九州の旅も3日目です。
9月26日、晴れ。
宿庵研屋の方の深々としたお辞儀に見送られ、
8:30出発。
まず、熊本城近くの公園にある「横井小楠をめぐる維新群像」を見にいきました。
これは平成12年(2000年)に建てられたものです。
長野濬平もあります。
次に大江町のダイエー熊本店のところにある、熊本製糸跡を見にいきます。
9:40 ダイエー着。
ここは長野濬平が明治5年に蚕業試験場を建てた場所で、その後明治26年熊本製糸となりり、
昭和55年まで代々長野家が経営してきた熊本製糸の跡地です。
駐車場の一角に製糸工場時代の大煙突の一部を残し、記念碑としています。
煙突の中には「熊本製糸大煙突の記」と
「昭和天皇の二度の行幸を記念して」という文章のレリーフがありました。
読んでみると、
「始祖長野濬平翁は城北の人、横井小楠先生の門下で養蚕立国を志し先進地を視察して明治五年県に建策しこの地に蚕業試験場を建てた。その後幾変転、明治二十六年熊本製糸合資会社を創立して尓後の基礎を築く。・・・・・」
なかなかにいい文章です。
敷地内には熊本製糸を引継いだ「東亜シルク㈱」もあります。
土曜日だったため、会社はお休みでした。
10:00大江町出発。
次に向かったのは南東へ20km程行った甲佐町です。
熊本市内から445号線と443号線を通っていきます。
ここは緑川沿いに「やな場」があり、そこを目指します。
そのやな場の駐車場に緑川製糸場の碑があるというのです。
緑川製糸場とは、明治8年長野濬平や嘉悦氏房らが、九州最初の器械製糸所として
群馬で修行をしてきた長野親蔵を支配人としてこの地に建てた製糸場です。
10:50 甲佐町 甲佐やな場着。
のどかな田園風景のなかゆったりと流れる緑川のほとりにそれはありました。
徳富蘇峰揮毫による石碑の上には糸車を手にした蚕神の像がのっています。
裏面にはやはり徳富蘇峰による製糸場の由来等がかかれた文章が彫ってあります。
昭和29年建立で蘇峰92歳の文章です。
となりには濬平の孫、長野簡悟の和歌の碑もあります。
徳富蘇峰は父の一敬が長野濬平と同じ横井小楠の門下生で、
熊本の養蚕製糸を近代化させるため一緒に尽力しています。
蘇峰の姉音羽もここで働いています。
そのようなつながりで自分が経緯を書き残しておかなければ、というおもいで筆をとったのだろうとおもった。
ダイエーのところの碑といい、この緑川製糸場の碑といい、また昨日見た長野家の碑といい、
百数十年前に先祖達がいかにしてこの地の蚕業の発展を願って奮闘してきたか、
きちんと伝えていこうという思いが伝わってきて、こころが熱くなりました。
熊本は明治初期から蚕業の近代化に取り組んでいたが、西南戦争で焦土となってしまい、製糸業の発展が遅れていた。
そんななかで長野濬平らが歯をくいしばって奮闘している、まさにその時期に堅曹さんは訪れているのです。
『六十五年記』には
同三日(明治21年4月3日)・・(略)・・長野濬平氏を訪う。帰路有志に招かれ一場の談話を為す。其論を二条に別ち、一を普通論とし一を専門論と為せり。
そしてその講演録がのっている。
九州の蚕業のためがんばっている人々にたいして、まるで愛児を励ます慈母のようだと形容された講演であった。
最後に堅曹さんはこう結んでいる。
「仏人曰く、仏国をして富国強兵の地位に達せしめしものは有力の政治家にもあらず、武勇の軍人にも非ずして、却て製糸家の業にてありしならんと」
さて、熊本での碑文めぐりは終り、
11:50 宇土半島の先、三角西港へむかいます。
218号線から3号線で宇土市を通って、57号線(天草街道)を使いました。
『六十五年記』より
