今日はジャズ・ピアニストの木住野佳子さんの誕生日です。何度目なのかは謎なのですが(笑)、木住野さん、これからも素敵な演奏を聞かせてくださいね。取り急ぎ、Happy Birthday!
さて、昨日の続きです。
『勝手にしやがれ』は当時のフランス映画の平均製作費の3分の1で仕上がり、破産寸前だったボールガールを立ち直らせるどころか、大儲けさせることとなり、調子に乗ったボールガールはこんなふうに普通の映画1本分の製作費でゴダールのような才能のある若手の作品を3本作ることができれば、さらに大儲けできると考え、ゴダールに仲間を紹介してくれと頼み、ゴダールが太鼓判を押して推薦したのがジャック・ドゥミとアニェス・ヴァルダとロジェだったのです。こうしてドゥミ監督の長篇処女作『ローラ』(1960)、ヴァルダ監督の『ラ・ポワント・クールト』(1955)に次ぐ商業映画第1作『5時から7時までのクレオ』(1962)が生まれ、そしてロジェ監督の長編処女作『アデュー・フィリピーヌ』が生まれることになるはずだったのですが、『アデュー~』は1960年8月に撮影が始まって、いろいろあって捕足というか、追加の撮影が終わるのが、なんと、クランク・インから1年後の1961年の12月になってしまい、プロヂューサーに憎まれ、生まれながらにして「呪われた」映画になってしまうのでした。ロジェ監督独特の一見だらだらした自由奔放な撮り方にも唖然としたボールガールは、完成試写を見た時に、ラッシュ(未編集フィルム)と思ったというエピソードが残されており、これなどいかにも『アデュー~』のみならず、すべてのロジェ監督作品の、真に即興的な特質をよく表しているかのようです。『アデュー・フィリピーヌ』を当時絶賛したトリュフォーは、ヌーヴェル・ヴァーグが「真の青春」を描くために生まれたのだとしたら、『アデュー・フィリピーヌ』こそ「ヌーヴェル・ヴァーグの最も成功した作品の1本であることは確かだ」と書いています。
アルジェリア戦争が泥沼化していた'60年のフランスの夏――兵役のために出征しなければならない1人の青年の、もしかしたらこれが最後になるかもしれない夏のバカンスを、暗い悲愴感のようなものなどおくびも出さずに、まるで全てが当たり前の人生の自然の流れのように軽やかに生き生きと描く。あたかもジャン・ルノワール監督が第二次大戦前夜の1939年に撮った――そして自ら「陽気な悲劇」と名付けた――『ゲームの規則』さながら、自由に屈託なくはしゃぎまわるドタバタ喜劇のような青春映画、それが『アデュー~』ででした。。そのせいか、戦争の不安も恐怖も感じさせずにふざけすぎているとみなされた『ゲームの規則』のように、『アデュー・フィリピーヌ』も観客に受け入れられず、まったく当たりませんでした。公開が'62年にまで延びてタイミングがずれてしまった('62年にはアルジェリア戦争が終結)というような事情もあるのでしょうが、もしかしたらヌーヴェル.ヴァーグ(新しい波)よりも新しすぎた映画だったのかもしれません。
ヌーヴェル・ヴァーグの旗手となったトリュフォーもゴダールも『アデュー.フィリピーヌ』こそ真のヌーヴェル・ヴァーグ、永遠の青春映画と大絶賛したにもかかわらずヒットせず、ロジェも自分はヌーヴェル・ヴァーグに近い存在だと感じたことはないと語っています。たぶん『小さな兵隊』のヒロイン――ゴダールの永遠のヒロインになる――アンナ・カリーナのことでゴダールと決別したこともあって、「ゴダールのひらめきや洞察力は素晴らしいが、ゴダールの全ての映画が好きという訳ではない」とも語っているのですが、『ブルー・ジーンズ』を評価し、ボールガールに推薦してくれたことには心から感謝していて、その恩に報いるかのように、アンナ・カリーナの出ていないゴダールの映画、ブリジット・バルドー主演の『軽蔑』(1963)の時には、2本の短篇ドキュメンタリー、『バルドー/ゴダール』と『パパラッツィ』(ともに1963)を撮って(白黒作品ですが)ゴダールに敬意を表しています。以後、長篇作品は『アデュー・フィリピーヌ』の10年後に第2作『オルエットの方へ』(1971)、それから5年後に第3作『トルチュ島に漂流した人たち』(1976)、そしてさらにまたほぼ10年後に第4作『メーヌ・オセアン』(1985)、そしてそのさらに16年後に第5作『フィフィ・マルタンガル』が作られています。(またまた明日へ続きます‥‥)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
