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堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

九州の旅②

2009-10-06 23:39:31 | 旅行記

九州の旅2日目。

9月25日、晴れ。

朝8:45にホテル出発。

まず目指すは竹田市。


『六十五年記』から。

同三十一日知事始衆人来、雨中小野惟一郎熊本県宗嘉次郎の両氏案内にて発足し、夕竹田に着。直に当所製糸所を一覧し、夜四山社々長始郡吏等衆人来、工商業の事を談話し、四月一日竹田を出立、龍田村に一泊し、同二日熊本に着。研屋に寓す。大分より熊本迄の間、道路堅固にして美景なり。野津原より竹田迄景美景、田能村竹田の出たるも偶然に非らずと感ず。竹田は谷間の市街なり。


大分から竹田までは、『大分今昔』によると、

明治の中頃、熊本街道ができ、大分~竹田間は馬車道路として拡張整備されたということです。

朝大分をでて竹田に着くのはだいたい8時間の行程だったとか。

堅曹さんが通ったのもたぶんこの道で、客馬車だったとおもわれます。

出発は昨日訪れた大分製糸所のあった大道町からです。

大道トンネルをぬけて豊後街道から今市街道(442号線)にはいり一本道をいきます。


Cimg9889 今市街道にはいります。



野津原は古い街で市役所支所などもあり、「のつはる」と読むのを知りました。

野津原から竹田までは山越え。


Cimg9895  野津原すぎたあたりの景色


途中までは新しく快適な道。

しかし、その先は「路肩注意」の立て札のある旧い山道になりました。

バスとすれ違う時はバックして、久しぶりに怖いとおもった。


堅曹さんは野津原より竹田までたいへん景色がいい、

田能村竹田(たのむらちくでん、1777~1835 江戸後期の文人画家、豊後竹田出身)が

出たのも偶然ではないと感じた、と書いていますが、

山を登りきったあたりは、ほんとうに美しい景色でした。

ただ、1人で運転して、停めるところもほとんどないので、

走りながらチラッ、チラッとみるだけで、写真に撮れなかったのが残念です。



山を少しづつ降りて、朝地町から57号線で竹田の街へ。


Cimg9901 朝地町あたりの景色


竹田は本当に谷間にある街でした。

10:00 竹田着。

古い歴史を感じさせます。

この地につくられた製糸会社、四山社(しさんしゃ)の跡地にむかいます。


Cimg9906 豊後竹田駅


跡地は街を囲むように流れている稲葉川の大きくカーブするところにあり、

現在は老人ホームや病院になっています。

Cimg9921   四山社跡地


Cimg9920 四山社跡地


川べりを整備していて、田能村竹田の絵のレリーフなども設置されていて、

場所としては街中で、いい場所である。

そこを確認してから、旧竹田荘という田能村竹田の生家と市立歴史資料館を見ました。

11:30 出発。



次はまた57号線で山を登っていきます。阿蘇山の北側を回ります。

坂梨までは一本道です。


『六十五年記』より

是より坂梨村まで都て(すべて)山上を行季候(いきそうろう)。甚(はなはだ)寒く、然れども山間の美景云う可きなし。殊にスカルガ瀧並(ならびに)清正公の作れる水門等、最も珍らし。


12:00 この文章にある交通の要所であり、古い宿場町であった坂梨村に着く。

ここには旧道(豊後街道)を残していることが偶然わかり、そこを通ってみた。


 

Cimg9951_2  坂梨村の豊後街道  


文久4年に勝海舟と坂本龍馬もこの通りを歩いたという。

150年以上も交通をささえている天神橋もあり、

たしかにこの道を堅曹さんも通ったんだと実感させられました。


Cimg9955_2 天神橋(弘化4年1847造)



