杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

国際白隠フォーラム2015(その4)パネルディスカッション「NO HAKUIN,NO LIFE-私と白隠」

2015-07-31 14:20:56 | 白隠禅師

 7月19日開催の国際白隠フォーラム2015、パネルディスカッション『NO HAKUIN, NO LIFE -私と白隠』のレポートです。

 パネリストは公開講座で演壇に立たれたハンス・トムセン氏(デンマーク/チューリッヒ大学教授)、竹下ルッジェリ・アンナ氏(イタリア/京都外国語大学准教授)、ブルース・R・ベイリー氏(アメリカ/日本ロレックス㈱代表取締役社長)、李建華氏(中国/翻訳家・日本文化研究家)、そしてコーディネーターに芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所元教授)。国際フォーラムと銘打つにふさわしいグローバルな講師陣です。

 

 4月ごろ、このフォーラムの企画を聞いたとき、県の担当者から「パネルディスカッションに何かインパクトのあるテーマコピーを」と相談を受け、ディスカッションのテーマを芳澤先生にうかがったところ、「パネリスト個人個人が魅力的で素晴らしいから、とくにテーマを設けず、彼らに白隠との出会いや思いを自由に語ってもらうつもりだ」とのこと。県の行事だからあまりくだけたコピーでも・・・と真面目な案をいくつか出して、ひとつだけ、私も自由にさせてもらおうと最後に付け加えたのが「NO HAKUIN, NO LIFE」でした。それが採用されるとは思いもよりませんでしたが、実際のパネルディスカッションは先生のおっしゃるとおり、パネリストお一人お一人のキャラが立ち、限られた時間なのに実に的確に、ご自身と白隠との関係性を深く掘り下げて語ってくださって、期待以上の面白さ。随所で拍手喝采が湧き起こり、私がお誘いした染色画家の先生やお茶の師匠も「こんなに内容の充実した講演会は久しぶり、来た甲斐があった」と大変喜んでくださいました。

 手持ちのICレコーダーで録音に挑戦したのですが、会場が広すぎて音をほとんど拾えなかったため、走り書きメモをもとに各先生方のご発言のポイントを多少リライトし、紹介させていただきます。正確さに欠ける部分もあろうかと思います。聴講されていた方でお気づきの点がありましたら遠慮なくご指摘ください。

 

 

(トムセン氏)私はデンマーク人ですが、生まれは京都で、宣教師の父が袋井にデンマーク牧場を作った関係で、幼い頃は静岡で過ごしました。父は宗教の研究もしており、その関係で三島の龍澤寺の中川宋淵老師や沼津出身の古美術商田中大三郎さんとも知己を得ました。若い頃は東京南青山の田中さんの店で丁稚奉公もしていたんです。その頃、白隠禅師と出会い、店に来るお客さんに田中さんが解説されているのをそばで聞いて、いろいろ勉強させてもらい、白隠の作品が出品される展覧会があれば必ず出向きました。

 私は仏教徒ではありませんが、白隠からは精神的な影響を受けていると思います。学者として見ても面白い対象で、ものすごいインスピレーションがあり、スケール感もある。書も画もどちらもすばらしいですね。好きな作品はたくさんありますが、一つ上げるとしたら、直径13センチほどの小さな小さな観音像です。

 

 

(芳澤氏)小さな観音像は、大店の女将さんが自室の仏壇にかけていたものではないかと思いますね。

 

 

(竹下氏)若い頃から東洋思想に興味を持ち、13歳くらいのころから空手道場に通い、ヴェネチアの大学で日本語を勉強しました。専攻を選ぶときにはごく自然に日本の宗教や哲学を選択し、有名な鈴木大拙の本を読んで白隠禅師のことを知りました。21歳ぐらいのころですね。白隠の公案は論理的にはまったく考えられないけど衝撃を受け、白隠の勉強をするには日本に行くしかないと、縁のあった花園大学に入学し、次いで大阪府立大学大学院で白隠の公案体系を研究しました。

 大阪の古本屋さんで床に積んであった本の一番上にあったのが遠羅天釜(おらてがま=代表的な白隠法語集)だった。偶然出合ったこの本を研究テーマに選んで、「白隠はこういうことを言おうとしていたのではないか・・・」とアタマが一杯になっていたら、ある先生から「あんたは白隠じゃない」と怒られました(笑)。今は、研究というよりもとにかく翻訳が大事だと考え、遠羅天釜のイタリア語翻訳に取り組んでいます。

 遠羅天釜には子どもの頃の母親とのエピソードが書かれています。3年前に渋谷Bunkamuraで芳澤先生と一緒に白隠展を企画された東京芸大の山下裕二先生は、白隠が描く観音像はお母さんをモデルにしているのではないかと指摘されています。つまり白隠はマザコンじゃないかと(笑)。しかし母性は女性だけが持っているものではありません。観音菩薩はインドでは男性的な象徴として描かれ、中国に入ってきてから女性的に変化しています。面白いことに、白隠さんが晩年、83歳ぐらいのときに描いた観音菩薩は、お顔にシワがよっているんですね。

 

 

(ベイリー氏)大学の先生とはうってかわって商人代表で述べさせていただきます(笑)。何を隠そう、白隠さん、ダイスキです。宗教家ではあっても宗教のカベを超えた偉大な人。夜空の星のように時代が変わっても場所が変わってもずっと輝き続けているような方です。

 初めて名前を知ったのは、日本に留学し、円覚寺の坐禅会に参加したときでした。その後、東京上野の博物館で開かれた展覧会で初めて墨蹟を観て、その展覧会のほかの展示作品はアタマからすっ飛んで、身震いするほど感動した。それが白隠さんの書「本来無一物」でした。

