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堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

長野濬平翁の顕彰会に行く②

2010-11-25 17:13:19 | 旅行記

21日、顕彰会当日になりました。

前の晩ホテルに戻ってから、講演の原稿を何度もチェックし、

今回ここに来ることになった長野濬平さんのご子孫の方たちとのメールのやり取り(コピー)を読み返しました。

数日前から講演することに緊張してきて、風邪をひきそうなのを薬で抑えながらも

気を目いっぱい張る事で体調を整えてきました。



朝起きると、とてもいい天気です。

市内から1時間近く車で走って、

午前10時前には山鹿市にある長野家の墓地に着きました。

黄金色の銀杏が美しい駐車場のところに真新しい碑があります。

「長野濬平先生墓所」と書かれていて今日の日付になっています。


Img_0486 長野濬平先生墓所の碑


そこから坂道をあがっていきますが、上までいったところでアッと息をのみました。

昨年来たときとは、全く違うといっていいほどの変わり様。


道を新しくつくり、そのまま長野家の墓地にはいれるようになっていて、お墓がみんなピカピカでした。

しかも地面にもすべて石が張られ、生垣も石の塀になり、まわりの雑木林がなくなり、

うっそうとした木々に囲まれていた墓域が、明るいピカピカの墓域に変わっていました。

しかし、お墓の石は同じものだし、同じ場所に建っている。


Img_0495 墓所の入り口




受付を済ませ、ご連絡をとっていたご子孫の方たちとはじめてお会いし、挨拶をかわしました。

そして真っ先に濬平さんのお墓に駆け寄ったら、

あまりにきれいになったのと、一年ぶりに会えた(?)感激で涙がでてしまった。


Img_0492 濬平さんの墓



時間となり墓前祭がはじまりました。

もう本当に素晴らしい天気で、堅曹さんいうところの「晴天和暢」の日とはこのようなことかとおもった。

まさに今が盛りの銀杏と紅葉が無彩色の墓地に鮮やかな彩りを添え、

そこに在るものすべてが喜びを表しているようでした。


2012 墓前祭の様子


011 墓前祭の様子



粛々と僧侶の読経がすすみ、焼香が行われました。

最後に全員で写真撮影。

眩しいくらいの小春日和の暖かい日差しに皆が笑顔になりました。



次は場所を近くの旅館に変えて「顕彰の集い」が行われます。

会場は和室の座敷でした。

最初は「長野濬平先生顕彰の集い」の総会です。

皆顔なじみのようで、座布団に、男性陣は胡坐というアットホームな感じで進行します。

プログラムの「記念講話」となり、最初に地元の先生のお話がありました。

続いて私が話しをする番です。


30分の予定で準備した原稿を持って、前の座卓へ行き、正座して話しをはじめました。

本当は原稿を完全に覚えようとおもったのですが、それは無理だったので、

チラリチラリと原稿を見ながらお話しをさせていただきました。

約60人の方が聞いてくださいました。


前半は堅曹と長野濬平さんの生涯にわたるお付き合いを語りながら

濬平さんの功績と器械製糸業の黎明期の話しをさせていただきました。

そして後半は私の昨年の九州訪問記を

堅曹の120年前の九州の旅とリンクさせながら話しました。

そして最後に堅曹が濬平さんの70歳のお祝いに贈った和歌3首を紹介しました。

この3首が本当にいい歌なのです。

私の話しなぞ無くても、この3首だけ紹介できれば本当に顕彰になる、とおもっていました。


なんとか無事に終り、ホッとしました。


それからは懇親会となり、馬刺しはもちろん、鹿肉のなべなどもあり、

たくさんの方たちと話しをしました。


ご子孫の方から、

先祖たちが本当に日本のためとおもってがんばってきた様子をはじめて知る事ができてうれしかった。

濬平と親蔵がまさにここにいるようだった、とおっしゃっていただきました。

私は言葉にならないほどうれしかったです。



そして会が終わったあとは、長野さんのご自宅にお邪魔をして、

心温まるおもてなしをしていただき、とても貴重な品々を拝見させていただきました。


Img_0502 手作りの栗と梅の甘露煮、美味!