次は数鹿流ヶ瀧(スカルガ瀧)をめざして山の上の道をいきます。


Cimg9956 阿蘇の山並み


堅曹さんが甚だ寒く、と書いているように、道路上にときどき気温表示器があり、

それによると26℃→ 24℃→ 23℃→ 22℃とだんだん下がっていきます。

この時、たぶん平地では30℃ぐらいだったとおもいます。確かに寒いと感じたとおりです。



国道57号線を走っていくと阿蘇大橋の手前に数鹿流ヶ滝の駐車場があります。


Cimg9961 駐車場


12:40 そこに車を停めて、国道脇の道を案内通りに5分ほど歩くと

滝の音がごうごうと聞こえ、展望所にでました。


Cimg9973 展望所


徳富蘆花の小説の碑などもあります。

すこし遠いですが、豪快な滝がみえました。


Cimg9985 数鹿流ヶ滝


Cimg9990 数鹿流ヶ滝


すごい水量です。

もっと近くで見たら、とんでもない迫力でしょう。


当時はどこから眺めたんだろう、とおもい

駐車場へもどって、もっと滝の近くまでいけないか地図とにらめっこ。

大体の見当と勘で阿蘇大橋を渡って、反対側の小学校などある村から奥に入ってみる。

だいぶ進んで川べりまでいったが、滝壷のそばへはこれから先、徒歩で

道なき道を進むしかないみたいで断念しました。


阿蘇大橋の上からも正面に数鹿流ヶ滝がみえます。


Cimg0008 阿蘇大橋から見える数鹿流ヶ滝


ここからの景色もなかなかです。ゴーっという音が聞こえてきます。



13:40 阿蘇大橋を左にみて、また57号線を熊本市内にむかって走っていきます。

大津から弓削にかけて旧道の大津街道がのこっています。


Cimg0020 大津街道


ここは加藤清正が整備した道で、杉並木で有名な道でした。


Cimg0025 杉並木の説明版


400年たった今も木々が保存されて「日本の道100選」にもなっています。


弓削まで行くと、龍田という地名がでてきて、このあたりに堅曹さんは一泊したんだと確認できました。

さあ、ここで清正公のつくれる水門、というのはどれか?


東京にある熊本の観光事務所で聞いたところ、白川のところにあったという。

しかしいまは痕跡はあるが、詳しい人に案内してもらわなければ探すのは難しいということだった。


それで泊まった龍田村付近の白川を確認。


Cimg0037  白川


Cimg0039 白川



ここからは57号線と九州自動車道のまじわる熊本インターから高速にのり、

堅曹さんの行程とはちがうところへむかいます。

山鹿市です。

ここは明治3年堅曹さんが日本ではじめて器械製糸所を始めた時に、

真っ先に九州からかけつけて伝習をうけた横井小楠の弟子、長野濬平のふるさとであり、

お墓があるところです。

富岡製糸場の所長時代、右腕とたのんだ長野親蔵の養父でもあります。

『六十五年記』を読むと、堅曹さんが熊本に行ったのは

長野濬平に会うのが大きな目的だったのではないかと思われました。

だから、できれば長野濬平のお墓参りがしたいとおもった。


あらかじめ古書をよんだり、近くのお寺に電話して、だいたいのお墓の場所をきいた。


15:10 山鹿市着。

昨今大きく山を開発して「あんずの丘」という公園になっていて、はたして昔の墓がそのままあるかどうか。

近くのお寺(以前は菩提寺だがいまは違うという)でたずねたところ、

長野さんの墓なら山の一角に有る、と教えてくれた。

しかし探している長野さんのがあるかどうかはわからないという。

その山の墓地にいくまで少し時間がかかったが、とにかくたどり着いた。


驚いた、長野さんの墓だらけである。その数5,60基。いや7,80基か。


Cimg0065 長野家ばかりの墓地


濬平さんのお墓がどれか、ひとつひとつ墓誌や側面に彫られている名前をみていく。

昨日も同じようなことをしていたなぁ、とおもう。


全部見てもそれらしき墓はない。

困ったな、とおもい墓地から夢酔い人KさんへSOSの電話をした。

現在の当主の名前や濬平さんの親や親戚の名前など聞いた。


それでもみつからず、あきらめて帰ろうとおもったその時、

木々にかこまれた奥の引っ込んだ一角に「長野」と書かれた碑があるのが見えた。


Cimg0081 「長野家榮域」と書かれた碑


もしや、とおもいそこにいくと、

低い塀にかこまれ、いくつもの碑がある立派な墓域があらわれた。


Cimg0087  長野家の墓域


Cimg0085 徳富蘇峰撰文の長野家祖先碑


濬平さんのお墓をさがした。

あった!!