 私には、大学の頃から尊敬している哲学者がいます。欧米では20世紀最大の哲学者といわれるルードウィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)。白隠さんと共通点が多いのです。後半生、人を救う、助けるということを人生の目的にされた。言葉やコミュニケーションを工夫した。2人とも活動的で実践的なアプローチをしています。白隠さんは街に出て理屈やセオリーを置いて、足で稼いで布教した。一人ひとりを大切に大切にし、相手に合わせて教えやアドバイスを行ないました。ヴィトゲンシュタインも日常会話やコミュニケーションを徹底的に探求した人です。

 あなたの哲学の目的は何かと問われ、彼は「ガラスの瓶に誤って飛び込んだハエに、脱出する出口を示してやること」と答えました。何か問題が生じるときというのは、言葉の罠に陥っているのだと説いた。哲学はその間違いをほぐすことだと。面白いのは、ハエの出口を「示す」。説明ではなく、ただ「示す」のです。白隠さんもまさに絵で「示し」た。隻手の音声などは、言葉のナンセンスを示した素晴らしい公案です。そういえば最近テレビを観ていると、よく「丁寧に説明いたします」と言ってますけど、そのわりにはよく分かりません(笑)。

 白隠禅師坐禅和讃の後半に「四智圓明」という言葉が出てきます。松蔭寺の前住職だった中島玄奘さんがとてもお好きで、坐禅をする者すべてが目指す境地であるとおっしゃっていました。鑑のような眼をして物事を判断せよということ。英語でいえば「don't think, look」―考え出したらわからなくなるから、よく見なさい、人の心をよく見なさいと言うことです。

 

 

(芳澤氏)一人ひとりに合わせて、というお話がありましたが、実は白隠さんの画は誰に描いてあげたのかがわからない。浮世絵は不特定多数のために描かれたものですが、白隠禅師の絵はたった一人のために描かれたものです。ですから一番最初に誰に向けて描いたのかはとても大事です。相手が修行者か、お侍か、政治家か、商人か、町人か、それは今後の研究課題でしょう。 

 

(李氏)私は華北の出身で1972年に北京大学に入った4ヵ月後に中日国交回復しました。その後、広島大学等で学んだ後、中日友好協会の仕事をするようになり、1980年、臨黄友好交流協会第一次訪中団で山田無文老師が来られた際、芳澤先生ともお会いしました。以来、35年のつきあいで、花園大学禅文化研究所でもお世話になりました。その後、北京に戻って日本文学の翻訳を手掛ける会社を作りました。私自身は白隠研究家ではありませんが、翻訳という仕事を通して私なりの白隠感を持っています。

 白隠とは広島大学在学時に出合いました。中国ではほとんど知られていない存在でしたが、「駿河には過ぎたるものが2つあり、富士のお山と原の白隠」を中国語に翻訳し、富士山と並ぶ存在であるということを中国の人々に紹介しました。また花園大学禅文化研究所の事業として白隠禅師自筆刻本集成を揚州で制作しました。揚州は鑑真和上の生まれ故郷で知られています。揚州には木版印刷を手掛ける広陵古籍刻印社という印刷会社がありますが、木版の受注が減り、刻字の技能者がオフセット印刷に回されていた状況でした。この事業のおかげで木版彫刻の大御所陳義時さんにも存分にお力を発揮していただきました。

 芳澤先生の著書「白隠禅画の世界」も中国語で2011年に出版させていただきました。ちょうど白隠の新しい図録の中国語版が仕上がったところです。翻訳活動を通じて中国人に日本のすばらしい作家や文学を理解していただく、それが相互理解に何よりつながると信じています。古典の翻訳にあたっては漢詩や散文の形式のカベがありますが、形にこだわらず、意味をしっかりとらえようと心がけています。現在30冊ほど日本の人気作家の翻訳本を出しており、中国人が書いた物も日本語にして積極的に出していきたいと思います。

 

 

(芳澤氏)李さんは今、東京の中国大使館にいらっしゃる程永華大使と同級生で、李さんも政治の世界に居続けておられたら中国大使になっておられたかもしれない、そういう方です。

 今日、会場にいらっしゃる沼津の方は白隠さんとの出会いを子どもの頃からふつうにお持ちです。小学校や中学校の校歌に白隠さんの名前が入っているそうですね。公立の小中学校の校歌に宗教家の名前が入っているなんて例は知りません。一方、今日のパネリストの皆さん方は白隠さんと劇的な出会いをされています。つまり、白隠さんから何かを感じとる、そういう眼をもっておられた。先ほどベイリーさんがご紹介になった哲学者ヴィトゲンシュタインの「考えるな、みろ」、白隠禅師の「見性成仏」。見るとは中国語で「現る」とも表現します。向こうから現れてくる、ということもあるようです。

 私がつねづね思うのは、白隠さんのことを知っているつもり、というのは知らないということなんです。つねに新しい眼で、枠にとらわれないで見て知ることが大事ですね。白隠は臨済宗中興の祖といわれますが、私はもっと巨大な存在だと思います。時間と空間を超えている。300年前の人なのに、今の私たちにも伝わり、問いかけてくるものがある。空間も超えていますね。原、沼津、日本のみならず、世界に大きく存在感を示している。そんな白隠さんを小さく閉じ込めてはいけないというのが私の考えです。このようなとんでもない方が東海道の原に生まれ、300年経って世界とつながるような精神を遺された。私たちはその意味を考え、次の世代の人たちが誇りに思い、大人になっても校歌を堂々と歌えるようでありたい。そう思っています。

 

 

 


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