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山田詠美『血も涙もある』その6

2021-11-23 09:56:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

「だけどね、桃ちゃん……大人は、ふたつの内、どちらかを選ばなくてはならない時があるのよ?」(中略)
 ……なんなの? これ。まるで、わたしが苛めているみたいじゃない。って言うか、この子、すごく可愛い……いけない! 太郎眼鏡はこの際、捨てなくては!! わたしは、今まで、この小娘に馬鹿にされ続けて来たのよーっ。
 わたしは椅子に腰を降ろして、手で顔を覆った。自分の腑甲斐なさに、こっちが泣きたい気分だった。
「……先生?」
 いつのまにか、桃子に背中をさすられている。慰められているのか。(中略)
「先生……嫌な気持にさせてしまってごめんなさい。心からそう思います」
 そう言い残して、桃子は部屋を出て行った。あの女が謝った。でも、気持は収まらない。(中略)
 その翌日から、桃子は、スタジオに出て来なくなった。風邪をこじらせて、体調をひどく崩したので当分休みたいとのこと。(中略)

「chapter 9 husband 夫」
妻の喜久江の作るコロッケは、揚げ立てはもちろんのこと、冷めても滅茶滅茶旨いんです。(中略)これは、実は恋人の和泉桃子にもらったのでした。
「オリバーソースはね、神戸で作られているんだけど、中でもこのクライマックスシリーズは、毎年、あの阪神・淡路大震災が発生した一月十七日に炊いて仕込むんだよ。犠牲となった人々への鎮魂の思いと、この先の未来への希望と願いを込めて……」
 桃子の言葉に、おれは感動してしまいました。そして、深い溜息をついて、言った。
「苦境から這い上がった尊い味なんだね……」(中略)
なんて悦に入っていたら、おれ自身が苦境に陥っていました。オリバーソースのように這い上がれるのか、自分!(中略)
「先生が補充してた紙一枚、キタローが自分自身で用意出来るようになんなきゃいけないよ?」
 思わせぶりで、もったい付けた比喩のようにも聞こえます。でも、おれには天啓として届きました。火事場の馬鹿力というのでしょうか。桃子の言わんとすることが即座に理解出来たのです。いや、そうしなくては、この女、どっかに行っちまう。解ったよ、モモ、よおく解った。
(中略)その日を境に桃子は連絡を断ってしまったのです。え? あ、あああああー、奈落の底に突き落とされたおれ、苦境、来た。
 今日はいるんじゃないか、と喜久江のキッチンスタジオに続く通路を歩いてみるのですが、ばったり出会う偶然などやはりありません。(中略)
「桃ちゃんなら来ていないわよ」
「辞めたの?」
「ううん、そうじゃないけど、風邪をこじらせて、ずい分ひどくしちゃったって、並木さんのところには連絡が行ってる」(中略)
「泣くんじゃないわよ」
喜久江がそう言うのを聴いて、いつのまにか自分が涙をながしているのに気が付きました。慌てて涙を拭おうとすると、もう一度、言われました。
「泣くんじゃないわよ」
 そりゃそうだ、子供じゃあるまいし。そう思って、ぐっとこらえようとして、そして、それは、ほとんど成功していたのですが、喜久江は、ほおっと息を吐きながら続けたのです。
「でも、つらいわね」
 その瞬間、背中に当てられた喜久江の手のぬくもりの温度がぐぐっと上がりました。それを感じた途端、おれは、どうしようもなくなって、しゃくり上げてしまったのです。そして、止めようにも止められなくなった。(中略)
 桃子に会えないまま、季節は巡って行きました。この先、どうなるのかは想像もつきませんでした。(中略)
そんな思いをくり返している内に、喜久江が仕事中に倒れました。(中略)
失いたくない、と初めて強烈に感じました。(中略)

「chapter 10 people around the people」
 今、どういう訳か、コンパルこと、ぼく、金井晴臣は、親友の和泉桃子と一緒に鳥取県のはしっこ、境港(さかいみなと)に来ているのである。(中略)
「境港! 水木しげるロードを歩いてみたい!」
 え、マジですか、と思った。(中略)
 桃子は、まだ沢口太郎との恋の只中にいると見た。(中略)
「付き合うよ、とことん付き合う!!」
 ぼくの自分自身を鼓舞するような決意表明に、桃子は笑った。
「サンキュ! ほんとはコンパルには、ものすごく感謝してんの。実は、私、ずうっと途方に暮れたままなのよ」(中略)
「私、今まで、自分国のことにだけ、かまけ過ぎてたのよ」(中略)
 馬鹿だね、とぼくは思う。桃子は、そういう行儀の良さが、まったく似合わない自然児。自分のこと、全然、解ってないんじゃないの? 世の中の規範とは違う、独自の礼節のありようが彼女の美点なのに。(中略)

(また明日へ続きます……)