Cimg0088 長野濬平の墓

もっていったペットボトルの水をかけて丁寧にお参りさせていただいた。

とてもうれしく、ホッとしました。


時計はもう17時をまわっています。

いそいで写真におさめ、だいたい撮り終ったところでカメラの電池切れ。

ギリギリセーフでした。



さあ、これで探索もおわり、今日の宿 「宿庵研屋」にむかう。

ここは堅曹さんがとまった宿で、現在6代目が継いでいる。

当時は熊本市内の船場にあり、18年前に市内から20分ほどの山の中腹の現在地に移転している。

たいへんに高級な宿であり、宿泊するかどうか迷ったが、堅曹さんを追いかける旅で、

現存しているところはほとんどないのだからとおもい、思い切って予約をした。


Cimg0139 明治時代の研屋の様子、版画


19:05 宿庵研屋 到着。

若おかみとは先祖がここに宿泊したことを話したり、

当時の研屋の様子や、この100年余の変遷を聞かせてもらったり。

予想をはるかに超える、最高のおもてなしで、最高の料理。

至福の一夜でした。


Cimg0115_2 泊まった「花の間」


Cimg0149 部屋からの景色(翌朝)


Cimg0120 夕懐石のお品書き


満足、満足。

つづく。


九州の旅①

2009-09-29 23:52:34 | 旅行記

9月24日シルバーウィーク明け初日。

7:35 羽田空港発 スターフライヤーSFJ073便に乗り、一路北九州空港へ。


Cimg9745 スターフライヤー機


今回の旅を考えたとき、最初にこの「スターフライヤー」に乗れるんだ、とわかっただけで、

すぐに行くことを決めました。

いつか乗ってみたい!とおもっていた飛行機。

スタイリッシュな黒いボディーで内装も黒一色、しかもかなり料金が安い。



Cimg9737 北九州空港に進入


9:15 北九州空港着。

予約していたレンタカーを借りて、9:35 いざ出発!

車はSクラス、トヨタのヴィッツ。



めざすは中津。ご存知福澤諭吉の出身地。

ここには明治12年に福澤らが中津藩士授産のためにつくった「末広会社」という製糸所がありました。

中津の器械製糸については

明治12年、堅曹さんと福澤諭吉が会って意気投合、製糸について面倒を見ましょう、という話になり、

翌13年に25名の工女が富岡製糸場に伝習にきたり、

直輸出の同伸会社の海外支店に福澤諭吉の弟子を派遣する、というつきあいになっていきました。


この旅のはじまりは、堅曹自叙伝『六十五年記』には次のように記されています。

同廿日(明治21年3月20日)花房次官と倶に大分県に出張す。途中我は中津に立寄、同所製糸会社に至り業場一覧、社中に緊用の件を演説して夜宇佐に着。次官と倶に宇佐八幡に参詣し夕大分に着。

この同所製糸会社は「末広会社」のことです。

場所を確定してみました。

「中津市三ノ丁」というところまでは調べがついていたけれど、はたしてすぐにわかるか?


10:56 中津市三ノ丁に着く。

小幡記念図書館駐車場というのがあり、そこに車を止めたが、三ノ丁も広そう。

どこだろう?

中津城のまさに目の前の一角である。お堀が保存されている。


Cimg9749 中津城のお堀


近くの人に図書館の場所を尋ね、行ってみる。

角をまがると古い門が見え、ここは福澤諭吉らがつくった「中津市学校」の跡地であることがわかった。


Cimg9753 生田門(中津市学校、現南部小の校門)


連休あけなのに、この図書館は開いていてラッキー。(大分市の図書館は全部休み)


司書さんに古い地図はありますか、末広会社という製糸所の場所を確定したい、と相談すると、すぐに調べてくれた。

時間はありますか? 次の予定があるのであまりない、というと

10分後くらいに

「『中津市史』と地元で調べている人のHPから「中津カトリック教会」のところだとわかりました」

と教えてくれた。ありがたい。

すぐに行ってみる。


Cimg9763 中津カトリック教会(末広会社跡)


