杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

朝鮮通信使の東海道難所越え(その1)~由比薩埵峠

2012-05-05 11:31:40 | 朝鮮通信使

 少し報告が遅くなりましたが、連休前の4月26日夜、静岡県朝鮮通信使研究会があり、北村欽哉先生から、朝鮮通信使の峠越えのエピソードをうかがいました。

 

 いつもながら北村先生の解説は、史料を徹底的に読み込んで比較検証する実にロジカルな解説で、大変勉強になります。先生からは、歴史というものに向き合う基本姿勢を教えていただけるようで、それだけでもこの研究会に参加する意義があると実感しています。これも、今の年齢になって理解できることかもしれません。中学や高校時代に北村先生の熱血授業を受けてもどうだったかなあ・・・。難しいですね、学習のタイミングって。

 

 

 それはさておき、今回は国賓の外交使節団・朝鮮通信使一行2000人が、東海道の難所である由比薩埵峠と箱根峠をどうやって越えたのか、というお話。2007年の映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作時に先生からレクチャーを受けていたので、おおよそのことは頭に入っていたのですが、今回、改めて、峠道を整備するという当時の土木プロジェクトの裏話を聞き、新東名を取材したばかりだったので、400年越しの比較が出来て実に面白かった!

 

 

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 まずは薩埵峠。東名高速・国道1号線バイパス、東海道線が並んで走る海岸沿いの要所で、渋滞や台風交通止めなんかのニュースで必ず耳にします。こういうところが通行止めになると日本の東西の大動脈が寸断されるため、山間部に新東名を作ってダブルネットワーク化を図った・・・というのは有名な話ですね。

 

 

 「庵原郡誌」によると、薩埵峠はその昔、“磐城山”と呼ばれていたそうで、万葉集に、

 「磐城山 直越え来ませ 磯崎の 許奴美の浜に われ立ち待たむ」(読み人知らず)

 と詠まれていました。この歌を素人が見せられても、静岡、ましてや薩埵峠を舞台にしているとは到底思えませんが、駿州名勝志という1786年に書かれた郷土史料によると、

 

 「いはき山は今の薩埵峠也。中古に地蔵菩薩の像、海人の網にかかりてあがる・・・故に薩埵山となづく、其以前は磐城山と云へるならん」

 とのこと。中古とは、北村先生によると、仏教が普及し、仏教関連の地名が増えてきた鎌倉時代ではないかとのこと。許奴美の浜とは、やはり駿州名勝誌の記述で、今の興津川河口付近を指すそうです。“興津の浜で待っているから山を超えて真っ直ぐ来てね”という女性→男性に宛てた恋歌なんですね。

 

 

 

 さて、その薩埵峠を超えるには、海岸の波打ち際を通る「下道」、途中から峠を越える「中道」、さらにその上の「上道」の3つのルートがありました。1732年に書かれた「東海道千里乃友」によると、

 

 「下道ハ親知らす子志らすなととて波打よする岩間づたひの難所也。今も塩干にハ人馬共に通る也。中道ハ明暦元年朝鮮人来朝の時開きたる道也。上道ハ天和二年に又朝鮮人来朝の節開かれ、今の往来する道なり」

 とあり、中道は明暦元年(1655)に、上道は天和二年(1682)に、朝鮮通信使のために開通させたことが判ります。

 

 

 

 では朝鮮通信使側の記録「使行録」では、この峠越えをどのように記述していたか。ここからが北村研究の真骨頂です。

 

第1回通信使(1607) 「(興津を)少し遅く発ち、海辺に沿って行くこと四里、藤川の浮橋を渡る」(副使慶暹著・海槎録より)

 

第2回(京都止まり)

 

第3回(1624) 「夜明けに出立し、海岸にそって道を換えて進んだ。海水が揺れ動いて雪のような波浪が岸を打ち、怒涛の音は萬馬が疾走するようであった。海辺の村舎が一里に渡って連なっており、皆塩を作る家であった。東に折れて富士山の麓を過ぎた」(副使姜広重著・東槎録より)

 

第4回(1636) 「平明発行。桟道若道。海濤噴薄。其下一夫荷戈」(副使金世濂著・海槎録より)、「平明発行。遵海岸過湯井機道。一辺海水春撞。雪浪噴激。一辺富士山麓桟道若線」(従事官プアンボ著・東槎録より)・・・夜明けに出発し、一本の線のような桟道(険しい場所に木をかけ渡した橋)を渡る。大波が噴水のように目の前を覆う・・・といった意味でしょうか。

 

5回(1643) 「寺を過ぎてからは道がだんだん険しくなり、海の傍らを行くと、波の花が降り注いだ」(癸未東槎日記より)

 