さて、昨日の続きです。
『勝手にしやがれ』は当時のフランス映画の平均製作費の3分の1で仕上がり、破産寸前だったボールガールを立ち直らせるどころか、大儲けさせることとなり、調子に乗ったボールガールはこんなふうに普通の映画1本分の製作費でゴダールのような才能のある若手の作品を3本作ることができれば、さらに大儲けできると考え、ゴダールに仲間を紹介してくれと頼み、ゴダールが太鼓判を押して推薦したのがジャック・ドゥミとアニェス・ヴァルダとロジェだったのです。こうしてドゥミ監督の長篇処女作『ローラ』(1960)、ヴァルダ監督の『ラ・ポワント・クールト』(1955)に次ぐ商業映画第1作『5時から7時までのクレオ』(1962)が生まれ、そしてロジェ監督の長編処女作『アデュー・フィリピーヌ』が生まれることになるはずだったのですが、『アデュー~』は1960年8月に撮影が始まって、いろいろあって捕足というか、追加の撮影が終わるのが、なんと、クランク・インから1年後の1961年の12月になってしまい、プロヂューサーに憎まれ、生まれながらにして「呪われた」映画になってしまうのでした。ロジェ監督独特の一見だらだらした自由奔放な撮り方にも唖然としたボールガールは、完成試写を見た時に、ラッシュ(未編集フィルム)と思ったというエピソードが残されており、これなどいかにも『アデュー~』のみならず、すべてのロジェ監督作品の、真に即興的な特質をよく表しているかのようです。『アデュー・フィリピーヌ』を当時絶賛したトリュフォーは、ヌーヴェル・ヴァーグが「真の青春」を描くために生まれたのだとしたら、『アデュー・フィリピーヌ』こそ「ヌーヴェル・ヴァーグの最も成功した作品の1本であることは確かだ」と書いています。
アルジェリア戦争が泥沼化していた'60年のフランスの夏――兵役のために出征しなければならない1人の青年の、もしかしたらこれが最後になるかもしれない夏のバカンスを、暗い悲愴感のようなものなどおくびも出さずに、まるで全てが当たり前の人生の自然の流れのように軽やかに生き生きと描く。あたかもジャン・ルノワール監督が第二次大戦前夜の1939年に撮った――そして自ら「陽気な悲劇」と名付けた――『ゲームの規則』さながら、自由に屈託なくはしゃぎまわるドタバタ喜劇のような青春映画、それが『アデュー~』ででした。。そのせいか、戦争の不安も恐怖も感じさせずにふざけすぎているとみなされた『ゲームの規則』のように、『アデュー・フィリピーヌ』も観客に受け入れられず、まったく当たりませんでした。公開が'62年にまで延びてタイミングがずれてしまった('62年にはアルジェリア戦争が終結)というような事情もあるのでしょうが、もしかしたらヌーヴェル.ヴァーグ(新しい波)よりも新しすぎた映画だったのかもしれません。
ヌーヴェル・ヴァーグの旗手となったトリュフォーもゴダールも『アデュー.フィリピーヌ』こそ真のヌーヴェル・ヴァーグ、永遠の青春映画と大絶賛したにもかかわらずヒットせず、ロジェも自分はヌーヴェル・ヴァーグに近い存在だと感じたことはないと語っています。たぶん『小さな兵隊』のヒロイン――ゴダールの永遠のヒロインになる――アンナ・カリーナのことでゴダールと決別したこともあって、「ゴダールのひらめきや洞察力は素晴らしいが、ゴダールの全ての映画が好きという訳ではない」とも語っているのですが、『ブルー・ジーンズ』を評価し、ボールガールに推薦してくれたことには心から感謝していて、その恩に報いるかのように、アンナ・カリーナの出ていないゴダールの映画、ブリジット・バルドー主演の『軽蔑』(1963)の時には、2本の短篇ドキュメンタリー、『バルドー/ゴダール』と『パパラッツィ』(ともに1963)を撮って(白黒作品ですが)ゴダールに敬意を表しています。以後、長篇作品は『アデュー・フィリピーヌ』の10年後に第2作『オルエットの方へ』(1971)、それから5年後に第3作『トルチュ島に漂流した人たち』(1976)、そしてさらにまたほぼ10年後に第4作『メーヌ・オセアン』(1985)、そしてそのさらに16年後に第5作『フィフィ・マルタンガル』が作られています。(またまた明日へ続きます‥‥)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)