カトリック教会は「中津市学校」の目の前。

昔は中津城の堀のすぐ外側で、上士の住居のあったところである。

福澤らの息のかかった場所であるのが一目瞭然だ。


中津の町は歴史を感じさせる落ち着いた街で、非常にいい雰囲気でした。

このあと福澤諭吉の旧宅に行ってみる。


Cimg9781 福澤諭吉旧居


諭吉は下士の出なので、城よりすこしはなれた場所である。

昼頃には次の訪問地、宇佐八幡に着いている予定が、図書館に寄ったりして遅くなり、

12:00 中津出発となる。


おなかが空いたが、宇佐八幡にとにかく急ごう。

門前になにか食べるところがあるだろう、とおもって、中津のおいしそうなお店を横目でみながら走っていく。



12:45 宇佐八幡に到着。

あれ、食べ物やさんがない。しょうがないから、とにかく空腹のまま見学をする。

広いし、本殿までは30分はかかると聞いていたので、敷き詰められた玉砂利を踏みしめてどんどん参道をあがっていく。


大きな鳥居が風格を感じさせる。


Cimg9791 宇佐神宮 大鳥居


「下乗」とか「皇族下乗」とかいてある木札を見て、

堅曹さんはこのあたりまで、馬車で乗りいれたのだろうか、などとおもう。


本殿のところまで上がりきり、拝見。そのまま降りてくる。


Cimg9803 宇佐神宮 勅使門


天気は晴天。暑いです。

東京はすっかり秋の気配で涼しかったので、そのつもりだったが、

九州はまだ夏、31度とか。

皆、日傘をさしています。

神社は日陰がないし、また焼けそう。



13:30 腹ペコのまま車にのり、次の予定地大分市を目指します。

どこか途中でご飯をたべよう。

宇佐から大分までは時間節約のため

高速道路「宇佐別府道路」と「大分自動車道」にのりました。

2:45 別府湾SAでやっと昼食。

地鶏親子丼と貝汁。おいしかった。レバーも皮もはいった親子丼でした。


Cimg9822_2 地鶏親子丼


ここは高所にあるため、別府湾が一望できる、すばらしく景色のいいSAです。


Cimg9818 別府湾


たぶん堅曹さんは現在10号線の豊前街道と日向街道を通っていったはずだから、

もっと海沿いで、こんな景色は見ていないだろうとおもった。



さて、3:10 大分市内に入りました。

ここでは明治21年につくられた「大分製糸所」の跡地に向かいます。

『六十五年記』には

同二十七日各県の人々来て頗る多事。漸く午後当所製糸所に無案内にて行き彼(小野惟一郎)予備せざるところを綿密に見分す。流石小野氏の設計なれば百事申分無し、感ずるに余り有り。斯の如く全備せる業場は稀に見る所なり。

小野惟一郎という官吏がなんども堅曹さんのところに相談にやってきて、

たくさんの工女を富岡製糸場に送り込んで技術を磨かせ、

地元大分のためにやっと作り上げた器械製糸場。

すごく優秀な人物だったらしく、めったに褒めない堅曹さんが絶賛しています。

お墨付きの製糸場なんてはじめてです。


さてその場所は、事前に大分教育委員会の文化財課に尋ねて調べてもらいました。

大分市太平町です。

「裏に山がありますか?」と文化財課の方に電話で尋ねたところ

「あぁ、ありますよ。」との返事。

では間違いない。


当時は大道町といい、メインの通りに面していました。現在では市内の中心部に属します。

詳細な地図をFAXしていただいたので、すぐにわかりました。


Cimg9826 通り側から 大分製糸所跡地


Cimg9858 裏側から


現在は駐車場になっています。


再び『六十五年記』の記述から。

同二十九日(略)本日又製糸所に至る。当所工女、曩(さき)に富岡製糸所に伝習中没した者の招魂祭有り。本所の裏山亡霊碑前に社長祭文を朗読し拝礼。畢(おわっ)て山上に宴会を開き、百二三十人列席し頻に感愴の情を発し、男女共落涙せざるは無し。是皆小野惟一郎の誠意誠心に感じたるなり。我亦堪へずして饅頭三百と一首の歌とを供ふ。

