり見ようと朝早く起き、港へ行ってみました。
早朝なのに散歩している人や船を見ている人が多い。
よく見るとちょうど松ヶ枝埠頭に外国の客船が入港したようだ。
Costa Classica 52,926トン
接岸が行われていた。
気持ちのいい朝の空気を吸いながら、長崎港をゆっくりと歩いてみた。
きれいに公園に整備されている。
多くの船が出入りし、向かい岸には造船所もみえる。
大浦バント(海岸通)には
「旧香港上海銀行長崎支店」と「旧長崎税関下り松派出所」という建物が残っており、
当時の風情を感じさせる。
長崎港を満喫したあとは、ホテルの11階で朝食をとり、眼下に港を眺めた。
8:30 チェックアウトして長崎駅へむかう。
9:25 特急かもめ12号にのり、博多駅へ。
11:30 新幹線のぞみ26号に乗り継いで 16:14 新横浜着。
今朝、娘が出産をしたとの報を聞き、産院へ駆けつけた。
「あなたの生まれるときは長崎にいたのよ」って一生云いそうだ。
今回堅曹さんが訪れた九州を自叙伝に沿って追ってみたが、
文章を読んで想像していたのより、ずっと山道が多く、
こんな遠くからはるばる富岡まで、工女さんや先覚の人たちがやってきたのかとおもうと、
いったいどれほどの覚悟をもってきたのかとおもわずにはいられなかった。
日本の製糸業の先駆者が作った、それぞれの土地の嚆矢となる製糸場の跡地を見て、
当時の士族授産として、また民営の活力とするべく新しいことに挑んだ先人達の苦労の数々がしのばれた。
深く深く心に刻まれる旅となった。
九州の旅も3日目です。
9月26日、晴れ。
宿庵研屋の方の深々としたお辞儀に見送られ、
8:30出発。
まず、熊本城近くの公園にある「横井小楠をめぐる維新群像」を見にいきました。
これは平成12年(2000年)に建てられたものです。
長野濬平もあります。
次に大江町のダイエー熊本店のところにある、熊本製糸跡を見にいきます。
9:40 ダイエー着。
ここは長野濬平が明治5年に蚕業試験場を建てた場所で、その後明治26年熊本製糸となりり、
昭和55年まで代々長野家が経営してきた熊本製糸の跡地です。
駐車場の一角に製糸工場時代の大煙突の一部を残し、記念碑としています。
煙突の中には「熊本製糸大煙突の記」と
「昭和天皇の二度の行幸を記念して」という文章のレリーフがありました。
読んでみると、
「始祖長野濬平翁は城北の人、横井小楠先生の門下で養蚕立国を志し先進地を視察して明治五年県に建策しこの地に蚕業試験場を建てた。その後幾変転、明治二十六年熊本製糸合資会社を創立して尓後の基礎を築く。・・・・・」
なかなかにいい文章です。
敷地内には熊本製糸を引継いだ「東亜シルク㈱」もあります。
土曜日だったため、会社はお休みでした。
10:00大江町出発。
次に向かったのは南東へ20km程行った甲佐町です。
熊本市内から445号線と443号線を通っていきます。
ここは緑川沿いに「やな場」があり、そこを目指します。
そのやな場の駐車場に緑川製糸場の碑があるというのです。
緑川製糸場とは、明治8年長野濬平や嘉悦氏房らが、九州最初の器械製糸所として
群馬で修行をしてきた長野親蔵を支配人としてこの地に建てた製糸場です。
10:50 甲佐町 甲佐やな場着。
のどかな田園風景のなかゆったりと流れる緑川のほとりにそれはありました。
徳富蘇峰揮毫による石碑の上には糸車を手にした蚕神の像がのっています。
裏面にはやはり徳富蘇峰による製糸場の由来等がかかれた文章が彫ってあります。
昭和29年建立で蘇峰92歳の文章です。
となりには濬平の孫、長野簡悟の和歌の碑もあります。
徳富蘇峰は父の一敬が長野濬平と同じ横井小楠の門下生で、
熊本の養蚕製糸を近代化させるため一緒に尽力しています。
蘇峰の姉音羽もここで働いています。
そのようなつながりで自分が経緯を書き残しておかなければ、というおもいで筆をとったのだろうとおもった。
ダイエーのところの碑といい、この緑川製糸場の碑といい、また昨日見た長野家の碑といい、
百数十年前に先祖達がいかにしてこの地の蚕業の発展を願って奮闘してきたか、
きちんと伝えていこうという思いが伝わってきて、こころが熱くなりました。
熊本は明治初期から蚕業の近代化に取り組んでいたが、西南戦争で焦土となってしまい、製糸業の発展が遅れていた。
そんななかで長野濬平らが歯をくいしばって奮闘している、まさにその時期に堅曹さんは訪れているのです。
『六十五年記』には
