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山田宏一『永遠の青春映画(ジャック・ロジェ論)』その3

2012-10-16 03:53:00 | ノンジャンル
 またまた昨日の続きです。
 海とバカンス、といっても、裕福なブルジョワたちの、例えば南仏コートダジュールでロケしたアメリカ映画、フランソワーズ・サガン原作のオットー・プレミンジャー監督作品『悲しみよこんにちは』(1957)に描かれたような豊かなブルジョワ階級のバカンスではなく、ほとんどジャック・タチの『ぼくの伯父さんの休暇』(1962)に描かれたような庶民のバカンス、あるいはエリック・ロメールの夏の映画のような女子大生や若いOLの孤独なバカンスが、ロジェ監督の「永遠の青春映画」の世界なのですが、もうすぐ夏も終わり、バカンスも終わることを知りながら絶望的にはしゃぐ「さらば青春」映画でもあるというせつないコメディーと言ったらいいか、『オルエットの方へ』の女の子たちが、ブルジョワの友人の親たちから借りた別荘の戸締まりをして海辺を去る時に、潮騒がしつこく、うるさく、むなしく響くシーンなど、まるで祭の後のようなわびしさです。身につまされるようなせつない虚脱感。
 トリュフォーが評した「究極に計算された即興演出」は処女作の『アデュー・フィリピーヌ』以上に、『オルエットの方へ』においても、『メーヌ・オセアン』においても、いよいよ冴えて、主人公の1人(ベルナール・メネス)が夢のあとさきを噛み締めながら去っていく、遥かな遠景を果てしなくとらえ続ける移動撮影の魅惑、多彩な人物が次から次へと入り込んできて、傍役かと思われた人物がいつの間にか主役になっていたり、にわかにミュージカル・ナンバーさながらの盛り上がりを見せたり、その逸脱ぶりの狂ったような見事さときたら真に現代的な、とでも言うほかなく、女の子が台詞をたぶんちょっととちったのかもしれないのにキャメラがそのまま回り続けているので、あわてて自分の言葉で取り繕おうとするかのように即興的に不意に真実がきらめく瞬間もあり、登場人物の誰もが故意に構えたりしない自然な演技と台詞で、いや、それどころか『アデュー・フィリピーヌ』のコルシカの崖の道に突然フロッグマンが現れて女の子をくどき、声を張り上げてとめどもなくナポリ民謡を歌い続けるように、笑いと狂気とせつなさに貫かれた爆発的な瞬間が続き、まさに未編集のラッシュ・フィルムを見せられているような生々しさなのです。1985年の『メーヌ・オセアン』は長篇処女作の『アデュー・フィリピーヌ』から25年後の長篇第4作ですが(マノエル・ド・オリヴェイラの映画のプロデューサーとして知られるパウロ・ブランコの製作です)、最も先鋭的な処女作に与えられるはずのジャン・ヴィゴ賞を授与されました。60歳の新人監督の誕生とみなされたのです。
 ロジェは映画学校時代に見たルノワール監督の『ピクニック』(1936)に魅惑され、同監督がアメリカから久しぶりにフランスに帰って撮った『フレンチ・カンカン』(1954)の見習い助監督をボランティアで務めたりしているのですが、「一見でたらめのよう」で「緻密に計算された即興演出」はまさにルノワールゆずりのようです。
 ロジェはよく「Le cin士a、c'est la vie」と言うのですが、それは「映画は人生そのもの」という意味であるとともに、「映画なんだから、仕方がない、人生みたいなものさ」というニュアンスにもとれるような気がします。
 なお、ロジェが発見して育てた俳優、なかでも『オルエットの方へ』で映画デビューしたベルナール・メネズがトリュフォー監督の『アメリカの夜』(1973)に起用され、忘れがたい魅力的な小道具係の役を演じることになること、それにアニエス・ヴァルダ監督の最初の夫であった演出家、アントワーヌ・ブールセイユの劇団の俳優から、ゴダールの『男性・女性』(1966)ではジャン=ピエール・レオーの前で突然ナイフを自分の腹に突き刺す男、『メイド・イン・USA』(1966)でミステリー作家デヴィッド・グーディスの役を演じたイヴ・アフォンソが『メーヌ・オセアン』では怒りの漁師を演じて怪優ぶりを発揮していることも、付記しておきたいと思います。
(以上、ほとんど山田さんの文章の丸写しなので、警告をいただければ直ちにネットから削除致します)

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/