杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

街を変えるエネルギー

2009-04-20 11:22:13 | アート・文化

 18日(土)は午前中、京都シネマで今年のアカデミー賞主演男優賞&脚本賞を受賞した『ミルク』を観ました。ライターを生業とし、ドキュメンタリー映像の制作に挑戦中の我が身としては、本年のアカデミー賞ノミネート作品の中で、実在の人物をドキュメントタッチに描いてオリジナル脚本賞をゲットしたという本作が、一番気になっていました。授賞式で観た脚本家のダスティン・ランス・ブラックは思った以上に年若く、才能に一番エネルギーが注入できる世代で、いい仕事してるなぁと羨ましく思ったものです。

 

 主演男優賞に輝いたショーン・ペンは、納得の演技力でした。彼を本作で初めて観る人は、彼が本当にゲイじゃないかと信じるだろうと思えるほど、演じていることを微塵にも感じさせない堂々のなりきりぶりでした。作品の中では多くの若手俳優が同性愛者役に挑戦していましたが、どこか“演技してる感”があって、ショーン・ペンの圧倒的な演技力がより際立って見えました。

 

 

 彼が演じたのは、70年代、同性愛をカミングアウトし、同じくマイノリティである有色人種や高齢者などの声を政治に届けようと、サンフランシスコの市制執行委員(市会議員みたいなもの)に何度も何度も出馬して落選し、やっと当選して、同性愛者やそれを支持する人を教職から追い出そうとする条令の実現阻止に向けて闘ったハーヴィー・ミルク。〈タイム誌が選んだ20世紀の100人〉にも選ばれた人です。

 

 

 10数年前、(社)静岡県ニュービジネス協議会の海外視察研修でサンフランシスコを訪ねたときのこと。夜、参加者数人で食事を終えてホテルまで徒歩で帰る道すがら、参加者の某社役員の男性(40代だったかな?)が、通行人の白人男性にたばこの火を求められ、何気なくライターをつけてやってそのまま立ち去ろうとしたら、白人男性にいきなり怒鳴られた…という場面に出くわしました。

 鈍感な私は、いったい何が起きたのかわからず、ホテルに戻って、ツアー添乗員から、たばこの火のやり取りが、同性愛者の求愛サイン&OKサインだったことを知らされ、某社役員氏も私も目がテン!になったことをよーく覚えています。役員氏には失礼ながら、彼が特別目を引くような二枚目というわけではなく、体格がよくて背が高いのがポイントぐらい? ほかにも男性は4~5人いたと思いますが、なぜ彼が??というのも、忘れ難い経験になった一因でした。

 一般情報として、サンフランシスコに同性愛者が多いということは知っていましたが、普通の日本人男性が普通の白人男性に、普通にナンバされた目の前のリアル体験で、本当に普通に街を歩いてて、そういうことがある街なんだと強烈に残りました。

 

 

 その20年前に、ハーヴィー・ミルクという同性愛者初の公職者が、普通に暮らせる権利を求めて闘って、凶弾に倒れたという事実があったことは、今回、この映画に出会って初めて知りました。

 

 この時代に、自分が公言しづらいマイノリティであることを堂々と明かして、社会の偏見に立ち向かうことがいかに難しかったことでしょう…しかも彼は40歳になるまで自分の性癖を隠していたごく普通のサラリーマンでした。40歳を過ぎてから「自分は何のために生きているのか」を自問自答し、見た目もさえない中年のゲイである自分に、20歳年下の恋人が出来たことで一歩踏み出す勇気を得て、行動を起こした。そのことにまず共鳴します。自分が何者かに揺らぎながら中年になってしまい、このままでいいのか、生まれてきたからにはこの世の中に自分を役立てる道があるはずだと焦る気持ち。愛する人を得たならば、その思いは一層強まるでしょう。

 

 彼のようなマイノリティが行動に起こす勇気の源泉は、不満、怒り、憎悪…等など、負のエネルギーを想像しがちですが、私はこの作品を通して、恋人や仲間たち、そして自分の人生への愛情と愛着が、彼を奮い立たせていたと感じました。その意味でも、この作品は、特別な境遇の人の特別な人生を描いたのではなく、希望を求めて生きようとした普通の人々の挑戦を描き、それが多くの人々の共感を得たのだと思います。自分たちが異質ではない、どこにでも普通に暮らしている人間だということを知ってもらうために、仲間たちにカミングアウトを呼びかけるシーンは心に迫るものがありました。

 サンフランシスコという街に対する、自分の狭い見方が少し変わったような気がしました。

 