第6回(1655) 「一つの浜を過ぎるとそこには大海があり、その前を通る。朝日が初めてあがって赤い雲が取り巻いて、雪のような波が清らかで、帆かけ船を数えられるほどで、一筋の飛瀑が山麓から流れ落ちる。仰ぎ見ると富士山が馬首に圧し臨んでおり・・・。山の下を回って過ぎ、また富士川の浮橋を渡って・・・」(従事官南龍翼著・扶桑録より)

 

第7回(1682) 「・・・清見てらという。二里ばかり行き、九曲の大嶺を超えたが、名付けて薩埵山坂(此の地は駿河に属す)と言い・・・」(東槎日録ないし東槎録より)

 

第8回(1711) 「嶺を超えて海に沿って行くと・・・」(副使任守幹著・東槎録より)

 

第9回(1719) 「薩埵嶺を踰ゆ。嶺路から海を俯瞰し、ときありて風涛が崖谷にあたり、あたかも人を拍つが如くである」(製述官申維翰著・海游録より)

 

第10回(1748) 「寺の前の村の中に親不知、子不知という名称の二つの村があるが、其の名称が甚だ奇怪であり、此寺の僧が皆此れを隠していると言う。進んで一つの嶺を超えると、道は山頂を穿って出て、海が俯瞰されて甚だ危うい」(奉使日本時聞見録より)

 

第11回(1764) 「泥道を歩いて一つの険しい嶺を超えたが、此れが即ち薩陀岬である」(海槎日記より)

 

 

 

 ご覧の通り、第7回(1682)以降、「中道」や「上道」を通るようになったことがわかります。「中道」を作ったのは明暦元年(1655)、第6回のときのはずですが、通らなかったんでしょうか??

 

 

 

 そこで北村先生は幕府側の工事記録を再確認されました。「徳川実記」によると、

 

○寛永十一年(1634)正月25日に、仙石大和守久隆が道梁修築のため、駿州薩埵山と遠州本坂(姫街道)に派遣される。同年6月26日、徳川家光が30万の大軍を引き連れて京に向かう途中、蒲原御旅館(当時のVIP用の宿)を立ち、清水から久能山へわざわざ回って参詣をし、駿河に入った。

 

○明暦元年(1655)4月15日、小姓組柘植右衛門正直、江原与右衛門親全、佐藤勘右衛門吉次が韓聘(朝鮮通信使招聘)を目的に駿河薩埵峠道作奉行を命じられた。通信使一行は9月26日と11月5日に薩埵峠を通過した。同年12月11日、3名は薩埵山道整備の功績によって褒美をいただく。

 

○寛文二年(1662)8月4日、洪水で薩埵山が山崩れを起こす。8月26日、書院番柴田三左衛門勝興、佐野吉兵衛久綱が薩埵山修築奉行を命じられ、寛文三年(1663)10月26日に(工事が終了して)江戸へ戻る。11月18日に金と褒美をいただく。

 

 

とあります。つまり、薩埵峠は、通信使側の記録ではっきり山を超えたと判る第7回(1682)の前に、3度、工事が施されていたんですね。

 

 

 1度目(1634)はどうやら工期が半年かからない程度の簡単な舗装整備だったようです。そして目的は、家光が大軍を引き連れて京へ上洛するためだった。通信使は1607年、1624年にすでに通過していますが、いずれも海沿いの「下道」を通っています。

 

 

 2度目(1655)の工事は、ハッキリ“韓聘によって”と記されていますから、この年にやってくる通信使のために行ったのでしょう。しかしこのときも工期は5カ月足らず。前回の工事にちょこっと改修を加えた程度ではなかったでしょうか。しかし通信使の記録では峠を越えたという記述はありませんでした。

 おそらく、通信使一行は、行列の人員や荷物の多さもハンパなく、峠越えするよりも、天候が良ければ多少危険があっても景色が良くて歩きやすい海沿いの下道ルートを選んだ。明暦の工事は、万が一のためのバイパスを用意したものと考えられます。

 

 

 3度目(1662)は、山崩れという災害を受け、1年以上かけて、本格的な工事をしたと思われます。そして、しっかり整備された中道ルートを、第7回(1682)の通信使が使い、以降、海沿いを通ることはなくなりました。大人数で大量の荷物があっても、多少は歩きやすくなったんでしょうね。通信使が最後に通ったのは第11回(1764)のことでした。

 その後、幕末の1854年、安政大地震の後に海沿いの「下道」がふたたび一般に使われるようになりました。

 

 

 明治以降、東海道は国道1号線・2号線となり、明治22年(1889)に東海道本線の静岡県内区間も開通。昭和に入って高度成長期の1964年に東海道新幹線が、1969年に東名高速道路が開通し、今年2012年、新東名の県内区間が開通しました。今の薩埵峠はハイキングやウォーキングのルートとして親しまれています。

 

 長くなりましたので、箱根峠については次回。

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