なき人の魂は出て来よ友なへて 有し昔の物がたりせむ

ここに書いてある裏山で行われた富岡製糸場の伝習中に亡くなった工女達の招魂祭。

その場所と亡霊碑を一縷の望みをかけて、探してみようとおもった。


製糸所跡の横から一本の急な狭い坂道が裏のほうに続いている。


Cimg9840 裏山へ続く坂道


ここだ! とおもい徒歩でのぼっていく。

100m程上がると両脇の民家が切れたところに神社があらわれた。


Cimg9847  大平神社


古そうだ。灯籠をみると「安政十三寅年寄進」の文字が。

しかし亡霊碑や招魂碑らしきものはない。


この神社より上には行かれるのだろうか?とおもっていると

スクーターに乗った男の人が左手の細い道をあがっていった。

私も道を登ってみると、すぐ上の畑を手入れしている人で、

思い切って声をかけて、いろいろと話を聞かせてもらった。


坂を降りたところが製糸所の跡だということも知っており、

あそこの前は昔水路があった、と教えてくれた。

たいてい製糸所のところは川があるはずなのに、ここにはないのが不思議だったが、

やはりあったんだ、という思いで聞いた。

いま登ってきた坂道が昔からあった道だから、裏山はこのあたりとのこと。



招魂碑をさがしていると言うと、

これより上にはとてもそんな格好じゃいけないし、近代よりずっと以前の墓しかない。

近代の碑なら神社の後ろにある墓地にある可能性が高い、という。

他にもいろいろと昔の製糸所の話を聞かせてくれた。


お礼を言って、すぐに神社の裏へいってみた。


20く基らいの古い墓が、まるでお化けでも出そうな感じで寄り固まってあった。


Cimg9855 神社裏の墓地


もしや招魂碑があるまいか、とひとつひとつ見てまわった。大正あたりからのお墓が多い。

全部みたけれどなかった。


明治21年のはなしだから、この辺りで招魂祭をおこなったとしても、

その碑はとっくの昔に取り払われちゃっただろうし、もしかしたら、木の碑だったかもしれない。


もう陽も落ちてきて、くもの巣とやぶ蚊に刺されまくりで、残念ながら調査はここまで。

でもこのあたりでおこなわれたのは確かだし、今現在家が建っている辺りかもしれない。

製糸所の跡地が確定しただけでも満足しました。


18:10 今日の宿の大分市内のビジネスホテルに着く。

夕飯は大分名物のとり天を食べました。


Cimg9880 とり天


つづく。


九州へ

2009-09-22 23:01:46 | 旅行記

全く秋の気配だというのに、今週後半に遅い夏休みをとることにしました。

どこにいくか?

いろいろ考えた結果、九州へ “堅曹さんを追いかけて” 行くことにしました。


自叙伝『六十五年記』には、

彼が農商務省の役人として、明治21年(1888) 3月20日から4月12日まで、

九州聯合共進会の出席と製糸業の視察を兼ねて九州へ出張したことが詳しく書かれています。



大きな地図で見る



横浜から船で九州に行き、中津宇佐をとおり、大分へ。

共進会の褒賞授与式に臨席して、多くの製糸場や織物工場を視察する。

そして富岡製糸場に習いに来た工女たちの招魂祭にも参列する。

その後竹田に行き、阿蘇山の北側をまわりながら、熊本へ。

ここでは器械製糸の黎明期から深いつきあいのある長野濬平に会いにいき、

多くの有志らに素晴らしい演説を行う。

そして船で長崎へ渡り、ここでも演説や談話をする。

帰りは長崎港から船に乗り、下関と神戸に寄りながら横浜に帰る。



この22日間にわたる九州の旅を、できるだけ書き残されている道順でたどってみようとおもう。

当時は船と馬車、徒歩で通ったルートを

飛行機と新幹線、自動車、フェリーをつかって4日間でまわる駆け足の旅となります。

堅曹さんが見た風景や名所旧跡も訪ねてみます。

ただ一番見たいとおもっている、100年以上も前の製糸場はもうほとんど跡形もないでしょう。

せめてあった場所だけでも確認して、またなにか碑でもあれば見てきたいとおもっています。


足助(あすけ)のまち並み見学

2009-08-01 09:21:58 | 旅行記

7月25日は「足助のまち並み見学」に参加しました。

足助といってもピンと来ない人、私のブログに来てくれる人にはおおいでしょう。


紅葉で有名な「香嵐渓」といえばご存知でしょう。

その街が愛知県豊田市の足助地区です。

中山道の脇往還である江戸時代には伊那街道、明治以降には飯田街道の宿場町でもありました。

この街道は三河湾で採れた塩を信州や美濃地方へ運び、帰りには山の物産をもってくるということで、

「塩の道 中馬街道」とも呼ばれていました。



まず豊田市内の郷土資料館に集合して、9時10分にバスで出発です。

今日の見学会の案内はMOJOさん。

10時には足助支所に到着。

隣の岐阜には大雨の予報がでていて、雨の可能性大。

皆傘をもって、天気を心配していたのですが、

どういうわけか、最強の晴れ男、晴れ女がいたらしく、ピーカンの天気。

日焼け止めを塗って、タオルを首にまき、傘は日傘となり、出発です。



まずは足助八幡宮をみて、香嵐渓へ。


Cimg9112 足助八幡宮


今は緑濃い景色で、川遊びをしている若者や家族連れでにぎわっています。


Cimg9132  香嵐渓

香嵐渓の歴史を聞きながら、まずは西町の町並みへ。


Cimg9150

江戸時代から営業している旅館があったり、

弘化2年の道しるべがあったり、旧足助警察(現、足助商工会)のたてものがあったり。


Cimg9161 旅館 玉田屋


Cimg9179 道しるべ 右ほうらいじ(鳳来寺) 左ぜんこうじ(善光寺)