 

 

 午後、京都国立博物館で開催中の妙心寺展を回り、白隠禅師のユニークで風刺の効いた禅画を堪能し、夕方の新幹線で戻りました。

 

 

 新聞等でも紹介されたとおり、18日夜、JR静岡駅南口の『湧登』、青葉シンボルロード近くの『狸の穴』、常盤町の『たがた』という3店による、〈静岡DEはしご酒〉というイベントがありました。

 企画者である湧登のオーナー山口登志郎さんからは、事前に、映画『吟醸王国しずおか』の募金をしましょうかと声をかけてもらったものの、はしご酒に参加予定の小夜衣、國香、正雪の蔵元を、映画では取り上げていないので、蔵元さんに悪いし、本企画とは関係ないことでお金がらみの手間をかけるのもご迷惑なので…と丁重にお断りしました。

 自分の映画の宣伝は無理でも、代わりにスタッフとして何かお手伝いできれば…と思っていましたが、私のような古参者はお呼びじゃなかったみたいですね(苦笑)。スタッフはみんな若くて、この企画をトコトン楽しんでいるよう。『吟醸王国しずおか』の個人出資者である『湧登』と『狸の穴』のオーナーに挨拶だけでも、と京都土産を持って顔を出したところ、客席に若い人や女性同士を大勢見かけました。酒の消費の現場に若い世代が育っていることを嬉しく思いました。

 

 

 …一般的に、シティセールスの下手な奥手の街と思われている静岡、しかもお茶やおでんほどメジャーではない日本酒というジャンルで、こういう企画が動き出したことで、少しは街のイメージが変わるかも。

 街を変える力とは、酒が売れないからなんとかしなければ、という負のエネルギーではなく、酒をトコトン愛している、というポジティブエネルギーに相違ありません。そのことをほんの少し予見できた夜でした。

 

 そういえば、國香の松尾晃一さん(蔵元杜氏)って、ちょっとショーン・ペンに似てますよね。ショーン・ペンが前回、『ミスティック・リバー』でアカデミー主演男優賞を受賞した時、松尾さんに話したことがあって、「ションベン? 品のない名前だなぁ」とムッとされたっけ(笑)。

 


河内発観音像の旅

2009-04-19 13:21:58 | 仏教

 17日(金)は大阪・河内長野の観心寺へ行ってきました。お目当ては、年に2日間、4月17・Imgp0813 18日にご開帳されるご本尊・如意輪観音像です。

 

 限られた日しかお目にかかれない、いわゆる秘仏といわれる仏像。本来、ほとけの教えを世に広めるために造られたのに、わざわざ人の目から遮断するというのは腑に落ちない話ですが、仏像写真家で知られる小川光三氏は「日本には昔から高貴なものを視角から遮蔽する風習があり、まったく目に見えないものを祭典の主体とする神祀りに親しんできた日本人は、特別な時だけ仏の姿が現れるという神秘性を重視したのではないか」と解説します。

 

 

 そりゃ、いつでも好きな時に拝観できるほうがいいとは思いますが、自分がほとけさまにお会いしたいと思ったときに、タイミングよくお会いできれば、それはそれで素敵な仏縁。秘仏の最大のメリットは、なにしろ保存状態が素晴らしいことに尽きるでしょう。

 3年前、広島県甲山町の龍華寺・十一面観音像(8月20日午後のみ開帳)にお会いしたときは、そのスマートで洗練されたお姿に感動し、東大寺法華堂の執金剛神像(12月16日のみ開帳)にお会いした時は、1300年前に造られたとは思えない鮮やかな色彩に驚きました。

 

 

 

  そして今回お会いした如意輪観音像(国宝)。

 弘法大師の孫弟子にあたる真紹が承和年間(834~848)に造ったとされ、室町時代に再建された金堂(国宝)の内陣中央におわすご本尊です。龍華寺の十一面観音も法華堂の執金剛神も本尊ではないので、もちろんセンターポジションではなくて、開帳時も“扉を開けただけ”という感じでしたが、今回はまさに主役。本来は参拝者が踏み入れることができない内陣の中にまで入って拝謁することができました。

 脇侍に不動2009041909310000明王と愛染明王(ともに秘仏)と、それをお守りする四天王像。内陣の柱と柱の間には板製の両界曼荼羅。仏像ファンにはとって最高の“舞台装置”がそろっています。

 蝋燭の光と、小さなライティングに照らされた観音さまは、ため息がつくほど麗しく、じんわり涙がにじんできました。

 