同三日(明治21年4月3日)・・(略)・・長野濬平氏を訪う。帰路有志に招かれ一場の談話を為す。其論を二条に別ち、一を普通論とし一を専門論と為せり。
そしてその講演録がのっている。
九州の蚕業のためがんばっている人々にたいして、まるで愛児を励ます慈母のようだと形容された講演であった。
最後に堅曹さんはこう結んでいる。
「仏人曰く、仏国をして富国強兵の地位に達せしめしものは有力の政治家にもあらず、武勇の軍人にも非ずして、却て製糸家の業にてありしならんと」
さて、熊本での碑文めぐりは終り、
11:50 宇土半島の先、三角西港へむかいます。
218号線から3号線で宇土市を通って、57号線(天草街道)を使いました。
『六十五年記』より
同四日 衆人来寸暇なし。正午より忘吾会といふに行きて・・(略)・・五時半出発、宗嘉次郎氏の案内にて三角港に至る。・・(略)・・三角港浦島館に投ず。同五日書記官警部長と此港を一覧す。少しく狭隘なるも海深くして良港なり。午後三時平安丸の汽船に乗り、・・・(略)・・夜長崎に着す。
堅曹さんは熊本市内から三角西港まで、島原湾に面した天草街道と通ったとおもわれます。
距離は35~40キロくらいでしょうか。
当時、馬車で2時間の距離だといいます。
車で走ってみるとずーと海沿いでとても眺めがいい。
右手にはいつも島原半島の雲仙が見えています。
夕方の5時半に熊本をでた堅曹さん、
夕陽にそまる海の景色を眺めながら馬車にゆられていったのでしょう。
12:35 三角西港着。
さてこの三角西港は、訪れた前年の明治20年8月にできたばかりでした。
近代国家の威信をかけて国費を投じて築港された明治3大築港のひとつです。
堅曹さんも港を見学して感想を述べています。
現在は国の重要文化財として保存され、観光港となっています。
堅曹さんが泊まった浦島館も平成4年に復元されて港にあります。
ここは小泉八雲が『夏の日の夢』という紀行文の舞台にもなった洋館の宿でした。
現在はカフェと資料のパネルが展示されています。
中に入ってみます。
ベランダからは穏やかな海の姿の三角西港がみえます。
本来なら、『六十五年記』の記述通り、ここから船に乗り、長崎へ行きたいところですが、
現在ここから長崎へのフェリーはありませんでした。
そこで例の東京の熊本観光案内所で相談したところ、
もう少し先、天草まで足をのばして、そこから長崎の茂木港に行くフェリーがあるのを教えてもらいました。
海岸沿いを走り、景色もいいし、食べ物もおいしいから、と天草半島のドライブを勧められ、
事前に15:10の富岡港出港のフェリーを予約しておきました。
13:00 三角西港を出発。
ここでナビ検索をしてみると、まっすぐ走っていっても着くのは14:55とでた。
やばい、午前中から私の計画が押している。
昨日見る予定だった熊本市内の碑が、墓探しに時間がかかったため、今日にずれこんで、予定が狂ってきている。
急がなくてはいけない。予約のフェリーに乗り遅れると、次は2時間後です。
お昼ごはんもまだでしたが、食べてたら間に合わないかもしれない。
せっかく天草でおいしい海のものでも食べようかという目論見はご破算となりそうです。
天草半島を島原湾沿いにひた走ります。
いいお天気でしたが、どこにも寄らず、折角の天草パールラインの景色も見ず、
食事ヌキで・・。あぁ・・・。
走った甲斐あって出航40分前の14:30には苓北町の富岡港に到着。
しかし食べ物屋さんが何もない。
しかたなく、フェリー乗り場のレストランのピザを食べました。
とにかく、フェリーに乗っていざ長崎へ。
小さい小さい漁船のようなフェリーです。乗った車は2台だけ。乗客は4人だけ。
15:10 定刻どおり出港です。
目の前には長崎半島、西には島原半島とぐるっと半島の山々を見ることができます。
穏やかな海で、このあたりは天草灘という。
ずーっと山々に囲まれた湾のなかを船は進みます。
少し日が傾きかけ、水面にきらめく陽の光が美しい。
堅曹さんも午後3時の船に乗っているので、こんな光景を見ていたのではないだろうかとおもった。
16:20 70分の船旅を終えて長崎の茂木港に着きました。
ここから長崎市内までは「ながさき出島道路」を通って15分ほど。
17:00 長崎市内到着。レンタカーを返却。
3日間ご苦労様でした。
走行距離およそ500キロ。
ガソリン満タン分走りました。
さて、スーツケースをガラガラ引いて市電に乗り、今日の宿へと向かいました。
18:30 チェックイン。
つづく。