140年も前に交流した人たちの子孫がこうして時を隔ててお会いすることができ、

先祖を語るひと時が過ごせるなどとは本当に夢のようなことです。

自分が自分でないような、いっぺんにたくさんの貴重な経験をさせていただき、

頭も心もいっぱいになりました。


そうしてご自宅から皆に見送られ、

私のようなものを暖かく迎えてくださったことに深く感謝をして

最終便の飛行機に乗り込みました。


長野濬平翁の顕彰会に行く①

2010-11-24 15:20:46 | 旅行記

11月20日、21日と熊本に行ってきました。

旅の目的は21日に行われる「長野濬平先生墓前祭、顕彰の集い」に出席すること、

そしてそこで少しお話しをさせていただくこと。



20日、朝9時45発の飛行機で熊本にむかいました。


Img_0376 羽田空港 SNA機


今回は同行者がいます。夢酔い人Kさんです。


さて、 晴天に恵まれ、絶好の行楽日和です。

熊本上空では阿蘇山根子岳のギザギザがきれいに見えました。


Img_0378 阿蘇山根子岳



お昼に熊本空港に着き、レンタカーを借りてまずは一路甲佐町へ。


ここは昨年一人でもきましたが、

緑川沿いにある明治八年につくられた、西日本で最初の器械製糸場、

緑川製糸場の跡地に立てられている石碑があります。


Img_0395 緑川製糸場跡の碑、和歌の碑


大きな蚕神が載っているとても立派な碑です。

隣には熊本製糸5代社長の長野簡悟さんの和歌の碑もあります。

裏に彫ってある碑文は徳富蘇峰92才のときの文章です。

川のほうに向かって建てられており、

何度みても、いい碑だな、とおもいます。



次は横井小楠記念館の「四時軒(しじけん)」に行きました。


Img_0402 横井小楠記念館 四時軒


ここは幕末維新期の開明思想家の横井小楠が開いた塾です。

長野濬平さんは横井小楠の弟子ですので、ここに通っていました。

秋津川沿いにあり、部屋からはたいへん眺めがよく、とても気持ちのよい場所でした。


Img_0418 四時軒の和室


Img_0416 縁側から


夢酔い人Kさんはとっても気に入ったらしく、縁側に腰掛けては、山を眺めていました。


熊本市内にむかって走り、近代の建物ということで熊本洋学校教師ジェーンズ邸を見ました。

結構場所が奥まったところにあり、周りをぐるぐるしてしまい、

たどり着くまでに時間がかかりました。


Img_0430 ジェーンズ邸


熊本に残る明治初期の貴重な洋館ということで、何度も移転しながら保存されているということです。

後の日本赤十字の発祥の建物にもなったところだと知りました。


次は同じく近代の建物で、よくテレビドラマにも使われている

五校記念館(現熊本大学)です。

だんだん日が沈みはじめ、明るいうちにとあせります。

赤門と呼ばれている正門をくぐり、奥のほうにある記念館まで急ぎます。


Img_0437 熊本大学 赤門(正門)