 内陣の中は信者や仏像ファンでぎゅう詰め状態でしたが、窮屈さはまったく気にならず、観音さまのお姿から目が離れません。世の中にこんなに美しい造形物があって、しかも1200年前の人の手によるという事実。…日本人に生まれてよかったなぁとしみじみ思いました。

(実物はもちろん撮影不可ですから、この写真は小川光三氏の作品を複写したものです。実物の写真も、もっと素敵なので、機会があったらぜひ小川氏の写真集をご覧ください)。

 

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 国立博物館のような立派な鑑賞施設で、仏像をより多角的に美しく見せてくれる機会は確かに得難いものでした。先日の興福寺阿修羅像も、昨年の薬師寺日光月光菩薩像も、ふだん観られない後ろ姿や横顔が間近に見られて素晴らしかった。…それでもやはり、今回の感動は比較にならないものでした。

 お側に寄れなくても、正面しか見られなくても、1200年間、日本人が護ってきたものです。戦前は60年に1回しかご開帳されなかったそうですから、一生のうちに1度お会いできるかどうかわからないほとけさまを、こうして年に1度拝謁できるようになっただけでも有難いこと。

 

 博物館で360度可視化できることと、あえて視覚を遮蔽すること…今の日本人にどちらがいいのかわからなくなってきます。

 

 

 

 河内長野駅に戻ると、お昼時。行きに乗ってきた南海電車でふたたび難波まで戻れば、食いだおれの街ですからランチ処も選び放題です。

 Imgp0826 しかし、如意輪観音像の感動からしばらくは醒めたくないし、ミナミの街の喧騒が気持ち的に重いかなぁと思っているうちに、フラフラっと隣のホームの近鉄電車に乗ってしまい、車内で沿線図を見ているうちに、室生寺に行こうと思い立ちました。愛読誌である『あかい奈良』06年秋号に室生寺門前の橋本屋旅館の山菜料理のことが紹介されていたのを思い出したのです。

 

 

 Imgp0824 橋本屋は高浜虚子、会津八一、水原秋桜子、井上靖、土門拳、五木寛之ら文化人に愛された老舗旅館で、昼の山菜料理(2100円~)は予約なしでもいただけます。白身魚のようなふんわりとしたとろろ汁やこんにゃくの刺身など、手の込んだ山菜メニューは、『あかい奈良』に書いてあったとおり、まさにスローフードそのもの。何よりの極上ランチでした。

 

 

 

 

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 室生寺は花散らしのサクラとまだミルい新緑、そして咲き始めのシャクナゲが、金堂や五重塔の周りを彩っていました。

 

 Imgp0830 内陣の中まで入れた観心寺とは違い、室生寺では釈迦如来や十一面観音は外からしか見られません。本来、仏像はこのように御堂の外から遠巻きに拝むのが普通なので、これはこれで正しく、常時拝観できるだけでも有難いこと。…ちょっぴり物足りなさを感じつつも、遠目からもわかる十一面観音の澄んだ面ざしに心打たれました。

 

 

 ほとけさまとは、観る者の立ち位置で、実際は遠くても心に迫るものを感じ、間近で見ても感じないことがある…心にかける遠近両用眼鏡が必要なんですね。


小田原の史跡散策

2009-04-16 11:25:21 | 旅行記

 昨日(15日)は東京新聞暮らすめいとの取材で、丸一日、小田原を歩き回りました。写真映えする絶好のお天気。桜が終わり、新緑が鮮やかさを増すには今一つといDsc_0011う中途半端なタイミングでしたが、小田原という街が、こんなに撮影ポイント目白押し!だったとは・・・。今まで箱根に行く時の乗り換えぐらいで市街に降り立ったことのない私には、新発見の連続でした。

 

 

 まず小田原駅の新幹線口(西口)におわすのが北条早雲像。すんごくカッコいいです。静岡駅前にも最近、徳川家康の竹千代時代の像と大御所になってからの銅像が建てられましたが、戦国武将なら現役時代の気力体力みなぎる年頃の像じゃないと迫力ないですよね…。早雲像を目の前にすると、静岡は子どもと隠居の街なんだ(苦笑)…と改めて身に染みます。

 

 もっとも、北条氏はそれまで小田原を治めていた大森氏を攻め追い出したわけで、小田原市民の中には「なんで侵略者の像を駅前に建てるんだ」と異議を唱える人もいるそうです。

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  戦国時代には日本最大規模を誇った小田原城。江戸末期まで譜代大名の居城として重要な役割を担っていましたが、明治維新で廃城となり、関東大震災で壊滅的な被害を受けました。