同四日 衆人来寸暇なし。正午より忘吾会といふに行きて・・(略)・・五時半出発、宗嘉次郎氏の案内にて三角港に至る。・・(略)・・三角港浦島館に投ず。同五日書記官警部長と此港を一覧す。少しく狭隘なるも海深くして良港なり。午後三時平安丸の汽船に乗り、・・・(略)・・夜長崎に着す。
堅曹さんは熊本市内から三角西港まで、島原湾に面した天草街道と通ったとおもわれます。
距離は35~40キロくらいでしょうか。
当時、馬車で2時間の距離だといいます。
車で走ってみるとずーと海沿いでとても眺めがいい。
右手にはいつも島原半島の雲仙が見えています。
夕方の5時半に熊本をでた堅曹さん、
夕陽にそまる海の景色を眺めながら馬車にゆられていったのでしょう。
12:35 三角西港着。
さてこの三角西港は、訪れた前年の明治20年8月にできたばかりでした。
近代国家の威信をかけて国費を投じて築港された明治3大築港のひとつです。
堅曹さんも港を見学して感想を述べています。
現在は国の重要文化財として保存され、観光港となっています。
堅曹さんが泊まった浦島館も平成4年に復元されて港にあります。
ここは小泉八雲が『夏の日の夢』という紀行文の舞台にもなった洋館の宿でした。
現在はカフェと資料のパネルが展示されています。
中に入ってみます。
ベランダからは穏やかな海の姿の三角西港がみえます。
本来なら、『六十五年記』の記述通り、ここから船に乗り、長崎へ行きたいところですが、
現在ここから長崎へのフェリーはありませんでした。
そこで例の東京の熊本観光案内所で相談したところ、
もう少し先、天草まで足をのばして、そこから長崎の茂木港に行くフェリーがあるのを教えてもらいました。
海岸沿いを走り、景色もいいし、食べ物もおいしいから、と天草半島のドライブを勧められ、
事前に15:10の富岡港出港のフェリーを予約しておきました。
13:00 三角西港を出発。
ここでナビ検索をしてみると、まっすぐ走っていっても着くのは14:55とでた。
やばい、午前中から私の計画が押している。
昨日見る予定だった熊本市内の碑が、墓探しに時間がかかったため、今日にずれこんで、予定が狂ってきている。
急がなくてはいけない。予約のフェリーに乗り遅れると、次は2時間後です。
お昼ごはんもまだでしたが、食べてたら間に合わないかもしれない。
せっかく天草でおいしい海のものでも食べようかという目論見はご破算となりそうです。
天草半島を島原湾沿いにひた走ります。
いいお天気でしたが、どこにも寄らず、折角の天草パールラインの景色も見ず、
食事ヌキで・・。あぁ・・・。
走った甲斐あって出航40分前の14:30には苓北町の富岡港に到着。
しかし食べ物屋さんが何もない。
しかたなく、フェリー乗り場のレストランのピザを食べました。
とにかく、フェリーに乗っていざ長崎へ。
小さい小さい漁船のようなフェリーです。乗った車は2台だけ。乗客は4人だけ。
15:10 定刻どおり出港です。
目の前には長崎半島、西には島原半島とぐるっと半島の山々を見ることができます。
穏やかな海で、このあたりは天草灘という。
ずーっと山々に囲まれた湾のなかを船は進みます。
少し日が傾きかけ、水面にきらめく陽の光が美しい。
堅曹さんも午後3時の船に乗っているので、こんな光景を見ていたのではないだろうかとおもった。
16:20 70分の船旅を終えて長崎の茂木港に着きました。
ここから長崎市内までは「ながさき出島道路」を通って15分ほど。
17:00 長崎市内到着。レンタカーを返却。
3日間ご苦労様でした。
走行距離およそ500キロ。
ガソリン満タン分走りました。
さて、スーツケースをガラガラ引いて市電に乗り、今日の宿へと向かいました。
18:30 チェックイン。
つづく。
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