大きく立派な校舎がみえてきます。

色づいた銀杏や、樹齢を感じさせるクスノキやイヌマキが前庭にあり、

煉瓦つくりのどっしりと風格のある建物です。


Img_0438 五校記念館


Img_0445 五校記念館


全体の大きさの割りに入り口が小さいです。


Img_0447_2 入り口


となりには化学実験場の煉瓦の建物もある。


Img_0453 化学実験場


どちらも、風格と存在感が圧倒的です。

屋根には煙突と瀟洒な避雷針があり、東京駅のそばに復元された三菱一号館と似ているな、とおもいました。

どんどん写真をとり、日没となり、ぎりぎり写真に残せました。


最後は九品寺の交差点に行き、熊本製糸場があった場所に大煙突の碑がのこされているので、それを見ました。

いまは、ダイエーになっており、駐車場の真ん中にその碑はあります。


Img_0467 熊本製糸会社、大煙突の記念碑


予定していた見学場所のいくつかは時間切れで見ることができず、残念でしたが、

なんとか半日で5ヶ所まわりました。



そうして熊本でも繁華街にあたる水道町のホテルに宿をとったので、下通りで食事をしてあたりをブラブラ。


Img_0483 鶴屋デパートのクリスマスネオン


ものすごく賑やかで、

「熊本ば活気がありよるたい」(笑・メチャクチャな熊本弁です)、とおもったのでした。

つづく


宇都宮三郎の顕彰会「秋水会」

2010-11-08 03:05:36 | 旅行記

さて、10月24日(日)は名古屋から豊田市にむかいます。

明治時代の顕官宇都宮三郎の顕彰会「秋水会」に出席するためです。


しかし、それは昼からの予定なので、午前中時間があるといえばある。

ガイドブックをみていたら、名古屋市内でも空襲に遭わずに近代の建物がのこっている場所がある、と書いてあり

ちょっと行ってみようかとおもました。

徳川とか白壁とかいう地域だと書いてある。



タクシーでそのあたりまで行き、歩き回ってみました。

まずは豊田佐助邸を目指します。

佐助は発明王の佐吉の弟になります。兄の佐吉を支えた実業家です。

住宅街の中の道をいきますが、これが風情のある通りです。

武家屋敷を思わせる門と塀があります。

素晴らしい料亭もあります。


Img_0188 旧豊田家門・塀


日曜日の朝、小さなトランクをガラガラ引き、キョロキョロ建物や塀を見回しながら歩いている旅行者など

私くらいなものでした。


目的の豊田佐助邸に着き、中に入ってみました。


Img_0201 豊田佐助邸


大正時代の実業家の建物ということで、当時の住宅によくある洋館と日本家屋がつながった建物でした。

洋館には漆喰の高い天井にシャンデリアの応接間、廊下のガス灯、

地味だがよく見るとそこかしこに凝った意匠が施されている和室等があり、なかなかよかったです。



Img_0215 和室



佐助邸をあとにして、もう豊田市へむかわなくてはいけない時間になりました。

また、ここには今度ゆっくりきて、とおもい名古屋駅へむかい、豊田市へ。




午後1時に主催者のMOJOさんと豊田市駅近くの「豊田市近代の産業とくらし発見館」で待ち合わせ。

何度も訪れている小さな素敵な博物館で、ここは開館5周年ということで、

蚕をそだてるために育てた桑の葉で手作りしたお茶を記念品でいただきました。

あと、来年のカレンダーも。(うれしい!)