 その後、国の史跡に指定されてから保存や復興が進み、昭和35年には天守閣が、46年には本丸正面の常盤木門が復興、平成9年には銅門が復元され、21年今春、二の丸正面に位置する馬出門(うまだしもん)が復元完成しました。

 Dsc_0017 …駿府城と違って、復元根拠史料がちゃんと残っている=国や県の補助対象になるから出来るんですよねぇ。城址公園には昔懐かしいミニ動物園やミニ遊園地があって、桜や藤や花菖蒲・紫陽花などの花も楽しめ、イベントができるフリースペースもふんだんにあります。中心にお城がちゃんとあるから、周囲にごちゃごちゃあってもサマになるんだと実感します。

 

 

 

 

 お昼は、小田原の街おこし事業で展開中の『小田原どん』というのを食べました。市内の飲食店で、①地元の食材を1品以上使う、②小田原漆器(伝統工芸品)の器に盛って提供する、③小田原のPRをするという3条件を満たした丼メニューを考案。現在、10店舗で、天丼や海鮮丼や中華丼などさまざまな“小田原どん”を味わうことができるのです。

 

Dsc_0047  小田原城の本丸茶屋で『小田原武将茶漬け丼』という、茶飯にぎりの梅茶漬け丼を見つけましたが、小田原どんのパンフレットを見ると、他の店の写真映えしそうな丼があれこれ載っています。お茶漬け丼ももちろん魅力的ですが、暮らすめいとの担当誌面で食は1点しか紹介スペースがないので、お茶漬けを小田原グルメの代表選手として取り上げるのはどうかな…と一瞬悩み、結局、国道1号線沿いにある、創業400余年という老舗割烹旅館・小伊勢屋の食事処『古い勢』まで足を運び、“小田原鯵天丼”をいただきました。

 

 鯵はいろんなところで獲れるので、地モノといってもホントはどっから来たのかわからないというのが多いと聞きますが、この丼は小田原漁港で水揚げされた鯵だけを使うことに誇りをかけている、とお店スタッフ。確かに身が厚く甘さも十分の美味しい鯵でした。お隣には、小田原らしく、かまぼこの天ぷらものっかって、小田原漆器の重厚な丼鉢、寄木細工の箸と箸置きで味わうと、ちょっぴり大名気分?

 

 

Dsc_0082  古い勢の人に器の製作元である『漆・うつわ・ギャラリー 工房石川』を紹介してもらい、お土産になりそうな梅型のかわいい箸置きを取材しました。小田原の漆器は室町中期に箱根山系の木材で木地挽きした器に漆を塗ったのが始まりで、北条氏の時代に彩漆塗の技法が確立され、今は、天城・丹沢山系の優良なケヤキを原料に、自然の木目の美しさを活かした塗りが人気を呼んでいます。

 

 伝統工芸がショーケースに中におさまってしまって、ふだんの生活からかけ離れてしまっている中、地元食材とコラボして、地の味を出すという試み、ぜひ静岡でもやってもらいたいと思いました。

 

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 この後、北原白秋や尾崎一雄の住まい・書斎が残る小田原文学館(右写真)、電力王と呼ばれた実業家松永安左ェ門の美術コレクションや茶室・老欅庵(左写真)が残る松永記念館、そDsc_0116 して石垣山一夜城歴史公園まで足を伸ばし、小田原の街並みと相模湾の眺望を楽しみました。

 

 

 

 

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 石垣山一夜城は、関白秀吉が北条攻めのときに本営として築いた城址。その名の由来は、歴史ファンならおなじみですが、山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを作り、白紙を張って白壁のように見せかけ、それを見た小田原城の将兵がひと晩で城が出現したと思いこんだ…という伝承から。実際には4万人が動員されて80日で建てたそうです。

 

 

 Dsc_0099 今も、井戸曲輪の石垣は、400余年前の築城当時のまま残っていて、石積みに駆り出された近江の穴太衆(あのおしゅう)の野面積(のづらづみ)技術の高さが伝わってきます。歴史の表舞台のストーリーも面白いのですが、私は、その舞台を陰で支えたこういう職人集団の技の凄さとか、職人たちが置かれた境遇というものにとても惹かれます。日本の歴史は、名もなき彼らがその土台を作ったんだという視点を大事にしたいと…。

 復元された小田原城は確かに見ごたえがありましたが、400余年のまま残る石垣山一夜城の井戸曲輪が醸し出す空気感というのは、復元では得られない、なんとも形容しがたい質感がありました。

 それにしても、小田原って街中に、攻めるものと護るもの、双方の城址がちゃんと残っているんですね。石垣山の展望台からは小田原城の天守閣がよく見えます。「この距離感で戦っていたのか・・・」とリアルに実感できます。

 

 

 今回は、前回暮らすめいとの取材でお世話になった井上靖文学館の松本亮三館長が小田原にお住まいだったというご縁で、松本館長ご夫妻と、そのご友人の山川睦子さんの3名に懇切丁寧にご案内いただきました。本当にありがとうございました!

