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山田詠美『血も涙もある』その1

2021-11-18 07:30:00 | ノンジャンル
 山田詠美さんの2021年作品『血も涙もある』を読みました。
「chapter 1 lover 恋人」
 私の趣味は人の夫を寝盗ることです。などと、世界の真ん中で叫んでみたいものだ。たぶん四方八方から石が飛んで来るだろうけど。そして、この性悪女! なあんて、ののしられたりする。不倫の発覚時には、何故かこういう古めかしい罵倒語が復活するから驚きだ。あばずれとか女狐とか泥棒猫とか。狐と猫、かわいそう。(中略)
 腐っておいしい、と言えば、腐乳という食品が中国にあって、(中略)かなり強いにおいで、人によっては臭いと敬遠する人もいるほどだが、調味料として使うと旨い。
 今では日本でも手に入るこの腐乳を使って、神技のような美味の数々を作り出して見せてくれるのが、料理研究家の沢口喜久江(さわぐちきくえ)先生だ。料理本を出せば売れるし、特別に開かれる教室には応募者が殺到し、すぐに締め切られる。ウェブで連載されているエッセイの評判もいい。
 それなのに、沢口先生はこう言うのである。
「わたし、これから仕事減らしていくわ。もう年ね。なんか、すごく疲れるの。これからは、桃ちゃんたちに道を譲るわ」
 先生は、御年五十歳。そして、助手をしている私、和泉桃子(いずみももこ)は三十五歳。女ざかりというには、まだ青いかもしれないが、それなりに人生経験は積んで来たつもり。(中略)
 そして、今は、沢口先生の夫と付き合っている。先生より十歳年下のその人は、太郎さんといって、キタロー・サワグチ名義であんまり売れていないイラストレーターをやっている。(中略)
 夫と助手の関係を知っているのかいないのか、沢口先生の本心はまったく読み取れない。先生に出会ってから、早や十年。フルタイムでお手伝いをするようになってからも、もう六年になるけれども、彼女が心の中で何を考えているのかは解らない。(中略)
嫌々ながら夕食のための料理を届けた先で、私は初めて先生の夫の沢口太郎と向かい合ったのだった。(中略)
「ねえ、良かったら一緒に食べない?」
振り返って、その顔をまじまじと見た。その瞬間に、解った。あ、この顔、私の好きなやつ。そして、この人も私の顔を好きと感じている! 何故、解ったかって? ふし穴じゃない目を持っている大人には、そんなことはお見通しさ!(中略)
(中略)息のかかるところで私を見詰める男は、初めて稲荷寿司を一緒に食べたその日からずっと、私に心奪われている。それが解る。私自身も、さまざまな方法を駆使して、今一番大事なものは、このひとときなのだと伝えようとする。
 そこには、沢口先生はいない。この世から消えている。(中略)
 既婚者の男との恋愛においては、妻の話は時候の挨拶のようなもの。(中略)
 そういう時、妻は男の配偶者であって、男の女ではない。(中略)私の心は、妻の存在でざわついたりしない。だって、彼は私のものだと知っているから。彼の一番おいしい(また言っちゃった)部分は、私が味わっていると解るから。(中略)
 昔、不倫をしていた女が、奥様に申し訳なくて……よよっ(泣き崩れるさま)なんてなっている場面をドラマで観たことがあるが、そして、いまだにそういう女が罪悪感を告白したりするのを雑誌コラムなどで見かけたりするが、額面通りには受け取らないよ。気持良さげなプレイと私には映る。背徳は、ある種の人々の媚薬ではあるけれども、私には効かない。(中略)
 私と太郎は、恋に対しては似た者同士みたいである。だから、寝るだけの相手にはならなかった。言ってみれば三角関係に進んでしまった間柄なのだが、関係のもう一角をになう妻は、決して目の上のたんこぶにはならない。後ろ暗い快楽の御膳立てをする存在にも、だ。(中略)

「chapter 2 wife 妻」
秘書の並木千花が、まるでスケジュールの確認でもするような調子で言った。
「先生、気付いてます? 和泉桃子と太郎さん、二人きりで会っているみたいですよ」
「そうなの?」
「気にならないみたいですね」
「時々、ごはん届けてくれてるんでしょ? 親しくなって当然じゃないの」(中略)
 つまらない話。それは、わたしの夫、沢口太郎に近寄ろうとする女に関する情報。十歳年下の太郎に出会ってから、十七、八年になるだろうか。女がらみの話は、もう飽きるほど聞いた。(中略)
「おれ、年取って、ちょっと可哀想な喜久江が好きなんだよ。だから、若くって馬鹿なおれのことも好きでいてよ。これからも一生仲良くやって行こう?」
 うん、と頷いた瞬間に、わたしは腹を決めた。もう乗りかけた船だもの。何があろうとこの人を支えて行く。(中略)
 優しいおかあさんのよう、と人は言う。でも、そんなわたしにも、仏の顔は三度までという主義がある。人の夫と三度以上やったら承知しねえぞ、こら。切る。つまり、わたしの方から遠ざかる。その後は知らんぷり。(中略)

(明日へ続きます……)