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山田詠美『血も涙もある』その3

2021-11-20 06:37:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 ただ、おれに対する好奇心は、ものすごい勢いで膨らんで行ったと後に打ち明けました。先生の夫であるおれ、に対してではなく、ただそこにいた、おれ、に。先生への尊敬の気持と、その夫を掠奪する後ろめたさは、これっぽっちも関係していないのだそう。(中略)
「あのう、御主人って贅沢ですよね?」
 桃子が再び口を開きました。そうら、来た、と内心思ってがっかりしたのです。喜久江の信奉者を自認する女共は、こういう時、決まってこう言うのです。
「先生の料理の価値を解らないまま、当り前に口に入れてるなんて、ひどーい! 贅沢過ぎる!」
 と。ところが、桃子は言ったのでした。
「どんなにおいしそうな稲荷寿司を目の前にしても、少しも動じることなく女の品定めを優先してるんですから」
 ばれてました。
「この場合、私も意思表示をきちんとしなくてはならないでしょう」
 そう言って桃子は立ち上がり、テーブル越しにいるおれの許に回り込んで来ました。
「単刀直入ですが、失礼します」
 そう言って、あろうことか、おれの股間に手を伸ばしたのです。そして、ゆっくりと揉みしだいた。一瞬、何をされているのか解らず混乱したおれでしたが、事の次第が見えて来ると、桃子の指や手の平の当たる部分が、じんわりと熱を帯びて行ったのでした。
 うっとりとしながら、心の中でひとりごちました。やっぱ、胃袋をつかまれるより、ちんぽ、つかまれる方がはるかにいいわ、と。いや、しかし、それにしたって、単刀直入にも程がある!
 この時のことを思い出すと、一年経った今でも、桃子の早技に感心してしまうのです。電光石火っていうの?
「私は自分の欲しいものが何かをよく解ってるからね。ピンと来たら、すぐに行動に移すことにしているの」
「へー、それで間違えたりしないの?」
「するよ」
「するのかよ!」
「この顔にピンときたら110番っていう警察のポスターってあったじゃない? 直感って瞬間的なものだから、良い人と悪い人を見誤ってしまうこともあるのよ。運命の男! と感じたら、犯人だった、みたいな?」
「もし、本物の運命の男が犯人でもあったら?」
「それはそれで、ドラマティックじゃない?」
 そう言って、おれの膝の上に乗って来た桃子、もう愛さずにはいられない、好きにならずにはいられない、と思った。(中略)
 玉木の家とおれの仕事場はさほど遠くなく、そのどちらにも近いカフェで、よく落ち合います。(中略)
 ところが、ある時、玉木がおずおずとおれに言ったのです。
「喜久江さん、ぼくたちに気をつかわせないようにああ言ってるけど、ものすごい高級な食材を使ってると思う」(中略)
 知らなかった、と謝るおれに喜久江は言ったものです。
「いいのよ! こうして、わたしが教えてあげるおいしい味を太郎さんが覚えて行くんだもの。嬉しくってたまらないわ」
 なんて親切な人なんだ、と感動しました。けれど、報われない親切をし続ける人が哀しいとは、それから何年も経つまで解りませんでした。愛とおぼしきものを知るまでは。決して、おれ、血も涙もない訳じゃあないんです。

「chapter4 lover 恋人」
 付き合って一周年を迎える日はアニヴァーサリーとして祝おう。そう提案してきたのは太郎の方だった。(中略)
「ごめーん、私、毎日が記念日だと思って付き合ってるからさ」(中略)
 しかし、いつの頃からか、出会いの記念日は、初めてのセックス記念日と重なりがちになった。そうすると、日付はいっきに思い出しやすくなる。(中略)
「どっか二泊くらいで旅行しない? 温泉とかさ」
「記念日の一泊だけじゃ駄目なの?」
「一泊だとさ、一日目は『行き』ってことを考えて、二日目は『帰り』ってことを考えなきゃならないでしょ? なーんにも考えないですむ真ん中の一日が欲しいんだよ」
なるほど。気持は解る。でも二泊三日の間、沢口先生に気取(けど)られないでいられるものだろうか。(中略)
 先生の本性、もとい本心を見てみたいと、時々強烈に思うのだ。けれども、すぐさま自分のこざかしさを恥じる。(中略)
 でも、太郎と心やら体やら記憶やらをすり合わせていると、どうしても彼からは先生のエッセンスが滲み出て来る。それが解る。そういう時、今現在あるこの人には、先生と作って来た過去のピースが埋め込まれているんだなあ、と思う。人に歴史あり、かあ。夫は、どんな夫でも妻に感化されている。そして、その妻が、どんな妻であっても。(中略)
「先生は、キタローから他の女の気配を感じ取っているのかな」
「どうだろう。そういう話はしないし、おれって、ほら、女の痕跡をとどめないよう身綺麗にしてるから……」(中略)
「あら?」と先生は言って、鼻を蠢(うごめか)した。そして、じっとりと私を見る。
「桃ちゃんの、この匂い……」
 一瞬、肝を冷やした。悟られてる!?(中略)

(また明日へ続きます……)