 

 小田原は一度の取材では収まりきれないほど、まだまだたくさんの見どころがあります。また昨日は水曜定休の場所が多くて見学できなかったところもあったので、天気の良い週末にもう一度訪ねるつもりです。

 小田原市街のおススメスポットや味情報をお持ちの方がいらしたら、ぜひ教えてくださいまし。


福祉と環境の下支え

2009-04-14 10:58:08 | NPO

 昨日(13日)は、難しい社会問題に果敢に挑むエネルギッシュな経営者2人を取材し、大いに刺激を受けました。

 

 午前中に浜松でお会いしたNPO法人くらしえん・しごとえん代表理事の鈴木修さんは、障害を持つ人の生活と就労支援をサポートしています。似たような肩書きの福祉団体はたくさんありますが、鈴木さんは数々の現場経験を通し、障害者を支援する人のスキルアップの重要性に着目し、行政がなかなかできない障害者支援者・指導者・ジョブコーチ等の研修事業を行っています。

 

 国や自治体や企業側も、障害者を何人雇えばいいとか、数字ばかりを重視しますが、雇用した・就業した時点がゴールではなく、本当の意味でのスタートなわけで、障害者が働き続けるための支援もすごく大切なんですね。鈴木さんは「まさにジョブコーチのような支援者によって、その人の一生が決まるといってもいい」と言い、「それだけシビアな専門職にもかかわらず、ジョブコーチに対する理解や認識が足りない。ボランティアやパートタイマー的な扱いをされ、ジョブコーチという仕事で自立できないのが現実です」と指摘します。

 ジョブコーチと聞いて、私も、単純に職場における職能向上支援みたいに思っていましたが、障害者を支援する場合は生活支援全般にかかわってきます。障害者といっても、障害者手帳を持っている人いない人さまざま。鈴木さんは「一人一人が抱えている問題に向き合う」ことが基本だと言います。

 

 

 Imgp0799 鈴木さんご自身は、生まれながらに障害を持つお子さんの子育てに長年向き合い、また高校教師として生徒の生活指導や就職支援の現場を担い、市民有志の出資によって開校した全寮制校・黄柳野高校(愛知県)の設立にも尽力。日本障害者スポーツ協会公認スポーツ指導員の資格を持ち、盲人マラソンランナーの伴走者としても活躍しています。

 

 身近に障害を持つ人がいるとき、周囲の人間に対して鈴木さんが強調するのは、「障害者を特別扱いしすぎない」ということ。盲人ランナーの伴走をしていると、どうしても上下関係が出来てしまうので、いいパートナーになることを常に心がけているそうです。

 

 「障害者も同じ人間。性格が合う合わないもある。何でもかんでも障害者だから優しくしてやらなきゃとか面倒見てやらなきゃ、ではなく、同じ人間同士だからという発想が大事」と鈴木さん。「ふつうの若者だって、工場で同じ単純作業を長々強いられていたら嫌になるでしょう。障害があるというだけで単純作業しかできない、させられないという見方はあまりにも短絡的。彼らだって可能な限りスキルアップしたいと思っている。彼らを特別扱いせず、当たり前の生活者目線で見守ること、それがジョブコーチの第一歩」と真摯に語ります。

 

 NPO法人くらしえん・しごとえんは、全国で4か所ある厚生労働省認定のジョブコーチ育成支援団体の一つ。毎年行う研修会には全国各地から受講者が集まります。「いい支援者に出会うことで、その人の将来が決まる」という鈴木さんの台詞は、障害者支援に限らず、どんな人のどんな状況にも当てはまること。お話を聞いていれば、鈴木さんは、当たり前のことをしているんだ…とわかるのですが、こういう団体がまだまだ少ないというのは、当たり前のことをしたくてもできない人が圧倒的にいるという現実の裏返しなんですね。

 

 

 

 夜は、(社)静岡県ニュービジネス協議会中部サロンで、08年度静岡県ニュービジネス大賞を受賞した静岡油化工業㈱の長島磯五郎社長のお話をうかがいました。

 