Cimg9184 足助商工会


落合橋を渡って旧街道に沿って新町や本町、田町の町並みへ。


Cimg9228 新町


Cimg9234 左の建物は昔の銭湯


川を渡る時は涼しい風が吹き抜け、暑くても気持ちいいです。


途中お昼休憩をはさんで、精力的に通りを歩いていきます。

伝統的な形式の建物がズラッと並び、しかも営業をしているお店も多いです。


Cimg9262 本町

Cimg9279  本町


それぞれの建物の歴史や家の中の状態など、MOJOさんは一軒一軒ていねいに説明してくれます。


町の中には小路や裏道があったり、何百年も経つ建物があれば、

明治時代や大正期のちょっとレトロな感じの建物があったり、

実に変化にとみ、何本もの道筋にたくさんの近世、近代の建物がありました。


Cimg9313_2 旧洋裁専門学校


Cimg9345 田町

Cimg9322_2 足助中馬館(元稲橋銀行)



Cimg9370 足助川沿い


街道に沿って流れる足助川から山側にどんどん町並みが上っていき、

そのなかに反対の通りに抜ける小路があり、幾年代もの建物が重なり、つながっている。


Cimg9291 マンリン小路  Cimg9288 小路


Cimg9284 裏道



歩いていて、昨年訪れたフランス・リヨンの旧市街を思い出しました。


似ている! 