Img_0295 桑茶とカレンダー




さて会場となる豊田市畝部西町にある幸福寺に着きました。


Img_0271 幸福寺境内


ここははじめて訪れてから3年がたちます。

そのときは堅曹さんの友人である宇都宮三郎のことを調べていて、

このお寺にお墓があり、遺品も保存されているとお聞きして、

MOJOさんに連れてきていただきました。


顕彰会はまだ木の香りがする改装なった庫裏でおこなわれました。

最初にMOJOさんから「秋水会」とは宇都宮三郎の雅号であり、

戒名にも使われている「秋水」からとったという説明があり、今回が記念すべき第一回目。

とにかく気楽な会で、資料を見ながら宇都宮三郎のことを偲んで話しができればいいとあいさつされました。


まずは、お墓参りから。

このお墓の事をおもうと本当に偉い方だと私はおもいます。

生前自分の先祖のお墓をすべて整備して、立派な墓地をつくり、

その一段下がったところに自分たち夫婦の墓を建てる。

なかなか出来る事ではありません。


Img_0256 宇都宮三郎夫婦の墓



庫裏にもどり、たくさん並べられた遺品や資料を前にMOJOさんが説明をしてくれます。


Img_0263 遺品や資料


遺品の刀があります。

ちゃんと研いであり、毎年MOJOさんが宇都宮三郎の命日に手入れをしていますので、

ほんとうに、ギラリ、という感じです。


大礼服と帽子、サーベルもあります。

服の大きさで体格がわかります。かなり細身です。

生地や裏地も装飾の金モールも、間近で見ました。ちょっと触りました。

フランス製だというので、その金モールはきっとフランスのリヨンでつくられたのだとおもいました。


そして国からの辞令書は本当にきれいで、しみひとつない状態です。

こんなに間近に近代の資料を見たり触ったりする機会はめったにありません。

そういう時は本当に我をわすれて興奮している自分がいます。

いつまで見ててもあきません。


そう宇都宮三郎がお墓を建てた頃のお寺の絵図もでてきて、

今とくらべて、ご住職が子供のころの様子などをはなしてくださったのもとてもよかったです。

集まった方たちと、それらの資料を前にいろいろ四方山話をして、

本当に楽しく、あっという間に時間がたってしまいました。


ご住職とご家族が宇都宮三郎のことを心から敬愛していらっしゃることがすばらしい。

MOJOさんが宇都宮の個性に惹かれて一生懸命おやりになっている熱い思いも素敵です。

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帰りにMOJOさんに、これから回を重ねて将来大人数になったとき、

1回目はこんなだったね、と話したりできるようになるといいですね、と言いました。


なんだか心がホッコリと暖かくなった顕彰会でした。


日吉神社と善学院

2010-11-02 02:54:12 | 旅行記

さて、岐阜の大垣の北に安八郡神戸(ごうど)という町があります。

歴史のある古い町で、建立から1200年ほど経つ日吉神社があります。

ここに国の重要文化財にも指定されている三重塔があり、これを見にいきました。


なぜかというと、原三溪の母の実家がここにあり、

幼少のころ三溪はよくこの三重塔をみていたとおもわれるからです。

幼少の記憶というか、彼の原風景がこの塔であるので、

今の横浜の三溪園の三重塔がシンボルのように建てられたのではないか、といわれています。

外祖父である南画家の高橋杏村の遺伝子と、この地でその長男から習った絵画の素養が

彼の審美眼となり、数寄者としての面を育てたとも考えられます。


このような話しをよく原三溪市民研究会でしていて、一度近くまで行ったら寄ってみたいとおもっていました。

実はこの三重塔は今年の8月に落雷で火災が起き、上部のほうが焼けたと新聞で報道されていました。

見に行こう、行こう、と思いながら果たせないうちの出来事に、しまった!とおもいました。

ですので今回はその被害がどの程度のものなのか、

もしかしたら修理が行われていて、見ることはできないかもしれない、と

不安をもってでかけました。



名古屋市内から車で1時間弱くらいで着きます。

養老線の「広神戸」という駅のあたりから旧家が目に付くようになり、旧道に大きな石の鳥居があります。

そのまままっすぐに行くと日吉神社の入り口となり、灯籠の並んだ参道が続きます。 


Img_0137 日吉神社入り口

  


突き当りに拝殿があり、その先が社殿となります。


Img_0119 社殿


三重塔はどこにあるのだろう、ともおって拝殿のところまでいくと右側にスクッと建つ塔がありました。

ああ、これが三重塔だ!