Imgp0804   長島さんは50歳を過ぎてから、倒産した会社を亡兄から引き継ぎ、つねに「どんな仕事でもいい、自分で一から事業を立ち上げ、自分の腕を試すチャンスだ」とポジティブに考え、事業を立て直したものの、会社が落ち着くと「この仕事ではしょせん業界一位にはなれない」「社会に貢献できるわけでもない…」とモチベーションが落ちてしまったそうです。猪突猛進型の経営者ならそうでしょう。私もただのローカルライターですが、安定を求めつつも、安定しっぱなしの状態は居心地が悪いという気持ち、なんとなく解ります。

 

 

 そんなとき、豆腐のおからの処理に困っているという業者に出会い、「自分が子どもの頃は、おからといったら大事なたんぱく源だったのに、今は産業廃棄物として全国どこでも厄介者扱いされているという、その現実に驚いた」そうです。

 おからが処理できないと、静岡の町の豆腐屋は廃業の危機だと言われ、「これは社会に求められる大事な仕事だ」と腹をくくり、乾燥処理して飼料・肥料に。これを事業化したのは全国初めてでした。

 

 

 

 が、いざ農家に買ってもらおうとしたら、海外から入ってくる安価な飼料肥料に太刀打ちできず、大量の在庫を抱えることになり、「清水の合板会社が燃料に使ってくれるというので、トラックで運んだが、苦労して乾燥肥料にしたおからを燃料にされるのを見るのは心底辛かった…」と長島さんは振り返ります。

 「長島さんの会社で乾燥おからが事業として成功しなければ、我々も共倒れだ」という危機感を持った県豆腐油揚商工組合が、喧々諤々話しあい、静岡油化工業は、組合指定おから処理工場になりました。

 ところが、せっかく体制が整っても、産廃処理業者としての認可が「前例がないから」という理由でなかなか下りない。業を煮やした長島さんは、石川知事に直接嘆願書を送り、この事業の必要性を理解した知事が即決。なんとかおからの回収とリサイクルの事業が軌道に乗りました。

 

 

 

 次いで、長島さんのところには「油揚げを作った後の天ぷら油をなんとかしてほしい」という相談が。子どもの頃、学校へひまわりの種を持っていき、油を搾りとって、それが戦闘機の燃料に使われたという記憶を持つ長島さんは、試しに自前の漁船に廃食油を入れてエンジンをふかしたところ、ちゃんと動いた。

 「調子に乗って外海まで行ったら、ちょうど台風直前の凪の状態で、鯖や宗太鰹が面白いように獲れた。気を良くして戻ろうとしたら途中でエンジンがストップし、大慌て。見る見るうちに空は暗くなり、風雨が激しくなり、船の中にかろうじて残っていた軽油を使ってエンジンをふかしなおして、危機一髪で戻ってきた。漁港では私の船が行方不明だと大騒ぎになっていて、大目玉をくらったが、天ぷら油のせいでエンジンが止まったとは言えなくて(笑)」と長島さん。

 ただしその経験から、エンジンが止まったのは廃食油にゴミが混じっていたせいだとわかり、徹底した精製によって廃食油のバイオディーゼル燃料(BDF)化に成功しました。

 

 現在、静岡油化工業のBDFは、自社車輛30台をはじめ、県内21市町の公用車やゴミ収集車等に採用され、しずてつジャストラインの定期運行バス15台にも使われています。

 「廃食油は全国で年間45万トン排出され、うち業務用の20万トンは回収され、飼料や燃料にリサイクルされていますが、残り25万トン(家庭用)は未回収のまま無駄に捨てられている。資源のない国がこれでいいのかと思う。静岡市内では月70トンの未回収廃食油があり、これをBDFにすればゴミ収集車が200台動かせます」と長島さんは力説します。

 

 さらに、おからをバイオマス醗酵させ、蒸留して得られるアルコール燃料(=バイオエタノール)をガソリンに3%加えたバイオエタノール混合ガソリンの製造プラントが今年1月に完成。おからを中心としたゼロエミッション(廃棄物ゼロ)システムを構築中とのこと。

 ただしこちらも制度が現実に追いついておらず、長島さんがバイオ混合ガソリンを精製しようとしても、購入するガソリンには税金がしっかり乗っかっており、精製後のガソリンにも二重に税金が課せられる。普及価格になかなかなれないのです。

 

 

 

