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山田詠美『血も涙もある』その5

2021-11-22 06:56:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

「どんなごはんも、にっこり笑って振る舞えば、八割増しでおいしくなるのよ」(中略)
「失敗した味付けでも、笑顔でカバー出来るんですかあ? 信じられなーい」(中略)
「そうよ。でも、そういう時のために、あなたの笑顔が極上になるように日頃から鍛えておかなくっちゃ」
「えー、どうすれば良いんですか?」
「あなたの彼氏? その彼を幸せにしたいって思えば、笑顔はどんどん美しくなって行くの」
「そうかなあ……」(中略)
 太郎は、炊き立てのごはんも冷えたのも好きだという。(中略)
 こういう男は、わたしの知る限り、あらかじめ男性上位の考えから見放されていて、フェア。でも、だからこそ、気を抜けないの。(中略)
 男と女にとって、ことを荒立てる前の待機時間が、とても重要だと思う。(中略)
 日常生活。この重要なものよ! 太郎のそれは、もう既に大部分、わたしによって創り上げられて来たのよ。そう確信することの連続だった。たぶん、この先も同様だろう、と諦めて安心を胸に収めて来た日々。そんなわたしは、どっしりとゆるぎない妻の座に居る女として、誰の目にも映ったことだろう。(中略)
 でも今、初めて、ひとりの女が原因でわたしの心は動揺している。うんと重くなったかと思えば、急に軽く浮かんでほっとさせられたり。芽吹きそうになった憎しみが、あっと言う間に刈り取られて、平穏な日々が戻ったり。良くも悪くも落ち着かない。(中略)
 世の中では、夫に浮気されちゃった、不倫されちゃった妻のことを「浮気され妻」「不倫され妻」なんて呼ぶらしいのは解ってる。でもね、わたしは、やっぱり、声を大にして言いたい。沢口喜久江は、「浮気され妻」なんかじゃなーい!! 「浮気させ妻」なのよ!! そして、世の不倫は、わたしの思う不倫ではなーい!!(中略)
 そう、わたしは、彼らの恋にとっては第三者になってしまった。生活したり学んだりすることにおいて、わたしは今でも彼らの大切な人間だろう。でも、そこからひとたび外れたら、あの人たちは、わたしどころか誰も必要としないのだ。
 涙が出て来る。築いてきたキャリアも名声も、年月をかけて練った人格も、保ち続けた優しさも人柄の良さも、太郎をわたしだけの側に居させるには、何の役にも立たないのである。(中略)
 でも、だからといって、太郎と桃子を祝福して身を引こうなんて気はさらさらない。(中略)こと嫉妬に関しては、年齢が物解りの良さに役立つことなんて、ぜーんぜんないんだから。理不尽にも、自分が欲しいものを、あの人の方がより多くものにしていることへの腹立ち。幼ない少女の頃から老女になるまで、嫉妬の本質はこれなのよ。そして、それは、老若男女、全人類が持っている心の火種。どんな時代になっても変わらない。(中略)
 太郎とわたしは、かつて鍵と鍵穴のようだと思っていた。(中略)
 でも、本当は全然違う。自分は、すっかり古くなってしまった鍵穴なのではないかと恐怖に似たものを覚えたのだ。(中略)
 我慢していたら、どんどん胸が苦しくなって、年齢のせいか本当に心臓発作を起しそうになったので、太郎の親友の玉木洋一に話を聞いてもらった。(中略)
 玉木は、長い時間をさいて、少しも嫌がることなくわたしの話に耳を傾けてくれた。昔のよしみで彼を便利使いしている、と思わないでもなかったけれど、わたしは恥も外聞もなく思いの丈を彼にぶつけた。
「で、玉木さんは、どう思う?」(中略)
「喜久江さんのしたいようにしなよ」
「それだけ!? 何かアドヴァイスしてくれるんじゃないの?」
「ぼくは、ただ聞いてあげるだけの人です」
 何よ!! と思った。(中略)
「聞いてくれて本当にありがとう。また、頼ってもいい?」
もちろん! と言って、玉木は顔をくしゃくしゃにして笑った。(中略)
 (開かれたパンドラの箱から)あふれ始めた自分でも解らない負のエネルギーにそそのかれるような気持で、わたしは桃子を呼び出した。
「桃ちゃんの生まれ育ったおうちって、どんな感じだったの?」(中略)
「先生……私……」
「早く言って!」
「平凡な家です。(中略)」
「わたしの夫と関係を持って、うしろめたい気持とか罪悪感は湧いて来なかったの?」(中略)
「仕方ないです。私、キタ……太郎さんを好きになってしまったんですから」(中略)
「でも、わたしが知ってしまったら、どうなるのか解るわよね?」
 桃子は、はっとしたように顔を上げた。
「私、ここ、辞めたくないです!」(中略)
「私、太郎さんが大好きです!!」(中略)
「でも、でも、私、先生のことも大好きなんです!!」
 そう言って、まばたきもせずにお大粒の涙をぽろぽろとこぼし始めたのである。

(また明日へ続きます……)