Img_0125 三重塔


Img_0096 三重塔


写真では見ていたけれど、実物は思い描いていたものと全く違っていました。

火災の被害もたいしたことはなく、

一番上の屋根の一部にバンドエイドをペタンと貼ったような補修が行われていました。

よかった・・・。


Img_0103 火災の補修


その苔むした桧皮葺(ひわだぶき)の屋根や、細部までしっかり組み込まれた木材の古色は

建立から500年以上という年月をしっかりと感じさせてくれ、素晴らしい!の一言です。


Img_0114 屋根


Img_0094_3  三重塔



そしてなんともいいいようのない、畏敬を感じさせる佇まい。

語彙が少なくてうまく言い表す事ができないが、その存在感は実物を目の前にした者にしか

感じることができないであろう、とおもえた。

来てよかった。

本当にいいものをみせてもらった。



さて、次は同じ町内にある「神護寺善学院」にいきました。


Img_0149 神護寺善学院


ここは天台宗の古刹で歴史は古く、寺の名が表しているように、日吉神社を守るためにたてられたお寺です。

この地はまさに神仏習合の時代そのままの神社と寺が一体となって残っています。


ここに原三溪が外祖父の高橋杏村を顕彰する碑を建てています。

一昨年、三溪研究会で岐阜を訪れた時はここに寄っていますが、

そのときは、碑文の文字を確認することに追われ、しっかりお寺やまわりの景色をみていなかったのです。

それで、再度訪ねてみました。


Img_0143 高橋景羽墓表


杏村を称える「高橋景羽墓表」は森林太郎(鴎外)撰文、宮島大八揮毫の立派な石碑ですが、

それの建つ場所はまわりに池がつくられ、瀟洒な庭の風情が整えられていました。


Img_0141


お恥ずかしい話しが、こんなだったっけ?とおもいました。

池があったことさえ記憶にありません。


『原三溪翁伝』には 

   「大正八年神戸町有志と謀つて三溪翁は善学院境内の兆域を修治し園林の趣を作り

    一大碑を建立した。」    

   「庭内に小公園の面影ある一隅に丈余の高さに聳ゆる記念碑がそれである」

という記述があります。


一昨年のときもこの部分は読んでいて、園林の面影を探すつもりだったのですが、

大勢で押しかけていって、たった10分の見学では、全くわからなかったというのが本当のところです。


Img_0146


よく見ると、すこし荒れてはいるが三溪園に通じる庭の面影があるようにおもいました。

門の中にはいると、やはり古い本堂があり、特に鐘楼はとても趣のあるものでした。


Img_0153_2 鐘楼


ゆっくりと散策をして名古屋にもどりました。


翌日は宇都宮三郎の顕彰会に豊田市まで行きます。


名古屋製糸所

2010-10-29 12:44:56 | 旅行記

23日の土曜日の朝、新幹線で名古屋に行きました。

お昼に着き、まずは昼食ということで、迎えにきてもらった息子と

駅近くの柳橋中央市場でお寿司を食べました。

シャリがちょっと甘めだけどとてもおいしかった。



さて、最初に向かったのは市内にある名古屋鯱バスの車庫。


Img_0089  鯱バス本社


ここに明治期に建てられた名古屋製糸所の建物の一部が寮になって残っているのです。


名古屋製糸所とは、三井が富岡製糸所を払い下げられてから製糸事業にのりだし、

明治29年につくった器械製糸場です。

その後、原合名会社が三井から富岡製糸所を譲渡される時に

大嶹製糸所、四日市製糸所と一緒に一括で引き受け、経営していきました。



あらかじめ場所を調べていったので、近くまでいくとすぐにわかりました。

門の外からもすぐに見え、中にはいって写真を何枚か。

外観はレンガ造りのデンとした建物で時代を感じさせますが、

近づいてみると、え~!なんとレンガのうえからペンキ(?)が塗られている!

なんなのこの色は!という感じです。


Img_0087  寮


窓枠も四角いものがあとからはめられているようで、ペンキの下に、うっすらと

富岡製糸場の窓枠みたいにアーチ型のレンガが残っているのが見える。

それにしてもすごい色だなあ、とおもう。

地面との境のところから、本来のレンガをかろうじてみることができました。


Img_0085  本来のレンガ



バス会社の方が出てきてくださったので、少しお話を伺うと、

この建物は新人バスガイドさんの寮としてつかっているということです。

外観は古いままですが、中は全く変えていて、個室がたくさんある形になっているそうです。

明治時代の建物ですよね、と聞くと

そういえば明治村の人が移築するかどうか見にきたことがあったなあ、と話してくれました。



なんだか期待してきたのだけれど、ちょっとがっかり。

でも実際に建物を使いながら残していくとなると、

こうして、防水のためか外壁保護のためかわからないけれど、

レンガの上から塗装でもしなければ、使っていけないのかもしれませんね。

現実を考えさせられました。

次は岐阜へ向かいます。