 さらにさらに、バイオエタノールの原料を増やそうと、昨年から今年にかけ、磐田市の遊休農地でサツマイモを無農薬栽培し、杉井酒造でいも焼酎「磯五郎」を仕込んでもらいました。発売は6月6日とのこと。長島さん、いかにも酒銘に合いそうなお名前でよかったですね(笑)! 酒蔵が、間接的にせよ、こういう形で循環型社会の構築に貢献できるというのは素晴らしいことです。

 

 

 障害者の生活支援も、廃棄物処理も、社会に必要不可欠であるにもかかわらず、かつては社会の片隅に追いやられていた仕事でした。中でも、鈴木さんや長島さんのような仕事は、なかなか表には見えてこない下支えの立場です。

 福祉や環境が脚光を集め、期待される社会というのは、幸せなのか、行き詰まりなのか、鈴木さんが言うようにいろんなことが「当たり前」になるまで一体どれだけ時間がかかるのか、私自身がしっかり実感し、判断できる取材を続けていかなければ…と思いました。


南蛮船駿河湾来航図の謎

2009-04-12 11:48:04 | 朝鮮通信使

 昨日(11日)は清水テルサ(JR清水駅前)の8階レストラン「ブランオーシャン」で、静岡県朝鮮通信使研究会第4回定例会が開かれ、朝鮮通信使研究家・北村欽哉先生の講話を傾聴しました。

 清水テルサは、07年5月19日、映像作品『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の完成披露上映会が開かれた思い出の場所。訪れるのはそれ以来です。

 

2009041111030000  昨日、定例会会場になったのは、なにも上映会の思い出の場所だからではなく、8階レストランから駿河湾~清見潟~清見寺の眺望が楽しめるから。今から402年前の1607年5月18~20日、まさにこの地で、徳川家康が第1回通信使一行をもてなしたのです。昨日の定例会は、家康がそのとき使った遊覧船や、沖合に停泊していたといわれる南蛮船についての謎解きで大いに盛り上がりました。こういう知的刺激が得られる場ってたまりません・・・!

 

 

 第1回朝鮮通信使(回答兼刷還使)の使行録『海槎録』によると、

〇慶長12年(1607)5月19日、曇りまたは雨。清見寺に逗留していた通信使一行を、家康が船5隻で清見潟の遊覧に誘った。

〇海上には南蛮船が1隻停泊していた。その構造はきわめて壮大で、先端に黄金獅子の座像、船首の両側に大きな柱のような錨2個、船の中には2層の板屋、船尾には華麗な2階の望楼、船の外側は雲・龍・花・草・人・鬼神などの鮮やかな彫刻、船の長さは三百余尺(900m?)、南蛮人6~7人が日本人を帯同して警護していた。南蛮人の一人が綱を渡って帆柱に上がるのが平地を歩くようで、蜘蛛が糸を伝って歩くようで、島主はすぐに来ていた着物を脱いで賞としてこれを与えた…

と、南蛮船の描写が事細かに書かれています。

 

 この地は、当時、富士山、清見寺、駿河湾&松林の絶景3点セットで、日本随一の景勝地といわれていました。

 2009041112080000  

 富士山本宮浅間大社に残る『富士山詣曼荼羅』(室町時代・重文)に描かれたこの3地点が、まさに当時の日本のベストビュー。だからこそ家康もこの地で通信使をもてなそうと大盤振る舞いをしたわけですが、肝心の通信使の日記には南蛮船のことばかり。天気が悪く、富士山の眺めが楽しめなかったのかもしれませんが、それにしても南蛮船は、通信使一行の眼に強烈な印象を残したようです。

 ところが日本側の記録には、当時、南蛮船が清見潟に停泊していたという記述は一切ありません。

 

 『朝鮮通信使』の脚本執筆時、山本起也監督と私は、通信使研究の第一人者である仲尾宏先生(京都造形芸術大客員教授)から、九州国立博物館に『南蛮船駿河湾来航図屏風』があることを教えていただき、九博まで再三、足を運びました。

 

 博物館の見解は、

 「図面の松原、塔のある寺院と関所は、それぞれ三保の松原、清見寺、清見関を示すと考えられ、本図は駿河湾に来航した南蛮船を主題にすると考えられる。史実との関連から見れば、慶長12年、駿河湾滞在中の朝鮮通信使慶七松が海上に一隻の南蛮船を観たと記録することが注目され、本図はまさにその様子をテーマとする可能性が高い。特定の場所と出来事が絵画化された作品として貴重であり、さらに日本を舞台とした国際的な交流の広がりを理解する上で不可欠な南蛮屏風である」