ソーヌ川からフルヴィエールの丘へ向かって幾重もの通りがあり、

15世紀から19世紀まで年代の違う建物がつながり、トラブールという抜け道がアチコチにあった。

それらをすべてひっくるめて世界遺産に登録されていました。



足助の町は想像していたより大きな町であり、そこを隈なく歩いて、

いったい古い建物はいくつあるのか、というほど残っており、

もちろんもう閉店して壊されてしまいそうなもの、無人のため、どんどん傷みはじめている建物もあります。


Cimg9336 修理現場も見せてもらった


それを豊田市では修理保存をして、

この町を重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に選定されるよう取り組んでいます。


行政が動く前から町の有志たちで保存の取り組みはなされていたようで、

自由時間のとき、和菓子屋さんにはいり、甘いものと冷たいお茶をいただきながら、

お店の奥さんと話すと、ここは200年も昔の建物で以前は繭問屋をしていたというのです。


Cimg9395 両口屋


店の奥に通してくれ、2階まで吹き抜けの天井のところに置いてある繭駕籠を見せてくれました。


Cimg9390 繭駕籠


繭は豊橋の三龍社に降ろしていたのだとか。

その当時の写真もお店にさりげなく飾られていました。



クーラーの室外機は木枠で囲む、昭和初期のゆがんだガラスのショーケースはそのまま残さす、

家の中は変えても外観はいじらない、など町並み保存を大切にしているお店がたくさんありました。


MOJOさんが熱心に地元の人とそれを実行してるのが、話を聞いていて、ひしひしと伝わってきます。

いい町です。

重伝建になるといいなあ、と本当におもいました。



5時間近く歩いての町並み見学。

ず~っと晴れで32度以上の暑さには結構疲れました。

でも帰りのバスに乗って走り出した途端、雨が土砂降りのように降り始め、

なんという晴れ男、晴れ女なのかと、皆で驚きの声をあげました。


香嵐渓の秋の紅葉を見にいったら是非足助の街をみてください。


全国近代化遺産活用連絡協議会 全国大会

2009-07-29 18:37:41 | 旅行記

愛知県豊田市で開催された

「全国近代化遺産活用連絡協議会 全国大会」にいってきました。


Cimg9427  「豊田市」駅前


豊田市はもともとは挙母(ころも)町といい、これは衣(ころも)という意味の当て字からできているくらい、

絹や織物の盛んな土地でした。

現在のトヨタ本社や工場がある土地は、もとは桑畑でちょうど昭和初期の恐慌で絹産業が衰退したときに、

このままでは町がだめになるということで、誘致したということです。



初日のフォーラムには参加できなかったため、翌日の見学会から。

7月24日は朝9時に豊田市駅前のホテルに集合、観光バス一台で40人ぐらいいたでしょうか。

その大会に出席した人と他に地元の人たちも参加していました。


まずは寿町にある達磨窯。

瓦を焼き上げるための窯で、達磨の形に似ていることからそういわれています。

2年ほど前群馬県でも達磨窯が再生され、見にいったことがあります。

これは大正10年に作られてから昭和56年頃までつかわれていたものです。


Cimg8978 達磨窯


Cimg8985 最後に焼き上げた瓦がそのまま残っている


最近手を入れて屋根がつけられ、見学できるようになりました。

実際にここで瓦を焼いていた持ち主の方が解説してくださり、実にわかりやすい。

朝の4時に起きて暑いなかこうやって焼きあがった瓦を一枚づつだすんだよ、とか、

瓦をまとめて運ぶのにこの天秤棒をつかうんだ、とか。

Cimg8992  熱い瓦をこうやって一枚づつ取り出す

そして達磨釜を囲むように作業場や瓦干し場がそのままの形でのこっています。



次は枡塚味噌の味噌蔵見学です。


Cimg9060  枡塚味噌本社工場


社長さんみずから熱心に味噌作りやこの蔵の説明してくださいました。

ここはなんと旧日本海軍航空隊岡崎基地の第3航空隊の格納庫や倉庫、兵舎のあとを味噌蔵としてつかっているそうです。

たまたま何百年もつづく味噌屋の隣に戦争中、軍が格納庫をつくり、戦後そのたてものが払い下げになり、

これからはもっと味噌の需要がのびると見込んで味噌蔵としてつかいはじめたそうです。

経緯はどうであれ、それが味噌蔵になりいまでは貴重な近代遺産の一つとなっています。


Cimg9028 格納庫を転用した味噌蔵


細い柱でつくったトラスの天井はそのままで、時々ここに戦争中働いていた人がきて懐かしく見ていかれることもあるという。

偶然にも残され活用されてきた近代化遺産の例です。



昼食後、バスでトヨタ自動車堤工場へ移動しました。

ここは今一番売れているプリウスの組み立て工場です。

敷地内での写真、ビデオ、携帯電話の使用は厳禁なので写真はありません。

見学コースに沿って企業PR部の女性の案内で進みます。


1140万平米の敷地に6000人が働いているそうです。

工場の外観はのこぎり屋根になっていて、できるだけ外光を取り入れているようです。

ラインに沿って、ジャスト・イン・タイムの「かんばん」方式で組み立てられていく工程がよくわかります。

工場の天井には「よい品 よい考」の標識が下がっていて、

こういった標語をかかげて働いている人によりよい仕事を呼びかけるのは、

明治の時代から変わらないのだな、と思いました。


人々の動きをみていると、整然と迅速に、そして狂いなく作業をこなしています。

女性や年輩者の姿もあり、誰にでもできるように作業は工夫されているとのことです。


その後、本社隣のトヨタ会館に行き、こちらには新車がズラッと並び、トランペットを吹くロボットも。


Cimg9077  トヨタ自動車本社


Cimg9080  パートナーロボット


Cimg9081 トヨタ会館内ショールーム


ちょっと休憩がてら自由に見学です。



バスに乗り、最後は豊田市近代の産業とくらし発見館へ。


Cimg9083 豊田市近代の産業とくらし発見館


Cimg9085 正面入り口


ここは大正10(1921)年につくられた「愛知県蚕業取締所第九支所」の建物を使っています。

この豊田市が養蚕で栄えた地区であることを偲ばせる遺産のひとつです。

この小さな資料館、大好きです。

いつもHPで、職員の方が毎日書き込むブログを見て、

今こんな企画展やっているんだ、次ぎの展覧会の資料こうやって集めるんだ、

蚕も育てて、真綿をつくったり、繭クラフトつくったり、と

とても興味ぶかく楽しませてもらってます。


地元の子供からお年寄り、女性にも男性にもわかりやすく、

豊田市のことを知ってもらう企画がいっぱいです。


Cimg9093 昭和のくらしの展示


つい何十年前にあった生活をやさしい目線で教えてくれます。

近くにあったら何度でも行きたいとおもってしまいます。


そこをゆっくり見学して、今日の見学会は解散です。

明日は足助の街めぐりです。

つづく。