というもの。実際に見せていただいた屏風も、状態がよく、ハイビジョン映像向きの迫力ある図柄だったので、私たちは喜んで撮影させてもらいました。Img_2610

 九州国立博物館のホームページで拡大図を見ることができますので、こちらをどうぞ。

 

 

 一方で、北村先生はかねてからこの屏風が、本当に駿河湾を描いたものなのか、確信が持てずにおられたそうです。

 

 左隻の屏風には、屋根に十字架がかかった荘厳な南蛮寺(教会?)が描かれていますが、これを清見寺と解釈するにはあまりにも無理があります。反対側に、山に沿って小さな寺らしき建物と塔、入口には関らしき門が描かれています。これを清見寺とするならば、清見寺の塔は1500年代にはあったものの、家康の時代にはなかったので、確証はありません。

 三保の松原らしき岸で、多くの人々が南蛮船や南蛮人を見物している様子が描かれています。こんなに大勢の人が見ていたのなら、日本側の文献にも何らかの記述が残っていてもいいのに、それがない。

 

 なによりも、日本のベストビューである富士山が、この屏風には描かれていないのが、北村先生の最大の疑問。通信使の行列を描いた『朝鮮通信使駿州行列図屏風』には、富士山がはっきり描かれています。

 2000年に、徳川家康と国際都市駿府をテーマにしたシンポジウムが開かれたとき、北村先生はパネリストの五野井隆史氏(東大史料編纂所教授)に、「1607年に南蛮船が日本に来たのは清水港か?」と質問されたところ、「自分は確認していない。1602年にスペイン船サント・スピリット号が高知の土佐清水港に漂着しているので、それと混同したのではないか」と言われたそうです。東大の先生が、『海槎録』に記述に言及しなかったというのも不思議ですが…。

 

 一方、郷土史家・法月俊郎氏の『朝鮮使節と清水市』には、

 「海槎録の記述は今までほとんど郷土史料として注意されて居らぬが、慶長中期に清水港に南蛮船が停泊してゐたことは種々の意味で静岡市史・清水市史の上に興味ある示唆を与えるのである…南蛮船は或いは長崎からでも廻航したロドリゲスの乗って来た船ではなからうか」

とあります。

 『海槎録』の南蛮船の記述はかなりリアルで疑いはないと、素人の私もナットク。ゆえに、この記述の映像化に最適なこの屏風を採用したわけですが、北村先生のご指摘どおり、家康の時代の駿河湾を描いたと断定するには矛盾が多い。九博側も「屏風自体は桃山時代の作ではないか」と言います。

 

 

 信長~秀吉~家康の生きた時代は、世界史的にはスペイン・ポルトガルの大航海→世界侵略時代。少なくとも日本国の首長の自覚を持っていたこの3人は、遠い島国のハンディを負いながらも国際情勢について懸命に情報収集していたことでしょう。志半ばで亡くなった信長がさておき、秀吉も家康も、国内情勢と照らし合わせ、少ない判断材料の中で外交戦略を立てなければならなかった。家康は、秀吉の朝鮮出兵の後始末という負の遺産まで負っていた…。

 

 『海槎録』には、「玄蘇(日本側の僧)が言うには、老関白(家康)が新関白(秀忠)に通知して、“(通信使の)接待の際に、往年の無礼な規例に従うことなく、ただ誠信をもって互いに接し、回答の書契もまた、すべからく温順を旨とすべきである”と言ったとのことだ」という記述があります。朝鮮側の記録に、家康が誠信の態度で迎えていたという一節があるというのは、彼の外交戦略が平和に基づいていたリアルな証拠だと思えます。

 

 家康の平和外交の精神が次代へ拡大継承され、アジアに一定の貿易・経済圏が形成されていたら、歴史は間違いなく変わっていたでしょう。しかしそうはならず、家康の時代の国際交流の証しまで消されてしまったかもしれない…。朝鮮側の記録に誠信という言葉や南蛮船の駿河湾来航がはっきり記され、日本側にまったくそれがないというのは、作為的な匂いがプンプンします。

 前回の通信使研究会でも北村先生が指摘してくださったように、今、残っている史料や絵画とは、当時の首長にとって都合のいいものだけなんだということを差し引いて読み解かねばなりません。

 

 

 この屏風が、いつ、誰が、何の目的で描かせたのかはわかりませんが、科学的な立証でもされない限り、これを「駿河湾に南蛮船が来ていた絵」と国立の博物館が断定するのも、それを見た我々が「家康が駿河湾で通信使をもてなした絵」と解釈するのも、今の時代の“都合”というのか、時代の風なんだということも、どこかで自覚しなければいけませんね。